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第弐章
(一)
毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛りの少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁当草履を振廻し、『ズック』の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負つたりして、声を揚げ乍ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
校長は応接室に居た。斯人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草の烟は丁度白い渦のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
斯校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶したいと言ふのが斯人の主義で、日々の挙動も生活も凡て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌を授与されたのである。
丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然とした黄金の光輝に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其重量と直径とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径九分、重量五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終に一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠からずと書いてあつた。『基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す』とも書いてあつた。
『実に今回のことは校長先生の御名誉ばかりぢや有ません、吾信州教育界の名誉です。』
と髯の白い町会議員は改つて言つた。金縁眼鏡の議員は其尾に附いて、
『就きましては、有志の者が寄りまして御祝の印ばかりに粗酒を差上げたいと存じますが――いかゞでせう、今晩三浦屋迄御出を願へませうか。郡視学さんも、何卒まあ是非御同道を。』
『いや、左様いふ御心配に預りましては実に恐縮します。』と校長は倚子を離れて挨拶した。『今回のことは、教育者に取りましても此上もない名誉な次第で、非常に私も嬉敷思つては居るのですが――考へて見ますと、是ぞと言つて功績のあつた私ではなし、実は斯ういふ金牌なぞを頂戴して、反つて身の不肖を恥づるやうな次第で。』
『校長先生、左様仰つて下すつては、使に来た私共が困ります。』
と痩せぎすな議員が右から手を擦み乍ら言つた。
『御辞退下さる程の御馳走は有ませんのですから。』
と白髯の議員は左から歎願した。
校長の眼は得意と喜悦とで火のやうに輝いた。いかにも心中の感情を包みきれないといふ風で、胸を突出して見たり、肩を動つて見たりして、軈て郡視学の方へ向いて斯う尋ねた。
『どうですな、貴方の御都合は。』
と言はれて、郡視学は鷹揚な微笑を口元に湛へ乍ら、
『折角皆さんが彼様言つて下さる。御厚意を無にするのは反つて失礼でせう。』
『御尤です――いや、それではいづれ後刻御目に懸つて、御礼を申上げるといふことにしませう。何卒皆さんへも宜敷仰つて下さい。』
と校長は丁寧に挨拶した。
実際、地方の事情に遠いものは斯校長の現在の位置を十分会得することが出来ないであらう。地方に入つて教育に従事するものゝ第一の要件は――外でもない、斯校長のやうな凡俗な心づかひだ。曾て学校の窓で想像した種々の高尚な事を左様いつ迄も考へて、俗悪な趣味を嫌ひ避けるやうでは、一日たりとも地方の学校の校長は勤まらない。有力者の家なぞに、悦びもあり哀みもあれば、人と同じやうに言ひ入れて、振舞の座には神主坊主と同席に座ゑられ、すこしは地酒の飲みやうも覚え、土地の言葉も可笑しくなく使用へる頃には、自然と学問を忘れて、無教育な人にも馴染むものである。賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ。
