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第参章
(一)
もとより銀之助は丑松の素性を知る筈がない。二人は長野の師範校に居る頃から、極く好く気性の合つた友達で、丑松が佐久小県あたりの灰色の景色を説き出すと、銀之助は諏訪湖の畔の生れ故郷の物語を始める、丑松が好きな歴史の話をすれば、銀之助は植物採集の興味を、と言つたやうな風に、互ひに語り合つた寄宿舎の窓は二人の心を結びつけた。同窓の記憶はいつまでも若く青々として居る。銀之助は丑松のことを思ふ度に昔を思出して、何となく時の変遷を忍ばずには居られなかつた。同じ寄宿舎の食堂に同じ引割飯の香を嗅いだ其友達に思ひ比べると、実に丑松の様子の変つて来たことは。あの憂欝――丑松が以前の快活な性質を失つた証拠は、眼付で解る、歩き方で解る、談話をする声でも解る。一体、何が原因で、あんなに深く沈んで行くのだらう。とんと銀之助には合点が行かない。『何かある――必ず何か訳がある。』斯う考へて、どうかして友達に忠告したいと思ふのであつた。
丑松が蓮華寺へ引越した翌日、丁度日曜、午後から銀之助は尋ねて行つた。途中で文平と一緒になつて、二人して苔蒸した石の階段を上ると、咲残る秋草の径の突当つたところに本堂、左は鐘楼、右が蔵裏であつた。六角形に出来た経堂の建築物もあつて、勾配のついた瓦屋根や、大陸風の柱や、白壁や、すべて過去の壮大と衰頽とを語るかのやうに見える。黄ばんだ銀杏の樹の下に腰を曲め乍ら、余念もなく落葉を掃いて居たのは、寺男の庄太。『瀬川君は居りますか。』と言はれて、馬鹿丁寧な挨拶。やがて庄太は箒をそこに打捨てゝ置いて、跣足の儘で蔵裏の方へ見に行つた。
急に丑松の声がした。あふむいて見ると、銀杏に近い二階の窓の障子を開けて、顔を差出して呼ぶのであつた。
『まあ、上りたまへ。』
と復た呼んだ。
(二)
銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯を上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物と雑誌の類まで、すべて黄に反射して見える。冷々とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽な思を送るのであつた。机の上には例の『懴悔録』、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出して薦めた。
『よく君は引越して歩く人さ。』と銀之助は身辺を眺め廻し乍ら言つた。『一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。』
『何故御引越になつたんですか。』と文平も尋ねて見る。
『どうも彼処の家は喧しくつて――』斯う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色はもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出されたさうだねえ。』
『さう/\、左様いふ話ですなあ。』と文平も相槌を打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居の側に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳の人になると、捨てられた猫を見たのが移転の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様は思はないかね。だから穢多の逐出された話を聞くと、直に僕は彼の猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。』
『馬鹿なことを言ひたまへ。』と丑松は反返つて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑くて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
『いや、戯言ぢやない。』と銀之助は丑松の顔を熟視つた。『実際、君の顔色は好くない――診て貰つては奈何かね。』
『僕は君、其様な病人ぢや無いよ。』と丑松は微笑み乍ら答へた。
