破戒 島崎藤村

.

 
   第参章
 
       (一)
 
 もとより銀之助は丑松の素性を知る筈がない。二人は長野の師範校に居る頃から、極く好く気性の合つた友達で、丑松が佐久小県さくちひさがたあたりの灰色の景色を説き出すと、銀之助は諏訪湖すはこほとりの生れ故郷の物語を始める、丑松が好きな歴史の話をすれば、銀之助は植物採集の興味を、と言つたやうな風に、互ひに語り合つた寄宿舎の窓は二人の心を結びつけた。同窓の記憶はいつまでも若く青々として居る。銀之助は丑松のことを思ふ度に昔を思出して、何となく時の変遷うつりかはりを忍ばずには居られなかつた。同じ寄宿舎の食堂に同じ引割飯のにほひを嗅いだ其友達に思ひ比べると、実に丑松の様子の変つて来たことは。あの憂欝いううつ――丑松が以前の快活な性質を失つた証拠は、眼付で解る、歩き方で解る、談話はなしをする声でも解る。一体、何が原因もとで、あんなに深く沈んで行くのだらう。とんと銀之助には合点が行かない。『何かある――必ず何か訳がある。』斯う考へて、どうかして友達に忠告したいと思ふのであつた。
 丑松が蓮華寺へ引越した翌日あくるひ、丁度日曜、午後から銀之助は尋ねて行つた。途中で文平と一緒になつて、二人して苔蒸こけむした石の階段を上ると、咲残る秋草のみちの突当つたところに本堂、左は鐘楼、右が蔵裏であつた。六角形に出来た経堂の建築物たてものもあつて、勾配のついた瓦屋根や、大陸風の柱や、白壁や、すべて過去の壮大と衰頽すゐたいとを語るかのやうに見える。黄ばんだ銀杏いてふの樹の下に腰をこゞめ乍ら、余念もなく落葉を掃いて居たのは、寺男の庄太。『瀬川君は居りますか。』と言はれて、馬鹿丁寧な挨拶。やがて庄太ははうきをそこに打捨てゝ置いて、跣足すあしまゝで蔵裏の方へ見に行つた。
 急に丑松の声がした。あふむいて見ると、銀杏いてふに近い二階の窓の障子を開けて、顔を差出して呼ぶのであつた。
『まあ、上りたまへ。』
 と復た呼んだ。
 
       (二)
 
 銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯はしごだんを上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物ほんと雑誌のたぐひまで、すべて黄に反射して見える。冷々ひや/″\とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽さはやかな思を送るのであつた。机の上には例の『懴悔録』、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出してすゝめた。
『よく君は引越して歩く人さ。』と銀之助は身辺あたりを眺め廻し乍ら言つた。『一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。』
何故なぜ御引越になつたんですか。』と文平も尋ねて見る。
『どうも彼処あそこうちやかましくつて――』う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色けしきはもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出おひだされたさうだねえ。』
『さう/\、左様さういふ話ですなあ。』と文平も相槌あひづちを打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様そんな一寸したつまらん事にでも感じて、それであの下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃こなひだ或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居すまひわきに猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳あたまの人になると、捨てられた猫を見たのが移転ひつこしの動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様さうは思はないかね。だから穢多の逐出おひだされた話を聞くと、直に僕はの猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。』
『馬鹿なことを言ひたまへ。』と丑松は反返そりかへつて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑をかしくて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
『いや、戯言じようだんぢやない。』と銀之助は丑松の顔を熟視みまもつた。『実際、君の顔色は好くない――て貰つては奈何どうかね。』
『僕は君、其様そんな病人ぢや無いよ。』と丑松は微笑ほゝゑみ乍ら答へた。
『しかし。』と銀之助は真面目まじめになつて、『自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様さう見た。』
左様さうかねえ、左様見えるかねえ。』
『見えるともサ。妄想まうさう、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、みんな衰弱した神経の見せる幻像まぼろしさ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出おひだされたつて何だ――当然あたりまへぢや無いか。』
『だから土屋君は困るよ。』と丑松は対手あひての言葉をさへぎつた。『何時いつでも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。』
『すこし左様さういふ気味も有ますなあ。』と文平は如才なく。
『だつて引越し方があんまり唐突だしぬけだからさ。』と言つて、銀之助は気を変へて、『しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。』
以前まへから僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。』と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治けさぢ(北信に多くある女の名)が湯沸ゆわかしを持つて入つて来た。
 
       (三)
 