帽子を執つて帰つて行く人々の後に随いて、校長はそこ迄見送つて出た。軈て玄関で挨拶して別れる時、互に斯ういふ言葉を取替した。
『では、郡視学さんも御誘ひ下すつて、学校から直に御出を。』
『恐れ入りましたなあ。』
(二)
『小使。』
と呼ぶ校長の声は長い廊下に響き渡つた。
生徒はもう帰つて了つた。教場の窓は皆な閉つて、運動場に庭球する人の影も見えない。急に周囲は森閑として、時々職員室に起る笑声の外には、寂しい静かな風琴の調がとぎれ/\に二階から聞えて来る位のものであつた。
『へい、何ぞ御用で御座ますか。』と小使は上草履を鳴らして駈寄る。
『あ、ちよと、気の毒だがねえ、もう一度役場へ行つて催促して来て呉れないか。金銭を受取つたら直に持つて来て呉れ――皆さんも御待兼だ。』
斯う命じて置いて、校長は応接室の戸を開けて入つた。見れば郡視学は巻煙草を燻し乍ら、独りで新聞を読み耽つて居る。『失礼しました。』と声を掛けて、其側へ自分の椅子を擦寄せた。
『見たまへ、まあ斯信濃毎日を。』と郡視学は馴々敷、『君が金牌を授与されたといふことから、教育者の亀鑑だといふこと迄、委敷書いて有ますよ。表彰文は全部。それに、履歴までも。』
『いや、今度の受賞は大変な評判になつて了ひました。』と校長も喜ばしさうに、『何処へ行つても直に其話が出る。実に意外な人迄知つて居て、祝つて呉れるやうな訳で。』
『結構です。』
『これといふのも貴方の御骨折から――』
『まあ其は言はずに置いて貰ひませう。』と郡視学は対手の言葉を遮つた。『御互様のことですからな。はゝゝゝゝ。しかし吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦も御察し申す。』
『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』
『甥がですか、あゝ左様でしたらう。私の許へも長い手紙をよこしましたよ。其を読んだ時は、彼男の喜ぶ顔付が目に見えるやうでした。実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』
郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとしたので。尤も席順から言へば、丑松は首座。生徒の人望は反つて校長の上にある程。銀之助とても師範出の若手。いかに校長が文平を贔顧だからと言つて、二人の位置を動かす訳にはいかない。文平は第三席に着けられて出たのであつた。
『それに引換へて瀬川君の冷淡なことは。』と校長は一段声を低くした。
『瀬川君?』と郡視学も眉をひそめる。
『まあ聞いて下さい。万更の他人が受賞したではなし、定めし瀬川君だつても私の為に喜んで居て呉れるだらう、と斯う貴方なぞは御考へでせう。ところが大違ひです。こりやあ、まあ、私が直接に聞いたことでは無いのですけれど――又、私に面と向つて、まさかに其様なことが言へもしますまいが――といふのは、教育者が金牌なぞを貰つて鬼の首でも取つたやうに思ふのは大間違だと。そりやあ成程人爵の一つでせう。瀬川君なぞに言はせたら価値の無いものでせう。然し金牌は表章です。表章が何も難有くは無い。唯其意味に価値がある。はゝゝゝゝ、まあ左様ぢや有ますまいか。』
『どうしてまた瀬川君は其様な思想を持つのだらう。』と郡視学は嘆息した。
『時代から言へば、あるひは吾儕の方が多少後れて居るかも知れません。しかし新しいものが必ずしも好いとは限りませんからねえ。』と言つて校長は嘲つたやうに笑つて、『なにしろ、瀬川君や土屋君が彼様して居たんぢや、万事私も遣りにくゝて困る。同志の者ばかり集つて、一致して教育事業をやるんででもなけりやあ、到底面白くはいきませんさ。勝野君が首座ででもあつて呉れると、私も大きに安心なんですけれど。』
