ゲーテ ファウスト

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第三幕

 
 
スパルタなるメネラスの宮殿の前

 

ヘレネと捕はれたるトロヤの女等の群と登場。パンタリス合唱の群をひきゐる。

    ヘレネ
沢山褒められもし、そしられもしたヘレネが
わたくしです。今著いた海岸から来ました。
ポセイドンの波の恵、エウロスの風の力で、
 
フリギアのたいらな野から、あらがう高い背に載せて、
故郷の入江へ送り込まれた、その間の
波の止所とめどのないゆらめきにまだ酔っています。
メネラス王はあちらの下の方で、軍人の中の
勇士達と凱旋の祝をしていられます。
 
う様チンダレオスがパルラスの岡から
帰って建てられて、クリテムネストラとは女同士、
カストル、ポリデウケスと親しくわたくしが
遊んで育った頃、スパルタのどの家よりも
美しく飾られた、この尊い御殿。
 
お前はどうぞわたくしを迎え入れておくれ。
お前達、鉄の門の扉にわたくしは会釈します。
昔お前達がさっとひらいてくれて、大勢の中から
選ばれて来たわたくしの前へ、壻君メネラス様の
お姿がかがやいておあらわれなされたのだ。
 
わたくしが夫人に似合わしく、王の急ぎの使つかいを、
相違なく果すように、また聞いて通しておくれ。
わたくしをここへ入れておくれ。運悪く、ここまで
附きまとって苦めた物は、皆残して這入りましょう。
わたくしがなんの気なしに、尊いお役を承って、
 
キテラのお社へおまいりをしに、この門を出て、
お社でフリギアの賊に捕われてから、ほんに
色々な事があった。それが世間一ぱいの評判じゃ。
だが、誰でも自分の事を昔話のように
作られると、それを聞きたくはないものだ。
  
 
    合唱の群
どうぞお后様、おもちになっていらっしゃる
一番尊い物をおきらいなさいますな。
一番大きい為合しあわせはあなたお一人で
うけになりました。誰よりもお美しいと云う
お誉でございます。英雄は名を轟かして、
 
息張いばって歩いて行きますが、
その強情も、あらゆる物に打ち勝つ
美の前にはこころを曲げてしまいます。 
 
    ヘレネ
もうおよし。わたくしはおっとと舟に乗って来て、
おっとのお指図で、おさきへ都へ帰された。
 
しかしどう云う思召だか、わたくしには分からぬ。
妻として帰るのか。后として帰るのか。
それとも王様の御心痛の生贄いけにえ、グレシアの民の
久しく忍んだ不運の生贄として帰るのか。
わたくしは取られた。だが、捕われたか、それは
 
知らぬ。不死の神がわたくしに、二面ふたおもてのある名聞みょうもん
運命とを授けたのが、美しく生れた身の怪しい
同行者で、それがどうやらこの門口では、陰気な、
おどすような風をして、傍に附いているような。
なぜと云うに、空洞うつろな舟にいた時から、おっと
 
めったにわたくしの顔も見ず、優しいことばも掛けられぬ。
向き合っていて、何かたくんでいられるらしかった。
そして前の数艘の舟の舳先が、エウロタ川の
深い入江に這入って、岸に触れると、神の教でも
受けたように云われた。己の兵士は隊の順序に
 
ここで上陸するがい。海岸に整列させて
検閲する。お前は先へ行くがい。
神聖なエウロタ川の、豊饒な岸に
どこまでも沿うて、湿った牧場の敷物の上に
馬を駆って、昔ラケデモンが厳めしい
 
山に近く囲まれた、豊かな、広い畑を作った、
美しい平野に行く著くまで帰れ。
そして高い塔の聳えている王宮に這入れ。
そこに己が気の利いた、年の寄った、
取締役の女と一しょに、残して置いた
 
女中共がいる。その人数を調べて見い。
お前の父が残して置いて、それに己が
戦争の時も平和の時も、添えて貯えた、沢山の
宝を、お前取締役に出させて見い。
何もかも相違なく整理してあるだろう。
 
なぜと云うに、置いて出た物が皆、帰った時に
残っていて、置場所も変っていないのが、
王侯たるものの特権だ。人臣には何一つ
変更する権能は授けてないのだと云われた。 
 
    合唱の群
さあ、追々におたくわえになった、数々の宝を
 
御覧になって、お目をもお胸をもお慰めなさい。
鎖や冠の飾は、皆つんと澄ましていて、
一廉ひとかどのえらい物の気になっていますが、
あなたがいらっしゃって、さあ、来いと仰ゃれば、
皆急いで御用を勤めようといたします。
 
あなたのお美しいお姿と、金や真珠や
宝石との戦争が拝見いたしとうございます。 
 
    ヘレネ
それからおっとはこう云われた。そこでお前
品物の整理してあるのを、改めて見た上で、
神聖な祭の式を行う時、生贄を扱うものの
 
手許にいる、数だけの五徳と、
いろいろな入物いれものとを取り揃えろ。
かなえや、鉢や、平たい、円い籠がいる。
尊い泉で汲んだ、清い水を頸の長い瓶に
入れたのと、火の早く移る、乾いた
 
薪とが用意してなくてはならぬ。
それからい、研いだ小刀を忘れるな。
その外の事はお前見計らって置け。
わたくしを追い立てるようにして、こう云われた。
だけれどその指図をなさるおっとが、オリムポスの
 
神達に殺して供える生物を、何ともして
云われなかった。不審な事ではあるけれど、
わたくしは別に心配せずに何もかも神達に
お任せするから、お気に召すようになさるがい。
死ぬる人間のわたくし共は、さいわいでも禍でも、
 
こらえておうけ申します。これまでも折々は
土に押し附けた獣の項の上に、祈祷と共に
重い斧が振りかざされても、祭のぬしがその贄を
殺すことの出来なかったことがある。不意に
敵が押し寄せたり、神達がおとめなさるからだ。
  
 
    合唱の群
未来に出来ますことは、お分かりになりませぬ。
お后様、御安心遊ばして、
すすみなさいまし。
善い事も悪い事も、
不意に人の手から出来てまいります。
 
前以てお知らせがあっても、信ぜられませぬ。
トロヤの都は焼けてはずかしめの死を
目の前に見ましたではございませんか。
それでも御一しょにここへ参って、
あなたにも、為合者しあわせもののわたくし共にも
 
恵ある、そらの赫く日や、
国の一番美しい所を見て、
楽しく御奉公をいたすではございませんか。 
 
    ヘレネ
どうなってもい。長い間離れて、恋しがっていて、
どうやら失ってしまったらしかったこの御殿が、
 
どうしたわけともなく、また目の前にあるのだから、
すぐに這入って行くのが、未来に何があろうとも
わたくしの務だ。だけれど子供の時に飛び越した
高い階段を、どうも大胆には踏んで行かれぬ。 
 
    合唱の群
あわれに捕われて来た皆さん。
 
あらゆる悲を
遠く投げ棄てておしまいなさい。
かえりが遅れはしても、
却てしっかりした足附あしつきで、
御先祖の御殿のかまどの前に、
 
楽しくお近づきになる
御主人様、ヘレネ様の
ふくを分けておいただきなさい。
 
幸運を元に返し、
出て行った人を呼び戻す、
 
尊い神様達をおたたえなさい。
捕われたものはいたずら
人屋ひとやの軒から、故郷こきょうを慕って、
りょうひじを開いて歎くのに、
放たれたものは
 
羽が生えたように、どんな艱難をも
飛び越すのではありませんか。
 
遠くにお出になった、このお方をば、
ある神様がお掴まえなすって、
お若くていらっしゃった昔の、
 
口に言われぬ
お喜やお歎を、
改めてお思出しになるように、
イリオスの荒された都から、
新しく飾られた
 
古い御先祖の御殿に
連戻つれもどしになったのです。 
 
    先導の女パンタリス(合唱の群を率ゐて。)
皆さん、歓楽で取り巻かれた唱歌の道を離れて、
あの御門の扉を振り向いて御覧なさい。
どうなすったのでしょう。お后様があらあらしい
 
