与謝野晶子詩歌集

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京の鐘この日このとき我れあらずこの日このとき人と人を泣きぬ 
 
琵琶の海山ごえ行かむいざと云ひし秋よ三人みたりよ人そぞろなりし 
 
京の水の深み見おろし秋を人の裂きし小指をゆびの血のあと寒き 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
かかる文書くべき人と、 
かの人の思ひ当る名、 
もつが憎くけれ、いかにしてまし。 
   ○ 
をりふしに美くしき 
いみじきすごき稲妻おこる 
陰陽のあるらむ、わが一つなる心にも。 
   ○ 
くれなゐの血ながして、 
みな死ぬべきを閉ぢこめぬ。 
チヤアルス王の、倫敦塔に似る心かな。 
   ○ 
寒さをも、熱をも知らず、 
ある人に云ふ如きこと、聞くは厭、 
横恋慕などうち明けよかし。 
   ○ 
おほよそは、そのむかし、 
二十ばかりの若き日に、 
過ちて入りたる門をわが家とする。 
   ○ 
わが心、尼院の中に、尼達に、 
かくまはれあればすべなし。 
思ふとも、思はるるとも、またくすべなし。 
   ○ 
かの人が七人の子を見に帰れば、 
かの人に、 
老は俄におそひいたりぬ。 
   ○ 
自らがちかひけるやう。 
檀那様と生き、 
檀那様と死に、 
檀那様の知らぬまに、 
唯ひとつ、何かしてまし。 
   ○ 
別れて憂愁に居ぬ。 
はねらるるとも、くれなゐに、 
血のとばじな。あぢきなの身。 
   ○ 
得たるもの忽にして擲つは 
財宝すらもここちよし 
まして、まして、何と云はむ。 
   ○ 
大空の雪のごと、浮きたる心と、 
流れの浄き心と 
はらからなるをわれのみぞ知る。 
   ○ 
いつの日か、いかなる時か、 
しのびてわれに恩売りし、 
美くしき見覚え人よ。 
   ○ 
目に見たる津津浦浦よ、 
わが上を、語らむ時にまさりたる、 
おもむきなきをいかにしてまし。 
   ○ 
うれしくも、幸と云ふものよりも、 
好むところを語らせし、 
夜の涙よ。拭ひ筆おく。 
   ○ 
わが心唯ひとたびなりきと云ふ 
何を云ふぞよ。かこつのかや。 
恋を男を。 
   ○ 
水色の船室に月さし入り、 
隣なる、大僧正の飼犬が、 
夜寒げに絶えずうめける。 
   ○ 
老の魔がしのびより、鉛をかけぬ。 
心に、あらずまづ面わに、髪に、 
かなしきかなや三十路。 
   ○ 
男来て導かむと思ひつるかな。 
美くしくとも、醜くとも、 
そはわれの若ければ、 
あなものうし。かかる思ひ出。 
   ○ 
別るるもよしや、うれしかりけり。 
口づけを束にして、 
環になしてもちかへること。 
   ○ 
うつし世の渦巻の中、 
と云ふにあらねども、なけれども、 
する息のむづかし。落す涙も。