破戒 島崎藤村

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   第四章
 
       (一)
 
 郊外は収穫とりいれの為にせはしい時節であつた。農夫の群はいづれも小屋を出て、午後の労働に従事して居た。の稲は最早もう悉皆すつかり刈り乾して、すでに麦さへ蒔付まきつけたところもあつた。一年ひとゝせの骨折の報酬むくいを収めるのは今である。雪の来ない内に早く。斯うして千曲川の下流に添ふ一面の平野は、宛然あだかも、戦場の光景ありさまであつた。
 其日、丑松は学校から帰ると直に蓮華寺を出て、平素ふだんの勇気を回復とりかへす積りで、何処へ行くといふ目的めあても無しに歩いた。新町の町はづれから、枯々な桑畠の間を通つて、思はずの郊外の一角へ出たのである。積上げた『わらによ』の片蔭に倚凭よりかゝつて、霜枯れた雑草の上に足を投出し乍ら、肺の底までも深く野の空気を吸入れた時は、僅に蘇生いきかへつたやうな心地こゝろもちになつた。見れば男女の農夫。そこに親子、こゝに夫婦、黄に揚る塵埃ほこりを満身に浴びながら、我劣らじと奮闘をつゞけて居た。もみを打つつちの音は地に響いて、稲扱いねこく音に交つて勇しく聞える。立ちのぼる白い煙もところ/″\。雀の群は時々空に舞揚つて、騒しく鳴いて、やがてまたぱツと田の面に散乱れるのであつた。
 秋の日は烈しく照りつけて、人々には言ふに言はれぬ労苦を与へた。男は皆な頬冠ほつかぶり、女は皆な編笠あみがさであつた。それはめづらしく乾燥はしやいだ、風の無い日で、汗は人々の身体を流れたのである。野に満ちた光を通して、丑松は斯の労働の光景ありさまを眺めて居ると、不図ふと倚凭よりかゝつた『藁によ』のわきを十五ばかりの一人の少年が通る。日に焼けた額と、柔嫩やはらかな目付とで、直に敬之進のせがれと知れた。省吾しやうごといふのが其少年の名で、丁度丑松が受持の高等四年の生徒なのである。丑松は其容貌かほつきを見る度に、彼の老朽な教育者を思出さずには居られなかつた。
『風間さん、何処どちらへ?』
 斯う声を掛けて見る。
『あの、』と省吾は言淀いひよどんで、『母さんが沖(野外)に居やすから。』
『母さん?』
『あれ彼処に――先生、あれが吾家うちの母さんでごはす。』
 と省吾は指差して見せて、すこし顔をあかくした。同僚の細君のうはさ、それを丑松も聞かないでは無かつたが、然し眼前めのまへに働いて居る女が其人とはすこしも知らなかつた。古びた上被うはつぱり、茶色の帯、盲目縞めくらじま手甲てつかふ、編笠に日をけて、身体を前後に動かし乍ら、※(「足へん+昔」、第4水準2-89-36)せつせと稲の穂を扱落こきおとして居る。信州北部の女はいづれも強健つよい気象のものばかり。く働くことに掛けては男子にもまさる程であるが、教員の細君で野面のらにまで出て、烈しい気候を相手に精出すものも鮮少すくない。これも境遇からであらう、と憐んで見て居るうちに、省吾はまた指差して、彼の槌を振上げてもみを打つ男、あれは手伝ひに来たむかしからの出入のもので、音作といふ百姓であると話した。母と彼男あのをとことの間に、を高く頭の上に載せ、少許すこしづつ籾を振ひ落して居る女、あれは音作の『おかた』(女房)であると話した。丁度其女房が箕を振る度に、空殻しひなほこりが舞揚つて、人々は黄色い烟を浴びるやうに見えた。省吾はまた、母のわきに居る小娘を指差して、彼が異母はらちがひの妹のお作であると話した。
『君の兄弟は幾人いくたりあるのかね。』と丑松は省吾の顔を熟視まもり乍ら尋ねた。
『七人。』といふ省吾の返事。
『随分多勢だねえ、七人とは。君に、姉さんに、尋常科の進さんに、あの妹に――それから?』
『まだ下に妹が一人と弟が一人。一番年長うへの兄さんは兵隊に行つて死にやした。』
『むゝ左様さうですか。』
『其中で、死んだ兄さんと、蓮華寺へ貰はれて行きやした姉さんと、わしと――これだけ母さんが違ひやす。』
『そんなら、君やお志保さんの真実ほんたうの母さんは?』
最早もう居やせん。』
 斯ういふ話をして居ると、不図ふと継母まゝはゝの呼声を聞きつけて、ぷいと省吾は駈出して行つて了つた。
 