『そんなに君が面白くないものなら、何とか其処には方法も有さうなものですがなあ。』と郡視学は意味ありげに相手の顔を眺めた。
『方法とは?』と校長も熱心に。
『他の学校へ移すとか、後釜へは――それ、君の気に入つた人を入れるとかサ。』
『そこです――同じ移すにしても、何か口実が無いと――余程そこは巧くやらないと――あれで瀬川君はなか/\生徒間に人望が有ますから。』
『さうさ、過失の無いものに向つて、出て行けとも言はれん。はゝゝゝゝ、余りまた細工をしたやうに思はれるのも厭だ。』と言つて郡視学は気を変へて、『まあ私の口から甥を褒めるでも有ませんが、貴方の為には必定御役に立つだらうと思ひますよ。瀬川君に比べると、勝るとも劣ることは有るまいといふ積りだ。一体瀬川君は何処が好いんでせう。どうして彼様な教師に生徒が大騒ぎをするんだか――私なんかには薩張解らん。他の名誉に思ふことを冷笑するなんて、奈何いふことがそんならば瀬川君なぞには難有いんです。』
『先づ猪子蓮太郎あたりの思想でせうよ。』
『むゝ――あの穢多か。』と郡視学は顔を渋める。
『あゝ。』と校長も深く歎息した。『猪子のやうな男の書いたものが若いものに読まれるかと思へば恐しい。不健全、不健全――今日の新しい出版物は皆な青年の身をあやまる原因なんです。その為に畸形の人間が出来て見たり、狂見たやうな男が飛出したりする。あゝ、あゝ、今の青年の思想ばかりは奈何しても吾儕に解りません。』
(三)
不図応接室の戸を叩く音がした。急に二人は口を噤んだ。復た叩く。『お入り』と声をかけて、校長は倚子を離れた。郡視学も振返つて、戸を開けに行く校長の後姿を眺め乍ら、誰、町会議員からの使ででもあるか、斯う考へて、入つて来る人の様子を見ると――思ひの外な一人の教師、つゞいてあらはれたのが丑松であつた。校長は思はず郡視学と顔を見合せたのである。
『校長先生、何か御用談中ぢや有ませんか。』
と丑松は尋ねた。校長は一寸微笑んで、
『いえ、なに、別に用談でも有ません――今二人で御噂をして居たところです。』
『実はこの風間さんですが、是非郡視学さんに御目に懸つて、直接に御願ひしたいことがあるさうですから。』
斯う言つて、丑松は一緒に来た同僚を薦めるやうにした。
風間敬之進は、時世の為に置去にされた、老朽な小学教員の一人。丑松や銀之助などの若手に比べると、阿爺にしてもよい程の年頃である。黒木綿の紋付羽織、垢染みた着物、粗末な小倉の袴を着けて、兢々郡視学の前に進んだ。下り坂の人は気の弱いもので、すこし郡視学に冷酷な態度が顕れると、もう妙に固くなつて思ふことを言ひかねる。
『何ですか、私に用事があると仰るのは。』斯う催促して、郡視学は威丈高になつた。あまり敬之進が躊躇して居るので、終には郡視学も気を苛つて、時計を出して見たり、靴を鳴らして見たりして、
『奈何いふ御話ですか。仰つて見て下さらなければ解りませんなあ。』
もどかしく思ひ乍ら椅子を離れて立上るのであつた。敬之進は猶々言ひかねるといふ様子で、
『実は――すこし御願ひしたい件が有まして。』
『ふむ。』
復た室の内は寂として暫時声がなくなつた。首を垂れ乍ら少許慄へて居る敬之進を見ると、丑松は哀憐の心を起さずに居られなかつた。郡視学は最早堪へかねるといふ風で、
『私は是で多忙しい身体です。何か仰ることがあるなら、ずん/\仰つて下さい。』
丑松は見るに見かねた。
『風間さん、其様に遠慮しない方が可ぢや有ませんか。貴方は退職後のことを御相談して頂きたいといふんでしたらう。』斯う言つて、軈て郡視学の方へ向いて、『私から伺ひます。まあ、風間さんのやうに退職となつた場合には、恩給を受けさして頂く訳に参りませんものでせうか。』
『無論です、そんなことは。』と郡視学は冷かに言放つた。『小学校令の施行規則を出して御覧なさい。』
『そりやあ規則は規則ですけれど。』
『規則に無いことが出来るものですか。身体が衰弱して、職務を執るに堪へないから退職する――其を是方で止める権利は有ません。然し、恩給を受けられるといふ人は、満十五ヶ年以上在職したものに限つた話です。風間さんのは十四ヶ年と六ヶ月にしかならない。』
