破戒(11〜最終章) 島崎藤村

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   第拾五章
 
       (一)
 
 酷烈はげしい、犯し難い社会よのなか威力ちからは、次第に、丑松の身に迫つて来るやうに思はれた。学校から帰へつて、蓮華寺の二階へ上つた時も、風呂敷包をそこへ投出はふりだす、羽織袴を脱捨てる、直に丑松は畳の上に倒れて、放肆ほしいまゝな絶望に埋没うづもれるの外は無かつた。眠るでも無く、考へるでも無く、丁度無感覚な人のやうに成つて、長いこと身動きもずに居たが、やがて起直つて部屋の内を眺め廻した。
 楽しさうな笑声が、蔵裏くりの下座敷の方から、とぎれ/\に聞えた。聞くとも無しに聞耳を立てると、其日もた文平がやつて来て、人々を笑はせて居るらしい。あの邪気あどけない、おさへても制へきれないやうな笑声は、と聞くと、省吾は最早もう遊びに来て居るものと見える。時々若い女の声も混つた――あゝ、お志保だ。う聞き澄まして、丑松は自分の部屋の内を歩いて見た。
『先生。』
 と声を掛けて、急に入つて来たのは省吾である。
 丁度、階下したでは茶を入れたので、丑松にも話しに来ないか、と省吾は言付けられて来た。聞いて見ると、奥様やお志保は下座敷に集つて、そこへ庄馬鹿までやつて来て居る。可笑をかしい話が始つたので、人々は皆な笑ひ転げて、中にはもう泣いたものが有るとのこと。
『あの、勝野先生も来て居なさりやすよ。』
 と省吾は添付つけたして言つた。
左様さう? 勝野君も?』と丑松は徴笑み乍ら答へた。遽然にはかに、心の底から閃めいたやうに、憎悪にくしみの表情が丑松の顔に上つた。もつとも直に其は消えて隠れて了つたのである。
『さあ――わしと一緒に早く来なされ。』
『今直に後から行きますよ。』
 とは言つたものゝ、実は丑松は行きたくないのであつた。『早く』を言ひ捨てゝ、ぷいと省吾は出て行つて了つた。
 楽しさうな笑声が、た、起つた。蔵裏の下座敷――それはもう目に見ないでも、うして声を聞いたばかりで、人々の光景ありさまが手に取るやうに解る。何もかも丑松は想像することが出来た。定めし、奥様は何か心に苦にすることがあつて、其を忘れる為にわざ/\面白可笑をかしく取做とりなして、それで彼様あんな男のやうな声を出して笑ふのであらう。定めし、お志保は部屋を出たり入つたりして、茶の道具を持つて来たり、其を入れて人々にすゝめたり、又は奥様の側に倚添よりそひ乍ら談話はなしを聞いて微笑ほゝゑんで居るのであらう。定めし、文平は婦人をんな子供こどもと見て思ひあなどつて、自分独りが男ででも有るかのやうに、可厭いや容子ようすを売つて居ることであらう。さぞ。そればかりでは無い、必定きつとまた人のことを何とかかんとか――あゝ、あゝ、素性うまれが素性なら、誰が彼様な男なぞの身の上を羨まう。
 現世の歓楽を慕ふ心は、今、丑松の胸を衝いてむら/\と湧き上つた。捨てられ、いやしめられ、爪弾つまはじきせられ、同じ人間の仲間入すら出来ないやうな、つたない同族の運命を考へれば考へるほど、猶々なほ/\斯の若い生命いのちが惜まるゝ。
『何故、先生は来なさらないですか。』
 う言ひ乍ら、やがた迎へにやつて来たのは省吾である。
 あまり邪気あどけないことを言つて督促せきたてるので、丑松は斯の少年を慫慂そゝのかして、いつそ本堂の方へ連れて行かうと考へた。部屋を出て、楼梯はしごだんを下りると、蔵裏から本堂へ通ふ廊下は二つに別れる。裏庭に近い方を行けば、是非とも下座敷の側を通らなければならない。其処には文平が話しこんで居るのだ。丑松は表側の廊下を通ることにした。
 