       (二)
 
『省吾や。おめへはまあ幾歳いくつに成つたら御手伝ひする積りだよ。』と言ふ細君の声は手に取るやうに聞えた。省吾は継母をおそれるといふ様子して、おづ/\と其前に立つたのである。
『考へて見な、もう十五ぢやねえか。』と怒を含んだ細君の声は復た聞えた。『今日は音さんまで御頼申おたのまうして、斯うして塵埃ほこりだらけに成つてかまけて居るのに、それがお前の目には見えねえかよ。母さんが言はねえだつて、さつさと学校から帰つて来て、直に御手伝ひするのが当然あたりまへだ。高等四年にも成つて、※(「阜」の「十」に代えて「虫」、第4水準2-87-44)螽捕いなごとりに夢中に成つてるなんて、其様そんなものが何処にある――与太坊主め。』
 見れば細君は稲扱いねこく手を休めた。音作の女房も振返つて、気の毒さうに省吾の顔を眺め乍ら、前掛を〆直しめなほしたり、身体の塵埃ほこりを掃つたりして、やがて顔に流れる膏汗あぶらあせを拭いた。むしろの上の籾は黄な山を成して居る。音作も亦た槌の長柄に身を支へて、うんと働いた腰を延ばして、濃く青い空気を呼吸した。
『これ、お作や。』と細君の児を叱る声が起つた。『どうして其様そん悪戯いたづらするんだい。女の児は女の児らしくするもんだぞ。真個ほんとに、どいつもこいつも碌なものはありやあしねえ。自分の子ながら愛想あいそが尽きた。見ろ、まあ、進を。お前達二人より余程よつぽど御手伝ひする。』
『あれ、進だつてあすんで居やすよ。』といふのは省吾の声。
『なに、遊んでる?』と細君はすこし声を震はせて、『遊んでるものか。先刻さつきから御子守をして居やす。其様そんなお前のやうな役に立たずぢやねえよ。ちよツ、何ぞと言ふと、直に口答へだ。父さんが過多めた甘やかすもんだから、母さんの言ふことなぞ少許ちつとも聞きやしねえ。真個ほんと図太づない口の利きやうを為る。だから省吾は嫌ひさ。すこし是方こちらが遠慮して居れば、何処迄いゝ気に成るか知れやしねえ。あゝ必定きつとまた蓮華寺へ寄つて、姉さんに何か言付けて来たんだらう。それで斯様こんなに遅くなつたんだらう。内証で隠れて行つて見ろ――酷いぞ。』
『奥様。』と音作は見兼ねたらしい。『何卒どうかまあ、今日こんちのところは、わしに免じて許して下さるやうに。ない(なあと同じ農夫の言葉)、省吾さん、貴方あんたもそれぢやいけやせん。母さんの言ふことを聞かねえやうなものなら、私だつて提棒さげぼう(仲裁)に出るのはもう御免だから。』
 音作の女房も省吾の側へ寄つて、軽く背をたゝいて私語さゝやいた。軈て女房は其手に槌の長柄を握らせて、『さあ、御手伝ひしやすよ。』と亭主の方へ連れて行つた。『どれ、始めずか(始めようか)。』と音作は省吾を相手にし、槌を振つて籾を打ち始めた。『ふむ、よう。』の掛声も起る。細君も、音作の女房も、復た仕事に取懸つた。