 信州人ほど茶をたしなむ手合も鮮少すくなからう。ういふ飲料のみものを好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張やはり茶好の仲間にはれなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶椀を口唇くちびる押宛おしあながら、かうばしくあぶられた茶の葉のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。まあ蘇生いきかへつたやうな心地こゝろもちになる。やがて丑松は茶椀を下に置いて、寺住の新しい経験を語り始めた。
『聞いて呉れ給へ。昨日の夕方、僕はこの寺の風呂に入つて見た。一日働いて疲労くたぶれて居るところだつたから、入つた心地こゝろもちは格別さ。明窓あかりまどの障子を開けて見ると※(「くさかんむり/宛」、第3水準1-90-92)しをんの花なぞが咲いてるぢやないか。其時僕は左様さう思つたねえ。風呂に入り乍ら蟋蟀きり/″\すを聴くなんて、成程なるほど寺らしい趣味だと思つたねえ。今迄の下宿とは全然まるで様子が違ふ――まあ僕は自分のうちへでも帰つたやうな心地こゝろもちがしたよ。』
左様さうさなあ、普通の下宿ほど無趣味なものは無いからなあ。』と銀之助は新しい巻煙草に火をけた。
『それから君、種々いろ/\なことがある。』と丑松は言葉を継いで、『第一、鼠の多いには僕も驚いた。』
『鼠?』と文平も膝を進める。
昨夜ゆうべは僕の枕頭まくらもとへも来た。れなければ、鼠だつて気味が悪いぢやないか。あまり不思議だから、今朝其話をしたら、奥様の言草が面白い。猫を飼つて鼠を捕らせるよりか、自然に任せて養つてやるのが慈悲だ。なあに、食物くひものさへ宛行あてがつてれば、其様そんな悪戯いたづらする動物ぢや無い。吾寺うちの鼠は温順おとなしいから御覧なさいツて。成程左様さう言はれて見ると、少許すこしも人をおそれない。白昼ひるまですら出てあすんで居る。はゝゝゝゝ、寺のなか光景けしきは違つたものだと思つたよ。』
『そいつは妙だ。』と銀之助は笑つて、『余程奥様といふ人は変つた婦人をんなと見えるね。』
『なに、それほど変つても居ないが、普通の人よりは宗教的なところがあるさ。さうかと思ふと、吾儕わたしどもだつて高砂たかさごで一緒になつたんです、なんて、其様そんなことを言出す。だから、尼僧あまともつかず、大黒だいこくともつかず、と言つて普通のうちの細君でもなし――まあ、門徒寺もんとでらに日を送る女といふものは僕も初めて見た。』
『外にはどんな人が居るのかい。』斯う銀之助は尋ねた。
『子坊主が一人。下女。それに庄太といふ寺男。ホラ、君等の入つて来た時、庭を掃いて居た男があつたらう。あれ左様さうだあね。誰も彼男あのをとこを庄太と言ふものは無い――みんな「庄馬鹿」と言つてる。日に五度ごたびづつ、払暁あけがた、朝八時、十二時、入相いりあひ、夜の十時、これだけの鐘をくのが彼男あのをとこ勤務つとめなんださうだ。』
『それから、あの何は。住職は。』とまた銀之助が聞いた。
『住職は今留守さ。』
 斯う丑松は見たり聞いたりしたことを取交ぜて話したのであつた。しまひに、敬之進の娘で、是寺へ貰はれて来て居るといふ、そのお志保の話も出た。
『へえ、風間さんの娘なんですか。』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『此頃こなひだ一度校友会に出て来た――ホラ、あの人でせう?』
『さう/\。』と丑松も思出したやうに、『たしか僕等の来る前の年に卒業して出た人です。土屋君、左様さうだつたねえ。』
『たしか左様だ。』
 
       (四)
 