       (二)
 
 古い僧坊は廊下の右側に並んで、障子越しに話声なぞのれて聞えるは、下宿する人が有ると見える。是寺このてらの広く複雑こみいつた構造たてかたといつたら、何処どこ奈何どういふ人が泊つて居るか、其すらくは解らない程。平素ふだんは何の役にも立ちさうも無い、陰気な明間がいくつとなく有る。斯うして省吾と連立つて、細長い廊下を通る間にも、朽ち衰へた精舎しようじやの気は何となく丑松の胸に迫るのであつた。壁は暗く、柱は煤け、大きな板戸を彩色いろどつた古画の絵具も剥落ちて居た。
 斯の廊下が裏側の廊下につゞいて、丁度本堂へ曲らうとする角のところで、急に背後うしろの方から人の来る気勢けはひがした。思はず丑松は振返つた。省吾も。見ればお志保で、何か用事ありげに駈寄つて、未だ物を言はない先からもう顔を真紅まつかにしたのである。
『あの――』とお志保は艶のあるすゞしいひとみを輝かした。『先程は、弟が結構なものを頂きましたさうで。』
 斯う礼を述べ乍ら、其口唇くちびるで嬉しさうに微笑ほゝゑんで見せた。
 其時奥様の呼ぶ声が聞えた。逸早いちはやくお志保は聞きつけて、一寸耳を澄まして居ると、『あれ、姉さん、呼んでやすよ。』と省吾も姉の顔を見上げた。復た呼ぶ声が聞える。驚いたやうに引返して行くお志保の後姿を見送つて、軈て省吾を導いて、丑松は本堂のひらきを開けて入つた。
 あゝ、精舎の静寂しづかさ――丁度其は古蹟の内を歩むと同じやうな心地こゝろもちがする。まるい塗柱に懸かる時計の針の刻々をきざむより外には、の高く暗い天井の下に、一つとして音のするものは無かつた。身に沁み入るやうな沈黙は、そこにも、こゝにも、隠れ潜んで居るかのやう。目に入るものは、何もかも――さびを帯びた金色こんじきの仏壇、生気の無いはす造花つくりばな、人の空想を誘ふやうな天界てんがい女人によにんの壁にかれた形像かたち、すべてそれらのものは過去すぎさつた時代の光華ひかり衰頽おとろへとを語るのであつた。丑松は省吾と一緒に内陣迄も深く上つて、仏壇のかげにある昔の聖僧達の画像の前を歩いた。
『省吾さん。』と丑松は少年の横顔を熟視まもり乍ら、『君はねえ、家眷うちの人の中で誰が一番好きなんですか――父さんですか、母さんですか。』
 省吾は答へなかつた。
『当てゝ見ませうか。』と丑松は笑つて、『父さんでせう?』
『いゝえ。』
『ホウ、父さんぢや無いですか。』
『だつて、父さんはお酒ばかり飲んでゝ――』
『そんなら君、誰が好きなんですか。』
『まあ、わしは――姉さんでごはす。』
『姉さん? 左様かねえ、君は姉さんが一番好いかねえ。』
『私は、姉さんには、何でも話しやすよ、へえ父さんや母さんには話さないやうなことでも。』
 う言つて、省吾は何の意味もなく笑つた。
 北の小座敷には古い涅槃ねはんの図が掛けてあつた。普通の寺によくある斯の宗教画は大抵模倣うつしの模倣で、戯曲しばゐがゝりの配置くみあはせとか、無意味な彩色いろどりとか、又は熱帯の自然と何の関係も無いやうな背景とか、そんなことよりほかこれぞと言つて特色とりえの有るものは鮮少すくない。の寺のも矢張同じ型ではあつたが、多少創意のある画家ゑかきの筆に成つたものと見えて、ありふれた図に比べると余程活々いき/\して居た。まあ、宗教をしへの方の情熱が籠るとは見えない迄も、何となく人の心を※(「女+無」、第4水準2-5-80)ひきつける樸実まじめなところがあつた。流石さすが、省吾は未だ子供のことで、其禽獣とりけもの悲嘆なげき光景さまを見ても、丁度お伽話とぎばなしを絵で眺めるやうに、別に不思議がるでも無く、驚くでも無い。無邪気な少年はたゞ釈迦しやかの死を見て笑つた。