 はからず丑松は敬之進の家族を見たのである。の可憐な少年も、お志保も、細君の真実ほんたうの子では無いといふことが解つた。夫の貧を養ふといふ心から、斯うして細君が労苦して居るといふことも解つた。五人の子の重荷と、不幸な夫の境遇とは、細君の心を怒り易く感じ易くさせたといふことも解つた。斯う解つて見ると、猶々なほ/\丑松は敬之進を憐むといふ心を起したのである。
 今はすこし勇気を回復した。あきらかに見、明に考へることが出来るやうに成つた。眼前めのまへひろがる郊外の景色を眺めると、種々さま/″\追憶おもひでは丑松の胸の中を往つたり来たりする。丁度斯うして、田圃たんぼわきに寝そべり乍ら、収穫とりいれ光景さまを眺めたの無邪気な少年の時代を憶出おもひだした。烏帽子ゑぼし一帯の山脈の傾斜を憶出した。其傾斜に連なる田畠と石垣とを憶出した。茅萱ちがや、野菊、其他種々な雑草が霜葉を垂れる畦道あぜみちを憶出した。秋風が田の面を渡つて黄な波を揚げる頃は、※(「阜」の「十」に代えて「虫」、第4水準2-87-44)いなごを捕つたり、野鼠を追出したりして、夜はまた炉辺ろばたで狐とむじなが人を化かした話、山家で言ひはやす幽霊の伝説、放縦ほしいまゝな農夫の男女をとこをんなの物語なぞを聞いて、余念もなく笑ひ興じたことを憶出おもひだした。あゝ、穢多の子といふ辛い自覚の味を知らなかつた頃――思へば一昔――其頃と今とは全く世を隔てたかの心地がする。丑松はまた、あの長野の師範校で勉強した時代のことを憶出した。未だ世の中を知らなかつたところからして、疑ひもせず、疑はれもせず、ひとと自分とを同じやうに考へて、笑つたり騒いだりしたことを憶出した。あの寄宿舎の楽しい窓を憶出した。舎監の赤い髭を憶出した。食堂の麦飯のにほひを憶出した。よく阿弥陀あみだ※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)くじに当つて、買ひに行つた門前の菓子屋の婆さんの顔を憶出した。夜の休息やすみを知らせる鐘が鳴り渡つて、やがて見廻りに来る舎監の靴の音が遠く廊下に響くといふ頃は、沈まりかへつて居た朋輩がた起出して、暗い寝室の内で雑談に耽つたことを憶出した。しまひには往生寺の山の上に登つて、苅萱かるかやの墓のほとりに立ち乍ら、おほきな声を出して呼び叫んだ時代のことを憶出して見ると――実に一生の光景ありさまは変りはてた。楽しい過去の追憶おもひでは今の悲傷かなしみを二重にして感じさせる。『あゝ、あゝ、奈何どうして俺は斯様こんな猜疑深うたがひぶかくなつたらう。』斯う天を仰いで歎息した。急に、意外なところに起る綿のやうな雲を見つけて、しばらく丑松はそれを眺め乍ら考へて居たが、思はず知らず疲労つかれが出て、『藁によ』に倚凭よりかゝつたまゝ寝て了つた。
 
