ゲーテ ファウスト 森鴎外訳

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後編
 

(場所全く一変す。並びたる数箇の岩室にせ掛け、生きたる草木もて数軒の家を編み成せり。家は鎖されたり。周囲に岩石の断崖ありて、その辺まで緑の木立の蔭を成せるを見る。ファウストとヘレネとは見えず。合唱の群分かれ/\になりて、あたりに眠れり。)

    闇の女
女子供おなごどもがもうどの位寝ているか、わたしは知らぬ。
わたしがはっきり目で見た事を、夢にでも見たか、
 
それもわたしには分からぬ。どれ起して遣ろう。
小娘共びっくりするだろう。信ずることの出来る奇蹟の解決を、
やっとの事で見ようと思って、
したほうに据わって待っている鬚男のお前方も同様だろう。
さあ、出ろ、出ろ。髪をゆすって、
 
目をはっきりさせろ。まばたきなんぞしないで聴け。 
 
    合唱の群
さあ、おはなし、お話。こんな岩なんぞ見ているのは退屈だから、
どんな不思議があったか言ってお聞せ。
聞いても本当に出来ないような事を聞くのが一番すきだわ。 
 
    闇の女
寐て起きて目をこすりこすり、もう退屈がるのか。
 
そんなら聴け。この洞、この岩屋、この庵には、田舎に隠れた
恋中の二人のように、殿様と奥様とが
かくまわれていなさるのだ。 
 
    合唱の群 
 
   あの、この中に。 
 
    闇の女
世間の附合つきあいを絶ってしまって、わたし一人にそっと奉公させていなさる。
お傍で大事にしては下さったのだが、ああした中の腹心に似合わしく、
 
わたしははずしているようにした。あちこち歩いて、
薬の功能を知っているから、木の皮や根の苔などを
採って来る。その留守は差向さしむかいさ。 
 
    合唱の群
お前さんの話を聞くと、あそこの中に森や野原や川や湖水があって、
別な世界でも出来ているようだわ。飛んだ造話つくりばなしをするのね。
  
 
    闇の女
お前方は分からないから、言って聞せるが、あそこはまだ窮めたことのない深い所さ。
奥には座敷が座敷に続き、庭が庭に続いている。それをある時、物を案じながら見て廻った。
すると出し抜けに笑声がして、あき座敷に谺響こだまを起していたのだ。
ふいとそっちを見ると、男の子が一人奥様の膝から殿様の膝へ飛び附いている。
それからまた逆に殿様から奥様へ飛び附く。甘やかす、ふざけさせる、たわいなく
 
可哀がって揶揄からかう、笑談に声を立てる、喜んで叫ぶ、それが交る交るだから、わたしは
ぼうっとした。羽のないジェニウスのような裸の子さ。ファウヌスに似ていて、
獣らしくはない。それが堅いゆかへ飛び降りると、床がそれを弾き返して、
虚空に高く飛び上がらせる。二度三度と
弾き返しているうちに、その子の頭が高い円天井に
 
障るじゃないか。心配げに奥様がそう云うのさ。
「飛び上がるなら、何遍でも、勝手にお飛び上がり。
だが、飛んで逃げるのじゃないよ。空を飛んで歩くことはめて置くよ」と云うのさ。
殿様も傍から意見している。「お前をそんなに飛び上がらせる、その弾く力はにあるのだ。
地に生れた神アンテウスのように、お前の足の親指の尖が地に障ると、
 
すぐにお前に力が附くのだ」と云っているのさ。
そんな風で、まりたたかれて飛ぶように、ここの岩の
並んでいる上を、こっちの岩角からあっちの岩角へと、あちこち飛び廻る。
そのうち出し抜けに荒々しい谷の穴へ落ちて見えなくなった。
もう駄目らしかったのさ。奥様は泣き出す。殿様は機嫌を取る。
 
