ゲーテ ファウスト

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古代のワルプルギスの夜

 

ファルサロスの野。闇黒。

    魔女エリヒトオ
わたしはエリヒトオと云って、陰気な女だが、
 
これまでも度々出たように、今夜の気味の悪い
祭に出掛ける。やくざ詩人共が度はずれに
悪く云う程、わたしは悪い女ではない。一体詩人は
褒めるにもそしるにも止所とめどがない。谷を遥に
見渡せば、鼠色の天幕の波でしらちゃらけて見える。
 
一番気遣わしく、恐ろしかった、その夜の記念かたみだ。
もう何遍同じ事が繰り返されたか知れぬ。これが
永遠に繰り返されるのだろうか。兎角誰も国を他人に
渡したくはない。自分の力で取って、治めているものが
国を他人に渡したくはない。なぜかと云うに、我内心を
 
支配することの出来ぬ人に限って、わが驕慢の
心のままに、隣の人の意志をも支配したがるからだ。
ここではそう云う大きな争の実例があったのだ。
暴力がそれより強い暴力に抗して、千の花を
編み込んだ、自由の美しい飾の輪が破れ、
 
こわい月桂樹の枝が王者のこうべに巻き附いた。
こちらで大ポンペイユスが早い盛の夢を見れば、
あちらでケザルが揺ぐ金舌に耳を傾けて
夜を徹する。勝負は今だ、成行なりゆきは世間が知っている。
 
赤い※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの立つ篝火かがりびが燃える。地は
 
流された血の反映てりかえしを吐く。そして夜の
珍らしい、不思議なかがやきに引かれて、
グレシアの昔物語の軍兵が集まる。どの篝火の
周囲まわりにも、昔の怪しい姿があぶなげに
よろめいたり、らくげに据わったりしている。
 
闕けてはいても、明るく照る月が、一面に
優しい光を放ちながら、さしのぼる。天幕の
幻影は消え失せて、火は青いろに燃えている。
 
はて、思いも掛けぬに、あたまの上を飛んで来るのは
なんの隕星いんせいだろう。光って、たいをなした球を
 
照している。生物いきものらしい。わたしに害を受ける
生物に近づくのは、身に取って不似合なわざだ。
そんな事で悪い噂を立てられるのはいやだ。
もう降りて来るらしい。思案して避けていよう。

(退場。)
(飛行のものども上にて。)

    小人
ここのの上、谷合は
 
余り化物臭いから、
この気味の悪い篝火の上で、
もう一度輪をかいていましょう。 
 
    メフィストフェレス
古い窓から北の国の
気味の悪いごたごたを見るように、
 
厭な化物どもが見える。
ここもやっぱり内同様だ。 
 
    小人
御覧なさい。背の高い女が
大股に歩いて行きます。 
 
    メフィストフェレス
こっちとらが虚空を飛んでいるので、
 
気味を悪がって逃げるのじゃないか。 
 
    小人
あれは構わずに行かせておしまいなさい。
そして騎士さんを卸しておやりなさい。
そうしたらすぐによみがえりましょう。騎士さんは
昔話の国に生を求めているのですから。
  
 
    ファウスト(地に触れて。)
女は何処へ行った。 
 
    小人 
 
        わたくし共は知りませんが、
この辺で聞いて見ることが出来るでしょう。
急いで夜の明けないうちに、篝火から篝火へと、
聞いて廻って御覧なさい。母達の所へさえ
おいでになった方ですから、何も別にこわい目に
 
あいなさることはありますまい。 
 
    メフィストフェレス
己は己でこの土地でどうかしなくてはならないが、
どうもてんでに自分だけの運験うんだめしつもりで、
あの篝火の中を通って行くより外には、
我々に都合の好い名案もなさそうだ。
 
それから跡で一しょになる時の相図には、
お前のあかりが音をさせながら照らすようにしてくれ。 
 
    小人
ええ。こんな風に音をさせて光らせましょう。

(硝子鳴りて強く光る。)

どれ、新しい不思議を見に出掛けましょうか。

(退場。)

    ファウスト(一人にて。)
あれはどこにいるだろう。差当さしあたり此上問わずに
 
置こうか。このつちがあれを載せた土、
この波があれが方へ打ち寄せた波でなくとも、
この空気はあれがことばを伝えた空気だろう。
ここへ、このグレシアへ、己は奇蹟で来た。己の足の
踏んでいるのが、その土地だと云うことは
 
すぐ分かる。眠っていた己の心に、新しく思想が
燃え立った時、アンテウスが土に触れて力を
得るように、心強くなって己は立っている。どんな
奇怪に逢おうとも、この※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)の迷路を己は真面目に探るつもりだ。

(退場。)

    メフィストフェレス(四辺を見廻す。)
どうもこの篝々を見渡すと、
 
己は馴れない土地に来たのが分かる。
みんな裸で、襦袢じゅばんだけ著たのがそこここにいる。
スフィンクスは恥知らずでグリップスは
臆面なしだ。毛の生えたのや、羽の生えたのが、
前からもうしろからも目にうつる。
 
