破戒(11〜最終章) 島崎藤村

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   第拾八章
 
       (一)
 
 毎年まいとし降る大雪が到頭たうとうやつて来た。町々の人家も往来もすべて白く埋没うづもれて了つた。昨夜一晩のうちに四尺あまりも降積るといふ勢で、急に飯山は北国の冬らしい光景ありさまと変つたのである。
 斯うなると、最早もう雪の捨てどころが無いので、往来の真中へ高く積上げて、雪の山を作る。両側は見事に削り落したり、叩き付けたりして、すこし離れて眺めると、丁度長い白壁のやう。上へ/\と積上げては踏み付け、踏み付けては又た積上げるやうに為るので、軒丈のきだけばかりの高さに成つて、むかひあふ家と家とは屋根とひさしとしか見えなくなる。雪の中から掘出された町――たとへば飯山の光景ありさまは其であつた。
 高柳利三郎と町会議員の一人が本町の往来で出逢であつた時は、盛んに斯雪を片付ける最中で、雪掻ゆきかきを手にした男女をとこをんな其処此処そここゝむらがり集つて居た。『どうも大降りがいたしました。』といふ極りの挨拶を交換とりかはした後、やがて別れて行かうとする高柳を呼留めて、町会議員は斯う言出した。
『時に、御聞きでしたか、の瀬川といふ教員のことを。』
『いゝえ。』と高柳は力を入れて言つた。『私はなんにも聞きません。』
『彼の教員は君、調里てうり(穢多の異名)だつて言ふぢや有ませんか。』
『調里?』と高柳は驚いたやうに。
あきれたねえ、これには。』と町会議員も顔をしかめて、『もつとも、種々いろ/\な人の口からつたはり伝つた話で、誰が言出したんだかく解らない。しかし保証するとまで言ふ人が有るから確実たしかだ。』
『誰ですか、其保証人といふのは――』
『まあ、其は言はずに置かう。名前を出して呉れては困ると先方さきの人も言ふんだから。』
 斯う言つて、町会議員は今更のやうにひとの秘密をもらしたといふ顔付。『君だから、話す――秘密にして置いて呉れなければ困る。』と呉々も念を押した。高柳はまた口唇を引歪めて、意味ありげな冷笑あざわらひを浮べるのであつた。
 急いで別れて行く高柳を見送つて、反対あべこべな方角へ一町ばかりも歩いて行つた頃、噂好うはさずきな町会議員は一人の青年に遭遇であつた。秘密に、と思へば思ふ程、猶々なほ/\其を私語さゝやかずには居られなかつたのである。
『彼の瀬川といふ教員は、君、これだつて言ひますぜ。』
 と指を四本出して見せる。尤も其意味が対手には通じなかつた。
『是だつて言つたら、君も解りさうなものぢや無いか。』と町会議員は手を振り乍ら笑つた。
『どうも解りませんね。』と青年はいぶかしさうな顔付。
了解さとりの悪い人だ――それ、調里のことを四足しそくと言ふぢやないか。はゝゝゝゝ。しかし是は秘密だ。誰にも君、斯様なことは話さずに置いて呉れ給へ。』
 念を押して置いて、町会議員は別れて行つた。
 丁度、そこへ通りかゝつたのは、学校へ出勤しようとする準教員であつた。それと見た青年は駈寄つて、大雪の挨拶。何時の間にか二人は丑松の噂を始めたのである。
これはまあく/\秘密なんだが――君だから話すが――』と青年は声を低くして、『君の学校に居る瀬川先生は調里ださうだねえ。』
『其さ――僕もある処で其話を聞いたがね、未だ半信半疑で居る。』と準教員は対手の顔を眺め乍ら言つた。『して見ると、いよ/\事実かなあ。』
『僕は今、ある人に逢つた。其人が指を四本出して見せて、彼の教員は是だと言ふぢやないか。はてな、とは思つたが、其意味が能く解らない。聞いて見ると、四足といふ意味なんださうだ。』
『四足? 穢多のことを四足と言ふかねえ。』
『言はあね。四足と言つて解らなければ、「よつあし」と言つたら解るだらう。』
『むゝ――「よつあし」か。』
『しかし、驚いたねえ。狡猾かうくわつな人間もあればあるものだ。今日いままで隠蔽かくして居たものさ。其様そんけがらはしいものを君等の学校で教員にして置くなんて――第一怪しからんぢやないか。』
しツ。』
 と周章あわてゝ制するやうにして、急に準教員は振返つて見た。其時、丑松は矢張学校へ出勤するところと見え、深く外套ぐわいたうに身を包んで、向ふの雪の中を夢見る人のやうに通る。何か斯う物を考へ/\歩いて行くといふことは、其の沈み勝ちな様子を見ても知れた。暫時しばらく丑松も佇立たちどまつて、じつ是方こちらの二人を眺めて、軈て足早に学校を指して急いで行つた。
 
