与謝野晶子詩歌集

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さそひ入れてさらばと我手はらひます御衣みけしのにほひやみやはらかき 
 
病みてこもる山の御堂に春くれぬ今日けふ文ながき絵筆とる君 
 
 
 
 
 
 
 
  電車の中 
 
生暖かい三月半の或夜あるよ、 
東京駅の一つの乗場プラツトホームは 
人の群で黒くなつてゐる。 
停電であるらしい、 
久しく電車が来ない。 
乗客は刻一刻に殖えるばかり、 
皆、家庭へ下宿へと 
急ぐ人々だ。 
誰れも自制してはゐるが、 
心のなかでは呟いてゐる、 
或はいらいらとしてゐる、 
唸り出したい気分になつてゐる者もある。 
じつとしては居られないで、 
線路を覗く人、 
有楽町の方を眺める人、 
頻りに煙草たばこを強く吹かす人、 
人込みを縫つて右往左往する人もある。 
誰れの心もじれつたさに 
なんとなく一寸険悪になる。 
其中に女の私もゐる。 
 
おほよそ廿分ののちに、 
やつと一台の電車が来た。 
人々は押合ひながら 
乗ることが出来た。 
ああ救はれた、 
電車は動き出した。 
 
けれど、私の車の中には 
鳥打帽をかぶつた、 
汚れたビロオド服の大の男が 
五人分の席を占めて、 
ふんぞり反つて寝てゐる。 
この満員の中で 
その労働者は傍若無人のていである。 
酔つてゐるのか、 
恐らくさう[#「さう」に傍点]では無からう。 
乗客は其男の前に密集しながら、 
誰も喚び起さうとする者はない。 
男達は皆其男と大差のない 
プロレタリアでありながら、 
仕へてゐる主人の真似をして 
ブルジヨア風の服装みなりをしてゐるために、 
其男に気兼し、 
其男を怒らせることを恐れてゐる。 
電車は走つて行く。 
其男は呑気にふんぞり反つて寝てゐる。 
乗客は窮屈な中に 
忍耐の修行をして立ち、 
わざと其男の方を見ない振をしてゐる。 
その中に女の私もゐる。 
 
一人で五人分の席を押領する…… 
人人がこんなに込合つて 
息も出来ないほど困つてゐる中で…… 
あゝ一体、人間相互の生活は 
かう云ふ風でよいものか知ら…… 
私は眉を顰めながら、 
反動時代の醜さと怖ろしさを思ひ 
我々プロレタリアの階級に 
よい指導者の要ることを思つてみた。 
 
併しまた、私は思つた、 
なんだ、一人の、酔つぱらつた、 
疲れた、行儀のない、 
心の荒んだ、 
汚れたビロオド服の労働者が 
五人分の席に寝そべることなんかは。 
昔も、今も、 
少数の、狡猾な、遊惰な、 
暴力と財力とを持つ人面獣が、 
おのおの万人分の席を占めて、 
どれ位われわれを飢させ、 
病ませ、苦めてゐるか知れない。 
電車の中の五人分の席は 
吹けば飛ぶ塵ほどの事だ。 
 
かう思つて更に見ると、 
大勢の乗客は皆、 
自分達と同じ弱者の仲間の 
一人の兄弟の不作法を、 
反抗的な不作法を、 
その傍に立塞がつて 
庇護かばつてゐるやうに見える。 
その中に女の私もゐる。