ゲーテ ファウスト

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騎士の広間

 

燈の薄明。

帝と殿上人等と入り籠みあり。

    先触
化物どもの秘密の働が、狂言の先触をすると云う、
わたしの昔からの役目を、兎角妨げて困ります。
この入り組んだはこびを当前の道理で
説き明そうとするのは、なかなか難儀だ。
 
椅子や腰掛はもう出ている。
殿様を丁度壁を前にしてお据わらせ申した。
暫くの間は壁紙にかいてある昔の戦争の
絵でもゆっくり御覧になるが好い。
殿様もお側の方々も、皆さんぐるりとあつまって
 
おいでになる。背後はベンチで一ぱいになる。
化物の出る、気味の悪い場でも、好いた同士は
それぞれに隣になるように都合して据わった。
さてこう一同程好く陣取って見ますれば、
支度は宜しい。化物はいつでも出られます。
 

(金笛。)

    天文博士
さあ、狂言を始めた始めた。殿様の
仰だ。壁になっている所はひとりでにけ。
何の邪魔もない。ここでは魔法がお手の物だ。
垂布は火事に燃えてまくれ上がるように消える。
石壁も割れて、ひっくり返る。
 
奥行の深い舞台が出来るらしい。どこからか
不思議なあかりがさして来るようだ。
そこでわたしは舞台脇へ行っている。 
 
    メフィストフェレス

(黒ん坊のゐる穴より現る。)

ここで己は御贔屓ごひいきにあずかるつもりだ。
吹き込んで物を言わせるのが悪魔の談話術だ。
 

(天文博士に。)

あなたは星の歩く拍子が分かるのだから、
わたしの内証話も旨く分かるでしょう。 
 
    天文博士
不思議な力で、ここにかなりがっしりとした、
古代の宮殿が目の前に見えて来る。
昔天を※(「敬/手」、第3水準1-84-92)かかげていたアトラスの神のように、
 
柱が沢山列をなして、ここに立っている。
二本位で大きい屋根を持つことの出来る
柱だから、これならあの石の重みに堪えよう。 
 
    建築家
これが古代式ですか。褒めようがありませんね。
野暮でうるさいとでも云うべきだ。どうも
 
荒っぽいのを高尚、不細工なのを偉大としている。
わたしどもはどこまでも上へ上へと昇る狭い柱がすきだ。
剣形迫持けんがたせりもちの天井は思想を遠大にする。
わたしどもにはそう云う建物が一番難有ありがたい。 
 
    天文博士
い星の下で出来るたのしみを難有くおうけなさい。
 
呪咀じゅそことばで理性を縛して置いて、そのかわり
美しい、大胆な空想を
広く自在に働かせるのです。
思い切った、大きいのぞみが目で見られる。
不可能な所が信ずる価値のある所です。
 

(反対側の舞台脇よりファウスト登場。)

    天文博士
や。術士が司祭の服を著て、青葉の飾を戴いて出た。
大胆に遣り掛けた事を、これから遣るのですね。
うつろな穴から五徳が一しょに上がって来た。
もうあのかなえから烟の※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)においみなぎって来そうだ。
この難有い為事しごとの祝福の支度をしますね。
 
これからさきは好運な事しかないでしょう。 
 
    ファウスト(荘重に。)
無辺際に座を構えて、永遠に寂しく住んでいて、
しかもれいる母達よ。御身等の名を以て己は行う。
生きてはいずに、動いている性命のかたが、
おん身等のこうべめぐって漂っている。かつて一度ひとたび
 
光明こうみょう仮現けげんとの中に存在したものは、ことごと
ここに動いている。永遠を期しているからである。
万能の権威たる御身等は、それを日の天幕の下、
穹窿きゅうりゅうの下に分けて遣られる。あるものは
せいの晴やかな道が受け取る。あるものは大胆な
 
術士が貰いに行く。そしてその術士は
人の望むがままに、赤心を人の腹中に置いて、
おおように、おしまずに不思議を見せるのである。 
 
    天文博士
あの焼けている鍵が鼎に触れるや否や、
暗い霧がすぐに広間をつつむ。その霧は
 
這い込んで、びたり、固まったり、入り乱れたり、
並び合ったりして、雲のように棚引く。さあ、
鬼を役する巧妙な術を御覧なさい。物の
動くに連れて、楽の声が聞える。浮動する
音響から、何とも言えぬ物が涌く。その音響は
 