       (二)
 
 雪に妨げられて、学校へ集る生徒は些少すくなかつた。何時いつまでつても授業を始めることが出来ないので、職員のあるものは新聞縦覧所へ、あるものは小使部屋へ、あるものは又た唱歌の教室に在る風琴の周囲まはりへ――いづれも天の与へた休暇やすみとして斯の雪の日を祝ふかのやうに、思ひ/\のに集つて話した。
 職員室の片隅にも、四五人の教員が大火鉢を囲繞とりまいた。例の準教員が其中へ割込んで入つた時は、誰が言出すともなく丑松の噂を始めたのであつた。時々盛んな笑声が起るので、何事かと来て見るものが有る。しまひには銀之助も、文平も来て、斯の談話はなしの仲間に入つた。
奈何どうです、土屋君。』と準教員は銀之助の方を見て、『吾儕われ/\は今、瀬川君のことに就いて二派に別れたところです。君は瀬川君と同窓の友だ。さあ、君の意見を一つ聞かせて呉れ給へ。』
『二派とは?』と銀之助は熱心に。
『外でも無いんですがね、瀬川君は――まあ、近頃世間で噂のあるやうな素性の人に相違ないといふ説と、いや其様な馬鹿なことが有るものかといふ説と、斯う二つに議論が別れたところさ。』
『一寸待つて呉れ給へ。』と薄鬚うすひげのある尋常四年の教師が冷静な調子で言つた。『二派と言ふのは、君、少許すこし穏当で無いだらう。だ、左様さうだとも、左様では無いとも、断言しない連中が有るのだから。』
『僕は確に其様なことは無いと断言して置く。』と体操の教師が力を入れた。
『まあ、土屋君、斯ういふ訳です。』と準教員は火鉢の周囲まはりに集る人々の顔をながめ廻して、『何故なぜ其様そんな説が出たかといふに、そこには種々いろ/\議論も有つたがね、要するに瀬川君の態度がすこぶる怪しい、といふのがそも/\始りさ。吾儕われ/\の中に新平民が居るなんて言触らされて見給へ。誰だつて憤慨するのは至当あたりまへぢやないか。君始め左様だらう。一体、世間で其様なことを言触らすといふのが既にもう吾儕職員を侮辱してるんだ。だからさ、若し瀬川君にやましいところが無いものなら、吾儕と一緒に成つて怒りさうなものぢやないか。まあ、何とか言ふべきだ。それも言はないで、彼様あゝして黙つて居るところを見ると、奈何どうしても隠して居るとしか思はれない。斯う言出したものが有る。すると、また一人が言ふには――』と言ひかけて、やがて思付いたやうに、『しかし、まあ、止さう。』
『何だ、言ひかけて止すやつが有るもんか。』と背の高い尋常一年の教師が横鎗よこやりを入れる。
『やるべし、やるべし。』と冷笑の語気を帯びて言つたのは、文平であつた。文平は準教員の背後うしろに立つて、巻煙草をふかし乍ら聞いて居たのである。
『しかし、戯語じようだんぢや無いよ。』と言ふ銀之助の眼は輝いて来た。『僕なぞは師範校時代から交際つきあつて、能く人物を知つて居る。の瀬川君が新平民だなんて、其様そんなことが有つて堪るものか。一体誰が言出したんだか知らないが、し世間に其様な風評が立つやうなら、飽迄あくまでも僕は弁護して遣らなけりやならん。だつて、君、考へて見給へ。こりや真面目まじめな問題だよ――茶を飲むやうな尋常あたりまへな事とは些少すこし訳が違ふよ。』