わたしは気にしながら、肩をゆすぶっていたのさ。ところがその子がまたどんな様子をして
出ただろう。その谷に宝でも埋まっているのか。
花模様の縞のある衣裳を立派に著て出て来た。
ひじからは総がぶらぶら垂れている。胸のへんには紐がひらひらしている。
手にはきんのリラを持っている。丸で小さいフォイボスの神のように、
 
元気好く、谷の上に覗いている岩の角へ出ている。こっちは皆あっけに取られる。
奥様と殿様とは、嬉しさのあまりに、交る交る抱附競だきつきくらをする。
無理はない。その子の頭の上の光りようと云ったらない。
きんの飾が光るのか。非常に強いれいの力が※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおになって燃え立つのか。容易には分からない。
そんな風で、まだ子供だのに、永遠な旋律が体の
 
節々をめぐっている、あらゆる美なるものの未来の
製作者だと云うことを、もう知らせて、その振を見せて立ち振舞っている。
今にお前方その様子を見たり聞いたりして、何もかも感心してしまうだろう。 
 
    合唱の群
クレタ生れの小母おばさん。
それをあなた奇蹟だと云うの。
 
あなたこれまでおしえになる詩なんぞを
聞いたことがないのでしょう。
イオニアやヘルラスに、
ずっと昔の先祖の代からある、
神や英雄の沢山の話を
 
聞いたことがないのでしょう。
 
今頃出来る事は
なんでも皆
美しかった先祖の代の
悲しい名残ですわ。
 
あのマヤの子の事を歌った、
真実よりも信じたい、
可哀らしい※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)に比べると、
あなたの話はなんでもないわ。
 
その子は可哀らしくて丈夫でも、
 
やっと生れたばかりの赤さんなの。
それを蔭言のすき保姆おんばさん達が
智慧のない空頼そらだのみに、
綺麗な、軟かい毛織の襁褓むつきにくるんで、
結構な上著うわぎを巻き附けていました。
 
 
ところが、その横著赤さんが、
大事に押さえ附けていた、
紫の蝉脱もぬけの殻を、平気でその場に残して置いて、
まだどんな形にもなるような、
しかも弾力のある手足を、
 
もう横著に、可哀らしく、しっかりと
抜き出しましたの。丁度あの育ち上がった蝶々が、
窮屈なさなぎの中から、すばやく羽を広げて
脱け出して、遊半分、大胆に
日の一ぱいにさしている、※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきの中を
 
飛び廻るようでしたの。
 
そんな風に、この横著赤さんは
ひどくすばやくて、盗坊や詐偽師や、
その外あらゆる慾張る人間に、
いつまでもめぐみを垂れる、悪い神様になりましたの。
 
赤さんはもなくそれを、
ひどくすばやい手際で見せ附けましたの。
海のぬしの神様の三股みつまたをちょいと取るかと思うと、
いくさの神のアレエス様のお剣をさえ、
旨く鞘から抜き取ります。
 
日の神のフォイボス様の弓矢も、
燃える火の神のヘファイストス様のやっとこも取る。
あの火に遠慮しなかったら、お父う様チェウスの
稲妻さえ取り兼ねなかったのです。
でもとうとう恋の神のエロス様とは角力を取って、
 
小股をすくって勝ちました。それから
キプリアの女神様がお可哀がりになると、
その隙にお胸の帯を取りました。

浄き旋律の、愛らしきいとの声、洞の中より聞ゆ。一同耳を傾け、暫くにして深く感動せしものゝ如し。これより下に記せる「」の処まで、総て音の揃ひたる奏楽を伴はしむ。

    闇の女
あの可哀らしい声をおきき。そして
昔話なんぞはさっさと忘れておしまい。
 
そんな古い神様の連中は
打ち遣っておおき。時代おくれだ。
 
誰ももうそんな事が分かってくれるものはないのだ。
我々はもっと高い税金を払わせられているのだ。
人の胸にこたえさせるには、自然の胸から
 
出て来なくてはならぬと云うのが、その税金だ。

(岩の方へ退く。)