『しかし。』と銀之助は真面目になつて、『自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様見た。』
『左様かねえ、左様見えるかねえ。』
『見えるともサ。妄想、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、皆な衰弱した神経の見せる幻像さ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出されたつて何だ――当然ぢや無いか。』
『だから土屋君は困るよ。』と丑松は対手の言葉を遮つた。『何時でも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。』
『すこし左様いふ気味も有ますなあ。』と文平は如才なく。
『だつて引越し方があんまり唐突だからさ。』と言つて、銀之助は気を変へて、『しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。』
『以前から僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。』と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治(北信に多くある女の名)が湯沸を持つて入つて来た。
(三)
信州人ほど茶を嗜む手合も鮮少からう。斯ういふ飲料を好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張茶好の仲間には泄れなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶椀を口唇に押宛て乍ら、香ばしく焙られた茶の葉のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。まあ蘇生つたやうな心地になる。やがて丑松は茶椀を下に置いて、寺住の新しい経験を語り始めた。
『聞いて呉れ給へ。昨日の夕方、僕はこの寺の風呂に入つて見た。一日働いて疲労れて居るところだつたから、入つた心地は格別さ。明窓の障子を開けて見ると紫の花なぞが咲いてるぢやないか。其時僕は左様思つたねえ。風呂に入り乍ら蟋蟀を聴くなんて、成程寺らしい趣味だと思つたねえ。今迄の下宿とは全然様子が違ふ――まあ僕は自分の家へでも帰つたやうな心地がしたよ。』
『左様さなあ、普通の下宿ほど無趣味なものは無いからなあ。』と銀之助は新しい巻煙草に火を点けた。
『それから君、種々なことがある。』と丑松は言葉を継いで、『第一、鼠の多いには僕も驚いた。』
『鼠?』と文平も膝を進める。
『昨夜は僕の枕頭へも来た。慣れなければ、鼠だつて気味が悪いぢやないか。あまり不思議だから、今朝其話をしたら、奥様の言草が面白い。猫を飼つて鼠を捕らせるよりか、自然に任せて養つてやるのが慈悲だ。なあに、食物さへ宛行つて遣れば、其様に悪戯する動物ぢや無い。吾寺の鼠は温順しいから御覧なさいツて。成程左様言はれて見ると、少許も人を懼れない。白昼ですら出て遊んで居る。はゝゝゝゝ、寺の内の光景は違つたものだと思つたよ。』
『そいつは妙だ。』と銀之助は笑つて、『余程奥様といふ人は変つた婦人と見えるね。』
『なに、それほど変つても居ないが、普通の人よりは宗教的なところがあるさ。さうかと思ふと、吾儕だつて高砂で一緒になつたんです、なんて、其様なことを言出す。だから、尼僧ともつかず、大黒ともつかず、と言つて普通の家の細君でもなし――まあ、門徒寺に日を送る女といふものは僕も初めて見た。』
『外にはどんな人が居るのかい。』斯う銀之助は尋ねた。
『子坊主が一人。下女。それに庄太といふ寺男。ホラ、君等の入つて来た時、庭を掃いて居た男があつたらう。彼が左様だあね。誰も彼男を庄太と言ふものは無い――皆な「庄馬鹿」と言つてる。日に五度づつ、払暁、朝八時、十二時、入相、夜の十時、これだけの鐘を撞くのが彼男の勤務なんださうだ。』
『それから、あの何は。住職は。』とまた銀之助が聞いた。
『住職は今留守さ。』
斯う丑松は見たり聞いたりしたことを取交ぜて話したのであつた。終に、敬之進の娘で、是寺へ貰はれて来て居るといふ、そのお志保の話も出た。
『へえ、風間さんの娘なんですか。』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『此頃一度校友会に出て来た――ホラ、あの人でせう?』
