ゲーテ ファウスト

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グレエトヘンが家の門前の街。
グレエトヘンの同胞兵卒ワレンチン登場。

    ワレンチン
誰でも兎角自慢をしたがる
 
酒の座鋪ざしきに己がいるとき、
友達どもが声高に
町の娘の噂をして、
その褒詞を肴にして飲んでいると、
己は気楽に据わっていて、
 
頬杖を衝いて、
笑って鬚を撫でながら、
みんなのことばを聞いていて、
先ず杯になみなみと注がせて、
それからこう云ったものだ。「それはそんな娘もあろう。
 
だがな、国中捜して歩いたって、
内の可哀いグレエテルのような奴が、
あの妹のお給仕でも出来る奴がいるかい。」
声が掛かる。コップが鳴る。一座がざわつく。
「そうだ。あれは女性の飾だ」と、
 
声を揃えて身方がどなる。
褒めた奴等が皆黙ったものだ。
それがどうだ。頭の髪を掻きむしっても、
壁に這い登っても追っ附かない。
どの恥知らずでも、鼻に皺を寄せたり、
 
当擦あてこすりを言ったりして、己を馬鹿にしやがるのだ。
己は筋の悪い借金でもある奴のように、小さくなって
据わっていて、人の詞の端々に冷たい汗を掻かせられる。
片っ端からそいつらをなぐってでも遣りたいが、
どうも※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそつきだとだけは云われない。
 
や。遣って来るのは、這い寄って来やがるのはなんだ。
この目がどうかしていなけりゃあ、あいつ等は二人連だな。
あいつがそなら、引っつかんで、
この場を生かしては逃さないぞ。

ファウストとメフィストフェレスと登場。

    ファウスト
丁度あの寺の坊主の休息所の窓から、
 
常燈明の火がさしていて、
それが窓を離れるに連れて段々微かになって、
闇が四方から迫って来るように、
丁度あんな工合に、己の胸は闇に鎖されている。 
 
    メフィストフェレス
所がわたしの心持は、あの火見ひのみはしごの下から、
 
そっと家の壁に附いて忍んで行く、
あの痩猫のような心持ですね。
盗坊どろぼう根性がちょっぴりと、助平根性がちょっぴりと
あるにはあるが、先ず大体すこぶる道徳的ですね。
なんだかこう節々に、結構な
 
ワルプルギスの夜のたのしみが染み渡るようだ。
もうあさっての晩がそれなのだ。
兎に角寐ずにいる甲斐のある晩ですからね。 
 
    ファウスト
あの遠い所に火が燃えているなあ。あの下で
例の宝がそろそろ地の底から迫り上げて来るのかい。
  
 
    メフィストフェレス
ええ。もう遠からず壺をお取上とりあげなさる
よろこびの日がまいります。
こないだちょっと覗いて見たら、ボヘミアの紋の
獅子の附いた、立派な金貨が這入っていました。 
 
    ファウスト
可哀い奴の支度にいる
 
指環とか髪飾とか云う物はないのかい。 
 
    メフィストフェレス
そうですね。なんだかこう真珠を繋いだ
紐のような物が見えましたっけ。 
 
    ファウスト
何かそんな物がなくては困るよ。
手ぶらで行くのは苦になるからなあ。
  
 
    メフィストフェレス
そうでしょう。只文目ただもんめで面白い目を見て、
あなたがいやな心持になっては気の毒だ。
空に星の一ぱい照っている、今夜のような晩だから、
わたしが一つ真の芸術らしい処を聞せて上げましょう。
わたしは女に道徳的な文句を歌って聞せて、
 
あべこべに迷わせて遣るのですよ。

(キタラの伴奏にて歌ふ。)