『あゝ。』と丑松は深い溜息をいて、『省吾さんなぞは未だ死ぬといふことを考へたことが有ますまいねえ。』
わしがでごはすか。』と省吾は丑松の顔を見上げる。
『さうさ――君がサ。』
『はゝゝゝゝ。ごはせんなあ、其様そんなことは。』
『左様だらうねえ。君等の時代に其様なことを考へるやうなものは有ますまいねえ。』
『ふゝ。』と省吾は思出したやうに笑つて、『お志保姉さんもく其様なことを言ひやすよ。』
『姉さんも?』と丑松は熱心な眸を注いだ。
『はあ、あの姉さんは妙なことを言ふ人で、へえもう死んで了ひたいの、だあれも居ないやうな処へ行つて大きな声を出して泣いて見たいのツて――まあ、奈何どうして其様な気になるだらず。』
 斯う言つて、省吾は小首をかしげて、一寸口笛吹く真似をした。
 間も無く省吾は出て行つた。丑松は唯単独ひとりになつた。急に本堂の内部なか※(「門<貝」、第4水準2-91-57)しんとして、種々さま/″\の意味ありげな装飾が一層無言のなかに沈んだやうに見える。深い天井の下に、いつまでも変らずにある真鍮しんちゆうの香炉、花立、燈明皿――そんな性命いのちの無い道具まで、何となく斯う寂寞じやくまく瞑想めいさうに耽つて居るやうで、仏壇に立つ観音くわんおんの彫像は慈悲といふよりはむしろ沈黙の化身けしんのやうに輝いた。斯ういふ静寂しづかな、世離れたところに立つて、其人のことをおもひ浮べて見ると、丁度古蹟を飾る花草のやうな気がする。丑松は、血の湧く思を抱き乍ら、円い柱と柱との間を往つたり来たりした。
『お志保さん、お志保さん。』
 あてども無く口の中で呼んで見たのである。
 いつの間には四壁そこいらは暗くなつて来た。青白い黄昏時たそがれどきの光は薄明く障子に映つて、本堂の正面の方から射しこんだので、柱と柱との影は長く畳の上へ引いた。み、くるしみ、疲れた冬の一日ひとひは次第に暮れて行くのである。其時白衣びやくえを着けた二人の僧が入つて来た。一人は住職、一人は寺内の若僧であつた。あかしは奥深くいて、あそこにも、こゝにも、と見て居るうちに、六挺ばかりの蝋燭らふそくが順序よく並んでとぼる。仏壇を斜に、内陣の角のところに座を占めて、金泥きんでいの柱の側にを合はせたは、住職。一段低い外陣に引下つて、反対の側にかしこまつたは、若僧。やがてかねの音が荘厳おごそかに響き渡る。合唱の声は起つた。
『なむからかんのう、とらやあ、やあ――』
 よひ勤行おつとめが始つたのである。
 あゝ、寂しい夕暮もあればあるもの。丑松は北の間の柱に倚凭よりかゝり乍ら、目をつぶり、頭をつけて、深く/\思ひ沈んで居た。『し自分の素性がお志保の耳に入つたら――』其を考へると、つく/″\穢多の生命いのちの味気なさを感ずる。漠然とした死滅の思想は、人懐しさの情に混つて、烈しく胸中を往来し始めた。熾盛さかんな青春の時代ときよに逢ひ乍ら、今迄経験であつたことも無ければ翹望のぞんだことも無い世の苦といふものを覚えるやうに成つたか、と考へると、左様さういふ思想かんがへを起したことすら既にもう切なく可傷いたましく思はれるのであつた。つめたい空気に交る香の煙のにほひは、斯の夕暮に一層のあはれを添へて、かなしいとも、堪へがたいとも、名のつけやうが無い。遽然にはかに、二人の僧の声が絶えたので、心づいて眺めた時は、丁度読経どきやうを終つて仏の名をとなへるところ。間も無く住職は珠数ずゝを手にして柱の側を離れた。若僧はだ同じ場処に留つた。丑松は眺め入つた――高らかに節つけて読む高祖の遺訓の終るまでも――其文章を押頂いて、やがて若僧の立上る迄も――しまひには、蝋燭の灯が一つ/\吹消されて、仏前の燈明ばかりほのかに残り照らす迄も。
 