 其日蓮華寺の台所では、先住の命日と言つて、精進物しやうじんものを作るので多忙いそがしかつた。月々の持斎ぢさいには経を上げ膳を出す習慣ならはしであるが、殊に其日は三十三回忌とやらで、好物の栗飯をいて、仏にも供へ、下宿人にも振舞ひたいと言ふ。寺内の若僧の妻までも来て手伝つた。用意の調とゝのつた頃、奥様は台所をひとに任せて置いて、丑松の部屋へ上つて来た。丑松も、銀之助も、文平も、この話好きな奥様の目には、三人の子のやうに映つたのである。昔者とは言ひ乍ら、書生の談話はなしも解つて、よく種々いろ/\なことを知つて居た。時々宗教をしへの話なぞも持出した。奥様はまた十二月二十七日の御週忌の光景ありさまを語り聞かせた。其冬の日は男女をとこをんなの檀徒が仏の前に集つて、記念の一夜を送るといふ昔からの習慣を語り聞かせた。説教もあり、読経もあり、御伝抄おでんせうの朗読もあり、十二時には男女一同御夜食の膳に就くなぞ、其御通夜の儀式のさま/″\を語り聞かせた。
『なむあみだぶ。』
 と奥様は独語のやうに繰返して、やがて敬之進の退職のことを尋ねる。
 奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とはく住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\よりが元へ戻つて了ふ。飲めばこまるといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸ふしあはせな父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
左様さうですか――いよ/\退職になりましたか。』
 斯う言つて奥様は嘆息した。
『道理で。』と丑松は思出したやうに、『昨日私が是方こちらへ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様さう言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。』
『へえ、吾寺うちの前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。』
 と奥様はた深い溜息をいた。
 斯ういふ談話はなしさまたげられて、銀之助は思ふことを尽さなかつた。折角せつかく言ふ積りで来て、それを尽さずに帰るのも残念だし、栗飯が出来たからと引留められもするし、夜にでもなつたらば、と斯う考へて、心の中では友達のことばかり案じつゞけて居た。
 夕飯は例になく蔵裏くりの下座敷であつた。宵の勤行おつとめも済んだと見えて、給仕は白い着物を着た子坊主がして呉れた。五分心ごぶしんの灯は香の煙に交る夜の空気を照らして、高い天井の下をおもしろく見せる。古壁に懸けてある黄な法衣ころもは多分住職の着るものであらう。変つた室内の光景ありさまは三人の注意を引いた。就中わけても、銀之助はく笑つて、其高い声が台所迄も響くので、奥様は若い人達の話を聞かずに居られなかつた。しまひにはお志保までも来て、奥様の傍に倚添よりそひ乍ら聞いた。
 急に文平は快活らしくなつた。妙に婦人の居る席では熱心になるのが是男の性分で、二階に三人で話した時から見ると、この下座敷へ来てからは声の調子が違つた。天性愛嬌あいけうのある上に、すゞしい艶のあるひとみを輝かし乍ら、興に乗つてよもやまの話を初めた時は、確に面白い人だと思はせた。文平はまた、時々お志保の方を注意して見た。お志保は着物の前を掻合せたり、垂れ下る髪の毛を撫付けたりして、人々の物語に耳を傾けて居たのである。
 銀之助はそんなことに頓着なしで、やがて思出したやうに、
『たしか吾儕わたしどもの来る前の年でしたなあ、貴方等あなたがたの卒業は。』
 斯う言つてお志保の顔を眺めた。奥様も娘の方へ振向いた。
『はあ。』と答へた時は若々しい血潮がにはかにお志保の頬に上つた。そのすこし羞恥はぢを含んだ色は一層ひとしほ容貌おもばせを娘らしくして見せた。
『卒業生の写真が学校に有ますがね、』と銀之助は笑つて、『彼頃あのころから見ると、みんな立派な姉さんに成りましたなあ――どうして吾儕わたしどもが来た時分には、まだ鼻洟はなを垂らしてるやうな連中もあつたツけが。』
 楽しい笑声は座敷の内にあふれた。お志保はあかくなつた。斯ういふ間にも、独り丑松は洋燈ランプ火影ほかげに横になつて、何か深く物を考へて居たのである。
 
       (五)
 
