破戒(11〜最終章) 島崎藤村

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   第弐拾壱章
 
       (一)
 
 学校へ行く準備したくをする為に、朝早く丑松は蓮華寺へ帰つた。庄馬鹿を始め、子坊主迄、談話はなしは蓮太郎の最後、高柳の拘引こういんうはさなぞで持切つて居た。昨日の朝丑松の留守へ尋ねて来た客がくなつた其人である、と聞いた時は、猶々なほ/\一同驚きあきれた。丑松はまた奥様から、妹が長野の方へ帰るやうに成つたこと、住職が手を突いて詑入わびいつたこと、それから夫婦別れの話も――まあ、見合せにしたといふことを聞取つた。
『なむあみだぶ。』
 と奥様は珠数ずゝ爪繰つまぐり乍らとなへて居た。
 丁度十二月朔日ついたちのことで、いつも寺では早く朝飯あさはんすますところからして、丑松の部屋へも袈裟治が膳を運んで来た。うして寺の人と同じやうに早く食ふといふことは、近頃無いためし――朝は必ず生温なまあたゝかい飯に、煮詰つた汁ときまつて居たのが、其日にかぎつては、飯も焚きたてのいきの立つやつで、汁は又、煮立つたばかりの赤味噌のにほひがうまさうに鼻のさきへ来るのであつた。小皿には好物の納豆も附いた。其時丑松は膳に向ひ乍ら、かくも斯うして生きながらへ来た今日迄こんにちまでを不思議に難有ありがたく考へた。あゝ、卑賤いやしい穢多の子の身であると覚期すれば、飯を食ふにも我知らず涙がこぼれたのである。
 朝飯の後、丑松は机に向つて進退伺を書いた。其時一生の戒を思出した。あの父の言葉を思出した。『たとへいかなる目を見ようと、いかなる人に邂逅めぐりあはうと、決して其とは自白うちあけるな、一旦の憤怒いかり悲哀かなしみ是戒このいましめを忘れたら、其時こそ社会よのなかから捨てられたものと思へ。』斯う父は教へたのであつた。『隠せ』――其を守る為には今日迄何程どれほどの苦心を重ねたらう。『忘れるな』――其を繰返す度に何程の猜疑うたがひ恐怖おそれとを抱いたらう。もし父がの世に生きながらへて居たら、まあ気でも狂つたかのやうに自分の思想かんがへの変つたことを憤り悲むであらうか、と想像して見た。仮令たとひ誰が何と言はうと、今はその戒を破り棄てる気で居る。
阿爺おとつさん、堪忍かんにんして下さい。』
 と詑入るやうに繰返した。
 冬の朝日が射して来た。丑松は机を離れて窓の方へ行つた。障子しやうじを開けて眺めると、例の銀杏いてふ枯々かれ/″\こずゑへだてゝ、雪に包まれた町々の光景ありさまが見渡される。板葺いたぶきの屋根、軒廂のきびさし、すべて目に入るかぎりのものは白く埋れて了つて、家と家との間からは青々とした朝餐あさげの煙が静かに立登つた。小学校の建築物たてものも、今、日をうけた。名残惜なごりをしいやうな気に成つて、つめた心地こゝろもちの好い朝の空気を呼吸し乍ら、やゝしばらく眺め入つて居たが、不図胸に浮んだは蓮太郎の『懴悔録』、開巻第一章、『我は穢多なり』と書起してあつたのを今更のやうに新しく感じて、丁度この町の人々に告白するやうに、其文句を窓のところで繰返した。
『我は穢多なり。』
 ともう一度繰返して、それから丑松は学校へ行く準備したくにとりかゝつた。
 
       (二)
 