       (三)
 
 ふと眼を覚まして四辺そこいらを見廻した時は、暮色が最早もう迫つて来た。向ふの田の中の畦道あぜみちを帰つて行く人々も見える。荒くれた男女の農夫は幾群か丑松のわきを通り抜けた。くはを担いで行くものもあり、俵を背負つて行くものもあり、中には乳呑児ちのみご抱擁だきかゝへ乍ら足早に家路をさして急ぐのもあつた。秋の一日ひとひの烈しい労働はやうやく終を告げたのである。
 まだ働いて居るものもあつた。敬之進の家族も急いで働いて居た。音作は腰をこゞめ、足に力を入れ、重いたはらを家の方へ運んで行く。後には女二人と省吾ばかり残つて、もみふるつたり、それを俵へ詰めたりして居た。急に『かあさん、かあさん。』と呼ぶ声が起る。見れば省吾の弟、泣いて反返そりかへる児を背負おぶひ乍ら、一人の妹を連れて母親の方へ駈寄つた。『おゝ、おゝ。』と細君は抱取つて、乳房を出してくはへさせて、
『進や。父さんは何してるか、おめへ知らねえかや。』
おら知んねえよ。』
『あゝ。』と細君は襦袢じゆばんの袖口で※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶちを押拭ふやうに見えた。『父さんのことを考へると、働く気もなにも失くなつて了ふ――』
『母さん、作ちやんが。』と進は妹の方を指差し乍ら叫んだ。
『あれ。』と細君は振返つて、『誰だい其袋を開けたものは――誰だい母さんに黙つて其袋を開けたものは。』
『作ちやんは取つて食ひやした。』と進の声で。
真実ほんとに仕方が無いぞい――彼娘あのこは。』と細君は怒気を含んで、『其袋をこゝへ持つて来な――これ、早く持つて来ねえかよ。』
 お作は八歳やつつばかりの女の児。麻の袋を手に提げた儘、母の権幕をおそれて進みかねる。『母さん、おくんな。』と進も他の子供も強請せがみ付く。省吾も其と見て、母の傍へ駈寄つた。細君はお作の手から袋を奪取るやうにして、
『どれ、見せな――そいつたツても、まあ、情ない。道理で先刻さつきから穏順おとなしいと思つた。すこし母さんが見て居ないと、直に斯様こんな真似を為る。黙つて取つて食ふやうなものは、泥棒だぞい――盗人ぬすツとだぞい――ちよツ、何処へでも勝手に行つて了へ、其様そん根性こんじやうの奴は最早もう母さんの子ぢやねえから。』
 斯う言つて、袋の中に残るつめた焼餅おやきらしいものを取出して、細君は三人の児に分けて呉れた。
『母さん、おんにも。』とお作は手を出した。
『何だ、お前は。自分で取つて食つて置き乍ら。』
『母さん、もう一つおくんな。』と省吾は訴へるやうに、『進には二つ呉れて、わしには一つしか呉ねえだもの。』
『お前は兄さんぢやねえか。』
『進には彼様あんな大いのを呉れて。』
『嫌なら、しな、さあ返しな――機嫌くして母さんの呉れるものを貰つたためしはねえ。』
 進は一つ頬張り乍ら、やがて一つの焼餅おやきを見せびらかすやうにして、『省吾の馬鹿――やい、やい。』と呼んだ。省吾は忌々敷いま/\しいといふ様子。いきなり駈寄つて、弟の頭を握拳にぎりこぶしで打つ。弟も利かない気。兄の耳のあたりを打ち返した。二人の兄弟は怒の為に身を忘れて、互に肩を聳して、丁度野獣けもののやうに格闘あらそひを始める。音作の女房が周章あわてゝ二人を引分けた時は、兄弟ともに大な声を揚げて泣叫ぶのであつた。
『どうしてまあ兄弟喧嘩きやうだいげんくわを為るんだねえ。』と細君は怒つて、『左様さうお前達にはたで騒がれると、母さんは最早もう気がちがひさうに成る。』
 斯の光景ありさまを丑松は『藁によ』の蔭に隠れ乍ら見て居た。様子を聞けば聞くほど不幸な家族を憐まずには居られなくなる。急に暮鐘の音に驚かされて、丑松は其処を離れた。
 寂しい秋晩の空に響いて、また蓮華寺の鐘の音が起つた。それは多くの農夫の為に、一日の疲労つかれねぎらふやうにも、楽しい休息やすみうながすやうにも聞える。まだ野に残つて働いて居る人々は、いづれも仕事を急ぎ初めた。今は夕靄ゆふもやの群が千曲川ちくまがはの対岸をめて、高社山かうしやざん一帯の山脈も暗く沈んだ。西の空は急に深い焦茶こげちや色に変つたかと思ふと、やがて落ちて行く秋の日が最後の反射をに投げた。向ふに見えるもりも、村落も、遠く暮色に包まれて了つたのである。あゝ、何の煩ひも思ひ傷むことも無くて、ういふ田園の景色を賞することが出来たなら、どんなにか青春の時代も楽しいものであらう。丑松が胸の中に戦ふ懊悩あうなうを感ずれば感ずる程、余計に他界そとの自然は活々いき/\として、身にみるやうに思はるゝ。南の空には星一つあらはれた。その青々とした美しい姿は、一層夕暮の眺望を森厳おごそかにして見せる。丑松は眺め入り乍ら、自分の一生を考へて歩いた。
『しかし、其が奈何どうした。』と丑松は豆畠の間の細道へさしかゝつた時、自分で自分を※(「厂+萬」、第3水準1-14-84)はげますやうに言つた。『自分だつて社会の一員ひとりだ。自分だつてひとと同じやうに生きて居る権利があるのだ。』
 斯の思想かんがへに力を得て、軈て帰りかけて振返つて見た時は、まだ敬之進の家族が働いて居た。二人の女が冠つた手拭は夕闇に仄白ほのじろく、槌の音は冷々ひや/″\とした空気に響いて、『藁を集めろ』などゝいふ声もかすかに聞える。立つて是方こちらを向いたのは省吾か。今は唯動いて居る暗い影かとばかり、人々の顔も姿も判らない程に暮れた。
 