    合唱の群
こわいおばさん。お前さんもこの媚びるような
物のがおすきなの。わたし達は、
今病気が直ったようで、なんだかい心持で、
そして涙脆くなって来ましたわ。
 
 
心の中が夜が明けたようになって、
世界中にない事を、わたし達が
自分の胸の中で見附けるのだから、
日の光なぞは消えさせて下さい。

ヘレネ。ファウスト。上に記しし衣裳を著けたるエウフォリオン。並に登場。

    童子エウフォリオン
わたしの歌う子供の歌をおききになると、
 
それがすぐにあなた方のおなぐさみになりましょう。
わたしが調子に乗ってねるのを御覧になると、
あなた方のお胸もおどりましょう。 
 
    ヘレネ
人間らしく為合しあわせにしてくれるだけには、
愛は上品な二人を近寄らせるのですが、
 
神のようなよろこびをさせるには
結構な三人組を拵えますのね。 
 
    ファウスト
一切解決がこれで附いたのだ。
己はお前の物で、お前は己の物だ。
こうして縁が繋がれている。
 
これより外に、どうもなりようはない。 
 
    合唱の群
年来思い合っておいでになったお心が、
この坊っちゃんの柔かいかがやきになって
御夫婦の上に集っています。このお三人の
一組をお見上げ申すと、難有ありがたいようですねえ。
  
 
    童子
さあ、わたしを飛ばせて下さい。
さあ、わたしをねさせて下さい。
どんな高い所の空気の中へも
のぼって行くのが
わたしののぞみです。
 
もうその望に掴まえられています。 
 
    ファウスト
い加減にしろ。好い加減にしろ。
おっこちるとか、怪我をするとか
云うような事に出合って、
大事な息子が己達を
 
台なしにしないように、
余り思い切った事をしないでくれ。 
 
    童子
もうこれより長くの上に
まっていたくはありません。
わたしの手や、
 
わたしの髪や、
わたしの著物を放して下さい。
皆わたしの物じゃありませんか。 
 
    ヘレネ
自分が誰の物だか、
考えておくれ、考えておくれ。
 
やっと美しく揃った
わたしの物、お前の物、あの人の物を
お前がこわしたら、わたし共がどんなにか
歎くだろうと云うことを、考えておくれ。 
 
    合唱の群
なんだか、このお三人の組はもう程なく
 
ちりぢりにおなりなさりそうですね。 
 
    ヘレネとファウストと
どうぞ二親ふたおやに免じて、
余り活溌過ぎる、
劇しい望を
控えてくれ、控えてくれ。
 
そして静かにおとなしく
この土地を飾っていてくれ。 
 
    童子
そんならあなた方の思召ですから
我慢していましょうね。

(合唱の群を穿うがちて過ぎ、舞踏に誘ふ。)

この機嫌の好い人達の周囲まわり
 
廻ってねるのは、よほどらくです。
ふしはこれでいの。
足取あしどりもこれで好いの。 
 
    ヘレネ
ああ、それは思附おもいつきだよ。
その美しい女達おんなたち
 
面白い踊をさせておやり。 
 
    ファウスト
もうこんな事は早く済ませてくれれば好い。
こんな目くらがしのような事は
どうも己には面白くない。

(エウフォリオンと合唱の群と、歌ひ舞ひつゝ、種々の形に入り組みて働く。)

    合唱の群
そんなにして両手を
 
ふりなさいますと、
その波を打った髪をゆすって
お光らせなさいますと、
その足でそんなに軽く地を踏んで
あるきになりますと、
 
そして折々手足を
お入れ違わせなさいますと、
可哀らしい坊っちゃん、
それで思召はもう※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かないました。
わたくし達は皆しんから
 
あなたをおしたい申します。

(間。)

