与謝野晶子詩歌集

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  午前三時の鐘 
 
上野の鐘が鳴る。 
午前三時、 
しんしんと更けわたる 
十一月の初めの或夜あるよるに、 
東京の街のひくい屋根を越えて、 
上野の鐘が鳴る。 
この声だ、 
日本人の心の声は。 
この声を聞くと 
日本人の心は皆おちつく、 
皆静かになる、 
自力じりき麻痺まひして 
他力たりきの信徒に変る。 
上野の鐘が鳴る。 
わたしは今、ちよいと 
痙攣けいれん的な反抗が込み上げる。 
けれど、わたしの内にある 
祖先の血の弱さよ、はかなさよ、 
明方あけがたの霜の置く 
木の箱のいへの中で、 
わたしは鐘の声を聞きながら、 
じつと滅入めいつて 
筆の手を休める。 
上野の鐘が鳴る。 
 
 
 
 
 
 
 
  或日の寂しさ 
 
かどに立つのは 
うその苦学生、 
うその廃兵、 
うその主義者、志士、 
馬車、自動車に乗るのは 
うその紳士、大臣、 
うその貴婦人、レディイ、 
それから、新聞を見れば 
うその裁判、 
うその結婚、 
さうして、うその教育。 
浮世小路こうぢしげけれど、 
ついぞまことはぬ。 
 
 
 今年かしこくも即位の大典を挙げさせたまふ拾一月の一日いちじつに、この集の校正を終りぬ。読み返しくに、はづかしきことのみ多き心の跡なれば、あきらかにやはらぎたるあら御光みひかりもとには、ひときはだしぐるしき心地ぞする。晶子