       (四)
 
『おつかれ』(今晩は)とふ人毎に声を掛けるのは山家の黄昏たそがれ習慣ならはしである。丁度新町の町はづれへ出て、帰つて行く農夫に出逢ふ度に、丑松はこの挨拶を交換とりかはした。一ぜんめし、御休所、笹屋、としてあるうちの前で、また『おつかれ』を繰返したが、其は他の人でもない、例の敬之進であつた。
『おゝ、瀬川君か。』と敬之進は丑松を押留めるやうにして、『好い処で逢つた。何時か一度君とゆつくり話したいと思つて居た。まあ、左様さう急がんでもよからう。今夜は我輩に交際つきあつて呉れてもよからう。斯ういふ処で話すのもた一興だ。是非、君に聞いて貰ひたいこともあるんだから――』
 慫慂そゝのかされて、丑松は敬之進と一緒に笹屋の入口の敷居を跨いで入つた。昼は行商、夜は農夫などが疲労つかれを忘れるのはこゝで、大なには『ぼや』(雑木の枝)の火が赤々と燃上つた。壁に寄せて古甕ふるがめのいくつか並べてあるは、地酒が溢れて居るのであらう。今は農家は忙しい時季ときで、長く御輿みこしゑるものも無い。一人の農夫が草鞋穿わらぢばきまゝ、ぐいと『てツぱ』(こつぷ酒)を引掛けて居たが、やがて其男の姿も見えなくなつて、炉辺ろばたは唯二人の専有ものとなつた。
『今晩は何にいたしやせう。』と主婦かみさんは炉の鍵に大鍋を懸け乍ら尋ねた。『油汁けんちんなら出来やすが、其ぢやいけやせんか。河で捕れたかじかもごはす。鰍でも上げやせうかなあ。』
『鰍?』と敬之進は舌なめずりして、『鰍、結構――それに、油汁と来てはこたへられない。斯ういふ晩は暖い物に限りますからね。』
 敬之進は酒慾の為に慄へて居た。素面しらふで居る時は、からもう元気の無い人で、言葉もすくなく、病人のやうに見える。五十の上を一つか二つも越したらうか、年の割合にはふけたといふでも無く、まだ髪は黒かつた。丑松は『藁によ』の蔭で見たり聞いたりした家族のことを思ひ浮べて、一層斯人このひとに親しくなつたやうな心地がした。『ぼや』の火も盛んに燃えた。大鍋の中の油汁けんちん沸々ふつ/\と煮立つて来て、甘さうなにほひが炉辺に満溢みちあふれる。主婦かみさんは其を小丼こどんぶりに盛つて出し、酒は熱燗あつかんにして、一本づゝ古風な徳利を二人の膳の上に置いた。
『瀬川君。』と敬之進は手酌でちびり/\始め乍ら、『君が飯山へ来たのは何時でしたつけねえ。』
わたしですか。私が来てから最早もう足掛三年に成ります。』と丑松は答へた。
『へえ、其様そんなに成るかねえ。つい此頃こなひだのやうにしか思はれないがなあ。実に月日の経つのは早いものさ。いや、我輩なぞが老込む筈だよ。君等がずん/\進歩するんだもの。我輩だつて、君、一度は君等のやうな時代もあつたよ。明日は、明日は、明日はと思つて居る内に、もう五十といふ声を聞くやうに成つた。我輩のうちと言ふのはね、もと飯山の藩士で、少年の時分から君侯の御側に勤めて、それから江戸表へ――丁度御維新ごいツしんに成る迄。考へて見れば時勢はうつり変つたものさねえ。変遷、変遷――見たまへ、千曲川の岸にある城跡を。の名残の石垣が君等の目にはどう見えるね。斯うつたいちごなどの纏絡まとひついたところを見ると、我輩はもう言ふに言はれないやうな心地こゝろもちになる。何処の城跡へ行つても、大抵は桑畠くはばたけ。士族といふ士族は皆な零落して了つた。今日迄踏堪ふみこたへて、どうにかかうにか遣つて来たものは、と言へば、役場へ出るとか、学校へ勤めるとか、それ位のものさ。まあ、士族ほど役に立たないものは無い――実は我輩も其一人だがね。はゝゝゝゝ。』
 と敬之進は寂しさうに笑つた。やがて盃の酒を飲乾して、一寸舌打ちして、それを丑松へ差し乍ら、
『一つ交換といふことに願ひませうか。』
『まあ、御酌おしやくしませう。』と丑松は徳利を持添へて勧めた。
『それは不可いかん。上げるものは上げる、頂くものは頂くサ。え――君は斯の方はらないのかと思つたが、なか/\いけますねえ。君の御手並を拝見するのは今夜始めてだ。』
『なに、私のは三盃上戸さんばいじやうごといふ奴なんです。』
かく、斯盃は差上げます。それから君のを頂きませう。まあ君だから斯様こんなことを御話するんだが、我輩なぞは二十年も――左様さやうさ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、しまひには教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴はおりはかまで、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様さうぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少わづかの月給で、長い時間を働いて、くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今こゝで我輩が退職するのは智慧ちゑの無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪ふみこたへさへすれば、仮令たとへ僅少わづかでも恩給のさがる位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後さき我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員をめてしまつたら、奈何どうして活計くらしが立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様そんな真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆すつかりもう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、たふれるまで鞭撻むちうたれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』
 