歩振あるきぶりでこちらへ出ておいでになりますね。
お后様。どうなさいました。お召使達が御挨拶を
申し上げるかわりに、御殿の中で、どんなおいやな事が
おありになったのでしょう。お隠し遊ばしますな。
お厭な御様子、不意のおどろきと気高い腹立はらだちとの
 
闘っている御様子が、お顔に見えておりまする。 
 
    ヘレネ

(扉を開きたるままになし置き、感動して。)

チェウスの娘に生れたわたくしは、常の事を
怖れはせぬ。軽く撫でるおどろきの手は身には障らぬ。
だけれどもこのお城で、大昔おおむかしの古い闇から出て、
火山の口から湧く、焼けた雲のように、
 
今でもいろんな形をしてのぼって来る恐怖には
英雄の胸でもおののかずにはいられまい。
きょうはわたくしの帰って来るのを、地獄の
眷属けんぞくが待ち受けていた。度々通った、
長く恋しがっていた門口ではあるが、わたくしは
 
暇乞をして出た客のように、ここを出て帰りたい。
いや、そうはしたくない。日のさすそとへはのがれたが、
たとえどんな悪魔が逐うても、これからさきへはもう逃げぬ。
どうにかしておいのりをして、浄められた竈の火に、
夫を迎えると同じように、わたくしを迎えさせる。
  
 
    先導の女
あなたを敬って、お附申している女中共に、
お后様、何事におあいになったかお聞せ下さいまし。 
 
    ヘレネ
わたくしの見た物は、お前方も今のあたり
見るだろう。もし古い夜が、自分の拵えた形を、
すぐ深い自分の懐に埋めなかったら、見るだろう。
 
しかし知らせるために、はなしだけはして聞せよう。
わたくしが差当さしあたりのお務を考えながら、謹んで
御殿の厳めしい、内の間取まどりに這入って行くと、
荒れ果てた廊下の沈黙しじまに、わたくしは驚いた。
耳に急いで歩く人達の足音も聞えず、
 
目に用ありげにせわしく働く様子も見えず、
いつも余所のものが来てさえ優しく会釈する
取締役もいず、女中一人も出ては来ない。
それから竈の据えてある辺に近寄って見ると、
消えた炭火の微温なまぬるく残っている光で、ゆかの上に
 
いる人が見える。なんと云う覆面をした大女だろう。
眠っていると云うより、物を案じているらしい。
事によったら、おっとが用心に言い附けて跡に残した
取締役の女ででもあろうかと思って、主人らしい
詞で、起って働くように指図して見た。しかし
 
襞のある著物に身を包んで、女は働かずにいる。
とうとう威すように云うと、女はわたくしを
家や竈から逐うように、右の臂を動かした。
わたくしはおこって女にを向けて、階段の方へ
すぐに急いだ。その上には夫婦のいる、飾られた
 
タラモスの牀が高く据えてあって、その隣が
宝蔵なのだ。その時怪しい女は急に起って、
往く先に立ち塞がって、目をも心をも惑すような
怪しい恰好、痩せた、背の高い体、空洞うつろな、
血走った、どんよりした目を、わたくしに見せた。
 
しかし口で言うのは徒事いたずらごとだ。詞で物の形を
造るように組み立てることは出来ぬ。
あれをお見。大胆に明るみへさえ出て来た。
だけれどもここでは、王様が帰られるまでは、こっちが
主人だ。日の神フォイボスは美の友で、夜の生んだ
 
醜い物を洞穴へ入れるか、退治るかしてくれよう。

(フォルキアデス閾の上、戸枢こすうの間に現る。)

    合唱の群
わたくし共は、※(「糸+求」、第4水準2-84-28)ちぢれた髪が※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに波を打っては
いますけれど、いろいろな目に逢いました。
戦争の悲惨、イリオスが落ちたよる
恐ろしい事も沢山
 
見ています。
 
押し合う兵士が埃を蹴立てて、あたりを
暗くして騒いでいる中に、神様達のおよびになる
声が響き、野原を越えて、城壁の方へ、
黒金くろがねなすあらそいの声が響いたのを
 
聞いています。
 
おう。イリオスの城壁はまだ立っていました。
しかし※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)かえんはもう隣から
隣へと這い渡って、
自分で起した風に煽られつつ、
 
ここかしこから夜の町へ
広がって行きました。
 
烟と熱と舌のように閃く※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのお燃立もえたちとの
間から、ひどくおおこりになった
神様達が、巨人おおひとのような、不思議な姿をなされて、
 
周囲まわりを火で照された、暗い烟を穿うがって、
歩み近づいておいでになるのを、逃げながら
拝みました。
 
そんな混乱を本当に見ましたやら、それとも
恐怖に縛られたわたくし共の心が
 
造りましたやら、もうなんとも申すことは
出来ません。しかしここで
この恐ろしい物を目で見ていますことは、
確かに承知いたしております。
もし恐怖がわたくし共を控えて、
 
そんな危険を冒さぬようにしないものなら、
手で掴まえてでも見られましょう。
 
やみの女フォルキアデスの娘の中で、
お前はどれだえ。
どうしてもあの一族と
 
比べて見ずにはいられないね。
闇に生れて、一つの目、一本の歯を
かわるがわる使っている。
フォルキアデスの一人のお前が、事に依ったら
来たのだね。
 
 
日の神フォイボスさんの見極みきわめる目の前へ、
美と押し並んで、
お前のような醜い物が
よく思い切って出られたね。
いよ。構わないからておいで。
 
日の神さんの神聖な目は
ついぞ影と云うものを見たことのないとおりに、
醜い物は見ませんからね。
 
だけれど残念な事には悲しい不運が、
わたくし共死ぬる人間に迫って、
 
永遠にのろわれた廃物すたれものが美を愛するものに
起させる、言うに言われぬ目の苦痛に
逢わせずには置きませぬ。
 
そんならお前、恥を知らずにわたくし共に
向って出て来たお前、おきき
 
神様のおつくりになった、為合者しあわせもの
咀う口から出るのろいや、いろいろのあざけり
おびやかしをお聴。 
 
    闇の女フォルキアデス
美しさと廉恥とが、下界の緑の道を
手を引き合って一しょに歩かぬと言う諺は
 
古いけれど、その意味はいつまでも高尚で、真実だ。
二つの物の間には、深く根ざした、古いにくみがある。
そこでいつどこで道の上で行き合っても、
かたき同士は互に背中を向け合う。そしてどいつも
またひどい勢でずんずん歩いて行く。廉恥は
 
悲しげだが、美しさと来ては平気な顔で歩いて行く。
そこへおいと云うものが来て、早く縛って遣らぬと、
とうとう地獄の空洞うつろな夜に包まれるまで歩いて行くのだ。
そこでお前達、横著者奴は、遠い国から高慢げに
遣って来おった。丁度あの咳枯しわがれた高声たかごえをして
 
鳴いて通る黒鶴の群のようなものだ。我々の
頭の上を、長い暗い行列をして鳴いて通ると、
声が下へ聞えるので、静かに歩いている旅人が
ついさそわれてうえを見る。しかし鳥は鳥、旅人は
旅人で、自分々々の道を行く。この場合もそうなるだろう。
 
 
お前達は何者だ。国王の尊い御殿を、酒の神を
祭るマイナデスのように荒々しく、酔ったように
跳ね廻って好いのか。犬の群が月に吠えるように
御殿の取締役に向いてほざいて好いのか。どんな
種性すじょうのものだか、わたしが知らぬと思っているか。
 
兵卒が生ませて、戦争が育てた、生若なまわかい女原奴。
色気違奴。自分も男に騙されながら、男を騙して、
公民の力をも、軍人いくさびとの力をも萎えさせおる。
お前達の群になっているのを見ると、畑の緑の
作物さくもつおおいに降りて来るいむなしを見るようだ。
 
余所の努力を食い潰す奴等奴やつらめ。切角芽を出す
国の富を撮食つまみぐいへらす奴等奴。生捕られて、市に
売られて、貿易の貨物しろものにせられた奴等奴。 
 
    ヘレネ
こりゃ。主人のいる前で、召使に悪口を言うのは、
無礼にも主人の持っている家の掟を破る為業しわざだ。
 
褒めていものは褒め、叱って好いものは叱る。
それはわたくしの外のものには出来ないはずだ。
その上威力赫くイリオスの都が囲まれ、落され、
滅びた時、あれ等が尽してくれた誠実を、
わたくしは満足に思っている。また流離さすらいの間の
 