 破戒――何といふ悲しい、いさましい思想かんがへだらう。う思ひ乍ら、丑松は蓮華寺の山門を出た。とある町の角のところまで歩いて行くと、向ふの方から巡査に引かれて来る四五人の男に出逢であつた。いづれも腰繩を附けられ、あをざめた顔付して、人目をはゞかり乍ら悄々しを/\と通る。中に一人、黒の紋付羽織、白足袋穿ばき、顔こそ隠して見せないが、当世風の紳士姿は直に高柳利三郎と知れた。く見ると、一緒に引かれて行く怪しげな風体の人々は、高柳の為に使役つかはれた壮士らしい。流石に心は後へ残るといふ風で、時々立留つては振返つて見る度に、巡査から注意をうけるやうな手合もあつた。『あゝ、捕つて行くナ。』と丑松の傍に立つて眺めた一人が言つた。『自業自得さ。』とまた他の一人が言つた。見る/\高柳の一行は巡査の言ふなりに町の角を折れて、やがて雪山の影に隠れて了つた。
 男女の少年は今、小学校を指して急ぐのであつた。近在から通ふ児童こどもなぞは、フランネル布片きれで頭を包んだり、肩掛を冠つたりして、声を揚げ乍ら雪の中を飛んで行く。町の児童こどもは又、思ひ/\に誘ひ合せて、後になり前になり群を成して行つた。うして邪気あどけない生徒等と一緒に、かよれた道路を歩くといふのも、最早今日限りであるかと考へると、目に触れるものはすべて丑松の心にかな可懐なつかしい感想かんじを起させる。平素ふだんうるさいと思ふやうな女の児の喋舌おしやべりまで、其朝にかぎつては、可懐しかつた。色のめた海老茶袴えびちやばかまを眺めてすら、直に名残惜しさが湧上つたのである。
 学校の運動場には雪が山のやうに積上げてあつた。木馬や鉄棒かなぼうは深く埋没うづもれてしまつて、屋外そとの運動も自由には出来かねるところからして、生徒はたゞ学校の内部なかで遊んだ。玄関も、廊下も、広い体操場も、楽しさうな叫び声で満ちあふれて居た。授業の始まるまで、丑松は最後の監督を為る積りで、あちこち/\と廻つて歩くと、彼処あそこでも瀬川先生、此処こゝでも瀬川先生――まあ、生徒の附纏つきまとふのは可愛らしいもので、飛んだりねたりする騒がしさも名残と思へばいつそいぢらしかつた。廊下のところに立つた二三の女教師、互にじろ/\是方こちらを見て、目と目で話したり、くす/\笑つたりして居たが、別に丑松は気にも留めないのであつた。其朝は三年生の仙太も早く出て来て体操場の隅に悄然しよんぼりとして居る。他の生徒を羨ましさうに眺め佇立たゝずんで居るのを見ると、不相変あひかはらず誰も相手にするものは無いらしい。丑松は仙太を背後うしろから抱〆だきしめて、誰が見ようと笑はうと其様そんなことに頓着なく、自然おのづ外部そとに表れる深い哀憐あはれみ情緒こゝろを寄せたのである。この不幸な少年も矢張自分と同じ星の下に生れたことを思ひ浮べた。いつぞやこの少年と一緒に庭球テニス遊戯あそびをして敗けたことを思ひ浮べた。丁度それは天長節の午後、敬之進を送る茶話会の後であつたことなどを思ひ浮べた、不図、廊下の向ふの方で、尋常一年あたりの女の生徒であらう、揃つて歌ふ無邪気な声が起つた。

『桃から生れた桃太郎、
 気はやさしくて、力もち――』

 その唱歌を聞くと同時に、思はず涙は丑松の顔を流れた。
 大鈴の音が響き渡つたのは間も無くであつた。生徒は互ひに上草履鳴して、我勝われがちに体操場へと塵埃ほこりの中を急ぐ。やがて男女の教師は受持受持の組を集めた。相図のふえも鳴つた。次第に順を追つて、教師も生徒も動き始めたのである。高等四年の生徒は丑松の後にいて、足拍子そろへて、一緒に長い廊下を通つた。
 
       (三)
 