『でも有ませうが、僅か半歳のことで教育者を一人御救ひ下さるとしたら。』
『其様なことを言つて見た日にやあ際涯が無い。何ぞと言ふと風間さんは直に家の事情、家の事情だ。誰だつて家の事情のないものはありやしません。まあ、恩給のことなぞは絶念めて、折角御静養なさるが可でせう。』
斯う撥付けられては最早取付く島が無いのであつた。丑松は気の毒さうに敬之進の横顔を熟視つて、
『どうです風間さん、貴方からも御願ひして見ては。』
『いえ、只今の御話を伺へば――別に――私から御願する迄も有ません。御言葉に従つて、絶念めるより外は無いと思ひます。』
其時小使が重たさうな風呂敷包を提げて役場から帰つて来た。斯のしらせを機に、郡視学は帽子を執つて、校長に送られて出た。
(四)
男女の教員は広い職員室に集つて居た。其日は土曜日で、月給取の身にとつては反つて翌の日曜よりも楽しく思はれたのである。茲に集る人々の多くは、日々の長い勤務と、多数の生徒の取扱とに疲れて、さして教育の事業に興味を感ずるでもなかつた。中には児童を忌み嫌ふやうなものもあつた。三種講習を済まして、及第して、漸く煙草のむことを覚えた程の年若な準教員なぞは、まだ前途が長いところからして楽しさうにも見えるけれど、既に老朽と言はれて髭ばかり厳しく生えた手合なぞは、述懐したり、物羨みしたりして、外目にも可傷しく思ひやられる。一月の骨折の報酬を酒に代へる為、今茲に待つて居るやうな連中もあるのであつた。
丑松は敬之進と一緒に職員室へ行かうとして、廊下のところで小使に出逢つた。
『風間先生、笹屋の亭主が御目に懸りたいと言つて、先刻から来て待つて居りやす。』
不意を打たれて、敬之進はさも苦々しさうに笑つた。
『何? 笹屋の亭主?』
笹屋とは飯山の町はづれにある飲食店、農夫の為に地酒を暖めるやうな家で、老朽な敬之進が浮世を忘れる隠れ家といふことは、疾に丑松も承知して居た。けふ月給の渡る日と聞いて、酒の貸の催促に来たか、とは敬之進の寂しい苦笑で知れる。『ちよツ、学校まで取りに来なくてもよささうなものだ。』と敬之進は独語のやうに言つた。『いゝから待たして置け。』と小使に言含めて、軈て二人して職員室へと急いだのである。
十月下旬の日の光は玻璃窓から射入つて、煙草の烟に交る室内の空気を明く見せた。彼処の掲示板の下に一群、是処の時間表の側に一団、いづれも口から泡を飛ばして言ひのゝしつて居る。丑松は室の入口に立つて眺めた。見れば郡視学の甥といふ勝野文平、灰色の壁に倚凭つて、銀之助と二人並んで話して居る様子。新しい艶のある洋服を着て、襟飾の好みも煩くなく、すべて適はしい風俗の中に、人を吸引ける敏捷いところがあつた。美しく撫付けた髪の色の黒さ。頬の若々しさ。それに是男の鋭い眼付は絶えず物を穿鑿するやうで、一時も静息んでは居られないかのやう。これを銀之助の五分刈頭、顔の色赤々として、血肥りして、形も振も関はず腕捲りし乍ら、談したり笑つたりする肌合に比べたら、其二人の相違は奈何であらう。物見高い女教師連の視線はいづれも文平の身に集つた。
丑松は文平の瀟洒とした風采を見て、別に其を羨む気にもならなかつた。たゞ気懸りなのは、彼新教員が自分と同じ地方から来たといふことである。小諸辺の地理にも委敷様子から押して考へると、何時何処で瀬川の家の話を聞かまいものでもなし、広いやうで狭い世間の悲しさ、あの『お頭』は今これ/\だと言ふ人でもあつた日には――無論今となつて其様なことを言ふものも有るまいが――まあ万々一――それこそ彼教員も聞捨てには為まい。斯う丑松は猜疑深く推量して、何となく油断がならないやうに思ふのであつた。不安な丑松の眼には種々な心配の種が映つて来たのである。
軈て校長は役場から来た金の調べを終つた。それ/″\分配するばかりになつたので、丑松は校長を助けて、人々の机の上に十月分の俸給を載せてやつた。
『土屋君、さあ御土産。』
と銀之助の前にも、五十銭づゝ封じた銅貨を幾本か並べて、外に銀貨の包と紙幣とを添へて出した。
『おや/\、銅貨を沢山呉れるねえ。』と銀之助は笑つて、『斯様にあつては持上がりさうも無いぞ。はゝゝゝゝ。時に、瀬川君、けふは御引越が出来ますね。』
丑松は笑つて答へなかつた。傍に居た文平は引取つて、