『さう/\。』と丑松も思出したやうに、『たしか僕等の来る前の年に卒業して出た人です。土屋君、左様だつたねえ。』
『たしか左様だ。』
(四)
其日蓮華寺の台所では、先住の命日と言つて、精進物を作るので多忙しかつた。月々の持斎には経を上げ膳を出す習慣であるが、殊に其日は三十三回忌とやらで、好物の栗飯を炊いて、仏にも供へ、下宿人にも振舞ひたいと言ふ。寺内の若僧の妻までも来て手伝つた。用意の調つた頃、奥様は台所を他に任せて置いて、丑松の部屋へ上つて来た。丑松も、銀之助も、文平も、この話好きな奥様の目には、三人の子のやうに映つたのである。昔者とは言ひ乍ら、書生の談話も解つて、よく種々なことを知つて居た。時々宗教の話なぞも持出した。奥様はまた十二月二十七日の御週忌の光景を語り聞かせた。其冬の日は男女の檀徒が仏の前に集つて、記念の一夜を送るといふ昔からの習慣を語り聞かせた。説教もあり、読経もあり、御伝抄の朗読もあり、十二時には男女一同御夜食の膳に就くなぞ、其御通夜の儀式のさま/″\を語り聞かせた。
『なむあみだぶ。』
と奥様は独語のやうに繰返して、やがて敬之進の退職のことを尋ねる。
奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とは克く住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\縒が元へ戻つて了ふ。飲めば窮るといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸な父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
『左様ですか――いよ/\退職になりましたか。』
斯う言つて奥様は嘆息した。
『道理で。』と丑松は思出したやうに、『昨日私が是方へ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。』
『へえ、吾寺の前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。』
と奥様は復た深い溜息を吐いた。
斯ういふ談話に妨げられて、銀之助は思ふことを尽さなかつた。折角言ふ積りで来て、それを尽さずに帰るのも残念だし、栗飯が出来たからと引留められもするし、夜にでもなつたらば、と斯う考へて、心の中では友達のことばかり案じつゞけて居た。
夕飯は例になく蔵裏の下座敷であつた。宵の勤行も済んだと見えて、給仕は白い着物を着た子坊主がして呉れた。五分心の灯は香の煙に交る夜の空気を照らして、高い天井の下をおもしろく見せる。古壁に懸けてある黄な法衣は多分住職の着るものであらう。変つた室内の光景は三人の注意を引いた。就中、銀之助は克く笑つて、其高い声が台所迄も響くので、奥様は若い人達の話を聞かずに居られなかつた。終にはお志保までも来て、奥様の傍に倚添ひ乍ら聞いた。
急に文平は快活らしくなつた。妙に婦人の居る席では熱心になるのが是男の性分で、二階に三人で話した時から見ると、この下座敷へ来てからは声の調子が違つた。天性愛嬌のある上に、清しい艶のある眸を輝かし乍ら、興に乗つてよもやまの話を初めた時は、確に面白い人だと思はせた。文平はまた、時々お志保の方を注意して見た。お志保は着物の前を掻合せたり、垂れ下る髪の毛を撫付けたりして、人々の物語に耳を傾けて居たのである。
銀之助はそんなことに頓着なしで、軈て思出したやうに、
『たしか吾儕の来る前の年でしたなあ、貴方等の卒業は。』
斯う言つてお志保の顔を眺めた。奥様も娘の方へ振向いた。
『はあ。』と答へた時は若々しい血潮が遽にお志保の頬に上つた。そのすこし羞恥を含んだ色は一層容貌を娘らしくして見せた。
『卒業生の写真が学校に有ますがね、』と銀之助は笑つて、『彼頃から見ると、皆な立派な姉さんに成りましたなあ――どうして吾儕が来た時分には、まだ鼻洟を垂らしてるやうな連中もあつたツけが。』
楽しい笑声は座敷の内に溢れた。お志保は紅くなつた。斯ういふ間にも、独り丑松は洋燈の火影に横になつて、何か深く物を考へて居たのである。
(五)
『ねえ、奥様。』と銀之助が言つた。『瀬川君は非常に沈んで居ますねえ。』
『左様さ――』と奥様は小首を傾げる。
