与謝野晶子詩歌集

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さしかざす小傘をがさに紅き揚羽蝶あげはてふ小褄とる手に雪ちりかかる 
 
舞姫のかりね姿ようつくしき朝きやうくだる春の川舟 
 
 
 
 
 
 
 
  旅中 
 
小蒸汽のとも、 
ここに立ちて 
後ろを見れば、 
過ぎ去る、 
過ぎ去る、 
逃げるやうに過ぎ去る 
わたしの小蒸汽。 
 
後ろに長く引くのは、 
板硝子のやうな航跡、 
その両側に 
船底からみ出した浪が 
糊を附けてこはばつた 
藍色の布の 
襞と皺とを盛り上げる。 
 
ぱつと白く、 
そのなかに、遠ざかる 
港の桟橋を隠して、 
レエスの網を跳ね上げる飛沫しぶき。 
また突然に沢山のS《エス》の字が 
言葉のやうに呟いて 
やがて消えゆく泡。 
 
陸から、人から、 
貧乏から、筆から、 
わたしの平生から、 
ああ、かうして離れるのは好い。 
過ぎ去る、 
過ぎ去る、 
わたしの小蒸汽。 
 
 
 
 
 
 
 
  瞼 
 
まぶたよ、 
何と云ふ自在な鎧窓だ。 
おかげで、わたしは 
じつと内を観る。 
唯だ気の毒なのは、折々 
涙の雨で濡れることである。