『どちらへか御引越ですか。』
『瀬川君は今夜から精進料理さ。』
『はゝゝゝゝ。』
と笑ひ葬つて、丑松は素早く自分の机の方へ行つて了つた。
毎月のこととは言ひ乍ら、俸給を受取つた時の人々の顔付は又格別であつた。実に男女の教員の身にとつては、労働いて得た収穫を眺めた時ほど愉快に感ずることは無いのである。ある人は紙の袋に封じた儘の銀貨を鳴らして見る、ある人は風呂敷に包んで重たさうに提げて見る、ある女教師は又、海老茶袴の紐の上から撫でゝ、人知れず微笑んで見るのであつた。急に校長は椅子を離れて、用事ありげに立上つた。何事かと人々は聞耳を立てる。校長は一つ咳払ひして、さて器械的な改つた調子で、敬之進が退職の件を報告した。就いては来る十一月の三日、天長節の式の済んだ後、この老功な教育者の為に茶話会を開きたいと言出した。賛成の声は起る。敬之進はすつくと立つて、一礼して、軈て拍子の抜けたやうに元の席へ復つた。
一同帰り仕度を始めたのは間も無くであつた。男女の教員が敬之進を取囲いて、いろ/\言ひ慰めて居る間に、ついと丑松は風呂敷包を提げて出た。銀之助が友達を尋して歩いた時は、職員室から廊下、廊下から応接室、小使部屋、昇降口まで来て見ても、もう何処にも丑松の姿は見えなかつたのである。
(五)
丑松は大急ぎで下宿へ帰つた。月給を受取つて来て妙に気強いやうな心地にもなつた。昨日は湯にも入らず、煙草も買はず、早く蓮華寺へ、と思ひあせるばかりで、暗い一日を過したのである。実際、懐中に一文の小使もなくて、笑ふといふ気には誰がならう。悉皆下宿の払ひを済まし、車さへ来れば直に出掛けられるばかりに用意して、さて巻煙草に火を点けた時は、言ふに言はれぬ愉快を感ずるのであつた。
引越は成るべく目立たないやうに、といふ考へであつた。気掛りなは下宿の主婦の思惑で――まあ、この突然な転宿を何と思つて見て居るだらう。何か彼放逐された大尽と自分との間には一種の関係があつて、それで面白くなくて引越すとでも思はれたら奈何しよう。あの愚痴な性質から、根彫葉刻聞咎めて、何故引越す、斯う聞かれたら何と返事をしたものであらう。そこがそれ、引越さなくても可ものを無理に引越すのであるから、何となく妙に気が咎める。下手なことを言出せば反つて藪蛇だ。『都合があるから引越す。』理由は其で沢山だ。斯う種々に考へて、疑つたり恐れたりして見たが、多くの客を相手にする主婦の様子は左様心配した程でも無い。さうかうする中に、頼んで置いた車も来る。荷物と言へば、本箱、机、柳行李、それに蒲団の包があるだけで、道具は一切一台の車で間に合つた。丑松は洋燈を手に持つて、主婦の声に送られて出た。
斯うして車の後に随いて、とぼ/\と二三町も歩いて来たかと思はれる頃、今迄の下宿の方を一寸振返つて見た時は、思はずホツと深い溜息を吐いた。道路は悪し、車は遅し、丑松は静かに一生の変遷を考へて、自分で自分の運命を憐み乍ら歩いた。寂しいとも、悲しいとも、可笑しいとも、何ともかとも名の附けやうのない心地は烈しく胸の中を往来し始める。追憶の情は身に迫つて、無限の感慨を起させるのであつた。それは十一月の近いたことを思はせるやうな蕭条とした日で、湿つた秋の空気が薄い烟のやうに町々を引包んで居る。路傍に黄ばんだ柳の葉はぱら/\と地に落ちた。
途中で紙の旗を押立てた少年の一群に出遇つた。音楽隊の物真似、唱歌の勇しさ、笛太鼓も入乱れ、足拍子揃へて面白可笑しく歌つて来るのは何処の家の子か――あゝ尋常科の生徒だ。見れば其後に随いて、少年と一緒に歌ひ乍ら、人目も関はずやつて来る上機嫌の酔漢がある。蹣跚とした足元で直に退職の敬之進と知れた。
『瀬川君、一寸まあ見て呉れ給へ――是が我輩の音楽隊さ。』
と指し乍ら熟柿臭い呼吸を吹いた。敬之進は何処かで飲んで来たものと見える。指された少年の群は一度にどつと声を揚げて、自分達の可傷な先生を笑つた。
『始めえ――』敬之進は戯れに指揮するやうな調子で言つた。『諸君。まあ聞き給へ。今日迄我輩は諸君の先生だつた。明日からは最早諸君の先生ぢや無い。そのかはり、諸君の音楽隊の指揮をしてやる。よしか。解つたかね。あはゝゝゝ。』と笑つたかと思ふと、熱い涙は其顔を伝つて流れ落ちた。