数々の難儀の時、誰も自分の事ばかり考えて
いるはずだのに、あれ等のしてくれた奉公もある。
あの機嫌のい皆に、今後こんごも世話がして欲しい。
しゅう奴婢ぬひがどう仕えるかを見て、何者かとは問わぬ。
だからお前もうおだまり。皆に厭な顔をせぬがい。
 
これまで王様の御殿を、わたくしに代って、大切に
守っていたなら、それはお前の手柄にしよう。
こうして主人が帰ったからは、お前は手をおひき
そうせぬと、褒めるかわりに罪せねばなりませぬぞ。 
 
    闇の女
なるほど、奉公人を叱るのは、神の恵を受けた王様の
 
奥方が、長の年月御殿を治めたむくいに得られた
大切な権力で、今後こんごもそうあって宜しいでしょう。
さて改めてお認められなされた奥方のあなたが、
お后、女主人おんなあるじの昔からの席にまたおつきになるからは、
宝物をも我々一同をもお受取うけとりなされて、うから
 
弛んでいる※(「革+橿のつくり」、第3水準1-93-81)たづなを緊めて、お指図をなさるがい。
ですが、何より先に、あなたのような美しいくぐい
そばでは、羽もろくに揃わぬ、べちゃべちゃ云うあひるに見える、
この多数を抑えて、年寄をかばって下さい。 
 
    先導の女
お美しい方の傍では、醜女しこめなおみにくうございますね。
  
 
    闇の女
賢い人の傍では、分からずやは猶分からずやだ。

(これより下、合唱の群より一人づつ出でて答ふ。)

    第一の女
闇のエレボスが父親で、よるが母親だとおいい。 
 
    闇の女
恥知らずのスキルラと従姉妹同士だとでも云え。 
 
    第二の女
お前さんの系図にはいろんなおばけがいましょうね。 
 
    闇の女
お前は親類を捜し出しに地獄へでも行け。
  
 
    第三の女
地獄にいるものも若過ぎて、お仲間になりますまい。 
 
    闇の女
盲爺めくらじじのチレシアスに色でもしかけろ。 
 
    第四の女
オリオンの乳母おんばさんがお前さんの曾孫ひいまごでしょう。 
 
    闇の女
おお方ハルピイアイがふんの中で育てた子だろう。 
 
    第五の女
そんなに骨と皮になるには、何を食べておいでなの。
  
 
    闇の女
お前達の吸いたがる血なんぞは食わないよ。 
 
    第六の女
御自分が死骸でいて、やはり死骸が食べたいのね。 
 
    闇の女
その恥知らずの口に光るのはウァムピイルの歯だ。 
 
    先導の女
お前が誰だと、そう云ったら、その口が塞がりますよ。 
 
    闇の女
自分が先へ名告なのるがい。互の身の上だろう。
  
 
    ヘレネ
その荒々しい言合いいあいを、鎮めに中へ這入るのは、
歎かわしいが、腹は立たぬ。忠実な召使の間に、
ひそかに醸されている争程、上に立つ主人の
損になる物は外にあるまい。そうなると、言附いいつけ
反響が、手早く為遂しとげた事実になって、素直には
 
もう帰って来ぬ。その反響は、自分も迷って、いたずら
罵っている主人の身の周囲まわりに、我儘な響動とよみ
作って狂い廻るようになる。そればかりではない。
お前達は行儀を忘れた腹立はらたちあまりに、不吉な、
恐ろしい異形いぎょうのものを呼んで、わたくしのそば
 
近寄らせた。わたくしは故郷のそのにいながら、
地獄へ引き込まれたような気がする。これは昔の
記憶だろうか。我身を襲う物狂ものぐるいだろうか。都々を
荒す、恐ろしい夢の姿が、あれが皆我身であった
だろうか。今も我身だろうか。今後こんごもそうだろうか。
 
女子達は慄えている。それに年寄のお前一人
平気でおいでだ。分かるように言ってお聞せ。 
 
    闇の女
それは誰でも、長い間、いろいろな幸福を享けて、
跡で顧みると、どんな神の恵も夢かと思われます。
あなたなんぞは格外な恵を受けておいでになる。
 
生涯お逢になった男は、どんな大胆な、思い切った
事をでも、すぐするように、恋い焦がれた人ばかりで、
最初からあのテセウスの様な、立派な姿の、しかも
ヘラクレスに負けぬ力の男が、言い寄りましたね。 
 
    ヘレネ
そう。まだ十歳の、しなやかな鹿を、アッチケの
 
アフィドノスの城へ連れて行かれたっけね。 
 
    闇の女
それからもなく、カストル、ポリドイケス兄弟に
救い出されて、いた人達の争の的になられた。 
 
    ヘレネ
だけれど、打ち明けて云えば、アヒルレウスそのままの
パトロクロス様が誰よりも内々すきであったっけ。
  
 
    闇の女
それを父上の思召で、あの大胆な航海者で、また
内をも善く治めるメネラスにおめあわせなされた。 
 
    ヘレネ
娘をおやりなされた上、国の政治もお任せなされた。
その女夫中めおとなかに生れたのが、ヘルミオネだったっけ。 
 
    闇の女
ところが遺されたクレタ島を大胆に争おうとする
 
遠征の留守に、余り美し過ぎた客が来られた。 
 
    ヘレネ
それはあの時後家同様であった上、そのために
どれだけの禍を受けたやら。思い出させて貰うまい。 
 
    闇の女
自由に生れた、クレタ人のこの婆々が、囚人めしゅうど、奴隷に
せられたのも、あの戦役のお蔭であった。
  
 
    ヘレネ
それでもすぐにこの城の取締の女中にせられて、
城をも、切角の戦利品をも、おあずけになったのね。 
 
    闇の女
それはあなたが棄て置いて、塔で囲んだイリオスの
都と、そこの歓楽とに、引かれておいでなされたから。 
 
    ヘレネ
歓楽なぞとおいいでない。この胸の中一ぱいに
 
際限のない苦労が注ぎ込まれたではないか。 
 
    闇の女
それでも世間の噂には、あなたは分身の術で、
イリオスにも、エジプトにもおられたとか。 
 
    ヘレネ
物狂おしい心の迷を入り乱れさせてくれるな。
今でさえどれが自分か分からずにいるものを。
  
 
    闇の女
そればかりか、運命のあらゆるさだめに逆って、
早い恋をしたアヒルレウスも、空洞うつろな影の国から
出て来て、お傍に慕い寄ったとか聞きましたが。 
 
    ヘレネ
あのかたも影、わたくしも影で、逢ったと云うまでの事。
物にも書いてあるとおりに、あれはほんの夢だった。
 
ああ。わたくしはもう消えて、このまま影になりそうだ。

(合唱の群の一半に倒れ掛かる。)

    合唱の群
だまりよ、お黙よ。
厭な目附めつきをして、厭な事を言う人ね。
歯が一本しかない、その口から、
そんな恐ろしい禍のかどから、
 
ろくな事は出はしない。
 
なさけありげに見える意地悪いじわる
羊の毛皮を著た狼の怒は、
首の三つあるいぬ※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごより
わたしには猶恐ろしい。
 
そんな悪いたくみの、根ざし深く
狙っていた勢が、いつ、どこで、
どうはじけて出るのかと、わたくし共は
おず(おずして聞いています。
 
優しい、十分慰藉なぐさめになるような、
 
憂き事を忘れさせる、軟い、恵ある詞のかわりに、
過ぎ去った、総ての事の中から、
善い事よりは悪い事をと、引き出して来て、
今の光を
打ち消すと同時に、
 
ほのかに赫く未来のあかりさえ、
お前さん、曇らせてしまいますね。
 
お黙よ、お黙よ。
もうお体から立ち離れそうにしている
お后様の魂を
 
取止とりとめ申して、昔から
日の照した姿の中で、一番美しい
あのお姿をそのままおおき申したいから。

(ヘレネ恢復してまた群の中央に立つ。)

