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ミユンヘンの宿
九月の初め、ミユンヘンは
早くも秋の更けゆくか、
モツアルト街、日は射せど
ホテルの朝のつめたさよ。
青き出窓の欄干に
匍ひかぶされる蔦の葉は
朱と紅と黄金を染め
照れども朝のつめたさよ。
鏡の前に立ちながら
諸手に締むるコルセツト、
ちひさき銀のボタンにも
しみじみ朝のつめたさよ。
伯林停車場
ああ重苦しく、赤黒く、
高く、濶く、奥深い穹窿の、
神秘な人工の威圧と、
沸沸と迸る銀白の蒸気と、
爆ぜる火と、哮える鉄と、
人間の動悸、汗の香、
および靴音とに、
絶えず窒息り、
絶えず戦慄する
伯林の厳かなる大停車場。
ああ此処なんだ、世界の人類が
静止の代りに活動を、
善の代りに力を、
弛緩の代りに緊張を、
平和の代りに苦闘を、
涙の代りに生血を、
信仰の代りに実行を、
自ら探し求めて出入りする、
現代の偉大な、新しい
生命を主とする本寺は。
此処に大きなプラツトフオオムが
地中海の沿岸のやうに横たはり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の隅隅までを繋ぎ合せ、
それに断えず手繰り寄せられて、
汽車は此処へ三分間毎に東西南北より著し、
また三分間毎に東西南北へ此処を出て行く。
此処に世界のあらゆる目覚めた人人は、
髪の黒いのも、赤いのも、
目の碧いのも、黄いろいのも。
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
固より発車を報せる鈴も無ければ、
みんな自分で検べて大切な自分の「時」を知つてゐる。
どんな危険も、どんな冒険も此処にある。
どんな鋭音も、どんな騒音も此処にある、
どんな期待も、どんな昂奮も、どんな痙攣も、
どんな接吻も、どんな告別も此処にある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草、香料、
麻、絹布、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も此処にある。
此処では何もかも全身の気息のつまるやうな、
全身の筋のはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、忙しい、白熱の肉感の歓びに満ちてゐる。
どうして少しの隙や猶予があらう、
あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、
乗り遅れたからと云つて誰が気の毒がらう。
此処では皆の人が唯だ自分の行先ばかりを考へる。
此処へ出入りする人人は
男も女も皆選ばれて来た優者の風があり、
額がしつとりと汗ばんで、
光を睨み返すやうな目附をして、
口は歌ふ前のやうにきゆつと緊り、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩るいてゐるやうである。
みんなの神経は苛苛としてゐるけれど、
みんなの意志は悠揚として、
鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。
みんながどの刹那をも空しくせずに
ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。
あれ、巨象のやうな大機関車を先きにして、
どの汽車よりも大きな地響を立てて、
ウラジホストツクからブリユツセルまでを、
十二日間で突破する、
ノオル・デキスプレスの最大急行列車が入つて来た。
怖ろしい威厳を持つた機関車は
今、世界の凡ての機関車を圧倒するやうにして駐つた。
ああ、わたしも是れに乗つて来たんだ、
ああ、またわたしも是れに乗つて行くんだ。