それは己達だって腹の底からじだらくだが、
古代の奴と来ては余り烈し過ぎる。
なんでもこんなのは新しい見方で見て、
いろいろに上塗をしなくてはいけない。
厭な人種だ。だがこっちは新参として、
 
挨拶だけは丁寧に、我慢してするとしよう。
別品さん。くろうとのお年寄。御機嫌好う。 
 
    鷙鳥しちょうグリップス(濁れる声にて。)
グリップスだ。くろうとではない。それに誰も
年寄扱は好かない。一体どの詞にも語原があって、
その響が残っている。グリップスも、栗色、苦み、
 
苦労、繰言、くら闇、ぐらつきなどと、
語原学上に声が通っているが、
己達は聞くのが厭だ。 
 
    メフィストフェレス 
 
         しかし御尊号グリップスの
「グリ」は繰入くりいれの「くり」で、お気に入るでしょう。 
 
    鷙鳥(同上。以下傚之これにならう。)
それはそうだ。来歴は調べてある。古来
 
悪くも言われたが、褒められたほうが多い。
女でも、冠でも、かねでも、繰り入れれば、
繰り入れた奴に福の神は笑顔を見せるのだ。 
 
    蟻(大いなる形のもの。)
お金の話が出ましたね。わたし共は随分集めて、
洞穴や岩の間にそっと埋めて置きました。
 
それを一目ひとつめアリマスポイ共が嗅ぎ出して
あんな遠くへ持って行って、笑っています。 
 
    鷙鳥
己達がつかまえて白状させて遣る。 
 
    一目アリマスポイ等
我儘御免のお祭の晩だけはゆるして下さい。
あしたまでには皆使ってしまいます。
 
大抵こん度は旨く行くつもりです。 
 
    メフィストフェレス

(これよりさき、スフィンクス等の間に坐を占む。)

この土地に慣れるのは、大ぶやさしそうだぞ。
どの男の言う事も、己には好く分かる。 
 
    スフィンクス
わたし達が霊の声を出すと、それを
あなたが体を具えたものになさるのです。
 
追々お心安くなりましょうが、先ずお名を仰ゃい。 
 
    メフィストフェレス
己には人がいろいろに名を附けているよ。
ここにイギリスの人がいるかい。あの連中は旅好たびずきで、
古戦場やら、滝の水やら、崩れた石垣やら、
時代の附いた、陰気な場所やらを捜し廻るのだ。
 
ここなんぞはあいつ等のねらって来そうな所だ。
あいつ等がいたら、証人になるだろう。昔の狂言で
あいつ等は己をオオルド・インイクウィチイと云った。 
 
    スフィンクス
なぜそう云いましたの。 
 
    メフィストフェレス 
 
          己もなぜか知らない。 
 
    スフィンクス
それは御存じないかも知れませんね。天文は少しは
 
知っていらっしゃって。只今はどんな時でしょう。 
 
    メフィストフェレス(仰ぎ見る。)
星が飛びっくらをしている。闕けた月が明るく
照っている。己は旨い所で、お前方の獅子の皮で
ぬくもって、好い心持になっている。しかし
高い所の事なんぞ言うのは損だ。謎でも
 
掛けてくれ。フランス流の地口でも好い。 
 
    スフィンクス
自分の事を言って御覧なさい。それが謎に
なっていますわ。細かに分析して御覧なさい。
「善人にも悪人にも用に立つ。
欲を制して奮闘する人の鎧にもなれば、
 
方外な事をしでかす人の仲間にもなる。
そしてどちらもチェウスの神のなぐさみになる。」 
 
    第一の鷙鳥(濁れる小声にて。)
あいつは好かんな。 
 
    第二の鷙鳥(一層濁れる声にて。) 
 
        我々になんの用に立つのだ。 
 
    右の二人
あんな見苦しい奴はここにいさせたくないな。 
 
    メフィストフェレス(粗暴に。)
ふん。お客様の爪は、お前のその尖った爪程、
 
引っ掻くことが出来ないとでも思うのかい。
ためして見ろ。 
 
    スフィンクス(優しく。) 
 
     なに、いらっしゃるがいわ。
どうせ御自分でこの中をおにげなさるのだから。
お国では好い気になっておいででしょうが、ここでは、
お見受申す所が、余り御愉快ではないのね。
  
 
    メフィストフェレス
お前もからだうえの半分は旨そうだが、
下の方のけだものは不気味だな。 
 
    スフィンクス
あなた※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)つきで、罪滅ぼしに来たのだわ。
わたしのこの爪は達者ですからね。
どうせ不恰好になった蹄のあるあなただから、
 
わたし達の仲間にいて、好い気持はしないわ。

(セイレエン虚空にて声を試みる。)

    メフィストフェレス
あの川の傍の白楊の枝で、体をゆすって
歌っている鳥はなんだい。 
 
    スフィンクス
御用心なさいよ。随分立派な方でも、
あの歌に負かされておしまいなすったから。
  
 
    歌う鳥セイレエン等
あはれ、いかなればみにくき、あやしき
物等の中に、身を落ち著け給ふ。
聴き給へ。われ等こゝにむれなして、
調しらべととのへる声して来たり。
セイレエンはかくあるべきものぞ。
  
