与謝野晶子詩歌集

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  〔無題〕 
 
行くほどに街は暮れて明るき月夜の海となり、 
人は魚の如く跳り、ともし火は波の如く泡立つ。 
地に落つる人影にわが影の入りまじる如く、 
われは他の遊ぶを遊ぶ。 
われは知る。つひに一人なり。 
 
 
 
 
 
 
 
  風邪 
 
十月八日の夜の十二時すぎ、 
三人の男女なんによの客を帰したあと、 
語り疲れて床に入つたが、寝つかれぬ。 
 
いつも点けて置く瓦斯の火を起きて消せば、 
部屋中の魔性の「闇」ははたとをひそめ、 
みるみる大きく成つて行く黒猫の柔かな手触りで 
わたしの友染の掻巻の上を軽く圧へ、 
また、涙に濡れた大きな黒目がちの 
人を引く目の優形やさがたの二十三四の女と変つて 
片隅に白い右の手をあごにしたまま寄りかかり、 
天井の同じ方ばかり待ち人のあるよな気分で見上げる。 
(それはわたしの影であろ。) 
 
部屋中の静かなことは石炭のくらの如く、 
何処からとなく障子の破れを通す霜夜の風は 
長い吹矢のくだをわたしの髪にそおつとさし向ける。 
 
わたしはますます寝つかれぬ。 
閉ぢても、閉ぢても目は円く開き、 
横向に一人じつとして身ゆるぎもせぬ体は 
慄毛おぞけだつ寒さと汗に蒸される熱さとの中で烹られる。 
 
わたしは風邪を引いたらしい。 
それとも何かに生血を吸はして寝てるのか。 
時計は二時を打つ。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
東京のお客さんは皆さうお云ひやはる。 
「京の秋は早よ寒い」と。 
そないに寒がつておいでやしたら、あんたはん、 
嵐山の紅葉もみぢは見られやしまへんえ。 
紅葉の盛りは十一月の中頃、 
なんの寒いことがおすかいな。 
大井川の時雨によいお客さんと屋形船に乗つて、 
紅葉を見ながら、わたしら揃うて鼓を打つのどつせ。 
姉はん、さうどすえなあ。 
 
と云ひました。一人の舞妓が、 
わたしの好きな、優しい京の言葉で。