緋桜(ひざくら) 赤くぼかした八重ざくら、 その蔭(かげ)ゆけば、ほんのりと、 歌舞伎(かぶき)芝居に見るやうな 江戸の明(あか)りが顔にさし、 ひと枝折れば、むすめ気(ぎ)の、 おもはゆながら、絃(いと)につれ、 何(なに)か一(ひと)さし舞ひたけれ。 さてまた小雨(こさめ)ふりつづき、 目を泣き脹(は)らす八重ざくら、 その散りがたの艶(いろ)めけば、 豊國(とよくに)の絵にあるやうな、 繻子(じゆす)の黒味の落ちついた 昔の帯をきゆうと締め、 身もしなやかに眺めばや。 春雨 工場(こうば)の窓で今日(けふ)聞くは 慣れぬ稼(かせ)ぎの涙雨(なみだあめ)、 弥生(やよひ)と云(い)へど、美(うつ)くしい 柳の枝に降りもせず、 煉瓦(れんが)の塀や、煙突や、 トタンの屋根に濡(ぬ)れかかり、 煤(すゝ)と煙を溶(と)きながら、 石炭殻(がら)に沁(し)んでゆく。 雨はいぢらし、思ひ出す、 こんな雨にも思ひ出す、 母がこと、また姉がこと、 そして門田(かどた)のれんげ草。