与謝野晶子詩歌集

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春の虹ねりのくけ紐たぐりますはぢろがみあけのかをりよ 
 
むろの神に御肩みかたかけつつひれふしぬゑんじなればの宵の一襲ひとかさね 
 
あめさいここににほひの美しき春をゆふべにしふゆるさずや 
 
消えてりて石と成らむの白桔梗しろぎきやう秋の野生のおひ趣味しゆみさて問ふな 
 
歌の手に葡萄をぬすむ子の髪のやはらかいかな虹のあさあけ 
 
そと秘めし春のゆふべのちさき夢はぐれさせつる十三絃よ 

 
 
 
 
 
 
 
  或る日 
 
こし方を書き綴れよと、 
云ふ人のあるはうるさし。 
未来をばいかに夢むと、 
問はるべき人にあらずと、 
我れはやく知らぬにあらず、 
知りてなほ、さはあらんやと、 
目に見えぬものにあらがひ、 
みづからの思ひ上れる 
こころざし、世の笑ふとも、 
我れならで、我れを正しく、 
述べて云ふもののあらねば、 
憚らず今云ひ放つ、 
何ごとも昔はむかし、 
今は今、未来のみこそ、 
はかりえぬ光なりけれ。 
朝夕におのれを育て、 
我れと云ふものを見知らぬ、 
大かたのあげつらひ人、 
目開かん世を期してのみ 
進むべく我れを掟てぬ。 
一切の過去は切るべき 
利剣わざもののあらば切りてん。 
 
 
 
 
 
 
 
  鈴蘭の変死 
 
鈴蘭は変貌します。 
鈴蘭は変貌をしません。 
この花は優しい。 
この花は恐しい。 
草野くさのを飾る花。 
グロテスクな花。 
北海道の方方かたがたに、 
思つたままを云ひませう。 
 
私の遠い昔の五月の日、 
通り過ぎたシベリヤは、 
むらむらの白樺を混ぜた 
鈴蘭の原であつた。 
早春の雪の厚さで、 
盛られた鈴蘭の大野、 
鈴蘭の気流の中を、 
私は三日程進んで行つた。 
 
函館のトラピストの庭で、 
尼君の名を問ふと、 
伊藤とも加藤とも云はれず 
マルチノと告げられた。 
尼マルチノと私は並んで立つた、 
仄かな鈴蘭の香の中で。 
花は撒かれた霰ほどだつた。 
尼君は私のために摘んだ。 
 
六月に入ると北国きたぐにから、 
箱詰めにして送られる鈴蘭、 
おのれの強い芳香の、 
化学的変化が、 
毒素になつて死ぬ鈴蘭。 
初めだけは白花、青い葉。 
二日日には満身の赤錆。 
毒死するのです。 
 
五臓六腑うに沁み渡る、 
芝居はともかくも、 
この台詞せりふは音楽的である。 
死の舞台の音羽屋より、 
ちやつけた鈴蘭は劣る。 
服毒した鈴蘭を、 
今も憐んで云ふ、 
押花になつてくればよかつた。 
 
王の栄華と耶蘇の比べた、 
百合はアネモネだと云ふ説のやうに、 
強烈な色に印度では咲く 
沙羅双樹か知らぬが、 
日本の山の白い沙羅は、 
あてに、いみじく、脆い花である。 
初めもはても高雅である。 
鈴蘭を何故なぜ変死させますか。 

 
 
 
 
 
 
 
  幻の銀杏 
 
みちのくの津軽の友の 
云ひしこと、今ゆくりなく 
思ひ出で、涙流るる。 
悲しやと、さまで身に沁む 
筋ならず聞きつることの、 
年を経て思はるるかな。 
おん寺の銀杏の大木、 
色うつり、黄になる見れば、 
朝夕になげかるるなり、 
忌はしく、ゆゆしき冬の、 
近づきし、こと疑ひも 
なきためと、友は云ひてき。 
今われが柱に倚りて 
見るものに、青青せいせいたらぬ 
木草なし、満潮みちしほどきの 
海鳴りのごと蝉の鳴く、 
八月に怪しく見ゆれ、 
みちのくの、板柳町 
岩木川流るるあたり、 
古りにたる某でらの 
境内の片隅にして、 
上向きに枝を皆上げ、 
葉のいまだ厚き銀杏の 
黄に変り、冬を示せる 
立姿、かの町びとの 
目よりまた、除きがたかる、 
寂しさの備る銀杏。 
うつつにし、見るにもあらず、 
この庭に立つにはあらず、 
衰へし命の中に、 
見ゆるなれ、北の津軽の 
黄葉もみぢする大木の銀杏。 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
(完)
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社 
1929(昭和4)年1月20日発行 
 
「定本 與謝野晶子全集 第九巻 詩集一」講談社 
1980(昭和55)年8月10日第1刷発行 
 
「定本 與謝野晶子全集 第十巻 詩集二」講談社 
1980(昭和55)年12月10日第1刷発行 
 
「みだれ髪」名著複刻全集 近代文学館、日本近代文学館 
1968(昭和43)年12月発行 
※ このファイルは、青空文庫で作成されたものを編集し再構成しています。 
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」を、大振りにつくっています。 
入力:武田秀男 田中哲郎 
校正:kazuishi 富田倫生 
構成:明かりの本 
ファイル作成: 
2004年6月24日作成 
2012年3月23日修正 
2018年12月17日構成 
 
青空文庫作成ファイル: 
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