 応接室には校長と郡視学とが相対さしむかひに成つて、町会議員の来るのを待受けて居た。それは丑松のことに就いて、集つて相談したい、といふ打合せが有つたからで。もつとも、郡視学は約束の時間よりも早く、校長を尋ねてやつて来たのである。
 校長に言はせると、何も自分は悪意あつて異分子を排斥するといふ訳では無い。自分はもう旧派の教育者と言はれる一人で、丑松や銀之助なぞとはずつと時代が違つて居る。今日とても矢張自分等の時代で有ると言ひたいが、実は何時いつの間にか世の中が変遷うつりかはつて来た。何が可畏こはいと言つたつて、新しい時代ほど可畏いものは無い。あゝ、老いたくない、ちたくない、何時迄いつまでも同じ位置と名誉とを保つて居たい、後進の書生輩などにかぶとを脱いで降参したくない。それで校長は進取の気象に富んだ青年教師を遠ざけようとする傾向かたむきを持つのである。
 のみならず、丑松や銀之助は彼の文平のやうに自分の意を迎へない。教員会のある度に、意見がく衝突する。何かにつけて邪魔に成る。彼様あんくちばしの黄色い手合が、校長の自分よりも生徒に慕はれて居るとあつては、第一それが小癪に触る。何も悪意あつて排斥するでは無いが、学校の統一といふ上から言ふと、これた止むを得ん――斯う校長は身のまもりかたを考へたので。
『町会議員も最早もう見えさうなものだ。』と郡視学は懐中時計を取出して眺め乍ら言つた。『時に、瀬川君のこともいよ/\物に成りさうですかね。』
 この『物に』が校長を笑はせた。
『しかし。』と郡視学は言葉をいで、『是方こつちから其を言出しては面白くない。町の方から言出すやうになつて来なければ面白くない。』
『其です。其を私も思ふんです。』と校長は熱心を顔に表して答へた。
『見給へ。瀬川君が居なくなる、土屋君が居なくなる、左様さうなれば君もう是方こつちのものさ。瀬川君のかはりにはをひ使役つかつて頂くとして、手の明いたところへは必ず僕が適当な人物を周旋しますよ。まあ、悉皆すつかり吾党で固めて了はうぢや有ませんか。左様さうして置きさへすれば、君の位置は長く動きませんし、僕もた折角心配した甲斐かひがあるといふもんです――はゝゝゝゝ。』
 斯ういふ談話はなしをして居るところへ、小使が戸を開けて入つて来た。続いて三人の町会議員もあらはれた。
『さあ、何卒どうぞ是方こちらへ。』と校長は椅子を離れて丁寧に挨拶する。
『いや、どうも遅なはりまして、失礼しました。』と金縁の眼鏡を掛けた議員が快濶くわいくわつな調子で言つた。『実は、高柳君も彼様いふやうな訳で、急に選挙の模様が変りましたものですから。』
 
       (四)
 
 其日、長野の師範校の生徒が二十人ばかり、参観と言つて学校の廊下を往つたり来たりした。丑松が受持の教室へも入つて来た。丁度高等四年では修身の学課を終つて、二時間目の数学に取掛つたところで、生徒はしきりに問題を考へて居る最中。参観人の群が戸を開けてあらはれた時は、一時靴の音で妨げられたが、やがて其も静つてもとの通りに成つた。しんとした教室の内には、石盤を滑る石筆の音ばかり。丑松は机と机との間を歩いて、名残惜しさうに一同の監督をした。時々参観人の方を注意して見ると、制服着た連中がずらりと壁に添ふて並んで、いづれも一廉いつぱしの批評家らしい顔付。楽しい学生時代の種々さま/″\は丑松の眼前めのまへ彷彿ちらついて来た。丁度自分も同級の人達と一緒に、師範校の講師に連れられて、方々へ参観に出掛けた当時のことを思ひ浮べた。残酷な、とは言へ罪の無い批評をして、到るところの学校の教師を苦めたことを思ひ浮べた。丑松とても一度は斯の参観人と同じ制服を着た時代があつたのである。
『出来ましたか――出来たものは手を挙げて御覧なさい。』
 といふ丑松の声に応じて、後列の方の級長を始め、すこし覚束ないと思はれるやうな生徒まで、互に争つて手を挙げた。あまり数学の出来る方でない省吾までも、めづらしく勇んで手を挙げた。
『風間さん。』
 と指名すると、省吾は直に席を離れて、つか/\と黒板の前へ進んだ。
 冬の日の光は窓の玻璃ガラスを通して教へれた教室の内を物寂しく照して見せる。平素ふだんは何の感想かんじをも起させない高い天井から、四辺まはりの白壁まで、すべて新しく丑松の眼に映つた。正面に懸けてある黒板の前に立つて、白墨で解答こたへを書いて居る省吾の後姿は、と見ると、実に今が可愛らしい少年の盛り、肩揚のある筒袖羽織つゝそでばおりを着て、首すこしかしげ、左の肩を下げ、高いところへ数字を書かうとする度に背延びしては右の手を届かせるのであつた。省吾は克く勉強するたちの生徒で、図画とか、習字とか、作文とかは得意だが、毎時いつも理科や数学で失敗しくじつて、丁度十五六番といふところを上つたり下つたりして居る。不思議にも其日は好く出来た。
『是と同じ答の出たものは手を挙げて御覧なさい。』
 後列の方の生徒は揃つて手を挙げた。省吾は少許すこし顔をあかくして、やがて自分の席へもどつた。参観人は互に顔を見合せ乍ら、意味の無い微笑ほゝゑみ交換とりかはして居たのである。
 ういふことを繰返して、問題を出したり、説明して聞かせたりして、数学の時間を送つた。其日に限つては、妙に生徒一同が静粛で、参観人の居ない最初の時間から悪戯わるふざけなぞを為るものは無かつた。きまりで居眠りを始める生徒や、狐鼠々々こそ/\机の下で無線電話をかける技師までが、唯もう行儀よくかしこまつて居た。あゝ、生徒の顔も見納め、教室も見納め、今は最後の稽古をする為にこゝに立つて居る、とう考へると、自然おのづと丑松は胸を踊らせて、熱心を顔に表して教へた。
 
