与謝野晶子詩歌集

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くろ髪の千すぢの髪のみだれ髪かつおもひみだれおもひみだるる 
 
そよ理想りさうおもひにうすき身なればか朝の露草つゆくさ人ねたかりし 
 
 
 
 
 
 
 
  若い渡守 
 
長者町の浜と 
砂丘しやきうとの間を漕ぐ 
一人の青年の渡守、 
その名は田中文治さん。 
 
文治さん、 
あなたは寡言むくちです、 
あなたは人の十言とことに対して 
やつと[#「やつと」に傍点]一言を答へます、 
重い、重い、鉄のやうな一言を。 
 
文治さん、 
あなたは人が礼を述べても 
大して嬉し相な表情を見せません、 
勿論、世辞や愛想あいそは。 
 
文治さん、 
あなたは兵役から帰つて来た人です 
それで居て、少しも都会じみず、 
日焼の黒い顔と、 
百姓の子の生地とを保つて居る。 
 
文治さん、 
あなたは避暑客のために、 
この夏中、此町の青年と一緒に、 
渡守の役目を引受けて居る。 
 
文治さん、 
あなたは三日置の自分の番の外に、 
仲間の者の課役をも助けて、 
殆ど毎日、逞ましい裸体はだかで、 
炎天のもとに櫓を採つて居る。 
 
文治さん、 
あなたは寡言むくちです。 
けれど、その銅像のやうな全身は 
未来の偉大な人道を語ります。 
 
 
 
 
 
 
 
  朝露 
 
今朝田舎には、 
しつとりと 
白い大粒の露が置いて居る。 
 
私達が素足に 
竹の皮の草履を穿いて、 
小走りに海の方へ下りて行くのは、 
両側に藤豆と玉蜀黍たうもろこしとが 
人の丈よりも高く立つ細道。 
 
おお、何と云ふ親しさだ。 
小さな紅玉を綴つた花や、 
翡翠の色の長い葉が 
額にも、手にも、袂にも触れる。 
さうして、その度に露がこぼれる。 
 
今朝、田舎には 
どの草木にも 
愛の表情と涙とが溢れて居る。