       (三)
 
 夕飯の後、蓮華寺では説教の準備したくを為るので多忙いそがしかつた。昔からの習慣ならはしとして、定紋つけた大提灯おほぢやうちんがいくつとなく取出された。寺内の若僧、庄馬鹿、子坊主までつてたかつて、火をともして、其を本堂へと持運ぶ。三人はその為に長い廊下を往つたり来たりした。
 説教聞きにとこゝろざす人々は次第に本堂へ集つて来た。是寺に附く檀家だんかのものは言ふもさらなり、其と聞伝へたかぎりは誘ひ合せて詰掛ける。既にもう一生の行程つとめを終つた爺さん婆さんの群ばかりで無く、随分種々さま/″\繁忙せはしい職業に従ふ人々まで、其を聴かうとして熱心に集ふのを見ても、いかに斯の飯山の町が昔風の宗教と信仰との土地であるかを想像させる。聖経おきやうの中にある有名な文句、比喩たとへなぞが、普通の人の会話に交るのは珍しくも無い。娘の連はいづれも美しい珠数の袋を懐にして、蓮華寺へと先を争ふのであつた。
 それは丑松の身に取つて、最も楽しい、又最も哀しい寺住てらずみの一夜であつた。どんなに丑松は胸を踊らせて、お志保と一緒に説教聞く歓楽たのしみを想像したらう。あゝ、斯ういふ晩にあたつて、自分が穢多であるといふことを考へたほど、切ない思を為たためしは無い。奥様を始め、お志保、省吾なぞは既に本堂へ上つて、北の間の隅のところに集つて居た。見れば中の間から南の間へかけて、男女をとこをんなの信徒、あそこに一団ひとかたまり、こゝにも一団、思ひ/\に挨拶したり話したりする声は、忍んではするものゝ、何となく賑に面白く聞える。庄馬鹿が、自慢の羽織を折目正しく着飾つて、是見これみよがしに人々のなかを分けて歩くのも、をかしかつた。其取澄ました様子を見て、奥様も笑へば、お志保も笑つた。丁度丑松の座つたところは、永代読経として寄附の金高と姓名とを張出してある古壁の側、お志保も近くて、髪の香が心地よくかをりかゝる。提灯の影は花やかに本堂の夜の空気を照らして、一層その横顔を若々しくして見せた。何といふ親しげな有様だらう、あの省吾を背後うしろから抱いて、すこし微笑ほゝゑんで居る姉らしい姿は。斯う考へて、丑松はお志保の方を熟視みまもたびに、言ふに言はれぬ楽しさを覚えるのであつた。
 説教の始まるには未だ少許すこし間が有つた。其時文平もやつて来て、先づ奥様に挨拶し、お志保に挨拶し、省吾に挨拶し、それから丑松に挨拶した。あゝ、嫌な奴が来た、と心に思ふばかりでも、丑松の空想は忽ち掻乱かきみだされて、ぞつとするやうな現実の世界へ帰るさへあるに、加之おまけに、文平が忸々敷なれ/\しい調子で奥様に話しかけたり、お志保や省吾を笑はせたりするのを見ると、丑松はもう腹立たしく成る。斯うした女子供のなかで談話はなしをさせると、実に文平は調子づいて来る男で、一寸したことをいかにももつともらしく言ひこなして聞かせる。