 
    スフィンクス

(同じ調にて嘲る。)

降りて来させて姿を見給へ。
耳を傾け給ひなば、
襲ひそこなひまつらんと、
彼女等かのおみならは醜き角鷹くまたかの爪を
梢に隠してまりをれり。
  
 
    歌う鳥等
な憎みそ。な妬みそ。
大空の下にちりぼへる
浄き限の喜を集めばや。
まらうどに見せまつらんため、
土の上にも、水の上にも、
 
晴やかなる限の振舞あらせばや。 
 
    メフィストフェレス
これはまた迷惑千万な新手しんてだ。
のどからといとからと出る
声と声とが綯交ないまぜになると来ている。
吭を鳴らしてくれるなんと云うことは己には駄目だ。
 
耳をくすぐってはくれるが、
胸まではこたえない。 
 
    スフィンクス等
胸なんと云うことはおよしなさい。自惚うぬぼれだわ。
皺になった革嚢かわぶくろ位なら、
お顔に似合いますでしょう。
  
 
    ファウスト(歩み寄る。)
実に驚歎に価する。観照だけで満足だ。
醜怪の中に偉大な、力のある趣が見える。
なんだか前途の幸運が予想せられる。
この真率な一目は己に何を想い出させるだろう。

(スフィンクスにつきて云ふ。)

昔オイジポスはこんなのの前に立ったのだ。
 

(セイレエンにつきて云ふ。)

こんなのに騙されまいと、ウリッセスは麻縄で
身を縛らせたのだ。

(蟻につきて云ふ。)

        これが珍宝を蓄えたのだ。

(グリップスにつきて云ふ。)

そしてこれが忠実に、間違なく守ったのだ。
己は新しい思想が胸に徹して来た。
物が偉大なだけ、記念も偉大だ。
  
 
    メフィストフェレス
いつもなら、こんなものは排斥なさるのだが、
今はお気に入るようですね。
おお方すきな人を捜す土地では、
化物にでも逢いたいのでしょう。 
 
    ファウスト(スフィンクス等に。)
おい。女子おなご達。己に言って聞せてくれ。
 
お前達の中で誰かヘレネを見はしないか。 
 
    スフィンクス等
わたし達はその時代にはいませんでした。
一番すえのをヘラクレスさんが殺しましたの。
ヒロンさんにおききなさるといわ。あの方は
お祭の晩には駆け廻っています。あの方が
 
お相手になれば、たいした手がかりが出来てよ。 
 
    歌う鳥等
おん身のためにもあだならじ。
嘲りて行き過ぐることなく、
ウリッセスが留まりし時、
くさ/″\の事を我等に語りぬ。
 
青海原のほとりへ、
われ等の住む野へ来まさば、
そを皆おん身に語るべきに。 
 
    スフィンクス
あなた、騙されてはいけませんよ。
ウリッセスさんはからだほばしらに縛らせましたが、
 
あなたはわたし達の詞に縛られておいでなさい。
わたしが申した通ヒロンさんにさえ
あいになれば、分かりますからね。

(ファウスト去る。)

    メフィストフェレス(不機嫌に。)
あの羽をばたばた云わせて鳴いて通るのは
なんだ。見えない程早く通ってしまう。
 
それにきっと一羽ずつ後先あとさきになって通る。
猟人かりうどもあれでは草臥くたびれてしまうだろう。 
 
    スフィンクス
木枯の吹いて通るように、アルカイオスの孫、
ヘラクレスの矢も届かぬように、早く飛ぶのは、
あれはスチュムファアリデスです。角鷹くまたかくちばし
 
鴨の足をしている、あの鳥は挨拶をして
通るのです。わたし共の中へ来て、
親類附合がしたいのです。 
 
    メフィストフェレス(怯れたる如く。)
まだその間々に音をさせて通っているね。 
 
    スフィンクス
あれはこわがらなくてもいのですよ。
 
レルナの蛇の首ですが、胴から切り離されて
いるくせに、一廉ひとかどのもののつもりでいます。
それはそうと、あなたどうしようと云うの。
そんな落著かない様子をして。どこへ
いらっしゃるの。もうここをおにげなさるの。
 
あそこの合唱の連中の方ばかり向いて
御覧なさるのでしょう。御遠慮には及びませんわ。
おいでなさいな。顔のいのもいますから、何か
言っておやりなさい。ラミエエです。色気のある
女共ですわ。臆面なしの笑顔をしていて、
 
サチロス仲間に気に入りますの。
山羊やぎの足の男は、あの中に這入って、
どんな事でも出来ますの。 
 
    メフィストフェレス
またお目に掛りたいが、このままいてくれるでしょうね。 
 
    スフィンクス
ええ。行ってあの浮気仲間に這入って御覧なさい。
 
わたし達はエジプト時代から、千年も同じ所に
居据わっていることに慣れていますの。
わたし達の居所いどころに気を附けて御覧なさい。
陰暦も陽暦も、わたし達がめるのです。
「国と国との裁判さばきせんと、
 
塔の前にぞ我等はをる。
乱れ、治まり、河溢るれど、
我等は変へず気色だに。」
 
 

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