       (五)
 
『無論市村さんは当選に成りませう。』と応接室では白髯しろひげの町会議員が世慣よなれた調子で言出した。『人気といふやつ可畏おそろしいものです。高柳君が彼様あゝいふことになると、最早誰も振向いて見るものが有ません。多少つかませられたやうな連中まで、ずつと市村さんの方へかしいで了ひました。』
これといふのも、あの猪子といふ人の死んだ御蔭なんです――余程市村さんは御礼を言つてもいゝ。』と金縁眼鏡の議員が力を入れた。
『して見ると新平民も馬鹿になりませんかね。』と郡視学は胸を突出して笑つた。
『なりませんとも。』と白髯の議員も笑つて、『どうして、彼丈あれだけの決心をするといふのは容易ぢや無い。しかし猪子のやうな人物ひとは特別だ。』
左様さうさ――あれは彼、これは是さ。』
 と顔に薄痘痕うすあばたのある商人の出らしい議員が言出した時は、其処に居並ぶ人々は皆笑つた。『彼は彼、是は是』と言つただけで、其意味はもう悉皆すつかり通じたのである。
『はゝゝゝゝ。只今たゞいま御話の出ました「是」の方の御相談ですが、』と金縁眼鏡の議員は巻煙草をふかし乍ら、『郡視学さんにも一つ御心配を願ひまして、あまり町の方でやかましく成りません内に――左様、御転任に成るといふものか、乃至ないしは御休職を願ふといふものか、何とかそこのところを考へて頂きたいもので。』
『はい。』と郡視学は額へ手を当てた。
『実に瀬川先生には御気の毒ですが、是もよんどころない。』と白髯の議員は嘆息した。『御承知の通りな土地柄で、兎角とかく左様いふことを嫌ひまして――彼先生は実はこれ/\だと生徒の父兄に知れ渡つて御覧なさい、必定きつと、子供は学校へ出さないなんて言出します。そりやあもう、眼に見えて居ます。現に、町会議員の中にも、恐しく苦情を持出した人がある。一体学務委員が気が利かないなんて、私共に喰つて懸るといふ仕末ですから。』
『まあ、私共始め、左様さういふことを伺つて見ますと、あまり好い心地こゝろもちは致しませんからなあ。』と薄痘痕うすあばたの議員が笑ひ乍ら言葉を添へる。
『しかし、それでは学校に取りまして非常に残念なことです。』と校長はあらたまつて、『瀬川君が好くやつて下さることは、定めし皆さんも御聞きでしたらう――私もまあ片腕程に頼みに思つて居るやうな訳で。学才は有ますし、人物は堅実たしかですし、それに生徒の評判うけは良し、若手の教育者としては得難い人だらうと思ふんです。素性うまれ卑賤いやしいからと言つて、彼様あゝいふ人を捨てるといふことは――実際、聞えません。何卒どうかまあ皆さんの御尽力で、成らうことなら引留めるやうにして頂きたいのですが。』
『いや。』と金縁眼鏡の議員は校長の言葉を遮つた。『御尤ごもつともです。只今のやうな校長先生の御意見を伺つて見ますと、私共が斯様こんな御相談に参るといふことからして、恥入る次第です。成程なるほど、学問の上には階級の差別も御座ございますまい。そこがそれ、迷信の深い土地柄で。左様いふ美しい思想かんがへを持つた人は鮮少すくないものですから――』
『どうもだそこまでは開けませんのですな。』と薄痘痕の議員が言つた。
『ナニ、それも、猪子先生のやうに飛抜けて了へば、また人が許しもするんですよ。』と白髯の議員は引取つて、『其証拠には、宿屋でも平気で泊めますし、寺院てらでも本堂を貸しますし、演説をるといへば人が聴きにも出掛けます。あの先生のは可厭いや隠蔽かくさんからいゝ。最初からもう名乗つてかゝるといふ遣方ですから、左様さうなると人情は妙なもので、むしろ気の毒だといふ心地こゝろもちに成る。ところが、瀬川先生や高柳君の細君のやうに、其を隠蔽かくさう/\とすると、余計に世間の方ではやかましく言出して来るんです。』
『大きに――』と郡視学は同意を表した。
『どうでせう、御転任といふやうなことにでも願つたら。』と金縁眼鏡の議員は人々の顔を眺め廻した。
『転任ですか。』と郡視学は仔細らしく、『兎角とかく条件附の転任は巧くいきませんよ。それに、ういふことが世間へ知れた以上は、何処どこの学校だつても嫌がりますさ――先づ休職といふものでせう。』
奈何どうなりとも、そこは貴方の御意見通りに。』と白髯の議員は手をみ乍ら言つた。『町会議員の中には、「怪しからん、直に追出して了へ」なんて、其様な暴論を吐くやうな手合も有るといふ場合ですから――何卒どうかまあ、何分宜敷よろしいやうに、御取計ひを。』
 