    闇の女
うすものに包まれていた時から目を悦ばせて、今は目映まばゆいように光って君臨している、
きょうの日の太陽も、浮雲の間から出て貰おう。
 
お前は恵ある目で、世界がお前の前に展開しているのを見ておくれ。
皆はわたしを醜いと云って嘲っても、わたしはこれでも美と云うものを見分けている。 
 
    ヘレネ
眩暈めまいのした時わたくしを取り巻いていた寂しい境からよろめきながら出て来たので、
こんなに疲れている体を、暫くはまた休めていたいが、
突然どれ程意外な事に出合うまでも、男らしく心を持って、気を取り直すのが、
 
后の役目で、また人皆の役目であろう。 
 
    闇の女
その厳めしさと美しさとを取り帰して、我々の前におたちになった、
あなたのお目を見ますると、何かお指図がありそうな。何のお指図か。さあ、仰ゃって。 
 
    ヘレネ
お前達、無益な争に暇を潰した入合いれあわせに、支度をおし。
王様のお申付なされた生贄を、急いで用意させておいで。
  
 
    闇の女
鉢に五徳に鋭いまさかり、洗う水もいぶす火も、何もかも
御殿に用意してあります。何を生贄になさいます。 
 
    ヘレネ
それは王様が仰ゃらぬ。 
 
    闇の女 
 
          仰ゃいませんか。お笑止な。 
 
    ヘレネ
何をそう気の毒がるのか。 
 
    闇の女 
 
           その生贄はあなた様。 
 
    ヘレネ
そんならこの身か。 
 
    闇の女 
 
        それとこの女子おなご達。 
 
    合唱の群 
 
                まあ、どうしよう。 
 
    闇の女 
 
                        鉞でお切られなさるのです。
  
 
    ヘレネ
気味の悪い。もしやそうかと思っていた。 
 
    闇の女 
 
                  どうも致方いたしかたがございますまい。 
 
    合唱の群
まあ。そしてわたくし共は。 
 
    闇の女 
 
            御主人は上品なおしにをなさる。
だがお前方はあの屋根の搏風はふを支えたうつばりに、
もちに著いたつぐみのように、並べて吊るされるのだ。

(ヘレネと合唱の群とは、兼て工夫せられたる、立派なる排列をなし、驚き呆れる様にて立ちゐる。)

    闇の女
幽霊共。もとわが物でもない白昼はくちゅうに、別れると云うに
 
驚いて、木偶でくのように凝り固まって立っていおる。
人間もお前方と同じ幽霊だが、美しい日の光に、
すなおには暇乞をしともながる。それでも誰一人引き受けて
頼んで最期を緩めて遣り、救って遣るものはない。
人間は皆それを知っている。そのくせ覚悟のいのは少い。
 
兎に角お前方は助からぬ。どりゃ、為事しごとに掛かろうか。

(フォルキアデス手を打ち鳴らす。それを合図に、戸口に覆面したる侏儒等現れ、以下のフォルキアデスの命令を、一々即時に執行す。)

お前達、陰気な、まるまっちい慌者等奴あわてものらめ。こっちへ
ころがって来い。腹さんざあらすことが出来るのだ。
きん角附つのつきの贄の置卓おきづくえを、場所に据えて置け。
ぎんの台のふちに、光るように鉄を置け。
 
気味の悪い黒血のけがれを洗うのだから、
水瓶すいべいを一ぱいにして置け。どうせすぐ
首と胴とは離れるのだが、兎に角立派にくるんで、
葬ってだけは貰うはずの生贄殿が、
お后はお后らしく膝をおつきになるように、
 
この五味の上へ、立派に毛氈を布いて置け。 
 
    先導の女
お后様は物思に沈んで、片脇に立っておいでになる。
女中達は刈られた牧の草のように萎れている。
女中仲間の年上の、神聖な義務ですから、
おおあさん、わたくしがお前に物を言いましょう。
 
この連中は向う見ずに、お前を見損って逆ったが、
お前は賢くて、経験もおありだし、好意も持ってお出のようだ。
どうにか助かる道があるなら言って聞せて下さいな。 
 
    闇の女
それは言うのは優しいよ。御自分がお助かりなされ、
附物つきもののお前方も助かるのは、お后の思召次第だ。
 
御決心が、火急な御決心がなくてはならない。 
 
    合唱の群
糸を繰るパルチェエの中の一番貴いあなた、一番賢い占女うらないおんなシビルレのあなた。
金の剪刀はさみまたをすぼめて持っていて下さい。そしてすくいの日を知らせて下さい。
踊の時になってから跳ねて、その跡で可哀い
人の傍で休息したい、わたくし共の手足が、
 
もう気味悪く、ぶらぶら吊るし上げられて、浮いているように見えますから。 
 
    ヘレネ
あれ等には、まあ、臆病がらせておおき。わたくしは悲しくはあるがこわくはない。
それでも助かる道があるとおいいなら、それは嬉しく思ってそうしましょう。
賢い、眼界の広い人には、随分度々不可能だと
思われる事も可能になるものだ。さあ、それをおいい
  
 
    合唱の群
さあ、仰ゃい。早く仰ゃい。飛んだ頸飾で、この頸に
巻き附きそうに威している、厭な、気味の悪い※(「弓+京」、第3水準1-84-23)を、
どうしたら※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)れられましょう。あらゆる神様達の中の
貴い母神様、レア様が、不便ふびんがって下さらぬと、その※(「弓+京」、第3水準1-84-23)
掛かる時の事が、もう息が切れ、息がふさがるように、早くから感じられています。
  
 
    闇の女
話の長い筋道を、黙って聞いているだけの我慢が、
お前方、お出来かい。色々なわけがあるからね。 
 
    合唱の群
我慢が出来ますとも。聞く間は命があります。 
 
    闇の女
一体誰でも内にいて、宝の番をしたり、御殿の
壁の割目を繕ったり、雨の漏らぬように屋根を
 
直したりしているものには、生涯運が向いて来る。
それと違って家の閾の神聖な一筋を、軽はずみに
馬鹿にして、うかうかとした足附あしつきで、踏み越えて
出て行ったものは、帰って来た時、元の場所が
なくなってはいないでも、何もかも変っているか、
 
事に依ったら、こわれているのを見るでしょう。 
 
    ヘレネ
なぜお前そんな知れ切っている言草いいぐさをおいいだい。
話をおしのはずじゃないか。喧嘩の種をおまきでない。 
 
    闇の女
事実の話をするのです。非難なぞはしません。
メネラス王は海賊のわざをして、港から港へと、
 
島や岸辺をどこでも戦って行かれる。そして
持って帰られた宝は、御殿の中に寝かしてある。
イリオスの攻撃には長の十年も費された。
凱旋の道中は何年掛かったやら、わたしも知らぬ。兎に角
現にチンダレオスのこの御殿の場所は
 
どうなっていると思われる。それに周囲まわりの御領分は。 
 
    ヘレネ
さてもさてもお前は悪口が癖になって、
小言でなくては口が利けなくなっているのかえ。 
 
    闇の女
葦の茂った岸を洗って、放飼はなしがいにしてある鵠を
浮ばせて、広々とここの谷合を流れている、あの
 
オイロタス川が早瀬になって落ちる
タイゲトスの山を背に負って、スパルタの背後を
北へ登って行く、この谷山には久しく住む人も
なかったのに、キムメリオイの闇から出て来て、
谷の奥深く、こっそりうつって来た、大胆な種族が
 
あって、じ登られぬ、堅固な砦を築き上げ、
その界隈の土地をも民をも、勝手にしえたげている。 
 
    ヘレネ
好くそんな事が出来たものね。不思議なようだが。 
 
    闇の女
それには時が掛かったのです。二十年位前からでしょう。 
 
    ヘレネ
一人ひとりかしらを戴いているかえ。賊の仲間は多いかえ。
  
 
    闇の女
賊ではありません。しかしかしらは一人いる。わたしの
所へも遣っては来たが、悪口は言いたくない。何でも
取れば取られるのに、自由な贈物おくりものを受けるので、
課税ではないと云って、少し取って帰って行った。 
 
