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風の夜
をりをりに気が附くと、
屋外には嵐……
戸が寒相にわななき、
垣と軒がきしめく……
どこかで幽かに鳴る二点警鐘……
子供等を寝かせたのは
もう昨日のことのやうである。
狭い書斎の灯の下で
良人は黙つて物を読み、
わたしも黙つて筆を執る。
きり……きり……きり……きり……
何かしら、冴えた低い音が、
ふと聞えて途切れた……
きり……きり……きり……きり……
あら、また途切れた……
嵐の音にも紛れず、
直ぐ私の後ろでするやうに、
今したあの音は、
臆病な、低い、そして真剣な音だ……
命のある者の立てる快い音だ……
或る直覚が私に閃く……鋼鉄質の其音……
私は小さな声で云つた、
「あなた、何か音がしますのね」
良人は黙つてうなづいた。
其時また、きり……きり……きり……きり……
「追つて遣らう、
今夜なんか這入られては、
こちらから謝らなければならない」
と云つて、良人は、
笑ひながら立ち上がつた。
私は筆を止めずにゐる。
私には今の、嵐の中で戸を切る、
臆病な、低い、そして真剣な音が
自分の仕事の伴奏のやうに、
ぴつたりと合つて快い。
もう女中も寝たらしく、
良人は次の間で、
みづから燐寸を擦つて、
そして手燭と木太刀とを提げて、
廊下へ出て行つた。
間も無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、
門の潜り戸が幽かに開いた。
「逃げたのだ、泥坊が」と、
私は初めてはつきり
嵐の中の泥坊に気が附いた。
私達の財嚢には、今夜、
小さな銀貨一枚しか無い。
私は私達の貧乏の惨めさよりも、
一人の知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。
きり……きり……きり……きり……と云ふ音がまだ耳にある。