延びて旋律になる。柱はもとより、その上の
三裂さんれつの飾までが音を立てる。わたしは
宮殿全体が歌っているかと思います。霧は沈む。
その軽いうすもののような中から、調子の歩様あるきざま
美しい若者が出て来る。わたしは役目の上で
 
もう何も申しますまい。若者の名はして言うまでも
ないでしょう。誰もパリスを知らぬ人はないはずです。

(パリス登場。)

    貴夫人
まあ、あの男盛の力のかがやきを御覧なさいまし。 
 
    第二の貴夫人
摘んだばかりの桃のようで、露も沢山ありましょう。 
 
    第三の貴夫人
恰好の好い脣が旨そうにふくら[#「月+亨」、U+811D、465-11]んでいますこと。
  
 
    第四の貴夫人
あなたあんな杯にお口をおつけなさりたくって。 
 
    第五の貴夫人
上品だとは申されなくても、好い男ですわね。 
 
    第六の貴夫人
も少し取廻とりまわしが功者だったら、なおいでしょうね。 
 
    騎士
なんだか身分は羊飼の若い者かと見えますな。
貴公子らしくはなく、行儀躾もなさそうです。
  
 
    他の騎士
さようさ。半裸では好く見えるが、
鎧を着せて見たら、どうか知らん。 
 
    貴夫人
あれ。しなやかな、い様子をして据わりましたね。 
 
    騎士
あの膝に抱かれたら好いだろうと云うのでしょう。 
 
    他の貴夫人
あの肱を枕にした恰好の好うございますこと。
  
 
    侍従
不作法な。わたしは差し止めたいと思いますね。 
 
    貴夫人
殿方は何につけても故障を仰ゃるのですわ。 
 
    侍従
殿様の御前でじだらくな風をして。 
 
    貴夫人
あれは芸ですわ。一人ひとりでいるつもりですわ。 
 
    侍従
いや。その芸がここでは行儀好くなくては。
  
 
    貴夫人
あれ。い心持に寝てしまいましたのね。 
 
    侍従
今に鼾でもかくでしょう。自然そっくりでしょうよ。 
 
    若き貴夫人(感歎す。)
あの香の烟に交って来る薫はなんでしょう。
わたし胸の底までせいせいしますわ。 
 
    やや年長けたる貴夫人
本当ね。胸に沁み込むようね。あの人の
 
※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)ですわ。 
 
    最も年長けたる貴夫人 
 
    あれは体の盛になっている※(「鈞のつくり」、第3水準1-14-75)で、
それが醸されて不老不死の名香になって、
まわりへ一面に広がるのですよ。

(ヘレネ登場)

    メフィストフェレス
こいつだな。己なんぞは見たって平気だ。
別品には相違ないが、己には気に食わない。
  
 
    天文博士
わたしは正直に白状しますが、
これにはなんとも申しようがありませんな。
美人が出た。火焔の舌があっても駄目だ。
昔から女の美はいろいろに歌われている。
あれを見せられては、誰でも心がそらになる。
 
あれを我物にした人は、余り為合しあわせ過ぎたのだ。 
 
    ファウスト
己の目はまだあるだろうか。美の泉が豊かに
涌いて、心に深く沁むように見えると云おうか。
恐ろしい下界の旅に嬉しい限の土産があった。
世界がこれまでどんなにか無価値で、錠前がかずに
 
いただろう。それがこん度司祭になってから
どうなったか。始て望ましいものになり、基礎が
出来、永存する。お前を棄てる気になったら、
己の生息の力が消えてもい。昔己を
悦ばせた、美しい形、不思議な鏡像に
 