       (五)
 
 急に入つて来た少年に妨げられて、敬之進は口をつぐんだ。流許ながしもと主婦かみさん、暗い洋燈ランプの下で、かちや/\と皿小鉢を鳴らして居たが、其と見て少年の側へ駈寄つた。
『あれ、省吾さんでやすかい。』
 と言はれて、省吾は用事ありげな顔付。
吾家うちの父さんは居りやすか。』
『あゝ居なさりやすよ。』と主婦は答へた。
 敬之進は顔をしかめた。入口の庭の薄暗いところに佇立たゝずんで居る省吾を炉辺ろばたまで連れて来て、つく/″\其可憐な様子をながながら、
奈何どうした――何か用か。』
『あの、』と省吾は言淀いひよどんで、『母さんがねえ、今夜は早く父さんに御帰りなさいツて。』
『むゝ、また呼びによこしたのか――ちよツ、きまりをつてら。』と敬之進は独語ひとりごとのやうに言つた。
『そんなら父さんは帰りなさらないんですか。』と省吾はおづ/\尋ねて見る。
『帰るサ――御話がめば帰るサ。母さんに斯う言へ、父さんは学校の先生と御話して居ますから、其が済めば帰りますツて。』と言つて、敬之進は一段声を低くして、『省吾、母さんは今何してる?』
もみを片付けて居りやす。』
左様さうか、まだ働いてるか。それからの……何か……母さんはまたいつものやうに怒つてやしなかつたか。』
 省吾は答へなかつた。子供心にも、父を憐むといふ目付して、黙つて敬之進の顔を熟視みまもつたのである。
『まあ、つめたさうな手をしてるぢやないか。』と敬之進は省吾の手を握つて、『それ金銭おあしを呉れる。柿でも買へ。母さんや進には内証だぞ。さあ最早もうそれでいゝから、早く帰つて――父さんが今言つた通りに――よしか。解つたか。』
 省吾は首を垂れて、しをれ乍ら出て行つた。
『まあ聞いて呉れたまへ。』と敬之進はた述懐を始めた。『ホラ、君が彼の蓮華寺へ引越す時、我輩も門前まで行きましたらう――実は、君だから斯様こんなこと迄も御話するんだが、彼寺には不義理なことがしてあつて、住職は非常に怒つて居る。我輩が飲む間は、交際つきあはぬといふ。情ないとは思ふけれど、其様そんな関係で、今では娘の顔を見に行くことも出来ないやうな仕末。まあ、彼寺へ呉れて了つたお志保と、省吾と、それから亡くなつた総領と、斯う三人は今の家内の子では無いのさ。せんの家内といふのは、矢張やはり飯山の藩士の娘でね、我輩のうちの楽な時代にかたづいて来て、未だ今のやうに零落しない内にくなつた。だから我輩は彼女あいつのことを考へる度に、一生のうちで一番楽しかつた時代を思出さずには居られない。一盃いつぱいやると、きつと其時代のことを思出すのが我輩の癖で――だつて君、年を取れば、思出すより外に歓楽たのしみが無いのだもの。あゝ、せんの家内はかへつて好い時に死んだ。人間といふものは妙なもので、若い時に貰つた奴がどうしても一番好いやうな気がするね。それに、性質が、今の家内のやうにかん気では無かつたが、そのかはり昔風に亭主に便たよるといふ風で、何処迄どこまでも我輩を信じて居た。蓮華寺へ行つたお志保――彼娘あのこがまた母親にく似て居て、眼付なぞはもう彷彿そつくりさ。彼娘の顔を見ると、直にせんの家内が我輩の眼に映る。我輩ばかりぢやない、ひとが克く其を言つて、昔話なぞを始めるものだから、さあ今の家内は面白くないと見えるんだねえ。正直御話すると、我輩も蓮華寺なぞへ彼娘を呉れたくは無かつた。然し吾家うちに置けば、彼娘の為にならない。第一、其では可愛さうだ。まあ、蓮華寺では非常にほしがるし、奥様も子は無し、それに他の土地とは違つて寺院てらを第一とする飯山ではあり、するところからして、お志保を手放して遣つたやうな訳さ。』
 聞けば聞くほど、丑松は気の毒に成つて来た。成程なるほど左様さう言はれて見れば、落魄らくはく画像ゑすがた其儘そのまゝの様子のうちにも、どうやら武士らしい威厳を具へて居るやうに思はるゝ。
『丁度、それは彼娘の十三の時。』と敬之進は附和つけたして言つた。
 
