与謝野晶子詩歌集

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  渋谷にて 
 
こきむらさきの杜若かきつばた 
ろと水際みぎはにつくばんで 
れたたもとをしぼる身は、 
ふと小娘こむすめの気に返る。 
男の机にり掛り、 
男のつかふペンをり、 
男のするよに字を書けば、 
また初恋の気に返る。 
 
 
 
 
 
 
 
  浜なでしこ 
 
逗子づしの旅からはるばると 
浜なでしこをありがたう。 
髪に挿せとのことながら、 
避暑地の浜の遊びをば 
知らぬわたしが挿したなら、 
真黒まつくろに焦げて枯れませう。 
ゆるい斜面をほろほろと 
踏めば崩れる砂山に、 
水著みづぎすがたの脛白はぎじろと 
なでしこを摘む楽しさは 
女のわたしの知らぬこと。 
浜なでしこをありがたう。 
 
 
 
 
 
 
 
  恋 
 
むかしの恋の気の長さ、 
のんべんくだりと日を重ね、 
たがひにくどくどかはす。 
 
当世たうせいの恋のはげしさよ、 
つね素知そしらぬふりながら、 
刹那せつなに胸の張りつめて 
しやうも、やうも無い日には、 
マグネシユウムをくやうに、 
機関の湯気の漏るやうに、 
悲鳴を上げて身もだえて 
あの白鳥はくてうが死ぬやうに。