.
第拾弐章
(一)
二七日が済む、直に丑松は姫子沢を発つことにした。やれ、それ、と叔父夫婦は気を揉んで、暦を繰つて日を見るやら、草鞋の用意をして呉れるやら、握飯は三つも有れば沢山だといふものを五つも造へて、竹の皮に包んで、別に瓜の味噌漬を添へて呉れた。お妻の父親もわざわざやつて来て、炉辺での昔語。煤けた古壁に懸かる例の『山猫』を見るにつけても、亡くなつた老牧夫の噂は尽きなかつた。叔母が汲んで出す別離の茶――其色も濃く香も好いのを飲下した時は、どんなにか丑松も暖い血縁のなさけを感じたらう。道祖神の立つ故郷の出口迄叔父に見送られて出た。
其日は灰色の雲が低く集つて、荒寥とした小県の谷間を一層暗欝にして見せた。烏帽子一帯の山脈も隠れて見えなかつた。父の墓のある西乃入の沢あたりは、あるひは最早雪が来て居たらう。昨日一日の凩で、急に枯々な木立も目につき、梢も坊主になり、何となく野山の景色が寂しく冬らしくなつた。長い、長い、考へても淹悶するやうな信州の冬が、到頭やつて来た。人々は最早あの染の真綿帽子を冠り出した。荷をつけて通る馬の鼻息の白いのを見ても、いかに斯山上の気候の変化が激烈であるかを感ぜさせる。丑松は冷い空気を呼吸し乍ら、岩石の多い坂路を下りて行つた。荒谷の村はづれ迄行けば、指の頭も赤く腫れ脹らんで、寒さの為に感覚を失つた位。
田中から直江津行の汽車に乗つて、豊野へ着いたのは丁度正午すこし過。叔母が呉れた握飯は停車場前の休茶屋で出して食つた。空腹とは言ひ乍ら五つ迄は。さて残つたのを捨てる訳にもいかず、犬に呉れるは勿体なし、元の竹の皮に包んで外套の袖袋へ突込んだ。斯うして腹をこしらへた上、川船の出るといふ蟹沢を指して、草鞋の紐を〆直して出掛けた。其間凡そ一里許。尤も往きと帰りとでは、同じ一里が近く思はれるもので、北国街道の平坦な長い道を独りてく/\やつて行くうちに、いつの間にか丑松は広濶とした千曲川の畔へ出て来た。急いで蟹沢の船場迄行つて、便船は、と尋ねて見ると、今々飯山へ向けて出たばかりといふ。どうも拠ない。次の便船の出るまで是処で待つより外は無い。それでもまだ歩いて行くよりは増だ、と考へて、丑松は茶屋の上り端に休んだ。
霙が落ちて来た。空はいよ/\暗澹として、一面の灰紫色に掩はれて了つた。斯うして一時間の余も待つて居るといふことが、既にもう丑松の身にとつては、堪へ難い程の苦痛であつた。それに、道を急いで来た為に、いやに身体は蒸されるやう。襯衣の背中に着いたところは、びつしより熱い雫になつた。額に手を当てゝ見れば、汗に濡れた髪の心地の悪さ。胸のあたりを掻展げて、少許気息を抜いて、軈て濃い茶に乾いた咽喉を霑して居る内に、ポツ/\舟に乗る客が集つて来る。あるものは奥の炬燵にあたるもあり、あるものは炉辺へ行つて濡れた羽織を乾すもあり、中には又茫然と懐手して人の談話を聞いて居るのもあつた。主婦は家の内でも手拭を冠り、藍染真綿を亀の甲のやうに着て、茶を出すやら、座蒲団を勧めるやら、金米糖は古い皿に入れて款待した。
丁度そこへ二台の人力車が停つた。矢張斯の霙を衝いて、便船に後れまいと急いで来た客らしい。人々の視線は皆な其方に集つた。車夫はまるで濡鼠、酒代が好いかして威勢よく、先づ雨被を取除して、それから手荷物のかず/\を茶屋の内へと持運ぶ。つゞいて客もあらはれた。
(二)
丑松が驚いたのは無理もなかつた。それは高柳の一行であつた。往きに一緒に成つて、帰りにも亦た斯の通り一緒に成るとは――しかも、同じ川舟を待合はせるとは。それに往きには高柳一人であつたのが、帰りには若い細君らしい女と二人連。女は、薄色縮緬のお高祖を眉深に冠つたまゝ、丑松の腰掛けて居る側を通り過ぎた。新しい艶のある吾妻袍衣に身を包んだ其嫋娜とした後姿を見ると、斯の女が誰であるかは直に読める。丑松はあの蓮太郎の話を想起して、いよ/\其が事実であつたのに驚いて了つた。