『無論さ。』と準教員は答へた。『だから吾儕われ/\も頭を痛めて居るのさ。まあ、聞き給へ。ある人は又た斯ういふことを言出した。瀬川君に穢多の話を持掛けると、必ず話頭はなしわきそらして了ふ。いや、転して了ふばかりぢや無い、直に顔色を変へるから不思議だ――其顔色と言つたら、迷惑なやうな、周章あわてたやうな、まあ何ともかとも言ひやうが無い。それそこが可笑をかしいぢやないか。吾儕と一緒に成つて、「むゝ、調里坊てうりツぱうかあ」とかなんとか言ふやうだと、誰も何とも思やしないんだけれど。』
『そんなら、君、あの瀬川丑松といふ男に何処どこか穢多らしい特色が有るかい。先づ、其からして聞かう。』と銀之助は肩をゆすつた。
『なにしろ近頃非常に沈んで居られるのは事実だ。』と尋常四年の教師は、あご薄鬚うすひげを掻上げ乍ら言ふ。
『沈んで居る?』と銀之助は聞咎きゝとがめて、『沈んで居るのは彼男あのをとこの性質さ。それだから新平民だとは無論言はれない。新平民でなくたつて、沈欝ちんうつな男はいくらも世間にあるからね。』
『穢多には一種特別な臭気にほひが有ると言ふぢやないか――嗅いで見たら解るだらう。』と尋常一年の教師は混返まぜかへすやうにして笑つた。
『馬鹿なことを言給へ。』と銀之助も笑つて、『僕だつていくらも新平民を見た。あの皮膚の色からして、普通の人間とは違つて居らあね。そりやあ、もう、新平民か新平民で無いかは容貌かほつきで解る。それに君、社会よのなかから度外のけものにされて居るもんだから、性質が非常にひがんで居るサ。まあ、新平民の中から男らしい毅然しつかりした青年なぞの産れやうが無い。どうして彼様あんな手合が学問といふ方面に頭をもちあげられるものか。其からしたつて、瀬川君のことは解りさうなものぢやないか。』
『土屋君、そんならの猪子蓮太郎といふ先生は奈何どうしたものだ。』と文平はあざけるやうに言つた。
『ナニ、猪子蓮太郎?』と銀之助は言淀いひよどんで、『の先生は――あれは例外さ。』
『それ見給へ。そんなら瀬川君だつても例外だらう――はゝゝゝゝ。はゝゝゝゝ。』
 と準教員は手をつて笑つた。聞いて居る教員たちも一緒になつて笑はずには居られなかつたのである。
 其時、斯の職員室の戸を開けて入つて来たのは、丑松であつた。急に一同口をつぐんでしまつた。人々の視線は皆な丑松の方へ注ぎ集つた。
『瀬川君、奈何どうですか、御病気は――』
 と文平は意味ありげに尋ねる。其調子がいかにも皮肉に聞えたので、準教員は傍に居る尋常一年の教師と顔を見合せて、思はず互に微笑ほゝゑみもらした。
難有ありがたう。』と丑松は何気なく、『もうすつかりくなりました。』
風邪かぜですか。』と尋常四年の教師が沈着おちつき澄まして言つた。
『はあ――ナニ、たいしたことでも無かつたんです。』と答へて、丑松は気を変へて、『時に、勝野君、生憎あいにく今日は生徒が集まらなくて困つた。の様子では土屋君の送別会も出来さうも無い。折角準備したくしたのにツて、出て来た生徒は張合の無いやうな顔してる。』
『なにしろ是雪このゆきだからねえ。』と文平は微笑んで、『仕方が無い、延ばすサ。』
 ういふ話をして居るところへ、小使がやつて来た。銀之助は丑松の方にばかり気を取られて、小使の言ふことも耳へ入らない。それと見た体操の教師は軽く銀之助の肩を叩いて、
『土屋君、土屋君――校長先生が君を呼んでるよ。』
『僕を?』銀之助は始めて気が付いたのである。
 