    ヘレネ
どんな男かえ。 
 
    闇の女 
 
      悪くはありません。わたしには
 
気に入った。さばけた臆面なしで、グレシアなどに
類のない、教育のある、物分かりのい男だ。人は
あの種族を野蛮だと云うが、中で誰一人残酷な
事をしたとは思われぬ。イリオス攻撃の時には、
こっちの英雄達も大ぶ人肉を食ったではないか。
 
わたしはあの男の大人物な処に目を附ける。たのみ
しても好さそうだ。それに砦が立派だ。御自分の
目でお見なさるがい。あなた方の御先祖が
ただ何と云う事もなく、一つ目のキクロオプスの
為事しごとのように、自然じねん石をすぐに自然石の上に
 
倒し掛けて、積み上げた石垣とは違う。あっちでは
何もかも鉛直に、水平に、規則正しく遣ってある。
外から見なさるがい。鋼鉄はがねを磨いたようにたいらに、
接目つぎめが合って、がっしりと、天に聳えている。
登ろうと云っても、その登ろうと云う考からして
 
滑り落ちる。中には大きな御殿の間取まどりがしてあって、
あらゆる種類の、あらゆる用に立つ建物が
それを取り巻いている。大小の柱、大小の迫持せりもち、出窓や
出入の廊下が見える。それに紋が所々に
附いている。 
 
    合唱の群 
 
     紋とは。 
 
    闇の女 
 
        お前方も見たはずだが、アイアスの
 
楯の上にも巻き附き合った蛇が附いていた。
テエバイを囲んだ七人も、一人々々その楯に
意味の深いかたを附けていた。よるの空に照る
月や星もあった。女神もあった。軍人も、はしごや、刀や、
松明たいまつや、その外平和な都を意地悪く侵そうとして、
 
威しに使う種々の物を、かたにして附けていた。
わたしの話す勇士の群も、先祖から伝わった、
そう云う紋を、美しく彩って附けているのだ。
獅子や、鷲や、鳥の爪だの、くちばしだの、その外花も、
鳥の羽も、孔雀の尾も、種々の獣の角もある。
 
青、赤、黒や、金、銀の筋を引いたのも見られる。
世界程ある、際限もなく広い座敷々々に、
そう云う紋の附いた楯が沢山並べて懸けてある。
お前方にはい踊場だ。 
 
    合唱の群 
 
          そして踊る殿方は。 
 
    闇の女
この上もないのがいる。金髪きんぱつの若々しい男の群だ。
 
皆青春の薫がする。土地の人ではお后に余り近く寄った時、
あのパリスだけその薫がした。 
 
    ヘレネ 
 
             お前はがらにない事を
言い出したね。そして詰まりどうしようと云うの。 
 
    闇の女
それはあなたのお詞次第です。真面目にはっきり
いと仰ゃい。その砦におつれ申します。 
 
    合唱の群 
 
                 どうぞ
 
いと仰ゃって、皆を御一しょにおたすけ下さいまし。 
 
    ヘレネ
そう。あのメネラス王がわたくしの体に害を
くわえなさる程、残忍でおいでなさるとは思われぬが。 
 
    闇の女
あの後家ごけのあなたに、強情におもいを掛けて、とうとう
望を遂げたデイフォボスに、奮闘して死んだ
 
パリスの同胞はらからに、類のない体刑を加えたのを、もう
わすれなされたか。鼻や耳を殺ぎ、その上にもきず
附けられた。目も当てられぬ残虐をせられた。 
 
    ヘレネ
それは男にせられたのだ。わたくしゆえに。 
 
    闇の女
その男ゆえ、あなたにも同じ事をなさるでしょう。
 
美人は共有にはならぬ。それを専有していた人は、
誰とももあいにせぬように、寧打ち砕いてしまう。

(遠くより喇叭らっぱ聞ゆ。合唱の群震慄す。)

あの喇叭の響が、耳をも臓腑をも、引き裂くと同じように、
昔し持っていて、それを無くして、今持っていぬ物を、
永く忘れぬ男の胸には、嫉妬がしっかりと
 
爪を打ち込んで放さぬものだ。 
 
    合唱の群
あれ。あのかくの声をおききでないか。打物うちものの光をお見でないか。 
 
    闇の女
王様いつでもお著なされい。相違なく何事もわたしが好んで申し上げる。 
 
    合唱の群
そしてわたし達は。 
 
    闇の女 
 
        分かり切っている。お后の死は目の前に見えている。
お前方の死もその中に含まれている。いや。どうもお前方の助かりようはない。
 

(間。)

    ヘレネ
あの、思い切って差当り、わたくしのせねばならぬ
事を考えた。お前は仇なす禍津日まがつひだ。それは好く
分かっている。さいわいをも禍に転じまいものではない。
だけれどその砦へだけはお前に附いて行こう。
その外は心得ている。胸の奥に、ひそやかに后が
 
隠している事は、誰にも分からせずに置く
事としよう。さあ、婆々、案内をおし。 
 
    合唱の群
まあ、どんなにか喜んで、足早に
わたくし共はまいりましょう。
死をば背後うしろに、
 
そば立つ砦の
越すこと出来ぬ
かきをば前に。
末には遂に
恥知らずのいつわりの謀に落されたが、
 
一度はお后様をおまもり申した、あのイリオスの
城のように、その砦がまたお護申してくれればい。

(霧ひろごりて、遠景をめ、前景をも便宜に掩ふ。)

おや、おや、まあ。
皆さん。振り返って御覧なさい。
今までい天気だったじゃありませんか。
 
それにオイロタ川の尊い流から、
帯のように霧がゆらめき升って来ます。
葦の緑で飾られた、
美しい岸がもう見えないのね。
楽しげに睦じく泳いでいた、
 
優しいように、おごったように、自由に、
軽げに滑っていた、あのくぐいも、
まあ、もうわたしの目に見えなくなったわ。
 
でも、おや、
あれの鳴くのが、わたしには聞えてよ。
 
人が死を知らせるのだと云う、
咳枯しわがれた声で遠くに鳴くのが。
約束どおり命の助かるさいわいかわりに、
滅びるのだと云うことを、とうとう
あれがわたし達に知らせるのでなければ好いが。
 
その鵠に似た、長い、美しい、白い頸をした
わたし達と一しょに、あの鵠のおたね
お后様もお滅びなさるのだと云うことを。
まあ、気になること、気になること。
 
もう周囲まわりの物が
 
残らず霧に包まれてしまった。
お互に顔も見えないじゃないか。
何をしているのでしょう。歩いているのでしょうか。
ちょこちょこ歩きに、地の上を
浮いて走っているようですね。
 
なんにも見えなくって。亡者もうじゃの案内をなさる
ヘルメス様が先に立っておいでなさりはしないの。
厭な、の灰色に明ける、手に障らない物の
一ぱいいる、籠み合っていて、いつまでも空洞うつろ
地獄へ連れ戻そうと、きびしくお指図なさる
 
きんのお杖が光ってはいなくって。
 
おや、急に暗くなったわ。濃い鼠色な、壁のように茶色な
霧が光を見せずに立って逃げて、らくに前の見える目に、石垣の立っているのが見えるわ。
中庭だろうか。深いほりの中だろうか。兎に角
気味の悪い所だわ。皆さん。わたし達は捕虜になってよ。
 
これまでにない、ひどい捕虜になってよ。

(中世式の空想的なる、複雑なる建物に囲繞いにょうせられたる、砦の中庭。)

    先導の女
気早でおろかな、ほんに女子染おなごじみた女子達だね。
目先の事に支配せられ、幸不幸や、天気模様に
もてあそばれ、さいわいをも不為合ふしあわせをも、落ち著いてこらえる
事が出来ぬ。仲間同士でお互に、はしたなく
 
あらがい合い、邪魔をし合う。やれ嬉しい、やれ
悲しいと、同じ調子に泣いては笑う。まあ、おだまり
お后様がこの場合に、気高いお心から、御自身のため、
お前さん方のために、どうおきめ下さるか、それをおきき。 
 