    童子
お前達は皆足の軽い
鹿どもだね。
さあ、もっとそば
新しいあそびをしよう。
 
わたしが猟人だよ。
お前達はけだものだよ。 
 
    合唱の群
わたくし達を掴まえようと思召すなら、
余り早くおかけなさらないがいわ。
可哀らしい坊っちゃん。
 
どうせわたくし共は皆
しまいにはあなたに抱き附きたいと
思っているのでございますから。 
 
    童子
森の中へ往こう。
木や石のある所へ往こう。
 
造做ぞうさなく手に入るものには
気が向かない。
無理に手に入れたものが
ひどく嬉しいのだ。 
 
    ヘレネとファウストと
なんと云う気軽な事だろう。なんと云う
 
騒ぎようだろう。い加減にはさせられそうもない。
まるで角の笛でも吹くように、
谷にも森にも響き渡っている。
なんと云うふざけようだろう。叫びようだろう。 
 
    合唱の群

(一人々々急ぎ登場。)

わたくし達を馬鹿にして、恥を掻かせて、
 
前を通り抜けておしまいなすったのね。
みんなの中で一番気の荒いのを
お掴まえなすったのね。 
 
    童子

(一少女を抱き登場。)

この強情な小さい奴を連れて行って、
無理にでも遊ぶつもりだ。
 
己のたのしみに、己の愉快に、
いやがる胸を抱き寄せて、
厭がる口にキスをして、
力と意地とを見せたいのだ。 
 
    娘
お放しよ。こんな体の肌の下にも、
 
こころの力も意地もあってよ。
わたしの意地だって、あなたのと同じ事で、
そうわけもなく挫かれはしません。
あなたわたしが狭鍔せっぱ詰まっていると思って、
そのお腕を大層たよりになさることね。
 
しっかり掴まえていらっしゃい。わたし笑談に
お馬鹿さんに火傷やけどをさせて上げてよ。

(火になりて燃えつゝ天に升る。)

わたしに附いて高いそらにお上りなさい。
わたしに附いて窮屈な墓へお這入はいりなさい。
消えてしまったまとをお掴まえなさい。
  
 
    童子

(身辺に残れる火を払ふ。)

ここは森の木立の間に
岩がかさなり合っているばかりだ。
こんな狭い所が己になんになろう。
己は若くて元気じゃないか。
風がざわざわ鳴っている。
 
波がどうどう響いている。
どちらも遠く聞えている。
あれが近い所ならい。

(岩を踏みて、次第に高き所へ跳り登る。)

    ヘレネ、ファウスト及合唱の群
シャンミイの獣の真似でもするのか。
おっこちはしないかと思って、ぞっとする。
  
 
    童子
次第に高い所へ登らなくては。
次第に遠い所を見なくては。
これで自分のいる所が分かった。
にも親しく、海にも親しい、
これは島の真ん中だ。
 
ペロップスの国の真ん中だ。 
 
    合唱の群
この山と森との中におとなしく
暮そうとはおおもいなさらないの。
今に道端や岡の上にある
葡萄の実だの、無花果だの、
 
金色きんいろの林檎だのを
採って上げます。
ねえ、こんな結構な国に
結構にしていらっしゃいましな。 
 
    童子
お前方は平和の夢を見ているのか。
 
夢を見ていたい人は見ているがい。
戦争。これが合図のことばだ。
戦勝。これが続いて響くおんだ。 
 
    合唱の群
誰でも平和の世にいて、
昔の戦争の日に戻りたがる人は、
 
のぞみさいわい
暇乞するのですわ。 
 
    童子
危険の中から危険の中へ、
自由に、どこまでも大胆に、
自分の血をおしまないように、
 
この国が生み附けた人々だ。
この抑えることの出来ない人々には、
高尚な志が授けてある。
闘う人々には
総て福利が与えてある。
  
 
    合唱の群
うえを向いて御覧なさい。あんな高い所へおのぼり
なすってよ。それでも小さくはお見えなさらない。
武装しておいでなさるような、軍におかちなさるような、
鉄や刃金はがねでお体が出来ているような御様子ね。 
 