       (六)
 
 かく其日の授業だけは無事に済した上で、と丑松は湧上わきあがるやうな胸の思をおさながら、三時間目の習字を教へた。手習ひする生徒の背後うしろへ廻つて、手に手を持添へて、漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何どんなに其筆先がぶる/\と震へたらう。周囲まはりの生徒はいづれもしかかつてながめて、墨だらけな口を開いて笑ふのであつた。
 小使の振鳴す大鈴の音が三時間目の終を知らせる頃には、最早もう郡視学も、町会議員も帰つて了つた。師範校の生徒はなほ残つて午後の授業をも観たいといふ。昼飯ひるの後、生徒の監督を他の教師に任せて置いて、丑松は後仕末をする為に職員室に留つた。其となく返すものは返す、調べるものは調べる、後になつて非難を受けまいと思へば思ふほど、心の※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)あわたゞしさは一通りで無い。職員室の片隅には、手の明いた教員が集つて、寄るとさはると法福寺の門前にあつた出来事のうはさ。蓮太郎の身を捨てた動機に就いても、種々さま/″\な臆測が言ひはやされる。あるものは過度の名誉心が原因もとだらうと言ひ、あるものは生活くらしつまつた揚句だらうと言ひ、あるものは又、精神に異状を来して居たのだらうといふ。まあ、十人が十色のことを言つて、けなしたりくさしたりする、たまに蓮太郎の精神をめるものが有つても、寧ろ其を肺病のせゐにしてしまつた。聞くともなしに丑松は人々の噂を聞いて、到底誤解されずにむ世の中では無いといふことを思ひ知つた。『黙つて狼のやうに男らしく死ね』――あの先輩の言葉を思出した時は、悲しかつた。
 午後の課目は地理と国語とであつた。五時間目には、国語の教科書の外に、かねて生徒から預つて置いた習字の清書、作文の帳面、そんなものを一緒に持つて教室へ入つたので、其と見た好奇ものずきな少年はもう眼を円くする。『ホウ、作文が刪正なほつて来た。』とある生徒が言つた。『図画も。』と又。丑松はそれを自分の机の上に載せて、例のやうに教科書の方へ取掛つたが、やが平素いつもの半分ばかりも講釈したところで本を閉ぢて、其日はもう其で止めにする、それから少許すこし話すことが有る、と言つて生徒一同の顔を眺め渡すと、『先生、御話ですか。』と気の早いものは直に其を聞くのであつた。
『御話、御話――』
 と請求する声は教室の隅から隅までもひろがつた。
 丑松の眼は輝いて来た。今は我知らず落ちる涙をとゞめかねたのである。其時、習字やら、図画やら、作文の帳面やらを生徒の手に渡した。中には、朱で点を付けたのもあり、優とか佳とかしたのもあつた。または、全く目を通さないのもあつた。丑松は先づ其詑そのわびから始めて、刪正なほしてりたいは遣りたいが、最早もう其をる暇が無いといふことを話し、斯うして一緒に稽古を為るのも実は今日限りであるといふことを話し、自分は今別離わかれを告げる為に是処こゝに立つて居るといふことを話した。
『皆さんも御存じでせう。』と丑松は噛んで含めるやうに言つた。『この山国に住む人々を分けて見ると、大凡おおよそ五通りに別れて居ます。それは旧士族と、町の商人と、お百姓と、僧侶ばうさんと、それからまだ外に穢多といふ階級があります。御存じでせう、其穢多は今でも町はづれに一団ひとかたまりに成つて居て、皆さんの麻裏あさうらつくつたり、靴や太鼓や三味線等をこしらへたり、あるものは又お百姓して生活くらしを立てゝ居るといふことを。御存じでせう、其穢多は御出入と言つて、稲を一束づゝ持つて、皆さんの父親おとつさんや祖父おぢいさんのところへ一年に一度は必ず御機嫌伺ひに行きましたことを。御存じでせう、其穢多が皆さんの御家へ行きますと、土間のところへ手を突いて、特別の茶椀で食物くひものなぞを頂戴して、決して敷居から内部なかへは一歩ひとあしも入られなかつたことを。皆さんの方から又、用事でもあつて穢多の部落へ御出おいでになりますと、煙草たばこ燐寸マッチんで頂いて、御茶はありましても決して差上げないのが昔からの習慣です。まあ、穢多といふものは、其程卑賤いやしい階級としてあるのです。もし其穢多がの教室へやつて来て、皆さんに国語や地理を教へるとしましたら、其時皆さんは奈何思ひますか、皆さんの父親おとつさんや母親おつかさんは奈何どう思ひませうか――実は、私は其卑賤いやしい穢多の一人です。』