       (三)
 
 校長は郡視学と二人で応接室に居た。銀之助が戸を開けて入つた時は、二人差向ひに椅子に腰懸けて、何か密議をこらして居るところであつた。
『おゝ、土屋君か。』と校長は身を起して、そこに在る椅子を銀之助の方へ押薦おしすゝめた。『ほかの事で君を呼んだのでは無いが、実は近頃世間に妙な風評が立つて――定めし其はもう君も御承知のことだらうけれど――彼様あゝして町の人がかく言ふものを、黙つて見ても居られないし、第一ういふことが余り世間へ伝播ひろがると、しまひには奈何どんな結果を来すかも知れない。其に就いて、こゝに居られる郡視学さんも非常に御心配なすつて、態々わざ/\の雪に尋ねて来て下すつたんです。かく、君は瀬川君と師範校時代から御一緒ではあり、日頃親しく往来ゆきゝもして居られるやうだから、君に聞いたら是事このことは一番好く解るだらう、斯う思ひましてね。』
『いえ、私だつて其様そんなことは解りません。』と銀之助は笑ひ乍ら答へた。『何とでも言はせて置いたら好いでせう。其様な世間で言ふやうなことを、一々気にして居たら際限きりが有ますまい。』
『しかし、左様いふものでは無いよ。』と校長は一寸郡視学の方を向いて見て、やがて銀之助の顔を眺め乍ら、『君等は未だ若いから、其程世間といふものに重きを置かないんだ。幼稚なやうに見えて、馬鹿にならないのは、世間さ。』
『そんなら町の人がうはさするからと言つて、根も葉も無いやうなことを取上げるんですか。』
『それ、それだから、君等は困る。無論我輩だつて其様なことを信じないさ。しかし、君、考へて見給へ。万更まんざら火の気の無いところに煙の揚るはずも無からうぢやないか。いづれ是には何か疑はれるやうな理由が有つたんでせう――土屋君、まあ、君は奈何どう思ひます。』
『奈何しても私には左様思はれません。』
『左様言へば、其迄だが、何かそれでも思ひ当る事が有さうなものだねえ。』と言つて校長は一段声を低くして、『一体瀬川君は近頃非常に考へ込んで居られるやうだが、何が原因もと彼様あゝ憂欝に成つたんでせう。以前はく吾輩のうちへもやつて来て呉れたツけが、此節はもう薩張さつぱり寄付かない。まあ吾儕われ/\と一緒に成つて、はなしたり笑つたりするやうだと、御互ひに事情もく解るんだけれど、彼様あゝして独りで考へてばかり居られるもんだから――ホラ、訳を知らないものから見ると、何かそこには後暗い事でも有るやうに、つい疑はなくても可い事まで疑ふやうに成るんだらうと思ふのサ。』
『いえ。』と銀之助は校長の言葉をさへぎつて、『実は――其には他に深い原因が有るんです。』
『他に?』
『瀬川君は彼様いふ性質たちですから、なか/\口へ出しては言ひませんがね。』
『ホウ、言はない事が奈何して君に知れる?』
『だつて、言葉で知れなくたつて、行為おこなひの方で知れます。私は長く交際つきあつて見て、瀬川君が種々いろ/\に変つて来た径路みちすぢを多少知つて居ますから、奈何どうして彼様あゝ考へ込んで居るか、奈何して彼様憂欝に成つて居るか、それはもう彼の君のることを見ると、自然と私の胸には感じることが有るんです。』
 ういふ銀之助の言葉は深く対手の注意を惹いた。校長と郡視学の二人は巻煙草をふかし乍ら、奈何どう銀之助が言出すかと、黙つて其話を待つて居たのである。
 銀之助に言はせると、丑松が憂欝に沈んで居るのは世間でうはさするやうなことゝ全く関係の無い――実は、青年の時代には誰しも有勝ちな、其胸の苦痛くるしみに烈しく悩まされて居るからで。意中の人が敬之進の娘といふことは、正に見当が付いて居る。しかし、丑松は彼様いふ気象の男であるから、其を友達に話さないのみか、相手の女にすらも話さないらしい。それそこが性分で、じつと黙つてこらへて居て、唯敬之進とか省吾とか女の親兄弟に当る人々の為に種々さま/″\なことをつて居る――まあ、言はないものは、せめて尽して、それで心を慰めるのであらう。思へば人の知らない悲哀かなしみを胸に湛へて居るのに相違ない。もつとも、自分は偶然なことからして、斯ういふ丑松の秘密を感得かんづいた。しかも其はつい近頃のことで有ると言出した。『といふ訳で、』と銀之助は額へ手を当てゝ、『そこへ気が付いてから、瀬川君の為ることは悉皆すつかり読めるやうに成ました。どうも可笑をかしい/\と思つて見て居ましたツけ――そりやあもう、辻褄つじつまの合はないやうなことが沢山たくさん有つたものですから。』
成程なるほどねえ。あるひは左様いふことが有るかも知れない。』
 と言つて、校長は郡視学と顔を見合せた。
 
       (四)
 