それに、この男の巧者なことには、妙に人懐ひとなつこい、女の心を※(「女+無」、第4水準2-5-80)ひきつけるやうなところが有つて、正味自分の価値ねうちよりは其を二倍にも三倍にもして見せた。万事深くつゝんで居るやうな丑松に比べると、親切はかへつて文平の方にあるかと思はせる位。丑松は別に誰の機嫌を取るでも無かつた――いや、省吾の方にはやさしくしても、お志保に対する素振を見るといつ冷淡つれないとしか受取れなかつたのである。
『瀬川君、奈何どうです、今日の長野新聞は。』
 と文平は低声こごゑかまをかけるやうに言出した。
『長野新聞?』と丑松は考深い目付をして、『今日は未だ読んで見ません。』
『そいつは不思議だ――君が読まないといふのは不思議だ。』
何故なぜ?』
『だつて、君のやうに猪子先生を崇拝して居ながら、あの演説の筆記を読まないといふのは不思議だからサ。まあ、是非読んで見たまへ。それに、あの新聞の評が面白い。猪子先生のことを、「新平民中の獅子」だなんて――巧いことを言ふ記者が居るぢやあないか。』
 斯う口では言ふものゝ、文平の腹の中では何を考へて居るか、と丑松は深く先方さきの様子を疑つた。お志保はまた熱心に耳を傾けて、二人の顔を見比べて居たのである。
『猪子先生の議論はかく、あの意気には感服するよ。』と文平は言葉を継いで、『あの演説の筆記を見たら、猪子先生の書いたものを読んで見たくなつた。まあ君はくはしいと思ふから、其で聞くんだが、あの先生の著述では何が一番傑作と言はれるのかね。』
『どうも僕には解らないねえ。』斯う丑松は答へた。
『いや、戯語じようだんぢや無いよ――実際、君、僕は穢多といふものに興味を持つて来た。あの先生のやうな人物が出るんだから、確に研究して見る価値ねうちは有るに相違ない。まあ、君だつても、其で「懴悔録」なぞを読む気に成つたんだらう。』と文平はあざけるやうな語気で言つた。
 丑松は笑つて答へなかつた。流石さすがにお志保の居る側で、穢多といふ言葉が繰返された時は、丑松はもう顔色を変へて、自分で自分を制へることが出来なかつたのである。怒気いかり畏怖おそれとはかはる/″\丑松の口唇くちびるに浮んだ。文平は又、鋭い目付をして、其微細な表情までも見泄みもらすまいとする。『御気の毒だが――左様さう君のやうに隠したつても無駄だよ』と斯う文平の目が言ふやうにも見えた。
『瀬川君、何か君のところには彼の先生のものが有るだらう。何でも好いから僕に一冊貸して呉れ給へな。』
『無いよ――何にも僕のところには無いよ。』
『無い? 無いツてことがあるものか。君のところに無いツてことがあるものか。なにも左様さう隠さないで、一冊位貸して呉れたつて好ささうなものぢやないか。』
『いや、僕は隠しやしない。無いから無いと言ふんさ。』
 遽然にはかに、蓮華寺の住職が説教の座へ上つたので、二人はそれぎり口を噤んで了つた。人々はいづれもすわり直したり、かたちを改めたりした。
 