『ねえ、奥様。』と銀之助が言つた。『瀬川君は非常に沈んで居ますねえ。』
左様さやうさ――』と奥様は小首をかしげる。
一昨々日さきをとゝひ、』と銀之助は丑松の方を見て、『君が斯のお寺へ部屋を捜しに来た日だ――ホラ、僕が散歩してると、丁度本町で君に遭遇でつくはしたらう。彼時あのときの君の考へ込んで居る様子と言つたら――僕は暫時しばらくそこに突立つて、君の後姿を見送つて、何とも言ひ様の無い心地こゝろもちがしたねえ。君は猪子先生の「懴悔録」を持つて居た。其時僕は左様さう思つた。あゝ、またの先生の書いたものなぞを読んで、神経を痛めなければいゝがなあと。彼様あゝいふ本を読むのは、君、可くないよ。』
『何故?』と丑松は身を起した。
『だつて、君、あまり感化を受けるのは可くないからサ。』
『感化を受けたつても可いぢやないか。』
『そりやあ好い感化なら可いけれども、悪い感化だから困る。見たまへ、君の性質が変つて来たのは、彼の先生のものを読み出してからだ。猪子先生は穢多だから、彼様あゝいふ風に考へるのも無理は無い。普通の人間に生れたものが、なにもの真似を為なくてもよからう――彼程あれほど極端に悲まなくてもよからう。』
『では、貧民とか労働者とか言ふやうなものに同情を寄せるのは不可いかんと言ふのかね。』
『不可と言ふ訳では無いよ。僕だつても、美しい思想だとは思ふさ。しかし、君のやうに、左様さう考へ込んで了つても困る。何故君は彼様あゝいふものばかり読むのかね、何故君は沈んでばかり居るのかね――一体、君は今何を考へて居るのかね。』
『僕かい? 別に左様さう深く考へても居ないさ。君等の考へるやうな事しか考へて居ないさ。』
『でも何かあるだらう。』
『何かとは?』
『何か原因がなければ、そんなに性質の変る筈が無い。』
『僕は是で変つたかねえ。』
『変つたとも。全然まるで師範校時代の瀬川君とは違ふ。の時分は君、ずつと快活な人だつたあね。だから僕は斯う思ふんだ――元来君はふさいでばかり居る人ぢや無い。唯あまり考へ過ぎる。もうすこし他の方面へ心を向けるとか、何とかして、自分の性質を伸ばすやうに為たら奈何どうかね。此頃こなひだから僕は言はう/\と思つて居た。実際、君の為に心配して居るんだ。まあ身体の具合でも悪いやうなら、早く医者に診せて、自分で自分を救ふやうに為るがいゝぢやないか。』
 暫時しばらく座敷の中はしんとして話声が絶えた。丑松は何か思出したことがあると見え、急に喪心した人のやうに成つて、茫然ばうぜんとして居たが。やがて気が付いて我に帰つた頃は、顔色がすこし蒼ざめて見えた。
『どうしたい、君は。』と銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めて、『はゝゝゝゝ、妙に黙つて了つたねえ。』
『はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
 と丑松は笑ひまぎらはして了つた。銀之助も一緒になつて笑つた。奥様とお志保は二人の顔を見比べて、熱心に聞き惚れて居たのである。
『土屋君は「懴悔録」を御読みでしたか。』と文平は談話はなしを引取つた。
いゝえだ読んで見ません。』斯う銀之助は答へた。
『何か彼の猪子といふ先生の書いたものを御覧でしたか――私は未だなんにも読んで見ないんですが。』
左様さうですなあ、僕の読んだのは「労働」といふものと、それから「現代の思潮と下層社会」――あれを瀬川君から借りて見ました。なか/\好いところが有ますよ、力のある深刻な筆で。』
『一体彼の先生は何処を出た人なんですか。』
『たしか高等師範でしたらう。』
『斯ういふ話を聞いたことが有ましたツけ。彼の先生が長野に居た時分、郷里の方でもかく彼様あゝいふ人を穢多の中から出したのは名誉だと言つて、講習に頼んださうです。そこで彼の先生が出掛けて行つた。すると宿屋で断られて、泊る所が無かつたとか。其様そんなことが面白くなくて長野を去るやうになつた、なんて――まあ、師範校をめてから、彼の先生も勉強したんでせう。妙な人物が新平民なぞの中から飛出したものですなあ。』
『僕も其は不思議に思つてる。』
彼様あんな下等人種の中から、兎に角思想界へ頭を出したなんて、奈何どうしても私には其理由が解らない。』
『しかし、彼の先生は肺病だと言ふから、あるひは其病気の為に、彼処あそこまでつたものかも知れません。』
『へえ、肺病ですか。』
『実際病人は真面目ですからなあ。「死」といふ奴を眼前めのまへに置いて、平素しよつちゆう考へて居るんですからなあ。彼の先生の書いたものを見ても、何となく斯う人に迫るやうなところがある。あれが肺病患者の特色です。まあ彼の病気の御蔭でえらく成つた人はいくらもある。』
『はゝゝゝゝ、土屋君の観察は何処迄も生理的だ。』
『いや、左様さう笑つたものでも無い。見たまへ、病気は一種の哲学者だから。』
『して見ると、穢多が彼様あゝいふものを書くんぢや無い、病気が書かせるんだ――斯う成りますね。』
『だつて、君、左様さうさとるより外に考へ様は無いぢやないか――唯新平民が美しい思想を持つとは思はれないぢやないか――はゝゝゝゝ。』
 斯ういふ話を銀之助と文平とが為して居る間、丑松は黙つて、洋燈ランプの火を熟視みつめて居た。自然おのづ外部そとに表れる苦悶の情は、頬の色の若々しさに交つて、一層その男らしい容貌おもばせ沈欝ちんうつにして見せたのである。
 茶が出てから、三人は別の話頭はなしに移つた。奥様は旅先の住職のうはさなぞを始めて、客の心を慰める。子坊主は隣の部屋の柱にもたれて、独りで舟を漕いで居た。台所の庭の方から、遠く寂しく地響のやうに聞えるは、庄馬鹿が米をく音であらう。夜もけた。
 
