与謝野晶子詩歌集

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  南風 
 
四月のすゑに街けば、 
気ちがひじみた風が吹く。 
砂と、汐気しほけと、泥のと、 
温気うんきを混ぜた南風みなみかぜ。 
 
細柄ほそえの日傘わが手から 
気球のやうに逃げよとし、 
髪や、たもとや、すそまはり 
羽ばたくやうに舞ひあがる。 
 
人も、車も、牛、馬も 
同じみち踏む都とて、 
電車、自転車、監獄車、 
自動車づれの狼藉らうぜきさ。 
 
鼻息荒くえながら、 
人を侮り、おびやかし、 
浮足たせ、周章あわてさせ、 
逃げ惑はせて、あはや今、 
 
踏みにじらんと追ひ迫り、 
さて、その刹那せつなひやゝかに、 
からかふやうに、勝つたよに、 
見返りもせず去つてく。 
 
そして神田の四つつじに、 
下駄を切らしてうつ向いた 
わたしの顔を憎らしく 
のぞいて遊ぶ南風みなみかぜ。 
 
 
 
 
 
 
 
  五月の海 
 
おお、海が高まる、高まる。 
若い、やさしい五月ごぐわつの胸、 
群青色ぐんじやういろの海が高まる。 
金岡かなをか金泥こんでいの厚さ、 
光悦くわうえつの線の太さ、 
寫樂しやらくの神経のきびきびしさ、 
其等それらを一つにかして 
音楽のやうに海が高まる。 
 
さうして、その先に 
美しい海の乳首ちゝくびと見える 
まんまるい一点のあかい帆。 
それを中心に 
今、海は一段と緊張し、 
高まる、高まる、高まる。 
おお、若い命が高まる。 
わたしと一所いつしよに海が高まる。