       (四)
 
 住職は奥様と同年おないどしといふ。男のことであるから割合に若々しく、墨染すみぞめ法衣ころも金襴きんらん袈裟けさを掛け、外陣の講座の上に顕はれたところは、佐久小県辺さくちひさがたあたりに多い世間的な僧侶に比べると、はるかに高尚な宗教生活を送つて来た人らしい。額広く、鼻隆く、眉すこし迫つて、容貌おもばせもなか/\立派な上に、温和な、善良な、且つ才智のある性質を好く表して居る。法話の第一部は猿の比喩たとへで始まつた。智識のある猿は世に知らないといふことが無い。よく学び、よく覚え、殊に多くの経文を暗誦して、万人の師匠とも成るべき程の学問を蓄はへた。畜生の悲しさには、唯だ一つ信ずる力を欠いた。人は、よし是猿ほどの智識が無いにもせよ、信ずる力あつて、はじめて凡夫も仏の境には到り得る。なんと各々位おの/\がた、合点か。人間と生れた宿世すくせのありがたさを考へて、朝夕念仏を怠り給ふな。う住職は説出したのである。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ。』
 と人々の唱へる声は本堂の広間に満ち溢れた。男も、女も、懐中ふところから紙入を取出して、思ひ/\に賽銭さいせんを畳の上へ置くのであつた。
 法話の第二部は、昔の飯山の城主、松平遠江守の事蹟をたねに取つた。そも/\飯山が仏教の地と成つたは、斯の先祖の時代からである。火のやうなかみの宗教心は未だ年若な頃からして燃えた。丁度江戸表へ参勤の時のこと、日頃欝積むすぼれて解けない胸中の疑問を人々に尋ね試みたことがある。『人は死んで、畢竟つまり奈何どうなる。』侍臣も、儒者も、斯問このとひには答へることが出来なかつた。林大学だいがくかみに尋ねた。大学の頭ですらも。それから守は宗教に志し、渋谷の僧に就いて道を聞き、領地をばをひに譲り、六年目の暁に出家して、飯山にある仏教の先祖おやと成つたといふ。なんと斯発心ほつしんの歴史はあぢはひのある話ではないか。世の多くの学者が答へることの出来ない、其難問に答へ得るものは、信心あるものより外に無い。斯う住職は説き進んだのである。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ。』
 一斉に唱へる声は風のやうに起つた。人々はた賽銭を取出して並べた。
 斯ういふ説教の間にも、時々丑松は我を忘れて、熱心なひとみをお志保の横顔に注いだ。流石さすがに人目をはゞかつて見まい/\と思ひ乍らも、つい見ると、仏壇の方を眺め入つたお志保の目付の若々しさ。不思議なことには、熱い涙が人知れず其顔を流れるといふ様子で、時々すゝり上げたり、そつと鼻をんだりした。尚よく見ると、言ふに言はれぬ恐怖おそれ悲愁うれひとが女らしい愛らしさに交つて、陰影かげのやうにあらはれたり、隠れたりする。何をお志保は考へたのだらう。何を感じたのだらう。何を思出したのだらう。う丑松は推量した。今夜の法話が左様さう若い人の心を動かすとも受取れない。有体ありていに言へば、住職の説教はもうふるい、旧い遣方で、明治生れの人間の耳にはいつそ異様に響くのである。型に入つた仮白せりふのやうな言廻し、秩序の無い断片的な思想、金色に光り輝く仏壇の背景――丁度それは時代なしばゐでも観て居るかのやうな感想かんじを与へる。若いものが彼様あゝいふ話を聴いて、其程胸を打たれようとは、奈何どうしても思はれなかつたのである。
 省吾はそろ/\眠くなつたと見え、姉に倚凭よりかゝつたまゝ、首を垂れてしまつた。お志保はいろ/\に取賺とりすかして、ゆすつて見たり、私語さゝやいて見たりしたが、一向に感覚が無いらしい。
『これ――もうすこし起きておいでなさいよ。他様ひとさまが見て笑ふぢやありませんか。』と叱るやうに言つた。奥様は引取つて、
『其処へ寝かして置くがいゝやね。ナニ、子供のことだもの。』
真実ほんと児童ねんねえで仕方が有ません。』
 斯う言つて、お志保は省吾を抱直した。殆んど省吾は何にも知らないらしい。其時丑松が顔を差出したので、お志保も是方こちらを振向いた。お志保は文平を見て、奥様を見て、それから丑松を見て、あかくなつた。
 
       (五)
 