無邪気な音楽隊は、一斉に歓呼を揚げて、足拍子揃へて通過ぎた。敬之進は何か思出したやうに、熟と其少年の群を見送つて居たが、軈て心付いて歩き初めた。
『まあ、君と一緒に其処迄行かう。』と敬之進は身を慄はせ乍ら、『時に瀬川君、まだ斯の通り日も暮れないのに、洋燈を持つて歩くとは奈何いふ訳だい。』
『私ですか。』と丑松は笑つて、『私は今引越をするところです。』
『あゝ引越か。それで君は何処へ引越すのかね。』
『蓮華寺へ。』
蓮華寺と聞いて、急に敬之進は無言になつて了つた。暫時の間、二人は互に別々のことを考へ乍ら歩いた。
『あゝ。』と敬之進はまた始めた。『実に瀬川君なぞは羨ましいよ。だつて君、左様ぢやないか。君なぞは未だ若いんだもの。前途多望とは君等のことだ。何卒して我輩も、もう一度君等のやうに若くなつて見たいなあ。あゝ、人間も我輩のやうに老込んで了つては駄目だねえ。』
(六)
車は遅かつた。丑松敬之進の二人は互に並んで話し/\随いて行つた。とある町へ差掛かつた頃、急に車夫は車を停めて、冷々とした空気を呼吸し乍ら、額に流れる汗を押拭つた。見れば町の空は灰色の水蒸気に包まれて了つて、僅に西の一方に黄な光が深く輝いて居る。いつもより早く日は暮れるらしい。遽に道路も薄暗くなつた。まだ灯を点ける時刻でもあるまいに、もう一軒点けた家さへある。其軒先には三浦屋の文字が明白と読まれるのであつた。
盛な歓楽の声は二階に湧上つて、屋外に居る二人の心に一層の不愉快と寂寥とを添へた。丁度人々は酒宴の最中。灯影花やかに映つて歌舞の巷とは知れた。三味は幾挺かおもしろい音を合せて、障子に響いて媚びるやうに聞える。急に勇しい太鼓も入つた。時々唄に交つて叫ぶやうに聞えるは、囃方の娘の声であらう。これも亦、招ばれて行く妓と見え、箱屋一人連れ、褄高く取つて、いそ/\と二人の前を通過ぎた。
客の笑声は手に取るやうに聞えた。其中には校長や郡視学の声も聞えた。人々は飲んだり食つたりして時の移るのも知らないやうな様子。
『瀬川君、大層陽気ぢやないか。』と敬之進は声を潜めて、『や、大一座だ。一体今宵は何があるんだらう。』
『まだ風間さんには解らないんですか。』と丑松も聞耳を立て乍ら言つた。
『解らないさ。だつて我輩は何にも知らないんだもの。』
『ホラ、校長先生の御祝でさあね。』
『むゝ――むゝ――むゝ、左様ですかい。』
一曲の唄が済んで、盛な拍手が起つた。また盃の交換が始つたらしい。若い女の声で、『姉さん、お銚子』などと呼び騒ぐのを聞捨てゝ、丑松敬之進の二人は三浦屋の側を横ぎつた。
車は知らない中に前へ行つて了つた。次第に歌舞の巷を離れると、太鼓の音も遠く聞えなくなる。敬之進は嘆息したり、沈吟したりして、時々絶望した人のやうに唐突に大きな声を出して笑つた。『浮世夢のごとし』――それに勝手な節を付けて、低声に長く吟じた時は、聞いて居る丑松も沈んで了つて、妙に悲しいやうな、可痛しいやうな心地になつた。
『吟声調を成さず――あゝ、あゝ、折角の酒も醒めて了つた。』
と敬之進は嘆息して、獣の呻吟るやうな声を出し乍ら歩く。丑松も憐んで、軈て斯う尋ねて見た。
『風間さん、貴方は何処迄行くんですか。』
『我輩かね。我輩は君を送つて、蓮華寺の門前まで行くのさ。』
『門前迄?』
『何故我輩が門前迄送つて行くのか、其は君には解るまい。しかし其を今君に説明しようとも思はないのさ。御互ひに長く顔を見合せて居ても、斯うして親しくするのは昨今だ。まあ、いつか一度、君とゆつくり話して見たいもんだねえ。』
やがて蓮華寺の山門の前まで来ると、ぷいと敬之進は別れて行つて了つた。奥様は蔵裏の外まで出迎へて喜ぶ。車はもうとつくに。荷物は寺男の庄太が二階の部屋へ持運んで呉れた。台所で焼く魚のにほひは、蔵裏迄も通つて来て、香の煙に交つて、住慣れない丑松の心に一種異様の感想を与へる。仏に物を供へる為か、本堂の方へ通ふ子坊主もあつた。二階の部屋も窓の障子も新しく張替へて、前に見たよりはずつと心地が好い。薬湯と言つて、大根の乾葉を入れた風呂なども立てゝ呉れる。新しい膳に向つて、うまさうな味噌汁の香を嗅いで見た時は、第一この寂しげな精舎の古壁の内に意外な家庭の温暖を看付けたのであつた。