与謝野晶子詩歌集

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  三つの路 
 
わがでんとする城の鉄の門に 
くこそるされたれ。 
その字の色は真紅しんく、 
恐らくはきに突破せし人の 
みづから指をめる血ならん。 
「生くることの権利と、 
のための一切の必要。」 
われは戦慄せんりつ躊躇ためらひしが、 
やがて微笑ほゝゑみてうなづきぬ。 
さて、すべて身にけし物を脱ぎて 
われをきたりし人人ひとびとに投げ与へ、 
われは玲瓏れいろうたる身一つにてのがでぬ。 
されど一歩して 
ほつと呼吸いきをつきし時、 
あはれ目にるは 
万里一白いつぱくの雪の広野ひろの…… 
われは自由を得たれども、 
わが所有は、この刹那せつな、 
いな永劫えいごふに、 
この繊弱かよわき身一つのほかに無かりき。 
われは再び戦慄せんりつしたれども、 
一途いちづに雪の上を進みぬ。 
三日みつかのち 
われは大いなる三つの岐路きろでたり。 
ニイチエの過ぎたるみち、 
トルストイの過ぎたるみち、 
ドストイエフスキイの過ぎたるみち、 
われはいづれをもえらびかねて、 
沈黙と逡巡しゆんじゆんの中に、 
しばら此処こことゞまりつつあり。 
わが上の太陽は青白く、 
冬の風四方よもに吹きすさぶ…… 
 
 
 
 
 
 
 
  錯誤 
 
両手にていだかんとし、 
手の先にてつかまんとする我等よ、 
我等はあやまちつつあり。 
 
手を揚げて、我等の 
いだけるはくうくう、 
我等のつかみたるは非我ひが。 
 
だ我等を疲れしめて、 
すべてすべり、 
すべてのがれ去る。 
 
いでや手の代りに 
全身を拡げよ、 
我等の所有は此内このうちにこそあれ。 
 
我をもつて我をいだけよ。 
我をもつて我をつかめ、 
我にまさる真実は無し。 
 
 
 
 
 
 
 
  途上 
 
友よ、今ここに 
我世わがよの心を言はん。 
我は常にかで 
みちなかばにあるごとし、 
また常に重きを負ひて 
あへぐ人のごとし、 
またさびしきことは 
年長としたけし石婦うまずめごとし。 
さて百千の段ある坂を 
我はひた登りに登る。 
わが世の力となるは 
後ろよりさいなむ苦痛なり。 
われはづ、 
静かなる日送りを。 
そは怠惰と不純とを編める 
灰色の大網おほあみにして、 
黄金わうごんの時をとらへんとしながら、 
る所は疑惑とくいのみ。 
我が諸手もろては常に高く張り、 
我が目は常に見上げ、 
我が口は常に呼び、 
我が足は常に急ぐ。 
されど、友よ、 
ああ、かの太陽は遠し。