主婦に導かれて、二人はずつと奥の座敷へ通つた。そこには炬燵が有つて、先客一人、五十あまりの坊主、直に慣々しく声を掛けたところを見ると、かねて懇意の仲ででも有らう。軈て盛んな笑声が起る。丑松は素知らぬ顔、屋外の方へ向いて、物寂しい霙の空を眺めて居たが、いつの間にか後の方へ気を取られる。聞くとは無しについ聞耳を立てる。座敷の方では斯様な談話をして笑ふのであつた。
『道理で――君は暫時見えないと思つた。』と言ふは世慣れた坊主の声で、『私は又、選挙の方が忙しくて、其で地方廻りでも為て居るのかと思つた。へえ、左様ですかい、そんな御目出度ことゝは少許も知らなかつたねえ。』
『いや、どうも忙しい思を為て来ましたよ。』斯う言つて笑ふ声を聞くと、高柳はさも得意で居るらしい。
『それはまあ何よりだつた。失礼ながら、奥様は? 矢張東京の方からでも?』
『はあ。』
この『はあ』が丑松を笑はせた。
談話の様子で見ると、高柳夫婦は東京の方へ廻つて、江の島、鎌倉あたりを見物して来て、是から飯山へ乗込むといふ寸法らしい。そこは抜目の無い、細工の多い男だから、根津から直に引返すやうなことを為ないで、わざ/\遠廻りして帰つて来たものと見える。さて、坊主を捕へて、片腹痛いことを吹聴し始めた。聞いて居る丑松には其心情の偽が読め過ぎるほど読めて、終には其処に腰掛けても居られないやうになつた。『恐しい世の中だ』――斯う考へ乍ら、あの夫婦の暗い秘密を自分の身に引比べると、さあ何となく気懸りでならない。やがて、故意と無頓着な様子を装つて、ぶらりと休茶屋の外へ出て眺めた。
霙は絶えず降りそゝいで居た。あの越後路から飯山あたりへかけて、毎年降る大雪の前駆が最早やつて来たかと思はせるやうな空模様。灰色の雲は対岸に添ひ徊徘つた、広濶とした千曲川の流域が一層遠く幽に見渡される。上高井の山脈、菅平の高原、其他畳み重なる多くの山々も雪雲に埋没れて了つて、僅かに見えつ隠れつして居た。
斯うして茫然として、暫時千曲川の水を眺めて居たが、いつの間にか丑松の心は背後の方へ行つて了つた。幾度か丑松は振返つて二人の様子を見た。見まい/\と思ひ乍ら、つい見た。丁度乗船の切符を売出したので、人々は皆な争つて買つた。間も無く船も出るといふ。混雑する旅人の群に紛れて、先方の二人も亦た時々盗むやうに是方の様子を注意するらしい――まあ、思做の故かして、すくなくとも丑松には左様酌れたのである。女の方で丑松を知つて居るか、奈何か、それは克く解らないが、丑松の方では確かに知つて居る。髪のかたちこそ新婚の人のそれに結ひ変へては居るが、紛れの無い六左衛門の娘、白いもの花やかに彩色して恥の面を塗り隠し、野心深い夫に倚添ひ、崖にある坂路をつたつて、舟に乗るべきところへ下りて行つた。『何と思つて居るだらう――あの二人は。』斯う考へ乍ら、丑松も亦た人々の後に随いて、一緒にその崖を下りた。
(三)
川舟は風変りな屋形造りで、窓を附け、舷から下を白く化粧して赤い二本筋を横に表してある。それに、艫寄の半分を板戸で仕切つて、荷積みの為に区別がしてあるので、客の座るところは細長い座敷を見るやう。立てば頭が支へる程。人々はいづれも狭苦しい屋形の下に膝を突合せて乗つた。
やがて水を撃つ棹の音がした。舟底は砂の上を滑り始めた。今は二挺櫓で漕ぎ離れたのである。丑松は隅の方に両足を投出して、独り寂しさうに巻煙草を燻し乍ら、深い/\思に沈んで居た。河の面に映る光線の反射は割合に窓の外を明くして、降りそゝぐ霙の眺めをおもしろく見せる。舷に触れて囁くやうに動揺する波の音、是方で思つたやうに聞える眠たい櫓のひゞき――あゝ静かな水の上だ。荒寥とした岸の楊柳もところ/″\。時としては其冬木の姿を影のやうに見て進み、時としては其枯々な枝の下を潜るやうにして通り抜けた。是から将来の自分の生涯は畢竟奈何なる。斯う丑松は自分で自分に尋ねることもあつた。誰が其を知らう。