 やがて銀之助は応接室を出て、たもとの職員室へ来て見ると、丑松と文平の二人が他の教員に取囲とりまかれ乍らしきりに大火鉢の側で言争つて居る。黙つて聞いて居る人々も、見れば、同じやうに身を入れて、あるものは立つて腕組したり、あるものは机に倚凭よりかゝつて頬杖ほゝづゑを突いたり、あるものは又たぐる/\室内を歩き廻つたりして、いづれも熱心に聞耳を立てゝ居る様子。のみならず、丑松の様子をうかゞひ澄まして、穿鑿さぐりを入れるやうな眼付したものもあれば、半信半疑らしい顔付の手合もある。銀之助は談話はなしの調子を聞いて、二人が一方ならず激昂して居ることを知つた。
『何を君等は議論してるんだ。』
 と銀之助は笑ひ乍ら尋ねた。其時、人々の背後うしろに腰掛け、手帳を繰りひろげ、丑松や文平の肖顔にがほを写生し始めたのは準教員であつた。
『今ね、』と準教員は銀之助の方を振向いて見ながら、『猪子先生のことで、大分やかましく成つて来たところさ。』と言つて、一寸鉛筆の尖端さきめて、微笑ほゝゑみ乍ら写生に取懸つた。
『なにも其様そんなにやかましいことぢや無いよ。』斯う文平は聞咎きゝとがめたのである。『奈何どうして瀬川君はの先生の書いたものを研究する気に成つたのか、其を僕は聞いて見たばかりだ。』
『しかし、勝野君の言ふことは僕にく解らない。』丑松の眼は燃え輝いて居るのであつた。
『だつて君、いづれ何か原因が有るだらうぢやないか。』と文平はまでも皮肉に出る。
『原因とは?』丑松は肩をゆすり乍ら言つた。
『ぢやあ、う言つたら好からう。』と文平は真面目に成つて、『たとへば――まあ僕は例を引くから聞き給へ。こゝに一人の男が有るとしたまへ。其男が発狂して居るとしたまへ。普通なみのものが其様な発狂者を見たつて、それほど深い同情は起らないね。起らないはずさ、別に是方こちらに心をいためることが無いのだもの。』
『むゝ、面白い。』と銀之助は文平と丑松の顔を見比べた。
『ところが、しこゝにひどく苦んだり考へたりして居る人があつて、其人が今の発狂者を見たとしたまへ。さあ、思ひつめた可傷いたましい光景ありさまも目に着くし、絶望の為に痩せた体格も目に着くし、日影に悄然しよんぼりとして死といふことを考へて居るやうな顔付も目に着く。といふは外でも無い。発狂者を思ひやるだけ苦痛くるしみが矢張是方こちらにあるからだ。其処だ。瀬川君が人生問題なぞを考へて、猪子先生の苦んで居る光景ありさまに目が着くといふのは、何か瀬川君の方にも深く心を傷めることが有るからぢや無からうか。』
『無論だ。』と銀之助は引取つて言つた。『其が無ければ、第一読んで見たつて解りやしない。其だあね、僕が以前まへから瀬川君に言つてるのは。尤も瀬川君が其を言へないのは、僕は百も承知だがね。』
何故なぜ、言へないんだらう。』と文平は意味ありげに尋ねて見る。
『そこが持つて生れた性分サ。』と銀之助は何か思出したやうに、『瀬川君といふ人は昔から斯うだ。僕なぞはもうずん/\暴露さらけだして、しまつて置くといふことは出来ないがなあ。瀬川君の言はないのは、何も隠す積りで言はないのぢや無い、性分で言へないのだ。はゝゝゝゝ、御気の毒な訳さねえ――苦むやうに生れて来たんだから仕方が無い。』
 斯う言つたので、聞いて居る人々は意味も無く笑出した。暫時しばらく準教員も写生の筆をめて眺めた。尋常一年の教師は又、丑松の背後うしろへ廻つて、眼を細くして、そつ臭気にほひいで見るやうな真似をした。
『実は――』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら、『ある処から猪子先生の書いたものを借りて来て、僕も読んで見た。一体、の先生は奈何どういふ種類の人だらう。』
『奈何いふ種類とは?』と銀之助は戯れるやうに。
『哲学者でもなし、教育家でもなし、宗教家でもなし――左様かと言つて、普通の文学者とも思はれない。』
『先生は新しい思想家さ。』銀之助の答は斯うであつた。
『思想家?』と文平はあざけつたやうに、『ふゝ、僕に言はせると、空想家だ、夢想家だ――まあ、一種の狂人きちがひだ。』
 其調子がいかにも可笑をかしかつた。盛んな笑声がた聞いて居る教師の間に起つた。銀之助も一緒に成つて笑つた。其時、憤慨の情は丑松が全身の血潮に交つて、一時に頭脳あたまの方へ衝きかゝるかのやう。あをざめて居た頬は遽然にはかに熱して来て、※(「目+匡」、第3水準1-88-81)まぶちも耳もあかく成つた。
 