 法話の第三部は白隠に関する伝説を主にしたものであつた。昔、飯山の正受菴しやうじゆあんに恵端禅師といふ高僧が住んだ。白隠が斯の人を尋ねて、飯山へやつて来たのは、まだ道を求めて居る頃。参禅して教を聴く積りで、来て見ると、掻集めた木葉このはを背負ひ乍らとぼ/\と谷間たにあひを帰つて来る人がある。散切頭ざんぎりあたまに、ひげ茫々ばう/\。それと見た白隠は切込んで行つた。『そもさん。』ういふ熱心は、やうやく三回目に、恵端の為に認められたといふ。それから朝夕師としてかしづいて居たが、さてしまひには、白隠も問答に究してしまつた。究するといふよりは、絶望して了つた。あゝ、彼様あんな問を出すのは狂人きちがひだ、と斯う師匠のことを考へるやうに成つて、苦しさのあまりに其処を飛出したのである。思案に暮れ乍ら、白隠は飯山の町はづれを辿つた。丁度収穫とりいれの頃で、堆高うづだかく積上げた穀物の傍にたふれて居ると、農夫の打つつちは誤つての求道者を絶息させた。夜露が口に入る、目が覚める、蘇生いきかへると同時に、白隠は悟つた。一説に、彼は町はづれで油売に衝当つきあたつて、其油に滑つて、悟つたともいふ。静観庵じやうくわんあんとして今日迄残つて居るのは、この白隠の大悟した場処を記念する為に建てられたものである。
 斯の伝説はかく若いものゝ知らないことであつた。それから自分の意見を述べて、いよ/\結末くゝりといふ段になると、毎時いつも住職は同じやうな説教の型に陥る。自力で道に入るといふことは、白隠のやうな人物ですら容易で無い。吾他力宗は単純ひとへに頼むのだ。信ずるのだ。導かれるのだ。凡夫の身をもつて達するのだ。呉々も自己おのれを捨てゝ、阿弥陀如来あみだによらいを頼み奉るの外は無い。斯う住職は説き終つた。
『なむあみだぶ、なむあみだぶ。』
 と人々の唱へる声は暫時しばらく止まなかつた。多くの賽銭はまた畳の上に集つた。お志保も殊勝らしくを合せて、奥様と一緒に唱へて居たが、涙は其若い頬を伝つて絶間とめども無く流れ落ちたのである。
 やがて聴衆は珠数をげて帰つて行つた。奥様も、お志保も、今は座を離れて、円柱の側に佇立たゝずみ乍ら、人々に挨拶したり見送つたりした。雪がまた降つて来たといふので、本堂の入口はひどく雑踏する。女連は多く後になつた。殊に思ひ/\の風俗して、時の流行はやりに後れまいとする町の娘の有様は、深く/\お志保の注意を引くのであつた。お志保はじつと眺め入り乍ら、寺住の身と思比べて居たらしいのである。
『や、どうも今晩の御説教には驚きましたねえ。』と文平は住職に近いて言つた。『実に彼の白隠の歴史には感服して了ひました。まあ、始めてです、彼様あゝいふ御話を伺つたことは。あの白隠が恵端禅師のところへ尋ねて行く。あそこのところが私は気に入りました。斯う向ふの方から、掻集めた木葉を背負ひ乍ら、散切頭に髯茫々といふ姿で、とぼ/\と谷間を帰つて来る人がある。そこへ白隠が切込んで行つた。「そもさん。」――彼様あゝいかなければ不可いけませんねえ。』と身振手真似を加へて喋舌しやべりたてたので、住職はもとより、其を聞く人々は笑はずに居られなかつた。さうかうする中に、聴衆は最早もう悉皆すつかり帰つて了ふ。急に本堂の内は寂しく成る。若僧や子坊主は多忙いそがしさうに後片付。庄馬鹿は腰をこゞめ乍ら、畳の上の賽銭を掻集めて歩いた。
 其時は最早もう丑松の姿が本堂の内に見えなかつた。丑松は省吾を連れて、蔵裏の方へ見送つて行つてやつた。丁度文平が奥様やお志保の側で盛んに火花を散らして居る間に、丑松は黙つて省吾を慰撫いたはつたり、人の知らない面倒を見て遣つたりして居たのである。
 
 

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