与謝野晶子詩歌集

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誰が筆に染めし扇ぞ去年こぞまでは白きをめでし君にやはあらぬ 
 
おもざしの似たるにまたもまどひけりたはぶれますよ恋の神々かみ/″\ 
 
 
 
 
 
 
 
  街に住みて 
 
葡萄ぶだういろの秋の空をあふげば、 
初めてかるみづみづしき空を見たる心地す。 
われ今日けふまでなにをしてありけん、 
くりやと書斎にりしことのさびしきを知らざりしかな。 
わが心今更いまさらごとく解かれたるを感ず。 
 
葡萄色ぶだういろの秋の空は露にうるほふ、 
かる日にあはれ田舎へかまし。 
そこにて掘りたての里芋を煮る吊鍋つりなべの湯気をぎ、 
そこにて尻尾しりをふる百舌もず甲高かんだかなる叫びを聞き、 
そこにて刈稲かりいねを積みて帰る牛と馬とを眺め、 
そこにて鳥兜とりかぶと野菊のきくと赤きたでとを摘まばや。 
 
葡萄ぶだういろの秋の空はまた田舎の朝によろし。 
砂川すなかはの板橋の上に片われづきしろく残り、 
川魚御料理かはうをおんれうり」のいへいまだ寝たれど、 
百姓屋の軒毎のきごとに立つる朝食あさげの煙は 
街道がいだうたけ高きけやきの並木に迷ひ、 
もみする石臼いしうすの音、近所となりにごろごろとゆるぎむれば、 
「とつちやん」とちさすゑ娘に呼ばれて、門先かどさきの井戸のもと鎌磨かまと老爺おやぢもあり。 
かかる時、たとへば渋谷の道玄坂のごとく、 
突きあたりて曲る、行手ゆくての見えざる広き坂を、 
今結びし藁鞋わらぢひも切目きりめすがすがしく、 
男も女も脚絆きやはんして足早あしばやのぼりゆく旅姿こそをかしからめ。 
 
葡萄ぶだういろの秋の空の、されど又さびしきよ。 
われを父母ちゝはゝありし故郷ふるさと幼心をさなごゝろに返し、 
恋知らぬ素直なる処女をとめごとくにし、 
なか六番町の庭の無花果いちじくの木のもと、 
手を組みてひ知らぬあはうれひに立たしめぬ、 
おそらくは此朝このあさ無花果いちじくのしづくよ、すべて涙ならん。