    ヘレネ
こりゃ。占女うらないおんなピトニッサ。どこにおいでだ。名はなんと
 
云うか知らぬが、暗いこの砦の穴の中から出ておいで。
もしや、その不思議な首領に、この身の来たのを告げて、
優しく迎える用意をさせに行ったのなら難有ありがたい。
そのおかたの所へ、早くわたくしを連れておいで。
わたくしはもう休みたい。流離さすらいはてが見たい。
  
 
    先導の女
お后様。どこを御覧になっても駄目でございます。
いやな姿が消えました。別に歩いたとも思わずに、
どうした事か、霧の中からここへ来ました、その霧の
中にでもまりましたか。それともあなたを
丁寧におむかえ申させようと、主人あるじを尋ねに参って、
 
多くの物をただ一つに、不思議に合せたような砦の
迷路めいろに迷っておりますのか。いや。あれを御覧
遊ばせ。あちらのうえの方に、廊下にも、窓にもかどにも、
大勢の家隷けらい共が心得貌にすばしこく、あちこちと
歩き廻っておりまする。鄭重にお客様を
 
歓迎いたすしるしではございますまいか。 
 
    合唱の群
ああ。胸がひらけたわ。あれ、あちらを御覧。
年の若い、可哀らしい男の群が、行儀好く、
しずかな歩附あるきつきで、立派な行列を作って、りて
来ますのね。どうしたのでしょう。あの若者の立派な
 
群は、誰の指図で、こんなに早くお支度をして、
行列を作って出て来ましたのでしょう。何が一番
感心だと申しましょうか。可哀らしい足取あしどりか。
白い額を囲んでいる、波を打った髪の毛か。
丁度桃のように赤くって、そして柔い毛の
 
生えている、あの両方の頬っぺたか。あれに
食い附いて遣りたいわ。だが、丁度そんな事をして、
言うのも厭なこと、口が一ぱい灰になったのに
懲りているから、気味が悪くて出来ないわ。
 
だが一番美しいのが
 
前へ出て来ますね。
持っているのはなんでしょう。
御座おましだんに、
かもにおしとね
戸張やら、
 
天蓋のような飾やら。
あれ、もうお后様が迎えられて、美しい
お茵におつき遊ばしたので、
かしらの上に
雲の飾をおいただきになったように
 
天蓋がゆらゆらしている。
さあ、おすすみ
一段一段に
真面目に並ぶのですよ。
お立派、お立派、も一つお立派ね。
 
こんな歓迎なら、祝福しなくては。

(合唱の群のことばにて言ふ事共、次第に施行せらる。)

児童と青年と、長き列をなして降りたる後、ファウスト中世騎士の宮中服を著け、階段の上に現れ、品好く徐に歩み降る。

    先導の女

(念を入れてファウストを見る。)

あの感心しておあげ申していお姿、気高い立居たちい
愛想のいそぶりを、昔からためしのあるように、
神様達があのおかたに、仮にちょいとのさずけ
なされたのでないなら、男同士の戦争も、美しい
 
女を相手の小迫合こぜりあいも、あのお方のなさる事が
何一つ成功しないと云うことはありますまい。
やはり誉められておいでなさる殿方を、この目で沢山
見ましたが、どの方よりもこのお方がお立派です。
徐かな、真面目な、十分敬意をお表しなされた
 
足取あしどりでおいでになる。お后様。あちらへおむき遊ばせ。 
 
    ファウスト

いましめたる男を一人随へて歩み寄る。)

この場合にふさわしい、鄭重な御挨拶、尊敬を尽した
歓迎のかわりに、自分の職責を忘れて、主人の義務までを
果させずにしまいました、この不埒な家隷を
鎖に繋いで、あなたの前へ引いて来ました。
 
さあ、したにいて、この貴婦人に、犯した罪の申立もうしたてをしろ。
奥方。これは珍らしい、遠目の利く男ですから、
高い望楼の上で、方々ほうぼうを見廻させて置きました。
そこにいて、高いそらをも、広い土地をも、鋭く
目守まもっていて、そこ、ここで何事があるとか、
 
周囲まわりの丘から、この堅固な砦のある谷へ掛けて、
どう云うものが通るとか云うことを、それが
牧畜の群であろうが、また軍隊であろうが、
見逃してはならぬのです。そして人民なら
保護し、敵兵なら打ち散らします。それが
 
なんと云うおこたりでしょう。あなたがおこしになる。
それをこの男は知らずにいる。これ程の貴い
お客を、義務として鄭重におむかえ申すことが、
出来なくなる。横著で一命を失った男ですから、
もうっくにしかばねを我血の中に横えていて好い
 
やつです。しかしあなたお一人ひとりの思召で、お罰し
なさるとも、おゆるしなさるともして戴きましょう。 
 
    ヘレネ
どうもお察し申す所が、わたくしをおためしなさる
思召かと存じますが、指図をさせる、裁判を
させると仰ゃるのは、まあ大した権力をこの身に
 
お貸なさいますことね。さようなら裁判官の
第一のつとめゆえ、被告の申立を聞きましょう。さあ、おいい。 
 
    望楼もりリンケウス
膝を衝かせて下さい。拝ませて下さい。
死なせて下さい。生きさせて下さい。
神のお授けなされたこの貴婦人に、
 
わたくしはもう身を委ねています。
 
朝のたのしみを待って、日のあゆみはどうかと、
東のそらを見ていますと、
不思議にも突然
日が南からのぼって来ました。
 
 
谷を見ず、岡を見ず、
天地の遠い境を見ず、
わたくしは無二のお姿を拝もうと、
その方ばかり見ていました。
 
リンクスと云う獣が高い木の上にいるような
 
眼力をわたくしは授かっていましたのに、
今は深い眠の暗い夢を醒まして見ようと
骨を折るような気がして来ました。
 
どうにも見当が附かなくなりました。
いらかか。塔か。鎖した門か。
 
霧が立つ。霧が消える。
こんな女神めがみがおになる。
 
目と胸とをお姿のほうへ向けて、
優しい光を吸い込みました。
目映まばゆいお美しさで
 
この目をすっかりおくらましなさいました。
 
わたくしは番人のつとめを忘れました。
吹かねばならぬ角の笛をすっかり忘れました。
思召どおりに、わたくしを殺そうとなさいまし。
お美しさがあらゆる怒をなだめてしまいます。
  
 
    ヘレネ
わたくしの身から起った罪を、わたくしが罰することは
出来ません。まあ、どうしよう。あらゆる男の心を
惑わして、その身をも、どんな大切な物をも護って
いられぬようにするとは、なんと云う残酷な運が
わたくしに附きまとっていることだろう。神や、半神や、
 
英雄や、悪魔までが、今勾引かどわかすかと思えば、また騙して
堕落させ、果し合い、あちこちへ流離さすらわせ、まよいちまた
どことなく引き廻して歩かせ、一度ならず、
二度も、三度も、四度までも世を乱し、禍の数々を
起させるようになるとは。どうぞその善いかた
 
あちらへ連れて行って、解放しておやり下さい。
神に欺かれた人に恥辱は与えられませぬ。 
 
    ファウスト
わたくしはこの場で、善くお射中いあてになるかたをお見上みあげ
申すと同時に、射中てられたものを見て、驚く外
ありませぬ。弦を離れた矢がこの男を傷けた、その弓を
 
のあたりに見ます。続々つぎつぎに放たれる矢はことごと
わたくしに中ります。この砦や間取まどり一面に、羽を
著けた矢が風を切って飛んでいます。これでは
どうなるでしょう。どんな忠義な家隷をも、あなたが
突然叛かせておしまいになる。城は危くなります。
 
どうやら麾下きかの軍隊が、おかちになっておまけ
なることのないあなたに、もう服従しそうです。
これではわたくしは総ての物を捧げて、迷った
臣下を引き連れて、あなたに降る外ありません。
この砦にお這入はいりになるや否や、城主の席も総ての
 
物もお手においれになったあなたを、任意に、誠実に、
おみ足のしたに伏して、主君と仰がせて下さいまし。 
 
    望楼守(手に箱を持ち、同じく箱を担へる男等を随へて登場。)
お后様。また御前に戻って参りました。一目ひとめ
下さるようにと、おねだり申した金持も、
あなたにおあい申すや否や、自分は同時に乞食の
 
