ゲーテ ファウスト

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第二幕

 
 


高き円天井ある、ゴチック式の狭き室。か
つてファウストの住みし所。総て旧に依る。

  
 
    メフィストフェレス

とばりの背後より立ち出づ。メフィストフェレスが手に帷をかかげて顧みるとき、古風なる臥床に横はれるファウストの姿、見物に見ゆ。)

そこに寝ておれ、結んでは解けにくい
恋のきずなに誘われた不運者奴。
ヘレネにうつつを抜かしたものは、
容易に正気には帰らぬのだ。

(四辺を見廻す。)

上を見ても、右左を見廻しても、
 
なんにも変ってはいない。そっくりしてある。
ただあの窓の色硝子が前より曇っているようだ。
それから蜘蛛くものいが殖えたようだ。
インクは固まって、紙は黄ばんでいる。
何もかも元の場所に置いてある。
 
先生が己に身を委ねる契約を書いた、
あの筆までがまだここにある。
そればかりではない。己がおびき出して取った
血の一滴が、鵞ペンの軸の奥深く詰まっている。
またと類のないこの珍品を
 
大骨董家に獲させたいものだ。
そこにはあの古いけごろもまでが古い鉤に懸けてある。
あれを見るとあの時のいたずらを思い出す。
子供の時に己の教えた事を、青年になって
今でもおしみながら使いらしているかも知れぬ。
 
もじゃもじゃぬくいこの外套を、今一度身に著けて、
世間では当然の事に思っている
大学教授の高慢がる真似事を、
なんだかして見たいような気にもなる。
ああしたえらがる心持に学者はなれようが、
 
悪魔はとうから厭気いやけがさしているて。

(取り卸したる裘を振へば、蟋蟀こおろぎ、イタリアこほろぎ、甲翅虫など飛び立つ。)

    合唱する昆虫等
好くぞ来ませる。好くぞ来ませる。
古き恩人、おん身よ。
飛びつゝ、鳴きつゝ、
われ等早くおん身を知れり。
 
一つ一つひそやかに
おん身われ等を造りましぬ。
父よ。百千ももちむれなして、
われ等舞ひつゝ来ぬ。
胸に住む小賢きものは
 
飽くまでかくろひをらんとす。
それには似ずて、しらみ等は
たはやすくぞもぬけ出づる。 
 
    メフィストフェレス
この若い、造られた物を見るのが、意外に嬉しい。
ただ種をさえいて置けば、いつか取入とりいれが出来る。
 
もう一遍この古い毛衣を振って見よう。
そこ、ここからまた一つ二つ飛んで出る。
可哀い奴等。飛び上がり、這い廻り、
千百箇所の隅々へ、隠れに急いで行きおる。
古い箱の置いてあるあそこへも、
 
茶いろになった古文書や、
古壺の五味の溜まったかけらのこの中へも、
あの髑髏のうつろな目の穴へも。
こんながらくたや、腐物くされものの中には、
永久に虫がいなくてはならぬのだ。
 

(裘を著る。)

さあ、来て己の肩をもう一遍包んでくれ。
きょうは己がまた先生だ。
さてこう名告なのった所で、詰まらないな。
己を認めてくれる人間どもはどこにいるのだ。

(メフィストフェレス鈴索を引く。鈴は耳に徹する、叫ぶ如き音を発し、その響に堂震ひ、扉開く。)

    門生

蹣跚まんさんとして、暗き長廊下を歩み近づく。)

なんと云う音だ。それに響くこと。
 
梯子段がぐらついて、壁がぶるぶるする。その上
あの色硝子の震えている窓から、稲妻の
ぴかぴかするのが見えている。塗天井に
亀裂ひびが入って、ほぐれた石灰や土が
上の方から降って来る。戸なんぞは
 
堅く錠を卸して置いたのに、不思議な力で
錠が開いてしまった。や。あれはどうだ。
気味の悪い。ファウスト先生の古毛皮を著て
巨人おおひとのような男が立っている。あの目で
視られたり、あの手で招かれたりしたら、
 
こっちはそこへへたばってしまいそうだ。
逃げようか。こうしていようか。
ああ。己はどうなる事だろう。 
 
    メフィストフェレス(招く。)
こっちへおいで。君の名はニコデムスだね。 
 
    門生
さようでございます。ああ。祈祷でもしようか。
  
 
    メフィストフェレス
そんな事はし給え。 
 
    門生 
 
         好くわたくしの名を御存じで。 
 
    メフィストフェレス
知っているとも。年を取っても、学生を
していなさる。老書生だな。学生もやっぱり
すきでそう云う風に修行し続けるのだ。そして
天分相応な、吹けば飛ぶような家を建てる。
 
大学者だって、家が落成するとまでは行かぬ。
所で君の先生だが、あれは修養のある人だ。
目下学術界の第一流に推されている
ワグネル先生を識らないものは世にあるまい。
毎日のように創見を出して開拓して行く先生が、
 
