与謝野晶子詩歌集

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なつかしの湯の香梅が香山の宿の板戸によりて人まちし闇 
 
詞にも歌にもなさじわがおもひその日そのとき胸より胸に 
 
歌にねて昨夜よべ梶の葉の作者見ぬうつくしかりき黒髪の色 
 
下京しもぎやう紅屋べにやかどをくぐりたる男かはゆし春の夜の月 
 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
我は俄に筆をきぬ、 
我が書き行く文字の上に、 
スフインクスの意地悪るき片頬かたほの 
ちらと覗く、それを見つれば。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
やぶさかなれば言ひ遣りぬ、 
永久の糧を送れと。 
 
わが思ひつる如くにも 
かの人は返事せず。 
 
さて、ひと日過ぎ、二日ふたひ過ぎ、 
何故なにゆゑか、我は淋しき。 
 
われは今みづから思ふ、 
まことに恋に飢ゑつと。 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
灰となれば淋しや、 
薔薇を焼きしも、 
ほだを焼きしも、 
みな一色ひといろに薄白し。 
されば、我は 
薔薇に執せず、 
榾に著せず、 
唯だ求む、火となることを。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
悒欝の日がつづく、 
わが思ひは暗し。 
わが肩をすは 
重き錯誤の時。 
身は醒めながら 
悪夢の中に痩せて行く。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
月の出前のやみにさへ 
マニラ煙草たばこを嗅げば、 
牡丹の花が前に咲き、 
孔雀の鳥が舞ひくだる。 
まして、輪をく水色の 
それの煙を眺むれば、 
黄金きんのうすぎぬ軽々と 
舞うて空ゆく身が見える。