貧しさと、王侯のとみとを得たと感ずるでしょう。
 
わたくしは今までなんでしたか、そして今は
なんでしょう。何を思って好いやら、して好いやら。
目がどれ程鋭くたって、それがなんになりましょう。
御前からは、その稲妻も挑ね反されます。
 
 
わたくし共は東から遣って来ました。
それは西の国の災難でした。
そのれつかしらはその列の尾を知らぬ、
長い、幅の広いたみの群でした。
 
さきの一人は倒れても、二人目が踏みまる。
 
三人目の槍が役に立つ。
殺された千人は気に留めませむ。
一人々々百倍強くなっています。
 
押し合って進んでまいりました。
その場所々々を我物にしてまいりました。
 
しかしきょうわたくしが厳しい指図をする土地で、
あすは他人がぬすみをします。
 
わたくし共は見廻しました。忙しい見ようです。
一番美しい女を撈うものもある。
足の丈夫な牡牛を盗むものもある。
 
馬は残らず取って来ました。
 
わたくしだけは、まだ人の見たことのない、
一番珍しい品物を捜しました。
外で人が持っているような物は、
わたくしは枯草同様に思いました。
 
 
どんな嚢の中も見え、
どんな箪笥たんすも透き通らせる鋭い目の
見る方へ附いて行って、
宝をわたくしは捜し当てました。
 
そして金をうずたかく手に入れました。
 
しかし一番美しいのが宝石です。
あなたのお胸に青く照るには、
中で緑柱玉が宜しゅうございましょう。
 
海の底から出た一滴の卵形の真珠を、
お耳とお口との間にゆら附かせましょう。
 
ほおべににけおされる紅宝玉は
お気に召さぬかも知れません。
 
そう云う稀な宝の限を、わたくしは
ここで御前へ持って出ます。
幾度かの血腥ちなまぐさい戦争のえもの
 
おみ足の下へ供えるのでございます。
 
こんなに沢山箱の数を持ち出しましたが、
鉄の箱はまだこれより多うございます。
あなたにおつき申すことが出来るなら、
宝庫たからぐらを一ぱいにいたして上げます。
 
 
あなたがお座におつきになったばかりで、
智でも、富でも、勢でも、
るいのないお姿の前へ、
もううなじを屈め、腰を曲げて参りますから。
 
これは皆わたくしが我物にして、大事に護っていましたが、
 
それが離れてお手許へ参ります。
貴く、珍しく、結構な物だと存じましたのが、
もうなんでもなくなって見えまする。
 
これまで持っていた物が消え失せて、
刈られて枯れた草のようになりました。
 
どうぞ晴れやかなお目で一目ひとめ御覧になって、
元の価のあるものになさって下さいまし。 
 
    ファウスト
それはお前が大胆に働いて儲けた重荷だが、
そっちへ退けろ。おしかりはあるまいが、おほめ
戴かれぬ。もうこの砦の懐にあるだけの物は、皆この
 
かたの物だから、別に出して上げるには及ばぬ。
あっちへ行って、宝のあるだけを、順序好く
積み上げて、ついに見られぬおごりの優れた見物みもの
拵えろ。蔵の円天井を晴れた空のようにかがやかせて、
生きていぬ物の生活の天国を造れ。そして
 
歩出あるきだしなさる時、急いでおさきに立って、
花模様の絨段を敷き続いで行って、
柔い床がおみ足に障るように、この神々こうごうしい
かたがまぶしくおおもいなさらぬ程度で、しかも
此上のない耀かがやきがお目に触れるようにしてくれ。
  
 
    望楼守
殿様のお言附いいつけになったのはやさしい為事しごとだ。
家隷がする段になると、遊半分に出来る。
あのお美しいかたの御威勢で
性命財産が支配せられているのだから。
もう全軍がおとなしくなって、
 
刃が皆鈍って来た。
あのお美しい姿の前では、
日の光も濁って冷えて来る。
目で拝むものが豊かなので、その外の物は
何もかもからになって、無くなってしまう。
 

(退場。)

    ヘレネ(ファウストに。)
わたくしおはなし申したい事がありますから、この傍へ
おいで下さいまし。あいた場所がおまち申しています。
そうして下さると、わたくしの地位も固まりましょう。 
 
    ファウスト
先ずひざまずかせて、身をおゆだね申す心持を述べるのを
ゆるし下さい。そしてお傍へお引上ひきあげなさる
 
そのお手に、接吻をおさせ下さい。わたくしを
境界の知れぬお国の共治者としておみとめ下さい。
またあなたのために、崇拝者と従者と番人とを
一人で兼ねているものだとおおもい下さい。 
 
    ヘレネ
わたくしは色々な不思議を見聞みききいたして、驚いて
 
いますのでございます。そして伺いたい事が沢山
ございます。それはそうと、只今の男の詞が
奇妙で、そして優しく聞えるのはなぜでございましょう。
それを最初におおしえなすって下さいまし。
声と声とが譲り合って、詞が一つ耳に入ると、
 
次にほかの詞が来て、さきのをいたわっていましたが。 
 
    ファウスト
臣下の物の言様いいようがあなたのお気に入るようでは、
歌をおききになったら、きっとおよろこびなさるでしょう。
耳をも心をも底から楽ませる歌ですよ。
しかしすぐに稽古して御覧なさるが一番確かです。
 
掛合かけあいの詞があれを誘い出します。呼び出します。 
 
    ヘレネ
あんなに美しく話されましょう、どうしたら。 
 
    ファウスト
やさしい事です。ただればい、こころから。
そしてもし胸に係恋あこがれが溢れると、
顧みて問います、たのしみを誰か 
 
    ヘレネ 
 
            共に享けると。
  
 
    ファウスト
そこで心の見る所は、過去未来の縁を絶ち、
現在ばかりがなんでしょう。 
 
    ヘレネ 
 
            それが世のさち。 
 
    ファウスト
さよう。宝です。利益です。財産、手形です。さて
奥書は誰がしましょう。 
 
    ヘレネ 
 
          それはこの我手わがて。 
 
    合唱の群
砦のぬしに奥方様が
 
お優しくなさりょうとも、
誰が御無理と存じましょう。
皆さん打ち明けて仰ゃい。
あのイリオスが恥かしい滅びようをして、
わたくし共が恐れ歎いて、迷路を
 
辿りはじめてから、度々なって
いたように、身は今も捕虜になっています。
 
男に可哀がられ附けている女と云うものは、
選嫌えりきらい)/rbはしませんが、
男を味って見る目がありますわ。
 
ですから、金色きんいろ※(「糸+求」、第4水準2-84-28)ちぢれがみをした牧童にでも、
どうかして遣って来た、黒い、こわい毛の
ファウヌスにでも、時と場合で、
ふっくりした、こっちの手足を
すっかり自由にさせて遣るものですわ。
 
 
二人ふたりが段々摩り寄っていらっしゃって、
軟かい物を詰めた、お立派な
お椅子の上で、
もうお肩とお肩、お膝とお膝が障るように、
互におもたれ掛かりなすって、
 
お手をお絡合からみあいなすって、お体をゆすっていらっしゃる。
どんな内証のおたのしみをも、
かみはおひかえなさらずに、
みんなの目の前で
思い切ってお見せ附け遊ばすのね。
  
 
    ヘレネ
わたくしは自分がひどく遠くにいるようにも、ひどく近くにいるようにも
思われますが、それでも「ここにいます、ここに」としんから申したいのでございますのね。 
 
    ファウスト
わたくしは息が出来ない位で、体は慄えて、詞はつかえます。
時も所も消えてしまって、夢ではないかと思っています。 
 
    ヘレネ
わたくしは色香がすがれたようにも思われ、また元の処女おとめに戻ったようにも思われて、
 
自分が糸で、知らないあなたと、離れぬように織り交ぜられたような気がしますわ。 
 
    ファウスト
またとないこの出逢であいを、そう穿うがってお考えでない。
存在は義務だ。それが刹那のあいだでも。 
 
    闇の女

はげしき態度にて登場。)