       (六)
 
 友達が帰つた後、丑松は心の激昂をおさへきれないといふ風で、自分の部屋の内を歩いて見た。其日の物語、あの二人の言つた言葉、あの二人の顔に表れた微細な感情まで思出して見ると、何となく胸肉むなじゝ戦慄ふるへるやうな心地がする。先輩の侮辱されたといふことは、第一口惜くやしかつた。賤民だから取るに足らん。ういふ無法な言草は、唯考へて見たばかりでも、腹立たしい。あゝ、種族の相違といふ※(「てへん+當」、第4水準2-13-50)わだかまりの前には、いかなる熱い涙も、いかなる至情の言葉も、いかなる鉄槌てつつゐのやうな猛烈な思想も、それを動かす力は無いのであらう。多くの善良な新平民は斯うして世に知られずに葬り去らるゝのである。
 思想かんがへに刺激されて、寝床に入つてからも丑松は眠らなかつた。目を開いて、頭を枕につけて、種々さま/″\に自分の一生を考へた。鼠が復た顕れた。畳の上を通る其足音に妨げられては、猶々なほ/\夢を結ばない。一旦吹消した洋燈を細目にけて、枕頭まくらもとを明くして見た。暗い部屋の隅の方に影のやうに動くちひさな動物の敏捷はしこさ、人を人とも思はず、長い尻尾を振り乍ら、出たり入つたりする其有様は、憎らしくもあり、をかしくもあり、『き、き』と鳴く声は斯の古い壁の内に秋の夜の寂寥さびしさを添へるのであつた。
 それからそれへと丑松は考へた。一つとして不安に思はれないものはなかつた。深く注意した積りの自分の行為おこなひが、反つてひとに疑はれるやうなことに成らうとは――まあ、考へれば考へるほど用意が無さ過ぎた。何故なぜ、あの大日向が鷹匠町の宿から放逐された時に、自分は静止じつとして居なかつたらう。何故なぜ彼様あんなに泡を食つて、斯の蓮華寺へ引越して来たらう。何故、あの猪子蓮太郎の著述が出る度に、自分は其を誇り顔に吹聴ふいちやうしたらう。何故、彼様に先輩の弁護をして、何か斯う彼の先輩と自分との間には一種の関係でもあるやうにひとに思はせたらう。何故、彼の先輩の名前を彼様あゝひとの前で口に出したらう。何故、内証で先輩の書いたものを買はなかつたらう。何故、独りで部屋の内に隠れて、読みたい時にそつと出して読むといふ智慧が出なかつたらう。
 思ひ疲れるばかりで、結局まとまりは着かなかつた。
 一夜は斯ういふ風に、しとねの上でふるへたり、煩悶はんもんしたりして、暗いところを彷徨さまよつたのである。翌日あくるひになつて、いよ/\丑松は深くこゝろを配るやうに成つた。過去すぎさつた事は最早もう仕方が無いとして、これから将来さきを用心しよう。蓮太郎の名――人物――著述――一切、の先輩に関したことは決してひとの前で口に出すまい。斯う用心するやうに成つた。
 さあ、父の与へたいましめは身に染々しみ/″\こたへて来る。『隠せ』――実にそれは生死いきしにの問題だ。あの仏弟子が墨染の衣に守りやつれる多くの戒も、の一戒に比べては、いつそ何でもない。祖師を捨てた仏弟子は、堕落と言はれて済む。親を捨てた穢多の子は、堕落でなくて、零落である。『決してそれとは告白うちあけるな』とは堅く父も言ひ聞かせた。これから世に出て身を立てようとするものが、誰が好んで告白うちあけるやうな真似を為よう。
 丑松もやうやく二十四だ。思へば好い年齢としだ。
 あゝ。いつまでも斯うして生きたい。と願へば願ふほど、余計に穢多としての切ない自覚が湧き上るのである。現世の歓楽は美しく丑松の眼に映じて来た。たとへ奈何いかなる場合があらうと、大切な戒ばかりは破るまいと考へた。
 
 

Pages 1 2 3 4 5 6 7 8 9