    童子
掩堡もなければ、墻壁しょうへきもない。
 
一人々々自信の力で遣って行く。
物にこたえる堅塁は
金鉄のような男児の胸だ。
人に侵されずに生きていようと思うなら、
早く軽装して戦場に出ろ。
 
女は娘子軍になるがい。
小さい子までが皆勇士になるがい。 
 
    合唱の群
あれは神聖な詩だわ。
てんへ升って行くがい。
あれは一番美しい星だわ。
 
次第に遠く遠く光って行くがい。
どうしたってその声がわたくし達の所へ
届かないことはない。どうしたって聞えてよ。
聞くのがすきだわ。 
 
    童子
なに。己は子供になって出て来はしない。
 
武装してこの青年は来たのだ。
強い、自由な、大胆な人達に交って、
胸ではもう手柄をしている。
さあ、行こう。
ああ、あそこに
 
名誉のみちいている。 
 
    ヘレネとファウストと
まだこの世に、やっと生れて来たばかりで、
晴やかな幾日かに、やっと出合ったばかりで、
眩暈めまいのするような階段を踏んで、
お前は憂の多い境へあこがれて行くか。
 
己達の事を
なんとも思わぬか。
この可哀らしい家庭が夢であったか。 
 
    童子
あなた方あの海の上のかみなりの音をおききでしょう。
そこの谷々に谺響こだましています。
 
塵の中に、波の上に、兵と兵とが出会って、
迫り合って苦戦するのです。
そして死は
掟です。
それはそうしたものなのです。
  
 
    ヘレネ、ファウスト及合唱の群
恐ろしい事。気味の悪い事。
お前には死が掟かい。 
 
    童子
わたしに遠くから見ていられましょうか。
いやいや。往って艱難辛苦を倶にします。 
 
    上の人々
暴虎馮河ぼうこひょうがだ。
 
死ぬるがめいか。 
 
    童子
でも行かなくては。
もうわたしの羽が広がります。
あちらへです。行かなくては。行かなくては。
飛びますから、悪く思わないで下さい。
 

(エウフォリオン空に飛び騰る。刹那の間衣裳の身を空中に支ふるを見る。頭よりは光を放てり。背後には光の尾を曳けり。)

    合唱の群
イカルスですね。イカルスですね。
まあ、おいたわしい事。

(美少年ありて、両親の脚の下に墜つ。この屍はその人の姿かと疑はる。されどその形骸は直ちに消え失せ、毫光ごうこうは彗星の如く天に升り去り、跡に衣とほうとリラの琴と残れり。)

    ヘレネとファウストと
ああ、喜の跡から
すぐに恐ろしい憂が来た。 
 
    童子の声(地底より。)
お母あ様、この暗い国に
 
わたしを一人で置かないで下さい。

(間。)

    合唱の群

(輓歌。)

なんの一人で置きましょう。どこにおいでなさいましょうと、
あなたは知った方のはずです。
あなたはこの世をおさりなすっても、
誰の胸もあなたをおわすれ申すことは出来ません。
 
あなたをお悔み申すことも出来ない位です。
御運命を羨ましがって歌うのですから。
よろこびの日にもかなしみの日にも、あなたの歌と意地とは
美しくまた大きゅうございました。
 
立派なお家柄で、大した御器量で、
 
この世の福を受けにお生れになったのに、
惜しい事には、早くそれをお亡くしなすって、
お若い盛りにお隠れになりました。
世間を観察する、鋭い御眼力があって、
あらゆる人心の発動に御同情なすって、
 
優れた女の限に思われておいでになって、
特色のある詩をおつくりになりました。
 
しかしあなたは断えず検束のない網の中へ
お駆け込みなすって、
民俗や国法に
 
無謀にも御牴触なさいました。
それでもおしまいにはごく高尚な御思案が、
清浄な勇気に重きを置かせて、あなたは
立派な物を得ようとなさいました。
だがそれは御成功になりませんでした。
 
 
誰が成功するでしょう。これは不幸のきわみの日に
国民くにたみ皆血を流し口を噤みます時、
運命がその中に跡をくらます
悲しい問題でございます。
だがいつまでもなげきに屈めた首を屈めているには
 
及びません。新しい歌に蘇ります。なぜと云うに、
土地はこれまでそう云う歌を産んだように、
これから後もそれを産みましょうから。

(全き休憩。音楽息む。)