夜の明け掛かる今時分
可哀おかたの門口で、
カタリナ、お前は
何していやる。
 
そりゃすがい。
かどを入る時ゃ
娘で這入る。
娘では出て来ないぞえ。
 
気をおつけ
 
済んでしまえば
おさらばよ。
気の毒な、気の毒な娘達。
自分の体が大事なら、
花盗人に
 
油断すな、
指環をめて貰うまで。 
 
    ワレンチン(進み出づ。)
こら。誰をおびき出すのだ。怪しからん。
のろわれた、ハメルンもどきの鼠捕ねずみとり奴。
その鳴物を先へこわして、
 
跡から弾手ひきてにお見まい申すぞ。 
 
    メフィストフェレス
しまった。キタラは二つになった。 
 
    ワレンチン
こん度は頭を割って遣る。 
 
    メフィストフェレス(ファウストに。)
先生。尻籠しりごみは御無用だ。しっかりなさい。
わたしが遣って見せるから、ぴったり附いておいでなさい。
 
その塵払ちりはらいを引っこ抜いた。
それおつきだ。受けることはわたしが受ける。 
 
    ワレンチン
これでも受けるか。 
 
    メフィストフェレス 
 
        受けないでどうする。 
 
    ワレンチン
これもか。 
 
    メフィストフェレス 
 
    こうだ。 
 
    ワレンチン 
 
       や。相手は悪魔かしら。
こりゃどうだ。もう手がしびれた。
  
 
    メフィストフェレス(ファウストに。)
お突だ。 
 
    ワレンチン
   参った。(倒る。) 
 
    メフィストフェレス 
 
           これで野郎おとなしくなりました。
ところでもう行かなくては。早速消えてしまわないと、
今におそろしく騒ぎ立てますからね。
わたしは警察をごまかすことは上手だが、
命を取られる裁判に引き出されるのはきらいです。
  
 
    マルテ(窓より。)
大変です。皆さん。 
 
    グレエトヘン 
 
        どなたかあかりを。 
 
    マルテ(同上。)
大声で喧嘩をしてったり切ったりしています。 
 
    民
そこに一人は死んでいらあ。 
 
    マルテ(門より出でつゝ。)
殺した人は逃げましたの。 
 
    グレエトヘン(出でつゝ。)
殺されたのはどんな人。 
 
    民 
 
          お前のおっあの息子よ。
  
 
    グレエトヘン
まあ。わたしどうしよう。 
 
    ワレンチン
おい。己は死ぬるのだ。口に言うのは一口で、
実際遣るのはなお早い。
おい。女子達。そこに立っていて泣いたりわめいたりするな。
こっちへ来て、己の言うことを聞いてくれ。
 

(一同ワレンチンを取り巻く。)

おい。グレエトヘン。お前はまだねんねいで、
好く物事が分からない。
それでまずい事をするのだ。
己はほんの内証ないしょでお前に言うのだがな、
兎に角お前はばいただよ。
 
それでまた丁度好いのだ。 
 
    グレエトヘン
まあ、いさんが。なんでわたくしにそんな事を。 
 
    ワレンチン
よまい言を言うのはせよ。
出来た事は為方しかたがない。
これからさきもなるようになるだろうよ。
 
最初は一人ひとりとこっそりする。
間もなく相手の数が殖える。
もう一ダアスとなって見ると、
お前は町中まちじゅうの慰物だ。
それから恥の種子たねを宿す。
 
人に隠してこっそり産んで、
頭の上からすっぽりと
闇のころもかぶせてしまう。
悪くすると殺して遣りたいとさえ思うのだ。
それが育って大きくなると、
 
昼日中にも外へ出るが、
格別立派にはなっていない。
そのうち顔も醜くなるが、なればなる程
厚かましく、人中に出るようになる。
それ、ばいたが来たからけろよと、
 
時疫じえきで死んだ死骸のように、
真面目な人が皆避けるのが、
もう己の目には見えるようだ。
人が顔をじっと見ると
お前の胸がびくびくする。
 
きんの鎖は掛けられない。お寺へ行っても、
贄卓にえづくえの前に立つことは出来ない。
美しいレエスの領飾をして、
踊場で楽むことも出来ない。
乞食や片羽と一しょになって、
 
暗いなげきの蔭に隠れて、
よしや神様はおゆるしなさるとしても、
この世界ではのろわれているのだ。 
 
    マルテ
お前さん。自分の霊をおすくい下さるように願いなさい。
そんな悪口などを跡に遺さずに。
  
 
    ワレンチン
へん。恥知らずの口入婆々あ奴。
己はその萎びた体に攫み附いて遣りたいのだぞ。
そうすりゃあ、己の罪滅しが
たっぷり出来るわけだがなあ。 
 
    グレエトヘン
まあ、いさん。お前はさぞせつない事で。
  
 
    ワレンチン
いよ。泣いてなんかくれなくてもい。
お前が名誉を棄てた時、己のこの胸は
一番痛手を負ったのだ。
己はこれでも軍人で、立派に死んで
天へ行くのだ。(死す。)
 
 
 

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