実際今の学術界を維持していられるのだ。
先生一人の周囲に、いやしくも学に志ある
聴衆は麕集くんしゅうして来る。講壇の上から
光明を放っているのは、先生一人だ。
先生が聖ペトルスのように鍵を預かっていて、
 
したもおけになる、うえもお開けになる。
先生が群を抜いて光り耀かがやいておられるので、
誰の名声も栄誉も共に争うことが出来ない。
ファウスト先生の名さえ、もうかげになっている。
ワグネル先生は独創の発明家だから。
  
 
    門生
いえ。ちょっと御免下さい。おことばかえすようですが、
ちょっと申し上げとうございます。こちらの
先生は万事そう云う風ではございません。
謙遜があの方のお生附うまれつきです。ファウスト大先生が
不思議に跡をお隠しなすったのが、
 
諦められぬと仰ゃっておられます。
大先生さえおかえりになったら、慰藉なぐさみも幸福も
得られようと申されます。大先生がお立退たちのき
なってから、当時のままにしてあるお部屋が
かえりを待っています。わたくしなぞは
 
あのお部屋へ這入るのもこおうございます。一体
もう何時頃でございましょう。なんだか家の
壁までが物をこわがっているようです。さっきは
戸のくるるが震えて、錠前がきました。そうでないと、
あなたもお這入が出来なかったでしょう。
  
 
    メフィストフェレス
先生はどこにいなさるのだ。己を連れて
行くとも、先生を連れて来るともし給え。 
 
    門生
実は非常に厳しいおいましめがあるのです。そんな事を
いたして宜しいか、どうか、分かりません。おくわだて
なった大事業のために、もう幾箇月も、非常に
 
静寂せいじゃくを守ってお暮らしになっています。学者中で
一番お優しい、あのかたがお鼻の辺からお耳の
辺まで煤けておいでになって、火をおふきになるので、
お目は赤くなりまして、まるで炭焼すみやきのように
お見えなさいます。そして絶間なしに喘いで
 
おいでなさる、そのお声に、火箸のちゃらちゃら云う
物音が伴奏をいたしているのでございます。 
 
    メフィストフェレス
しかしまさか己を這入らせんとは云われまい。
己はその成功を早めて上げる人間だ。

(門生退場。メフィストフェレス重々しげに坐す。)

己がここに陣取るや否や、あそこの
 
奥の所に、お馴染のお客様が見える。
こん度は最新派の奴と来ているから、
際限もなく増長していることだろう。 
 
    得業士(廊下を駆け来る。)
かどの戸も部屋の戸もいているな。
この按排あんばいなら今までのように、
 
生きた人間が死人同様に
黴の中にいじけて、腐って、
せいその物のために死ぬるような、
愚な事はしていぬだろう。
 
この家は外壁も内壁も
 
傾いて、崩れそうになっている。
己達も早く逃げないと、
圧し潰されてしまうだろう。
己は誰よりも大胆だが、誰がなんと
云っても、これより奥へは這入らない。
 
 
所で、きょうは妙な目に逢うぞ。
ここが、何年か前に、己がおめでたい、
なり立ての学生で、動悸をさせて
びくびくしながら遣って来て、
あの髯親爺共を信用して、
 
寐言を難有ありがたがった所だな。
 
親爺共は自分達の知った事、知っていて
信じていない事を、古臭い
破本やぶれぼんの中から言って聞かせて、騙しおって、
自分達の性命をも己の性命をも奪いおった。
 
おや。あの奥のがんのような所の
薄明うすあかりに、まだ一人据わっているな。
 
近寄って見ると、驚いたわけだ、
まだあの茶いろの毛皮を著ている。
実際あの別れた時のままで、
 
お粗末な皮にくるまっている。
あの時は己に分からなかったので、
あいつが巧者そうに見えた。
きょうはその手は食わないぞ。
どれ。一つっ附かって遣ろう。
 
 
いや。老先生。レエテの川の、人に物忘ものわすれをさせる
濁水が、その俯向けておられる禿頭はげあたまを底から
ひたしていないなら、ここへ昔の学生が、学校の鞭の
下をっくに抜けて来たのを、歓迎して下さい。
あなたはいつかお目に掛った時のままでおられる。
 
わたしは別な人間になって来ました。 
 
    メフィストフェレス
ふん。わしの鳴らしたベルで君の来られたのは
喜ばしい。あの時も君を軽視してはいなかった。
追って綺麗な蝶になると云うことは、
毛虫やさなぎの時から分かる。若々しい
 
※(「糸+求」、第4水準2-84-28)ちぢれた髪をして、レエスの著いた襟を掛けて、
君は子供らしい愉快を覚えていた。
辮髪べんぱつには、君、一度もならなかったのかい。
きょうは君のスウェエデン風の斬髪を拝見するね。
快活で、敏捷らしい御様子だ。絶待的無過失の
 
思想家なぞになって、故郷へ帰らないようになさい。 
 
    得業士
老先生。また元の所でお目に掛かりますが、どうぞ
革新せられた時代の推移をおかんがえなさって、
一語両意の下手な講釈は御遠慮下さい。
わたしどもは物の聴取方ききとりかたが変っていますからね。
 