    ヘレネ(ファウストに。)
美と福とが長く一しょになってはいないと云う
古い諺を、残念ながらこの身に思い合せます。
 
命の緒も愛のきずなも切れました。どちらをも
痛ましゅう思いながら、つらいおわかれをいたします。
わかれにもう一度寄り添わせて下さいまし。
さあ、地獄の女神めがみ、子供とこの身とをお引取ひきとり下さい。

(ヘレネがファウストに抱き附く時、その形骸は消え失せ、衣裳と面紗とファウストの手に留まる。)

    闇の女(ファウストに。)
その一切の物の中から残った物を、しっかり持っておいでなさい。
 
その衣裳を手から放してはいけませむ。
もう悪鬼共が褄を引っ張って、
地獄へ持って行こうとしています。
しっかり持っておいでなさい。お亡くなしなさった
女神めがみはもういない。しかし神々こうごうしい跡は残っている。
 
値踏の出来ぬ程尊い恵を忘れずに、
向上の道におすすみなさい。お命のある限、あなたはそれを力に
所有あらゆる卑しい境を脱して、※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきの中をおのぼりなさい。
いずれまた遠い、ごく遠い所でお目に掛かりましょう。

(ヘレネの衣裳散じて雲となり、ファウストを包擁して空に騰らしめ、ファウストは雲に駕して過ぎ去る。)

    闇の女

(エウフォリオンの衣と外套とリラの琴とを地上より拾ひ上げ、舞台の前端へ出で、遺物を捧げ持ちて語る。)

これでも旨く取り留めたと云うものです。
 
無論※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)は消えてしまいました。
しかし何も世間のために惜むには当りません。
これが残っていれば、詩人に免許を遣り、
商売忌敵の党派を立てさせるには十分です。
わたしは技倆を授けて遣ることは出来ませんが、
 
せめて衣裳でも貸して遣ることにしましょう。

(舞台の前端にて、一木の柱の下に坐す。)

    先導の女
さあ、皆さん早くおし。魔法は破れました。
古いテッサリアの婆あさんの怪しい、心のばくは解けました。
耳よりも心を迷わする、籠み入った音の、
演奏の酔も醒めました。さあ、地獄へくだりましょう。
 
お后様はしとやかなお歩附あるきつきで、
急いでおくだりなされた。忠義な女中達はすぐお跡を
したい申すが道です。お后様には不可思議なお方の
玉座の側でお目に掛かられることでしょう。 
 
    合唱の群
お后様はどこにだって喜んでおいででしょう。
 
地獄でもペルセフォネイア様とお心安くなすって、
外のお后様同士御一しょに、
息張ってかみに立って入らっしゃるのですもの。
わたし共はそれとは違って、低いアスフォデロスの野の奥に、
実のならない柳や、ひょろひょろした
 
白楊の木のお仲間にせられていて、
何をなぐさみにして日を送りましょう。
面白くもない、お化のような囁をいたすのが、
おお方蝙蝠の鳴くように
ぴいぴいと聞えることでしょう。
  
 
    先導の女
名を揚げたでもなく、優れた事を企てるでもないものは、
四大に帰る外はない。さあ、おいで。
わたしは是非お后様のお側へ行きたい。
人格には功ばかりでは足りない。忠実がなくては。 
 
    一同
まあ、これで日向ひなたへ出られましたね。
 
もう人と云う資格はなくなったのが、
自分にも分かるようです。
だが決して地獄へは帰りますまいね。
永遠に活動している自然は、
わたし達、霊共に信頼していますから、
 
こちらも自然にすっかり信頼していていのです。 
 
    合唱の群の一部
わたし達は、この百千の枝の囁くゆらぎ、ざわ附くなびきの中で、
笑談にくすぐり、そっとおびいて、生の泉を根から梢へ上げさせましょう。
たっぷり葉を著けたり、花を咲かせたりして、
あの乱髪をふわふわと自由に栄えるように飾って遣りましょう。
 