恋のいろはのお稽古を、たんとなさるがい。
ふざけながら、恋の理窟を御研究なさるがい。
 
理窟をねながら、なまけて恋をお為続しつづけなさるが好い。
だがもうそんな暇はありませんよ。
天気模様の変ったのに気が附かぬのですか。
せめてあの喇叭らっぱの音だけでも聞くがい。
災難はもう遠くはない。
 
メネラス王が大軍を起して、
お前方を責めに来るのだ。
手痛いいくさの支度をするがい。
その女を手に入れたむくいには、
今に勝ち誇った兵卒共に取巻かれて、
 
あのデイフォボスのように切りさいなまれる。
廉物やすもののおきゃん達が最初に吊るし上げられて、
跡にはすぐにその女を、贄卓にえづくえの前で
研ぎ澄ましたまさかりが待ち受けているのだ。 
 
    ファウスト
不遠慮な邪魔が、うるさく押し掛けて来おる。
 
非常な事にでも、無意味なあわただしさはきらいだ。
どんな美しい使者をでも、悪い便たよりみにくく見せる。
それにお前は一番醜い女で、悪い便ばかりを好んで
持って来おる。しかしこん度はお前無駄をした。
お前はからいきで空気をゆするがい。今なんの
 
危険があろう。あってもそれはいたずらおどしだ。

(信号喇叭、塔の上にての爆音、種々の金笛吹奏、軍楽、大軍の行進通過。)

いや。すぐにここへ、好く一致した勇士の群を
呼び集めて、あなたに見せます。
婦人を堅固に保護することの出来る男でなくては、
婦人に愛して貰う権利はない。
 
 
お前方、北方の青春の花。
お前方、東方の華やかな武力。
お前方に勝利を得させるにちがいない、
久しく抑えた、静かないかりを持っている人々。
 
これまで国々を破った、
 
鋼鉄に身を堅めて、鋼鉄の中を抜けて来た人々。
お前方が歩き出すと、大地が震う。
お前方が歩いて行った跡にはとどろきが残る。
 
ピロスから己達は上陸した。
老将ネストルはもういなかった。
 
拘束するに及ばぬこのぐん
幾多の小王国を打ち破って通った。
 
さあ、すぐにこの城壁の下から、
メネラス王を海へ押し戻せ。
海上をさまよい歩いて、ねらったり盗んだりするがい。
 
それが王のすきわざだ、天職だ。
 
隊長達。己がお前方に会釈する。
お前方を指揮するのはスパルタの后だ。
山や谷を略取して后のお前に献じてくれ。
国内の所得はお前方の所得にする。
 
 
ゲルマアネの槍使やりつかい
お前は堡塁にって、コリントスの湾を守れ。
百の谷があると云うアハイアは、
ゴオテの勇士、お前に防がせる。
 
フランケの自由なぐんはエリスへ進め。
 
ザックセの土着の兵にメッセネは任せる。
北方ほくほうのノルマネは海上を掃蕩して、
アルゴリスの港を手広に経営しろ。
 
さておのおのそこに土着したら、外へ向けて
力を展べ威を赫かすことが出来よう。
 
しかしスパルタは后の年来の居城だから、
お前方の領地の上に据えて置く。
 
何不足のない国々で、おのおの福を受けるのを、
后はかみで御覧になる。
許可や権利や光栄を、安じてお前方は
 
后のお膝下へ受けに出ることが出来るのだ。

(ファウスト座を降る。諸将囲繞して、詳細なる指揮命令を受く。)

    合唱の群
一番美しいものを手においれなさるかたは、
何より武勇をさきになすって、気を利かせて
兵器を調えておおきなさるがい。
この世で一番優れたものを、いかにも旨く
 
取り入って手においれなすったでしょうが、
落ち著いてそれを持っておいでなさることは出来ません。
横著者がずるずるとへつらい寄ることもあり、
盗人が大胆に奪って行くこともあります。
その御用心をなさらなくてはなりません。
 
 
ちょっと合図をなさると、強い人達が
寄って来てお指図を聴くように、
こんなに勇ましく、賢く、人を手懐けて
おきになったから、外の方々よりここの殿様は
すぐれていらっしゃると存じて、おほめ申します。
 
皆さんはお指図どおりはたらきなさるでしょう。
そうしたら、御自分のお為にもなって、
殿様も御満足に思召しましょう。
御名誉はどちらにもおありになりましょう。
 
なぜと申しますと、こんなお強い持主の物を
 
誰が横取をいたすことが出来ましょう。
お后はあなたの物です。そういたして上げたく存じます。
わたくし共と一しょに、内は堅固な城壁で守り、
外は強い軍隊で護って下さるから、
猶更なおさらいつまでもそうしておあげ申したいのです。
  
 
    ファウスト
誰にも豊かな国を遣るのだから、
この人々に約束した褒美は
立派なものだ。もうそれぞれ立たせよう。
己達は真ん中にいて守っている。
 
エウロッパの山脈の端に、狭い丘陵の
 
帯で繋がっている半島よ。あの人々は競って、
八方から波の打ち寄せる所で、
お前を守っていてくれるのだ。
 
早くから后を仰ぎ見ていたこの国は、
あらゆる国を照らす日の下で、
 
今后の領地になって、どの人種の
いる所も、永遠に幸福を享けるがい。
 
エウロタ川の葦のそよぎの中で、
卵の殻をって、光りながら出て来て、
貴い母や兄弟を目映まばゆがらせた昔の事を、
 
后は思われるがい。
 
あなたの方にばかり向いて、この国は
栄の限を見せています。
世界中があなたの物になっていても、
取り分けて本国をお愛しなさい。
 
 
山々の棘々とげとげしいいただきが、まだ日の冷たい矢を
背に受けてこらえていても、
もう岩々がどこやら緑掛かった色を見せて、
山羊が意地きたなく貧しい餌を※(「求/(餮-殄)」、第4水準2-92-54)っている。
 
泉は涌く。小川は集まって流れ落ちる。
 
もう谷や半腹や平地が青くなって来る。
地面が断続して、百の岡をなしている上を、
叢雲が広がって渡るのを御覧なさい。
 
角のある牛が分かれ分かれに、足取あしどりを用心して
断崖をさして歩いて行く。
 
しかし岩壁が穹窿きゅうりゅうになって、百の洞を作っているから、
どの獣の宿をもすることが出来る。
 
それをあそこでパンの神が護っている。
そして茂った谷の濡れて爽かな所に、
せいの少女のナペアイが住んでいる。また狭く並んだ木々が
 
高みにあこがれて枝をうえへ伸ばしている。
 
ここは古い林だ。※(「木+解」、第3水準1-86-22)の木は強く立って、
剛情らしく枝と枝とを交えている。
甘い汁を孕んだ、優しいもみじはすらりと立って、
枝葉の重荷を弄んでいる。
 
 
静かな木蔭には、母親らしく、
生温なまぬるちちが涌いて、人や羊の子の飲物になる。
平地の人の食料になる、熟した果も遠くはない。
そして切り込んだ木の幹からは蜜が滴る。
 
ここでは健康が遺伝する。
 
頬も脣も晴やかになる。
人が皆その居所いどころ々々で不死になる。
皆満足して健かでいる。
 
そこで優しい子が浄い日に育って、
人の父たる力をる。
 
わたし共は見て驚いて、
いつまでも人か神かの問を決し兼ねる。
 
それだからアポルロンは牧者の姿でいた。
牧者の美しいのがあれに似ていた。
なぜと云うに、自然が浄い境を領していると、
 
あらゆる世界と世界とが交感する。
 

(ヘレネの傍に坐す。)

こんな風にわたしは成功した、あなたも成功した。
もう過去なんぞは背後へ投げ棄てましょう。
第一の世界に属しているのは、あなただけだから、
最高の神の生ませたものだとお感じなさい。
 
 
堅固な砦があなたを閉じ籠めもしない。
スパルタに隣るアルカジアが、永遠の若さで、
たのしみの多い世を久しく送らせようと、
わたし共二人を引き留めていもしない。
 
祝福のある土地に住むようにさそわれて、
 
あなたは一番晴やかな運命の中に逃げ込まれた。
王者の座がそのまま生きた草木くさきの家になる。
アルカジアめく幸福を二人は享けましょう。
 

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