与謝野晶子詩歌集

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われなれぬ千鳥なく夜の川かぜに鼓拍子つづみびやうしをとりて行くまで 
 
いもうとの琴には惜しきおぼろ夜よ京の子こひし鼓のひと手 
 
 
 
 
 
 
 
  鈴虫 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
わがせなかたに起る。 
思ひがけぬ虫の声よ、 
小暗き廊をつたひて 
わが筆執る書斎に入るなり。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
げに其声は鈴を振る。 
駄馬の鈴ならず、 
橇の鈴ならず、 
法師の祈る鈴ならず。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
朗朗として澄み昇る。 
聴けば唯だ三節みふしなれど、 
すべてみなきんの韻なり、 
盛唐の詩の韻なり。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
その声は喜びに溢る。 
促されずして歌ひ、 
堪へきれずして歌ひ、 
恍惚の絶巓ぜつてんに歌ふ。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
なんぞ傍若無人なる。 
寸にも足らぬ虫なれど、 
今彼れの心に 
唯だ歌ありて一切を忘る。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
彼の虫ぞ自らを恃める。 
人間の心には気兼あり、 
やましき所あり、 
へつらふことさへもあり。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
誰れか今宵その籠を掛けたる。 
わが子らの中の 
いづれの子のわざならん、 
かのヴェランダに掛けたるは。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
猶かのヴェランダより起る。 
すでに午前一時、 
その硝子には白からん、 
栴檀の葉を通す十五夜の月。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
月の光の如く流る。 
虫よ知るや、其処の椅子に、 
詩人木下杢太郎博士 
十日前に来て掛け給ひしを。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
更けていよいよ冴え渡る。 
また知るや虫よ、其のヴェランダは 
火曜日ごとに若き女達きて 
我れと共に歌ふ所なるを。 
 
りん、りん、りんと鈴虫の声、 
書斎に入りて我れを繞る。 
我れは猶筆を捨てず、 
よきかな、我が思ひと我が言葉 
今は鈴虫の韻に乗る。