『一昨々日、』と銀之助は丑松の方を見て、『君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇したらう。彼時の君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時そこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地がしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様思つた。あゝ、また彼の先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければ可がなあと。彼様いふ本を読むのは、君、可くないよ。』
『何故?』と丑松は身を起した。
『だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。』
『感化を受けたつても可いぢやないか。』
『そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様いふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにも彼の真似を為なくてもよからう――彼程極端に悲まなくてもよからう。』
『では、貧民とか労働者とか言ふやうなものに同情を寄せるのは不可と言ふのかね。』
『不可と言ふ訳では無いよ。僕だつても、美しい思想だとは思ふさ。しかし、君のやうに、左様考へ込んで了つても困る。何故君は彼様いふものばかり読むのかね、何故君は沈んでばかり居るのかね――一体、君は今何を考へて居るのかね。』
『僕かい? 別に左様深く考へても居ないさ。君等の考へるやうな事しか考へて居ないさ。』
『でも何かあるだらう。』
『何かとは?』
『何か原因がなければ、そんなに性質の変る筈が無い。』
『僕は是で変つたかねえ。』
『変つたとも。全然師範校時代の瀬川君とは違ふ。彼の時分は君、ずつと快活な人だつたあね。だから僕は斯う思ふんだ――元来君は欝いでばかり居る人ぢや無い。唯あまり考へ過ぎる。もうすこし他の方面へ心を向けるとか、何とかして、自分の性質を伸ばすやうに為たら奈何かね。此頃から僕は言はう/\と思つて居た。実際、君の為に心配して居るんだ。まあ身体の具合でも悪いやうなら、早く医者に診せて、自分で自分を救ふやうに為るが可ぢやないか。』
暫時座敷の中は寂として話声が絶えた。丑松は何か思出したことがあると見え、急に喪心した人のやうに成つて、茫然として居たが。やがて気が付いて我に帰つた頃は、顔色がすこし蒼ざめて見えた。
『どうしたい、君は。』と銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『はゝゝゝゝ、妙に黙つて了つたねえ。』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
と丑松は笑ひ紛して了つた。銀之助も一緒になつて笑つた。奥様とお志保は二人の顔を見比べて、熱心に聞き惚れて居たのである。
『土屋君は「懴悔録」を御読みでしたか。』と文平は談話を引取つた。
『否、未だ読んで見ません。』斯う銀之助は答へた。
『何か彼の猪子といふ先生の書いたものを御覧でしたか――私は未だ何にも読んで見ないんですが。』
『左様ですなあ、僕の読んだのは「労働」といふものと、それから「現代の思潮と下層社会」――あれを瀬川君から借りて見ました。なか/\好いところが有ますよ、力のある深刻な筆で。』
『一体彼の先生は何処を出た人なんですか。』
『たしか高等師範でしたらう。』
『斯ういふ話を聞いたことが有ましたツけ。彼の先生が長野に居た時分、郷里の方でも兎に角彼様いふ人を穢多の中から出したのは名誉だと言つて、講習に頼んださうです。そこで彼の先生が出掛けて行つた。すると宿屋で断られて、泊る所が無かつたとか。其様なことが面白くなくて長野を去るやうになつた、なんて――まあ、師範校を辞めてから、彼の先生も勉強したんでせう。妙な人物が新平民なぞの中から飛出したものですなあ。』
『僕も其は不思議に思つてる。』
『彼様な下等人種の中から、兎に角思想界へ頭を出したなんて、奈何しても私には其理由が解らない。』
『しかし、彼の先生は肺病だと言ふから、あるひは其病気の為に、彼処まで到つたものかも知れません。』