 手も足も烈しくふるへて来た。丑松は立つて居られないといふ風で、そこに在る机に身を支へた。さあ、生徒は驚いたの驚かないのぢやない。いづれも顔を揚げたり、口を開いたりして、熱心なひとみを注いだのである。
『皆さんも最早もう十五六――万更まんざら世情ものごゝろを知らないといふ年齢としでも有ません。何卒どうぞ私の言ふことを記憶おぼえて置いて下さい。』と丑松は名残惜なごりをしさうに言葉をいだ。
『これから将来さき、五年十年と経つて、たまに皆さんが小学校時代のことを考へて御覧なさる時に――あゝ、あの高等四年の教室で、瀬川といふ教員に習つたことが有つたツけ――あの穢多の教員が素性を告白うちあけて、別離わかれを述べて行く時に、正月になれば自分等と同じやうに屠蘇とそを祝ひ、天長節が来れば同じやうに君が代を歌つて、蔭ながら自分等の幸福しあはせを、出世を祈ると言つたツけ――う思出して頂きたいのです。私が今ういふことを告白うちあけましたら、定めし皆さんはけがらはしいといふ感想かんじを起すでせう。あゝ、仮令たとひ私は卑賤いやしい生れでも、すくなくも皆さんが立派な思想かんがへを御持ちなさるやうに、毎日其を心掛けて教へて上げた積りです。せめて其の骨折に免じて、今日迄こんにちまでのことは何卒どうか許して下さい。』
 う言つて、生徒の机のところへ手を突いて、詑入わびいるやうに頭を下げた。
『皆さんが御家へ御帰りに成りましたら、何卒どうぞ父親おとつさんや母親おつかさんに私のことを話して下さい――今迄隠蔽かくして居たのは全くまなかつた、と言つて、皆さんの前に手を突いて、斯うして告白うちあけたことを話して丁さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。』
 と斯う添加つけたして言つた。
 丑松はまだ詑び足りないと思つたか、二歩三歩ふたあしみあし退却あとずさりして、『許して下さい』を言ひ乍ら板敷の上へひざまづいた。何事かと、後列の方の生徒は急に立上つた。一人立ち、二人立ちして、しかゝつて眺めるうちに、斯の教室に居る生徒は総立に成つて、あるものは腰掛の上に登る、あるものは席を離れる、あるものは廊下へ出て声を揚げ乍ら飛んで歩いた。其時大鈴の音が響き渡つた。教室々々の戸が開いた。他の組の生徒も教師も一緒になつて、波濤なみのやうに是方こちら押溢おしあふれて来た。
        *      *      *
 十二月に入つてから銀之助は最早もう客分であつた。其日は午後の一時半頃から、自分の用事で学校へ出て来て居て、丁度職員室で話しこんで居る最中、不図丑松のことを耳に入れた。思はず銀之助はそこを飛出した。玄関を横過よこぎつて、長い廊下を通ると、肩掛に紫頭巾むらさきづきん、帰り仕度の女生徒、あそこにも、こゝにも、丑松の噂を始めて、家路に向ふことを忘れたかのやう。体操場には男の生徒が集つて、話は矢張丑松の噂で持切つて居た。左右に馳違はせちがふ少年の群を分けて、高等四年の教室へ近いて見ると、廊下のところに校長、教師五六人、中に文平も、其他高等科の生徒が丑松を囲繞とりまいて、参観に来た師範校の生徒まであきがほに眺め佇立たゝずんで居たのである。見れば丑松はすこし逆上とりのぼせた人のやうに、同僚の前にひざまづいて、恥の額を板敷の塵埃ほこりの中に埋めて居た。深い哀憐あはれみの心は、可傷いたましい光景ありさまを見ると同時に、銀之助の胸をいて湧上わきあがつた。歩み寄つて、助け起し乍ら、着物の塵埃ほこりを払つて遣ると、丑松は最早半分夢中で、『土屋君、許して呉れ給へ』をかへすがへす言ふ。告白の涙は奈何どんなに丑松の頬を伝つて流れたらう。
『解つた、解つた、君の心地こゝろもちは好く解つた。』と銀之助は言つた。『むむ――進退伺も用意して来たね。かく、後の事は僕に任せるとして、君は直にこれから帰り給へ――ね、君は左様さうし給へ。』
 