窓から首を出して飯山の空を眺めると、重く深く閉塞つた雪雲の色はうたゝ孤独な穢多の子の心を傷ましめる。残酷なやうな、可懐しいやうな、名のつけやうの無い心地は丑松の胸の中を掻乱した。今――学校の連中は奈何して居るだらう。友達の銀之助は奈何して居るだらう。あの不幸な、老朽な敬之進は奈何して居るだらう。蓮華寺の奥様は。お志保は。と不図、省吾から来た手紙の文句なぞを思出して見ると、逢ひたいと思ふ其人に復た逢はれるといふ楽みが無いでもない。丑松はあの寺の古壁を思ひやるごとに、空寂なうちにも血の湧くやうな心地に帰るのであつた。
『蓮華寺――蓮華寺。』
と水に響く櫓の音も同じやうに調子を合せた。
霙は雪に変つて来た。徒然な舟の中は人々の雑談で持切つた。就中、高柳と一緒になつた坊主、茶にしたやうな口軽な調子で、柄に無い政事上の取沙汰、酢の菎蒻のとやり出したので、聞く人は皆な笑ひ憎んだ。斯の坊主に言はせると、選挙は一種の遊戯で、政事家は皆な俳優に過ぎない、吾儕は唯見物して楽めば好いのだと。斯の言葉を聞いて、また人々が笑へば、そこへ弥次馬が飛出す、其尾に随いて贔顧不贔顧の論が始まる。『いよ/\市村も侵入んで来るさうだ。』と一人が言へば、『左様言ふ君こそ御先棒に使役はれるんぢや無いか。』と攪返すものがある。弁護士の名は幾度か繰返された。其を聞く度に、高柳は不快らしい顔付。ふゝむと鼻の先で笑つて、嘲つたやうに口唇を引歪めた。
斯ういふ他の談話の間にも、女は高柳の側に倚添つて、耳を澄まして、夫の機嫌を取り乍ら聞いて居た。見れば、美しい女の数にも入るべき人で、殊に華麗な新婚の風俗は多くの人の目を引いた。髪は丸髷に結ひ、てがらは深紅を懸け、桜色の肌理細やかに肥えあぶらづいて、愛嬌のある口元を笑ふ度に掩ひかくす様は、まだ世帯の苦労なぞを知らない人である。さすが心の表情は何処かに読まれるもので――大きな、ぱつちりとした眼のうちには、何となく不安の色も顕れて、熟と物を凝視めるやうな沈んだところも有つた。どうかすると、女は高柳の耳の側へ口を寄せて、何か人に知れないやうに私語くことも有つた。どうかすると又、丑松の方を盗むやうに見て、『おや、彼の人は――何処かで見掛けたやうな気がする』と斯う其眼で言ふことも有つた。
同族の哀憐は、斯の美しい穢多の女を見るにつけても、丑松の胸に浮んで来た。人種さへ変りが無くば、あれ程の容姿を持ち、あれ程富有な家に生れて来たので有るから、無論相当のところへ縁付かれる人だ――彼様な野心家の餌なぞに成らなくても済む人だ――可愛さうに。斯う考へると同時に、丁度女も自分と同じ秘密を持つて居るかと思ひやると、どうも其処が気懸りでならない。よしんば先方で自分を知つて居るとしたところで、其が奈何した、と丑松は自分で自分に尋ねて見た。根津の人、または姫子沢のもの、と思つて居るなら自分に取つて一向恐れるところは無い。恐れるとすれば、其は反つて先方のことだ。斯う自分で答へて見た。第一、自分は四五年以来、数へる程しか故郷へ帰らなかつた――卒業した時に一度――それから今度の帰省が足掛三年目――まあ、あの向町なぞは成るべく避けて通らなかつたし、通つたところで他が左様注意して見る筈も無し、見たところで何処のものだか解らない――大丈夫。斯う用心深く考へても見た。畢竟自分が二人の暗い秘密を聞知つたから、それで斯う気が咎めるのであらう。彼様して私語くのは何でも無いのであらう。避けるやうな素振は唯人目を羞ぢるのであらう。あの目付も。
とはいふものゝ、何となく不安に思ふ其懸念が絶えず心の底にあつた。丑松は高柳夫婦を見ないやうにと勉めた。
(四)