       (六)
 
あゝ。我輩の生涯しやうがいなぞは実に碌々ろく/\たるものだ。』と敬之進は更に嘆息した。『しかし瀬川君、考へて見て呉れたまへ。君は碌々といふ言葉の内に、どれほどの酸苦が入つて居ると考へる。うして我輩は飲むから貧乏する、と言ふ人もあるけれど、我輩に言はせると、貧乏するから飲むんだ。一日たりとも飲まずには居られない。まあ、我輩も、始の内は苦痛くるしみを忘れる為に飲んだのさ。今では左様さうぢや無い、反つて苦痛を感ずる為に飲む。はゝゝゝゝ。と言ふと可笑をかしく聞えるかも知れないが、一晩でも酒の気が無からうものなら、寂しくて、寂しくて、身体は最早もうがた/\ふるへて来る。寝ても寝られない。左様さうなるとほとんど精神は無感覚だ。察して呉れたまへ――飲んで苦しく思ふ時が、一番我輩に取つては活きてるやうな心地こゝろもちがするからねえ。恥を御話すればいろ/\だが、我輩も飯山学校へ奉職する前には、下高井の在で長く勤めたよ。今の家内を貰つたのは、丁度その下高井に居た時のことさ。そこはそれ、在に生れた女だけあつて、働くことは家内もく働く。霜をつかんで稲を刈るやうなことは到底我輩には出来ないが――我輩がまた其様そんな真似をして見給へ、直に病気だ――ところが彼女あいつには堪へられる。貧苦を忍ぶといふ力は家内の方が反つて我輩より強いね。だから君、最早もう斯う成つた日にやあ、恥も外聞もあつたものぢや無い、私は私でお百姓する、なんて言出して、馬鹿な、女の手で作なぞを始めた。我輩の家にもとから出入りする百姓の音作、あの夫婦が先代の恩返しだと言つて、手伝つては呉れるがね、どうせ左様さううまく行きツこはないさ。それを我輩が言ふんだけれど、どうしても家内は聞入れない。もつとも、我輩は士族だから、一反歩は何坪あるのか、一つかに何斗の年貢を納めるのか、一升まきで何俵のもみが取れるのか、一体ねんに肥料がの位るものか、其様そんなことは薩張さつぱり解らん。現に我輩は家内が何坪借りて作つて居るかといふことも知らない。まあ、家内の量見では、子供に耕作さくでも見習はせて、行く/\は百姓に成つて了ふ積りらしいんだ。そこで毎時いつでも我輩と衝突が起る。どうせ彼様あんな無学な女は子供の教育なんか出来よう筈も無い。実際、我輩の家庭で衝突の起因おこりと言へば必ず子供のことさ。子供がある為に夫婦喧嘩もするやうなものだが、又、その夫婦喧嘩をした為に子供が出来たりする。あゝ、もう沢山たくさんだ、是上出来たら奈何どうしよう、一人子供がふえれば其丈それだけ貧苦を増すのだと思つても、出来るものは君どうも仕方が無いぢやないか。今の家内が三番目の女の児を産んだ時、えゝお末とけてやれ、お末とでも命けたらおしまひに成るか、斯う思つたら――どうでせう、君、直にまた四番目サ。仕方が無いから、今度は留吉とした。まあ、五人の子供に側で泣き立てられて見たまへ。なか/\りきれた訳のものでは無いよ。惨苦、惨苦――我輩は子供の多い貧乏な家庭を見る度に、つく/″\其惨苦を思ひやるねえ。五人の子供ですら食はせるのは容易ぢやない、しまた是上に出来でもしたら、我輩の家なぞでは最早もう奈何どうしていゝか解らん。』