       (七)
 
 高等四年の生徒は教室に居残つて、日頃慕つて居る教師の為に相談の会を開いた。初心うぶで、複雑こみいつた社会よのなかのことは一向解らないものばかりの集合あつまりではあるが、流石さすが正直なは少年の心、鋭い神経に丑松の心情こゝろもちを汲取つて、何とかして引止める工夫をしたいと考へたのである。黙つて視て居る時では無い、一同揃つて校長のところへ歎願に行かう、と斯う十六ばかりの級長が言出した。賛成の声が起る。
『さあ、行かざあ。』
 と農夫の子らしい生徒が叫んだ。
 相談は一決した。例の掃除をする為に、当番のものだけを残して置いて、少年の群は一緒に教室を出た。其中には省吾も交つて居た。丁度校長は校長室の倚子いす倚凭よりかゝつて、文平を相手に話して居るところで、そこへ高等四年の生徒が揃つてあらはれた時は、直に一同の言はうとすることを看て取つたのである。
『諸君は何か用が有るんですか。』
 と、しかし、校長は何気ない様子をつくろながら尋ねた。
 級長は卓子テーブルの前に進んだ。校長も、文平も、きつと鋭い眸をこの生徒の顔面おもてに注いだ。省吾なぞから見ると、ずつと夙慧ませた少年で、言ふことは了然はつきり好く解る。
『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情こゝろもち表白いひあらはした。何卒どうかして彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令たとへ穢多であらうと、其様そんなことはいとはん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。
『校長先生、御願ひでごはす。』
 と一同声を揃へて、各自てんでに頭を下げるのであつた。
 其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動やりかたでせう。』と言はれて、級長は何か弁解いひわけようとしたが、やがて涙ぐんで黙つて了つた。
『まあ、御聞きなさい。』と校長は卓子テーブルの上にある書面かきつけひろげて見せ乍ら、『是通り瀬川先生からは進退伺が出て居ます。これは一応郡視学の方へ廻さなければなりませんし、町の学務委員にも見せなければなりません。仮令たとひ我輩が瀬川先生を救ひたいと思つて、単独ひとり焦心あせつて見たところで、町の方で聞いて呉れなければ仕方が無いぢや有ませんか。』と言つて、すこし声を和げて、『然し、我輩一人の力で、奈何どうこれを処置するといふ訳にもいかんのですから、そこを諸君も好く考へて下さい。彼様あゝいふ良い教師を失ふといふことは、諸君ばかりぢやない、我輩も残念に思ふ。諸君の言ふことは好く解りました。兎に角、今日は是で帰つて、学課を怠らないやうにして下さい。諸君が斯ういふことにくちばしれないでも、無論学校の方で悪いやうには取計ひません――諸君は勉強が第一です。』
 文平は腕組をして聞いて居た。手持無沙汰に帰つて行く生徒の後姿を見送つて、冷かに笑つて、軈て校長は戸を閉めて了つた。
 
 

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