『へえ、肺病ですか。』
『実際病人は真面目ですからなあ。「死」といふ奴を眼前に置いて、平素考へて居るんですからなあ。彼の先生の書いたものを見ても、何となく斯う人に迫るやうなところがある。あれが肺病患者の特色です。まあ彼の病気の御蔭で豪く成つた人はいくらもある。』
『はゝゝゝゝ、土屋君の観察は何処迄も生理的だ。』
『いや、左様笑つたものでも無い。見たまへ、病気は一種の哲学者だから。』
『して見ると、穢多が彼様いふものを書くんぢや無い、病気が書かせるんだ――斯う成りますね。』
『だつて、君、左様釈るより外に考へ様は無いぢやないか――唯新平民が美しい思想を持つとは思はれないぢやないか――はゝゝゝゝ。』
斯ういふ話を銀之助と文平とが為して居る間、丑松は黙つて、洋燈の火を熟視めて居た。自然と外部に表れる苦悶の情は、頬の色の若々しさに交つて、一層その男らしい容貌を沈欝にして見せたのである。
茶が出てから、三人は別の話頭に移つた。奥様は旅先の住職の噂なぞを始めて、客の心を慰める。子坊主は隣の部屋の柱に凭れて、独りで舟を漕いで居た。台所の庭の方から、遠く寂しく地響のやうに聞えるは、庄馬鹿が米を舂く音であらう。夜も更けた。
(六)
友達が帰つた後、丑松は心の激昂を制へきれないといふ風で、自分の部屋の内を歩いて見た。其日の物語、あの二人の言つた言葉、あの二人の顔に表れた微細な感情まで思出して見ると、何となく胸肉の戦慄へるやうな心地がする。先輩の侮辱されたといふことは、第一口惜しかつた。賤民だから取るに足らん。斯ういふ無法な言草は、唯考へて見たばかりでも、腹立たしい。あゝ、種族の相違といふ屏の前には、いかなる熱い涙も、いかなる至情の言葉も、いかなる鉄槌のやうな猛烈な思想も、それを動かす力は無いのであらう。多くの善良な新平民は斯うして世に知られずに葬り去らるゝのである。
斯の思想に刺激されて、寝床に入つてからも丑松は眠らなかつた。目を開いて、頭を枕につけて、種々に自分の一生を考へた。鼠が復た顕れた。畳の上を通る其足音に妨げられては、猶々夢を結ばない。一旦吹消した洋燈を細目に点けて、枕頭を明くして見た。暗い部屋の隅の方に影のやうに動く小な動物の敏捷さ、人を人とも思はず、長い尻尾を振り乍ら、出たり入つたりする其有様は、憎らしくもあり、をかしくもあり、『き、き』と鳴く声は斯の古い壁の内に秋の夜の寂寥を添へるのであつた。
それからそれへと丑松は考へた。一つとして不安に思はれないものはなかつた。深く注意した積りの自分の行為が、反つて他に疑はれるやうなことに成らうとは――まあ、考へれば考へるほど用意が無さ過ぎた。何故、あの大日向が鷹匠町の宿から放逐された時に、自分は静止として居なかつたらう。何故、彼様に泡を食つて、斯の蓮華寺へ引越して来たらう。何故、あの猪子蓮太郎の著述が出る度に、自分は其を誇り顔に吹聴したらう。何故、彼様に先輩の弁護をして、何か斯う彼の先輩と自分との間には一種の関係でもあるやうに他に思はせたらう。何故、彼の先輩の名前を彼様他の前で口に出したらう。何故、内証で先輩の書いたものを買はなかつたらう。何故、独りで部屋の内に隠れて、読みたい時に密と出して読むといふ智慧が出なかつたらう。
思ひ疲れるばかりで、結局は着かなかつた。
一夜は斯ういふ風に、褥の上で慄へたり、煩悶したりして、暗いところを彷徨つたのである。翌日になつて、いよ/\丑松は深く意を配るやうに成つた。過去つた事は最早仕方が無いとして、是から将来を用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、彼の先輩に関したことは決して他の前で口に出すまい。斯う用心するやうに成つた。
さあ、父の与へた戒は身に染々と徹へて来る。『隠せ』――実にそれは生死の問題だ。あの仏弟子が墨染の衣に守り窶れる多くの戒も、是の一戒に比べては、寧そ何でもない。祖師を捨てた仏弟子は、堕落と言はれて済む。親を捨てた穢多の子は、堕落でなくて、零落である。『決してそれとは告白けるな』とは堅く父も言ひ聞かせた。これから世に出て身を立てようとするものが、誰が好んで告白けるやうな真似を為よう。
丑松も漸く二十四だ。思へば好い年齢だ。
噫。いつまでも斯うして生きたい。と願へば願ふほど、余計に穢多としての切ない自覚が湧き上るのである。現世の歓楽は美しく丑松の眼に映じて来た。たとへ奈何なる場合があらうと、大切な戒ばかりは破るまいと考へた。