見えて幸福を感じさせた、美しい形は
今見る美の泡沫の影に過ぎない。
己があるだけの力の発動、感情の精髄、
傾倒、愛惜、崇拝、悩乱を捧げるのは、
お前だ。
  
 
    メフィストフェレス(棚の内より。)
しっかりなさい。役を忘れてはいけません。 
 
    やや年長けたる貴夫人
たけもあって、恰好も好いが頭が少し小さいようね。 
 
    やや年若き貴夫人
足を御覧遊ばせ。下品に大きゅうございますこと。 
 
    外交官
うえかたにあんな恰好のを拝したことがありますよ。
頭から足まで、わたしは美しいと思います。
  
 
    殿上人
寝ている男の傍へ横著げに優しく近寄りますね。 
 
    貴夫人
あの上品な若者に比べては醜いじゃありませんか。 
 
    詩人
若者は女子おなごの美しさに照されています。 
 
    貴夫人
エンジミオンとルナですね。画のようですね。 
 
    詩人
そうです。はあ。女神が身を屈めて、うえに伏さって、
 
男の息を飲もうとするらしく見えます。
羨ましい。や。接吻する。うつわちた。 
 
    女監
まあ、人の前も憚らずに。狂人きょうじん染みた真似を。 
 
    ファウスト
若者奴に過分なめぐみを。 
 
    メフィストフェレス 
 
         しっ。静かに。
化物のするように、構わずに、させておおきなさい。
  
 
    殿上人
女子おなごは足元軽く退いて、男は目を醒ましますね。 
 
    貴夫人
女が振り返ります。大方そうだろうと思いました。 
 
    殿上人
男は驚いています。奇蹟に逢ったのですから。 
 
    貴夫人
女のためには目前の事になんの不思議もないのですね。 
 
    殿上人
様子の好い風をして男の所へ帰って行きます。
  
 
    貴夫人
分かりましたわ。女が男に教えるのでございます。
男はあんな時には馬鹿なものです。
大方自分が始ての相手だなぞと思うのでしょう。 
 
    騎士
わたしの目利は違いません。気高く上品ですね。 
 
    貴夫人
浮気女が。わたしはどうしてもいやしいと思います。
  
 
    舎人
わたくしはあの男になりとうございます。 
 
    殿上人
あんな網になら、誰もかからずにはいられませんね。 
 
    貴夫人
あれでいろんな人の手に渡った宝ですよ。
金箔も大ぶ剥げています。 
 
    他の貴夫人
まあ、とおばかりの時からいたずらをした女ですね。
  
 
    騎士
人はその場合に獲られる最上の物を取るのです。
わたしなんぞはあの残物のこりものでも貰うことにします。 
 
    学者
わたしにもはっきり見えているが、正直を申せば、
本物ほんものだか、どうだか疑わしいのです。
現在しているものは、人を誇張に誘い易い。
 
わたしは兎に角書いたものにすがる。読んで見ると、
こうあります。実際あの女は殊にトロヤの髯の
白い翁に気に入ったと云うのです。ところが
それが、わたしの考では、この場合に符合する。
わたしは若くはない。それに気に入りますな。
  
 
    天文博士
もう童ではない。大胆な男になって、女の
抵抗することも出来ないのを、掴まえます。
腕には力が加わって、女子を抱き上げる。
連れて逃げるのでしょうか。 
 
    ファウスト 
 
            向う見ずの白痴たわけが。
敢てする気か。聴かぬか。待て。余り甚だしい。
  
 
    メフィストフェレス
あなたが自分でしているのではありませんか。化物の狂言を。 
 
    天文博士
ただ二言附け加えます。これまで見た所では、
この狂言をヘレネの掠奪と名づけたいのです。 
 
    ファウスト
なに。掠奪だと。己がここに手を束ねていると
云うのか。この鍵はまだ手にあるではないか。
 
寂寞の中の恐怖と波瀾とを経過して、
これが己を堅固な岸に連れて来たのだ。
己はここに立脚する。ここには実物ばかりある。
ここからなら、れい鬼物きぶつと闘うことが出来るのだ。
ここからなら、幽明合一の境界が立てられるのだ。
 
遠かった、あの女を、これより近づけようはない。
今己が救って遣れば、二重に我物になるわけだ。
遣ろう。母達、々々。御身等も許してくれ。
あれを識ったからは、あれと別れることは出来ぬ。 
 
    天文博士
あなた何をします。ファウストさん。力ずくで
 
女子をつかまえる。もう女の姿が濁って来た。
鍵を男の方へ向ける。鍵が男に
障る。や。大変だ。やや。

(爆発。ファウスト地に倒る。男女の鬼物霧になりてゆ。)

    メフィストフェレス

(ファウストを肩に掛く。)

お前方の自業自得だ。馬鹿者共を背負しょい込むと、
悪魔でも損をせずにはいられない。
 

(闇黒。※(「二点しんにょう+鰥のつくり」、第4水準2-89-93)ざっとう。)

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