与謝野晶子詩歌集

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わがいだくおもかげ君はそこに見む春のゆふべの黄雲きぐものちぎれ 
 
むねの清水あふれてつひに濁りけり君も罪の子我も罪の子 
 
 
 
 
 
 
 
 
  冬の一夜 
 
おお、錫箔の寒さを持つた夜の空気が、 
いつぱいに口をいて、 
わたしを吸はうとする。 
二階の欄干てすりに手を掛けながら 
わたしの全身は慄へあがる。 
 
屋外そとはよく晴れた、冴えた、 
高々とした月夜。 
コバルトと、白と、 
墨とから成つた、素朴な、 
さうして森厳な月夜。 
 
月は何処にある。 
見えない、見えない、 
長く出た庇の上に凍てついて居るのか。 
きつと、氷と、されかうべと、 
銀の髪とを聯想させる月であらう。 
 
軍医学校の建物はすべて尖り、 
軒と軒との間にある空間は 
遠くまで運河のやうに光つて居る。 
近い一本の電柱は 
大地へ無残に打ち込んだ巨きな釘の心地。 
 
あの鈍い真鍮色の四角な光は 
崖上の家の書斎の窓の灯火あかり。 
今、わたしの心に浮ぶのは、 
その窓の中に沈思して、恐らく、 
まだ眠らずに居る一人の神経質な青年。 
 
ああ世界はしんとして居る。 
冬だ、冬だ、 
空気は真白く、 
天は玲瓏として透きとほり、 
月は死霊しりやうのやうに通つて行く。 
 
かさ、こそと、低く、 
何処かにかすれた一つの物おと…… 
枝を離れる最後の落葉か、 
わたしの心の秘密ないしよの吐息か、 
それとも霜であらうか。