与謝野晶子詩歌集

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  驟雨 
 
驟雨オラアジユは過ぎく、 
巴里パリイを越えて、 
ブロオニユの森のあたりへ。 
 
今、かなたに、 
樺色かばいろと灰色の空の 
板硝子いたがらすを裂くらいの音、 
青玉せいぎよくいなづまたき。 
 
なほ見ゆ、遠山とほやまさきごとそばだつ 
薄墨うすすみのオペラの屋根の上、 
霧の奥に、 
猩猩緋しやう/″\ひ黄金きんの 
光の女服ロオブを脱ぎ放ち、 
裸となりて雨を浴ぶる 
夏の女皇ぢよくわうの 
仄白ほのじろき八月の太陽。 
 
なほれわたる街の並木の 
アカシヤとブラタアヌは 
汗と塵埃ほこりねつを洗はれて、 
その喜びに手を振り、 
かしらを返し踊るもあり。 
 
カツフエのテラスに花咲く 
万寿菊まんじゆぎく薔薇ばらは 
はすに吹く涼風すゞかぜの拍子に乗りて 
そぞろがはしく 
ワルツを舞はんとするもあり。 
 
なほ、そのいみじき 
灌奠ラバシヨン余沫よまつは 
枝より、屋根より、 
はらはらと降らせぬ、 
水晶の粒を、 
銀の粒を、真珠の粒を。 
 
驟雨オラアジユは過ぎく、 
さわやかに、こころよく。 
それを見送るは 
祭の列のごとく楽し。 
 
わがあるしち階のいへも、 
わが住む三階の窓より見ゆる 
近き四方しはう家家いへいへも、 
窓毎まどごとに光を受けし人の顔、 
顔毎かほごとしゆまひ…… 
 
 
 
 
 
 
 
  巴里の一夜 
 
テアトル・フランセエズの二階目の、 
あか天鵞絨びろうどを張りつめた 
看棚ロオジユの中に二人ふたり 
君と並べば、いそいそと 
をどる心のおもしろや。 
もう幕開まくあきの鈴が鳴る。 
 
第一列のバルコンに、 
肌のき照る薄ごろも、 
白い孔雀くじやくを見るやうに 
銀を散らしたいて、 
駝鳥だてうはねのしろ扇、 
胸にいちりん白い薔薇ばら、 
しろいづくめの三人さんにんは 
マネがくよな美人づれ、 
望遠鏡めがねつゝ四方しはうから 
みな其処そこへ向くめでたさよ。 
 
また三階の右側に、 
うす桃色のコルサアジユ、 
きんぬひあるけた 
華美はでな姿の小女こをんなが 
ほそい首筋、きやしやな腕、 
指環ゆびわの星の光る手で 
少し伏目に物を読み、 
折折をりをりあとを振返る 
人待顔ひとまちがほうつくしさ。 
 
あらいや、前のバルコンへ、 
厚いくちびる、白い目の 
アラビヤらしい黒奴くろんぼが 
襟もかひなも指さきも 
きらきら光る、おなじよな 
黒い女をれて来た。 
 
どしん、どしんと三度程 
舞台をたゝく音がして、 
しづかにあが黄金きんの幕。 
よごれた上衣うはぎ、古づぼん、 
血にむやうな赤ちよつき、 
コツペが書いた詩の中の 
人を殺した老鍛冶らうかぢが 
法官達の居ならんだ 
前に引かれる痛ましさ、 
足の運びもよろよろと…… 
 
おお、ムネ・シユリイ、見るからに 
老優の芸の偉大さよ。