千曲川の瀬に乗つて下ること五里。尤も、其間には、ところ/″\の舟場へも漕ぎ寄せ、洪水のある度に流れるといふ粗造な船橋の下をも潜り抜けなどして、そんなこんなで手間取れた為に、凡そ三時間は舟旅に費つた。飯山へ着いたのは五時近い頃。其日は舟の都合で、乗客一同上の渡しまで。丑松は人々と一緒に其処から岸へ上つた。見れば雪は河原にも、船橋の上にも在つた。丁度小降のなかを暮れて、仄白く雪の町々。そこにも、こゝにも、最早ちら/\灯が点く。其時蓮華寺で撞く鐘の音が黄昏の空に響き渡る――あゝ、庄馬鹿が撞くのだ。相変らず例の鐘楼に上つて冬の一日の暮れたことを報せるのであらう。と其を聞けば、言ふに言はれぬ可懐しさが湧上つて来る。丑松は久し振りで飯山の地を踏むやうな心地がした。
半月ばかり見ないうちに、家々は最早冬籠の用意、軒丈ほどの高さに毎年作りつける粗末な葦簾の雪がこひが悉皆出来上つて居た。越後路と同じやうな雪国の光景は丑松の眼前に展けたのである。
新町の通りへ出ると、一筋暗く踏みつけた町中の雪道を用事ありげな男女が往つたり来たりして居た。いづれも斯の夕暮を急ぐ人々ばかり。丑松は右へ避け、左へ避けして、愛宕町をさして急いで行かうとすると、不図途中で一人の少年に出逢つた。近いて見ると、それは省吾で、何か斯う酒の罎のやうなものを提げて、寒さうに慄へ乍らやつて来た。
『あれ、瀬川先生。』と省吾は嬉しさうに馳寄つて、『まあ、魂消た――それでも先生の早かつたこと。私はまだ/\容易に帰りなさらないかと思ひやしたよ。』
好く言つて呉れた。斯の無邪気な少年の驚喜した顔付を眺めると、丑松は最早あのお志保に逢ふやうな心地がしたのである。
『君は――お使かね。』
『はあ。』
と省吾は黒ずんだ色の罎を出して見せる。出して見せ乍ら、笑つた。
果して父の為に酒を買つて帰つて行くところであつた。『此頃は御手紙を難有う。』斯う丑松は礼を述べて、一寸学校の様子を聞いた。自分が留守の間、毎日誰か代つて教へたと尋ねた。それから敬之進のことを尋ねて見た。
『父さん?』と省吾は寂しさうに笑つて、『あの、父さんは家に居りやすよ。』
よく/\言ひ様に窮つたと見えて、斯う答へたが、子供心にも父を憐むといふ情合は其顔色に表れるのであつた。見れば省吾は足袋も穿いて居なかつた。斯うして酒の罎を提げて悄然として居る少年の様子を眺めると、あの無職業な敬之進が奈何して日を送つて居るかも大凡想像がつく。
『家へ帰つたらねえ、父さんに宜敷言つて下さい。』
と言はれて、省吾は御辞儀一つして、軈てぷいと駈出して行つて了つた。丑松も雪の中を急いだ。
(五)
宵の勤行も終る頃で、子坊主がかん/\鳴らす鉦の音を聞き乍ら、丑松は蓮華寺の山門を入つた。上の渡しから是処迄来るうちに、もう悉皆雪だらけ。羽織の裾も、袖も真白。其と見た奥様は飛んで出て、吾子が旅からでも帰つて来たかのやうに喜んだ。人々も出て迎へた。下女の袈裟治は塵払を取出して、背中に附いた雪を払つて呉れる。庄馬鹿は洗足の湯を汲んで持つて来る。疲れて、がつかりして、蔵裏の上り框に腰掛け乍ら、雪の草鞋を解いた後、温暖い洗ぎ湯の中へ足を浸した時の其丑松の心地は奈何であつたらう。唯――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉敷思ふにつけても、丑松は心に斯う考へて、何となく其人の居ないのが物足りなかつた。
其時、白衣に袈裟を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家に仏事が有つて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。
夕飯は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲いて、旅の疲労を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。其晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程左様言はれて見ると、其人の平常衣らしい。亀甲綛の書生羽織に、縞の唐桟を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢の色の紅梅を見るやうなは八口のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層お志保を可懐しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。
さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗め谷川の水を飲んで烏帽子ヶ嶽の麓に彷徨ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場のことを話した。其小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中、あの可憐な美しい穢多の女の身の上に就いては、決して一語も口外しなかつた。
斯うして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想を起すやうに成つた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克く聞いて居て呉れるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでも無いところで『え?』なんて聞き直して、何か斯う話を聞き乍ら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対をして居るのだと感づいた。終には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見した。しばらく丑松は茫然として、穴の開くほど奥様の顔を熟視つたのである。
克く見れば、奥様は両方のを泣腫らして居る。唯さへ気の短い人が余計に感じ易く激し易く成つて居る。言ふに言はれぬ心配なことでも起つたかして、時々深い憂愁の色が其顔に表はれたり隠れたりした。一体、是は奈何したのであらう。聞いて見れば留守中、別に是ぞと変つた事も無かつた様子。銀之助は親切に尋ねて呉れたといふし、文平は克く遊びに来て話して行くといふ。それから斯の寺の方から言へば、住職が帰つたといふことより外に、何も新しい出来事は無かつたらしい。それにしても斯の内部の様子の何処となく平素と違ふやうに思はれることは。
軈て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈を点けて来て呉れた。お志保はまだ帰らなかつた。
『奈何したんだらう、まあ彼の奥様の様子は。』
斯う胸の中で繰返し乍ら、丑松は暗い楼梯を上つた。
其晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反つて能く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程心に描いて見ても、明瞭に其人が浮んだためしは無い。どうかすると、お妻と混同になつて出て来ることも有る。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、何処を奈何捜して見ても、何となく其処に其人が居るとは思はれ乍ら、それで奈何しても統一が着かない。時としては彼のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口唇にあらはれる若々しい微笑を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然したものは無い。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然と其人を思ひ浮べることが出来なかつた。