あなたは馬鹿正直な子供をお揶揄からかいになった。
それがなんの手段も煩わさずにお出来になった。
今はもうそんな事を敢てするものはありません。 
 
    メフィストフェレス
ふん。若いものに本当の事を説いて聞かせると、
くちばしの黄いろい時の耳には兎角逆うのだ。
 
所が跡で何年も立ってから、自分の体が
あらあらしく物にっ附かって、それが分かると、
自分の脳天から出た智慧のように思うのだ。
そこで「あの先生は馬鹿だった」などと云うのだて。 
 
    得業士
いや。「横著者だった」となら云うかも知れませんね。
 
覿面てきめんに本当の事を言う先生はないのですから。
どれも皆、おめでたい子供を相手に、匙加減をして
真面目くさったり、機嫌を取ったりするのです。 
 
    メフィストフェレス
無論人間は学ばなくてはならぬ時がある。
こう見た所、君はもう人に教えても好いつもりらしい。
 
大ぶ月日が立つうちに、君もたっぷり
経験を積んで来ただろうね。 
 
    得業士
経験ですか。泡のような、烟のような物です。
人のれい比物くらべものにはなりませんね。あなただって
正直に白状なさったら、今まで人の知っていた事に
 
知っていて役に立つことはないでしょう。 
 
    メフィストフェレス(間を置きて。)
もううからそう思っていたが、わしは馬鹿だ。
今思えばいよいよ遅鈍で、興味索然としている。 
 
    得業士
そう承れば嬉いです。兎に角自知の明がある。
今まで逢った老人の中で話せるのはあなた一人だ。
  
 
    メフィストフェレス
わしは埋もれている黄金こがねの穴を捜して、
気味の悪い炭を得て帰ったのだ。 
 
    得業士
失敬ですが、あなたのその頭脳、その禿頭はげあたまには、
そこにある髑髏以上の価値はないでしょう。 
 
    メフィストフェレス(恬然てんぜんとして。)
君はどの位乱暴だか、自分でも分かるまいね。
  
 
    得業士
ドイツでは世事を言う人は※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)うそつきとしてあります。 
 
    メフィストフェレス

(脚に車の附きたる椅子を、次第に舞台脇へずらせ来て、平土間に向ふ。)

ここの上では空気も光線もなくされそうですが、
あなた方の所へ降りさせて下さらんでしょうか。 
 
    得業士
一体もう自分がなんでもなくなって、時候おくれ
まだ何かであるつもりでいるのは、僭上の沙汰です。
 
人間の性命は血にある。青年の体のように
血の好くめぐっているものが外にありますか。
既に有る性命から、新しい性命を造るのは、
新鮮な力を持っている、この生きた血です。
そこで万事活動している。何事をか為している。
 
弱者が倒れて、優者が進む。そして我々が
世界を半分占領する間、あなた方は何をして
いました。舟を漕いでいた。物を案じていた。夢を
見ていた。あの案、この案と、工夫ばかり凝らしていた。
たしかにおいは冷たい熱病です。気まぐれに
 
悩まされての戦慄わななきをしているのです。
人間は三十を越してしまえば、もう
死んだも同じ事ですね。あなたのような
老人は早くたたき殺すが一番です。 
 
    メフィストフェレス
こうなると、悪魔も一語を賛することが出来ない。
  
 
    得業士
わたしが有らせようとしなければ、悪魔も無い。 
 
    メフィストフェレス(傍に向きて。)
今にその悪魔に小股をすくわれるくせに。 
 
    得業士
これが青年最高の責務だ。
己が造るまでは、世界も無かったのだ。
日は己が海から引き出して来た。
 
月の盈虧えいきは己が始めた。
己の行く道を季節が粧って、
大地は己を迎えて緑に萌え、花をひらく。
ある夜己がさしまねいたので、あらゆる星が
一時に耀きはじめた。一体あなた方に、
 
世俗の狭隘な思想の一切の束縛を
脱せさせて上げたのも、わたしでなくて誰です。
所でわたしは、心の中で霊が告げるとおりに、
自由に、楽んで、内なる光明をって、
光明を前に、暗黒をうしろに、
 
希有の歓喜を以て、さっさと進むのだ。(退場。) 
 
    メフィストフェレス
変物奴かわりものめ息張いばって行って見るがい。
賢い事も、愚な事も、昔誰かがもう考えた
事しか考えられぬと云うことが
分かったら、さぞ悔やしがるだろう。しかし
 
あんな奴がいたって、世間は迷惑しない。
少し年が立つと、別な気になる。
もとでいるうち、どんな泡が立っても、
しまいには兎に角酒になる。

(平土間にて喝采せざる少壮者に。)

あなた方は大ぶ冷澹に聞いていますね。
 
い子のあなた方の事だから、構いません。
まあ、考えて御覧なさい。悪魔は年寄だ。
年が寄ったら、わたしの言うことが分かるでしょう。
 
 

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