与謝野晶子詩歌集

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御手づからの水にうがひしそれよ朝かりし紅筆べにふで歌かきてやまむ 
 
春寒はるさむのふた日を京の山ごもり梅にふさはぬわが髪の乱れ 
 
歌筆をべににかりたるさきてぬ西のみやこの春さむき朝 
 
春の宵をちひさく撞きて鐘を下りぬ二十七だん堂のきざはし 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
蒋介石に手紙を出したが、 
届いたと云ふことを聞かぬ。 
聞違つてゐた、 
わたしは唐韻の詩で書いた、 
商用華語を知らないので。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
煙突男が消えたあと、 
銀座の柳が溺れたあと、 
流行の洪水に 
ノアの箱舟が一艘 
陸軍旗を立てて来る。 
 
 
 
 
 
 
 
  〔無題〕 
 
切腹しかけた判官が 
由良之介を待つてゐる。 
由良之介が駆けつける。 
シネマを見馴れた少年は 
お医者と間違へる。 
 
 
 
 
 
 
 
  冬晴 
 
今日もよい冬晴とうせい、 
硝子障子にさし入るのは 
今、午前十時の日光、 
おまけに暖炉ストオヴの火が 
適度に空内をあたためてゐる。 
 
わたしは平和な気分で坐る。 
今日一日外へ出ずに済むことが 
なんとわたしを落ち著かせることか。 
でも為事しごとが山を成してゐる、 
せめてこの二十分を楽まう。 
 
硝子越しに見る庭の木、 
みな落葉した裸の木、 
うす桃色に少し硬く光つて、 
幹にも小枝までにも 
その片面が日光を受けてゐる。 
 
こんな日に何を書かう、 
論じるなんて醜いことだ。 
他に求める心があるからだ。 
自然は求めてゐない、 
その有るが儘に任せてゐる。 
 
わたしは此のひまに歌はう、 
冬至梅とうじばいに三四点のべにが見える、 
白い椿も咲きはじめた、 
花の頬と香りの声で 
冬の日にも自然は歌つてゐる。 
 
裸の木の上には青空、 
それがまろく野のはてにまで 
お納戸いろを垂れてゐる。 
二階へ上がつたら 
富士もまつ白に光つてゐよう。 
 
風が少しある、 
感じやすい竹が挨拶をしてゐる。 
あたたかい室内で 
硝子ごしに見ると、 
その風も春風のなごやかさである。 
 
苛酷な冬の自然にも 
こんな平和な一日がある。 
師走の忙しさは嵐の中のやうだ、 
それは人間のこと、 
自然は今、息を入れて休んでゐる。 
 
 
 
 
 
 
 
  霧氷 
 
富士山の上の霧氷、 
それを写真で見て喜んでゐる。 
美くしいことは解る、 
それがどんな[#「どんな」に傍点]に寒い世界の消息かは 
登山者以外には解らない。 
あなたにわたしの歌が解りますつて、 
さうでせうか、さうでせうか。