与謝野晶子詩歌集

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  エトワアルの広場 
 
土からにはかに 
孵化ふくわして出たのやうに、 
わたしは突然、 
地下電車メトロから地上へひ上がる。 
大きな凱旋門がいせんもんがまんなかに立つてゐる。 
それをめぐつて 
マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、 
そして人間と、自動車と、乗合馬車と、 
乗合自動車との点とマツスが 
命ある物の 
整然とした混乱と 
自主独立の進行とを、 
断間たえま無しに 
八方はつぱうの街から繰出し、 
此処ここ縦横じゆうわうに縫つて、 
断間たえま無しに 
八方はつぱうの街へ繰込んでゐる。 
 
おお、此処ここは偉大なエトワアルの広場…… 
わたしは思はずじつと立ちすくむ。 
 
わたしは思つた、—— 
これで自分は此処ここへ二度来る。 
この前来た時は 
いろんな車にき殺されさうで、 
こはくて、 
広場を横断する勇気が無かつた。 
そしてふくになつたみちを一つ一つ越えて、 
モンソオ公園へみちの 
アヴニウ・ウツスの入口いりくち見附みつけるめに、 
広場の円の端を 
長い間ぐるぐるとるいてゐた。 
どうした気持のせいでか、 
アヴニウ・ウツスの入口いりくち見附みつそこなつたので、 
凱旋門がいせんもんを中心に 
二度も三度も広場の円の端を 
馬鹿ばからしくるき廻つてゐるのであつた。 
 
けれど今日けふは用意がある。 
わたしは地図を研究して来てゐる。 
今日けふわたしのくのは 
バルザツクまち裁縫師タイユウルいへだ。 
バルザツクまちへ出るには、 
この広場を前へ 
真直まつすぐに横断すればいいのである。 
 
わたしはう思つたが、しかし、 
真直まつすぐに広場を横断するには 
縦横じゆうわう絶間たえま無くせちがふ 
速度の速い、いろんな車がこはくてならぬ。 
広場へ出るが最期 
二三歩で 
き倒されて傷をするか、 
き殺されてしまふかするであらう…… 
 
この時、わたしに、突然、 
なんとも言ひやうのない 
叡智と威力とがうちからいて、 
わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。 
そして日傘パラソルサツクとをげたわたしは 
決然として、馬車、自動車、 
乗合馬車、乗合自動車の渦の中を真直まつすぐに横ぎり、 
あわてず、走らず、 
逡巡しゆんじゆんせずに進んだ。 
それは仏蘭西フランスの男女のるくがごとくにるいたのであつた。 
そして、わたしは、 
わたしがうして悠悠いういうるけば、 
速度のはやいいろんなおそろしい車が 
かへつて、わたしの左右に 
わたしを愛してとゞまるものであることを知つた。 
 
わたしは新しい喜悦に胸ををどらせながら、 
斜めにバルザツクまちはひつて行つた。 
そして裁縫師タイユウルいへでは 
午後二時の約束通り、 
わたしの繻子しゆすのロオヴの仮縫かりぬひを終つて 
若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。 
 
 
 
 
 
 
 
  薄暮はくぼ 
 
ルウヴルきゆうの正面も、 
中庭にある桃色の 
凱旋門がいせんもんもやはらかに 
紫がかつて暮れてゆく。 
花壇の花もほのぼのと 
赤と白とが薄くなり、 
並んで通る恋人も 
ひと組ひと組暮れてゆく。 
君とわたしも石段に 
腰掛けながら暮れてゆく。 
 
 
 
 
 
 
 
   ヴェルサイユの逍遥 
 
 
ヴェルサイユのみやの 
大理石のかいくだり、 
後庭こうていの六月の 
花と、と、光のあひだを過ぎて 
われ三人みたりの日本人は 
広大なる森の中にりぬ。 
 
二百にびやく年を経たるブナの大樹だいじゆは 
明るき緑の天幕てんとを空に張り、 
そのもとに紫のこけひて、 
物古ものふりし石の卓一つ 
つた黄緑わうりよくの若葉と 
薄赤きつるとにうづまれり。 
 
二人ふたりの男は石の卓にひぢつきて 
こけの上に横たはり、 
われは上衣うはぎを脱ぎて 
ブナの根がたに蹲踞うづくまりぬ。 
快き静けさよ、かなたのこずゑに小鳥の高音たかね…… 
近き涼風すゞかぜの中に立麝香草たちじやかうさうの香り…… 
 
わが心はみやうちに見たる 
ルイ王とナポレオン皇帝との 
華麗と豪奢がうしやとにひつつあり。 
きさき達の寝室の清清すがすがしき白と金色こんじき…… 
モリエエルの演じたる 
宮廷劇場の静かな猩猩緋しやう/″\ひ…… 
 
されど、楽しきわが夢は覚めぬ。 
目まぐるしき過去の世紀は 
かの王后わうこうの栄華と共に亡びぬ。 
わが目に映るは今 
もろき人間のほかに立てる 
ブナの大樹と石の卓とばかり。 
 
ああ、われはさびし、 
わが追ひつつありしは 
人間の短命のせいなりき。 
いでや、森よ、 
われは千年の森の心を得て、 
悠悠いう/\と人間の街に帰るよしもがな。