与謝野晶子詩歌集

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  風の夜 
 
をりをりに気がくと、 
屋外そとにはあらし…… 
戸が寒相さむさうにわななき、 
垣とのきがきしめく…… 
どこかでかすかに鳴る二点警鐘ふたつばん…… 
 
子供等を寝かせたのは 
もう昨日きのふのことのやうである。 
狭い書斎のもとで 
良人をつとは黙つて物を読み、 
わたしも黙つて筆をる。 
 
きり……きり……きり……きり…… 
なにかしら、えた低い音が、 
ふときこえて途切とぎれた…… 
きり……きり……きり……きり…… 
あら、また途切とぎれた…… 
 
あらしの音にも紛れず、 
ぐ私の後ろでするやうに、 
今したあの音は、 
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音だ…… 
命のある者の立てる快い音だ…… 
 
る直覚が私にひらめく……鋼鉄質のその音…… 
私は小さな声でつた、 
「あなた、なにか音がしますのね」 
良人をつとは黙つてうなづいた。 
其時そのときまた、きり……きり……きり……きり…… 
 
「追つてらう、 
今夜なんか這入はひられては、 
こちらから謝らなければならない」 
つて、良人をつとは、 
笑ひながら立ち上がつた。 
 
私は筆をめずにゐる。 
私には今の、あらしの中で戸を切る、 
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音が 
自分の仕事の伴奏のやうに、 
ぴつたりと合つて快い。 
 
もう女中も寝たらしく、 
良人をつとは次ので、 
みづから燐寸まつちを擦つて、 
そして手燭てしよく木太刀きだちとをげて、 
廊下へ出て行つた。 
 
も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、 
門のくゞり戸がかすかにいた。 
「逃げたのだ、泥坊が」と、 
私は初めてはつきり 
あらしの中の泥坊に気がいた。 
 
私達の財嚢ぜにいれには、今夜、 
小さな銀貨一枚しか無い。 
私は私達の貧乏の惨めさよりも、 
一人ひとりの知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。 
きり……きり……きり……きり……とふ音がまだ耳にある。