 斯う言つて、敬之進は笑つた。熱い涙は思はず知らず流れ落ちて、零落おちぶれた袖を湿ぬらしたのである。
『我輩は君、これでも真面目なんだよ。』と敬之進は、額と言はず、頬と言はず、あごと言はず、両手で自分の顔を撫で廻した。『どうでせう、省吾の奴も君の御厄介に成つてるが、彼様あんな風で物に成りませうか。もう少許すこし活溌だと好いがねえ。どうも女のやうな気分の奴で、泣易くて困る。平素しよツちゆう弟にいぢめられ通しだ。同じ自分の子で、どれが可愛くて、どれが憎いといふことは有さうも無ささうなものだが、それがそれ、妙なもので、我輩は彼の省吾が可愛さうでならない。彼の通り弱いものだから、其丈それだけ哀憐あはれみも増すのだらうと思ふね。家内はまた弟の進贔顧びいき。何ぞといふと、省吾の方を邪魔にして、無暗むやみに叱るやうなことを為る。そこへ我輩が口を出すと、前妻せんさいの子ばかり可愛がつて進の方は少許ちつとかまつて呉れんなんて――直に邪推だ。だからもう我輩は何にも言はん。家内の為る通りに為せて、黙つて見て居るのさ。成るべく家内には遠ざかるやうにして、そつうちを抜け出して来ては、独りで飲むのが何よりの慰藉たのしみだ。たまに我輩が何か言はうものなら、私は斯様こんな裸体はだかで嫁に来やしなかつたなんて、其を言はれると一言いちごんも無い。実際、彼奴あいつが持つて来た衣類ものは、皆な我輩が飲んで了つたのだから――はゝゝゝゝ。まあ、君等の目から見たら、さぞ我輩の生涯なぞは馬鹿らしく見えるだらうねえ。』
 述懐はかへつて敬之進の胸の中を軽くさせた。其晩は割合に早く酔つて、次第に物の言ひ様もくどく、しまひには呂律ろれつも廻らないやうに成つて了つたのである。
 やがて二人は炉辺ろばたを離れた。勘定は丑松が払つた。笹屋を出たのは八時過とも思はれる頃。夜の空気は暗く町々を包んで、往来の人通りもすくない。気がちがつて独語ひとりごとを言ひ乍ら歩く女、酔つてうちを忘れたやうな男、そんな手合が時々二人に突当つた。敬之進は覚束おぼつかない足許あしもとで、やゝともすれば往来の真中へ倒れさうに成る。酔眼朦朧もうろう、星の光すら其瞳には映りさうにも見えなかつた。よんどころなく丑松は送り届けることにして、ある時は右の腕で敬之進の身体からだを支へるやうにしたり、ある時は肩へ取縋とりすがらせて背負おぶふやうにしたり、ある時は抱擁だきかゝへて一緒に釣合を取り乍ら歩いた。
 やつとの思で、敬之進を家まで連れて行つた時は、まだ細君も音作夫婦も働いて居た。人々は夜露を浴び乍ら、屋外そとで仕事を為て居るのであつた。丑松がちかづくと、それと見た細君は直に斯う声を掛けた。
『あちや、まあ、御困りなすつたでごはせう。』
 
 

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