が落ちると、すぐに面白く暮らしている群が押し合って、
急いで集まって来て、取って食べようとしますでしょう。
そして皆が一番古い神様達の前へ出たように、わたし達の周囲まわりにしゃがむでしょう。 
 
    他の一部
わたし達はやさしい波のように体をゆすって、機嫌を取って、
このすべっこい岩壁の、遠くまで鏡のように光っているのに身を寄せましょう。
 
鳥の啼声でも、葦の笛の音でも、よしやパンの神の恐ろしい声であろうとも、どんな声にも
耳を傾けて聞いていて、すぐに返事をして遣りましょう。
ざわつきの返事なら、ざわつきでしましょう。
かみなりなら、こっちの、震り動かすような雷を、二倍にして、また跡から三倍にも十倍にもして聞かせましょう。 
 
    第三部
きょうだい達。気の軽いわたし達は小川と一しょに急ぎましょう。
 
あの遠い所の美しく草木の茂っている丘がすきですからね。
それから次第に流れ落ちて、マイアンドロスのようにうねって、
先ずそと牧場に、それから内牧場に、それからまた家の周囲まわりの畑に水を遣りましょう。
あそこに平地や、岸や、水を越して、すらりと空をしている
糸杉の頂が目標めじるしになっています。
  
 
    第四部
お前さん達はどこへでも勝手に飛んでおいで。わたし達は、棚に葡萄の茂っている、
あの一面に畑にしてある岡を取り巻いて、かけっていましょう。
あそこでは朝も晩も、葡萄つくりが熱心に、優しい限、手を尽して、
のりを覚束ながっているのが見られます。
鋤鍬で掘ったり、根に土を盛ったり、摘んだり、縛ったりして、
 
あらゆる神様達を、中にも日の神様を祈っています。
意気地なしのバクホス様は忠義な家隷けらいにも余り構わずに、
小屋に寝たり、洞の中で物にもたれて、一番若いファウニと無駄話をしたりしています。
あの神様の夢見心の微酔ほろよいに、いつでもいるだけの酒は、
遠い世の後まで、冷たい穴蔵の右左に並べてある
 
かめの中や、革嚢の中にしまってあります。
しかしあらゆる神様達、中にも日の神様が、風を通し、
濡らし、温め、日にさらして、実の入った房をうずたかくお積累つみかさねになりますと、
葡萄つくりのひっそり働いている所が、急に賑やかになって来て、小屋の中にも音がします。
幹から幹へと騒ぎが移って行きます。
 
籠がみしみし、小桶がことこと、担桶にないおけがきいきいと、
大桶まで漕ぎ附けます、酒絞さけしぼりの元気な踊まで。
そこで浄く生れた、露たっぷりな葡萄の房の神聖な豊けさが、
不作法に踏まれ、醜く潰されて、泡を立て、とばしりを跳ねさせて交り合います。
そこで銅鑼鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)どらにょうはちの音が耳を裂くように聞えます。
 
これはジオニゾスの神様が深秘しんぴの中からお現れなすったからです。
山羊の脚の男神様が、山羊の脚の女神達と踊って出て来る、その間に
セイレノスを載せた、耳の長いけだものが締まりのない大声で叫びます。
何一ついたわりません。割れた蹄が所有あらゆる風俗を踏みにじります。
所有あらゆる官能がよろめき、渦巻きます。いやな、ひどい騒ぎに耳が聾になります。
 
酔っぱらいが杯を捜します。頭も腹も溢れます。
誰やらあちこちにまだ世話を焼いてはいますが、それは騒ぎを大きくするばかりです。
無理はありません。新しい濁酒にごりざけを入れるには、古い革嚢を早くあけたいのですから。

(幕下る。)

闇の女フォルキアス舞台の前端にて、巨人の如き姿をなして立ち上がり、くつを脱ぎ、仮面と面紗とを背後へ掻い遣り、メフィストフェレスの相を現じ、事によりては、後序を述べ、この脚本に解釈を加ふることあるべし。

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