       (五)
 
『むゝ、勝野君は巧いことを言つた。』と斯う丑松は言出した。『の猪子先生なぞは、全く君の言ふ通り、一種の狂人きちがひさ。だつて、君、左様さうぢやないか――世間体の好いやうな、自分で自分に諂諛へつらふやうなことばかり並べて、其を自伝と言つてひと吹聴ふいちやうするといふ今の世の中に、狂人きちがひででも無くて誰が冷汗の出るやうな懴悔なぞを書かう。彼の先生の手から職業を奪取うばひとつたのも、彼様いふ病気に成る程の苦痛くるしみめさせたのも、畢竟つまりの社会だ。其社会の為に涙を流して、満腔まんかうの熱情を注いだ著述をしたり、演説をしたりして、筆は折れ舌はたゞれる迄も思ひこがれて居るなんて――斯様こん大白痴おほたはけが世の中に有らうか。はゝゝゝゝ。先生の生涯は実に懴悔の生涯しやうがいさ。空想家と言はれたり、夢想家と言はれたりして、甘んじて其冷笑を受けて居る程の懴悔の生涯さ。「奈何どんな苦しい悲しいことが有らうと、其を女々しく訴へるやうなものは大丈夫と言はれない。世間の人のにらむ通りに睨ませて置いて、黙つて狼のやうに男らしく死ね。」――其が先生の主義なんだ。見給へ、まあ其主義からして、もう狂人染きちがひじみてるぢやないか。はゝゝゝゝ。』
『君は左様激するから不可いかん。』と銀之助は丑松を慰撫なだめるやうに言つた。
いや、僕は決して激しては居ない。』う丑松は答へた。
『しかし。』と文平は冷笑あざわらつて、『猪子蓮太郎だなんて言つたつて、高が穢多ぢやないか。』
『それが、君、奈何した。』と丑松は突込んだ。
彼様あんな下等人種の中からろくなものゝ出よう筈が無いさ。』
『下等人種?』
卑劣いやしい根性を持つて、可厭いやひがんだやうなことばかり言ふものが、下等人種で無くて君、何だらう。下手に社会へ突出でしやばらうなんて、其様な思想かんがへを起すのは、第一大間違さ。獣皮かはいぢりでもして、神妙しんべうに引込んでるのが、丁度彼の先生なぞには適当して居るんだ。』
『はゝゝゝゝ。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言ふのだね。はゝゝゝゝ。僕は今迄、君も彼の先生も、同じ人間だとばかり思つて居た。』
『止せ。止せ。』と銀之助は叱るやうにして、『其様な議論を為たつて、つまらんぢやないか。』
『いや、つまらなかない。』と丑松は聞入れなかつた。『僕は君、これでも真面目まじめなんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣皮かはいぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞにかゝりはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂人きちがひざまだらう。あゝ、開化した高尚な人は、あらかじめ金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。』
 と丑松は上歯をあらはして、大きく口を開いて、身をふるはせ乍ら欷咽すゝりなくやうに笑つた。欝勃うつぼつとした精神は体躯からだ外部そとへ満ちあふれて、額は光り、頬の肉も震へ、憤怒と苦痛とで紅く成つた時は、其の粗野な沈欝な容貌が平素いつもよりも一層もつと男性をとこらしく見える。銀之助は不思議さうに友達の顔を眺めて、久し振で若くつよく活々とした丑松の内部なか生命いのちに触れるやうな心地こゝろもちがした。
 対手が黙つてしまつたので、丑松もそれぎり斯様こんな話をしなかつた。文平はまた何時までも心の激昂をおさへきれないといふ様子。頭ごなしにのゝしらうとして、かへつて丑松の為に言敗いひまくられた気味が有るので、軽蔑けいべつ憎悪にくしみとは猶更なほさら容貌の上に表れる。『何だ――この穢多めが』とは其の怒気いかりを帯びた眼が言つた。軈て文平は尋常一年の教師を窓の方へ連れて行つて、
奈何どうだい、君、今の談話はなしは――瀬川君は最早もう悉皆すつかり自分で自分の秘密を自白したぢやないか。』
 私語さゝやいて聞かせたのである。
 丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其周囲まはりへ集つた。
 
 

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