与謝野晶子詩歌集

.

 
 
 
 
 
 
 
うなじ手にひくきささやき藤の朝をよしなやこの子行くは旅の君 
 
まどひなくて経ずする我と見たまふか下品げぼんほとけ上品じやうぼんほとけ 
 
 
 
 
 
 
 
  初夏はつなつ 
 
初夏はつなつが来た、初夏はつなつは 
髪をきれいにき分けた 
十六七の美少年。 
さくら色した肉附にくづきに、 
ようも似合うた詰襟つめえりの 
みどりの上衣うはぎ、しろづぼん。 
 
初夏はつなつが来た、初夏はつなつは 
青いほのほき立たす 
南の海の精であろ。 
きやしやな前歯に麦の茎 
ちよいとみ切り吹く笛も 
つつみがたない火の調子。 
 
初夏はつなつが来た、初夏はつなつは 
ほそいづぼんに、赤い靴、 
つゑを振り振り駆けて来た。 
そよろとにほ追風おひかぜに、 
枳殻きこくの若芽、けしの花、 
青梅あをうめの実も身をゆする。 
 
初夏はつなつが来た、初夏はつなつは 
五行ばかりの新しい 
恋の小唄こうたをくちずさみ、 
女の呼吸いきのする窓へ、 
物を思へど、蒼白あをじろい 
百合ゆり陰翳かげをば投げに来た。 
 
 
 
 
 
 
 
  夏の女王 
 
おお、暑い夏、今年の夏、 
ほんとうに夏らしい夏、 
不足の言ひやうのない夏、 
太陽のむき出しな 
心臓の皷動こどうに調子を合せて、 
万物が一斉に 
うんとりきみ返り、 
いつぱいの息を太くつき 
たらたらと汗を流し、 
芽と共に花を、 
花と共に香りを、 
愛と共に歌を、 
歌と共に踊りを、 
内から投げ出さずにゐられない夏、 
金色こんじきに光る夏、 
真紅しんくに炎上する夏、 
火の振撒ふりまく夏、 
機関銃で掃射する夏、 
沸騰する焼酎せうちうの夏、 
乱舞する獅子頭ししかしらの夏、 
かうふ夏のあるために 
万物は目をさまし、 
天地てんち初生しよせいの元気を復活し、 
救はれる、救はれる、 
沈滞と怠慢とから、 
安易と姑息こそくとから、 
小さな怨嗟ゑんさから、 
見苦みぐるしい自己忘却から、 
サンチマンタルから、 
無用の論議から…… 
おお、密雲の近づく中の 
霹靂へきれき一音いちおん、 
それが振鈴しんれいだ、 
見よ、今、 
赫灼かくしやくたる夏の女王ぢよわうの登場。