ゲーテ ファウスト 森鴎外訳

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第四幕

 
 


高山。屹立せる、稜角ある岩の頂。一団の雲たなびき来
て、岩にりて止まり、突出せる段の上に降る。雲破る。

  
 
    ファウスト(現れ出づ。)
晴れた日に陸や海を越して、穏かに己を載せて来てくれた
雲の乗物のりものに暇を遣って、
 
足の下にごく深い寂しさを見卸しながら、
己は十分気を落ち著けて、この絶頂の岩端に足を踏み入れる。
雲は散らずに、ゆっくり己の身を離れる。
その群がまろがった列になって、東をして行くのを、
感心して、驚いて、己の目が見送っている。
 
雲は動きながられて、波立って、形を変える。
何かの形にまとまるらしい。そうだ。見違みちがえではない。
日に照されたしとねの上に、美しく体を横えて、
巨人のように大きくはあるが、神々達に似た女が現れている。
見えるわ、見えるわ。ユノか、レダか、いや、ヘレネか。
 
あの神々こうごうしく可哀らしく変化して目に映ること。
や。もういざってしまう。遠い氷山のように、
幅広くうずたかく、不極まりな形をして、東の空にまって、
移り行く日の大きい意味を目映まばゆく写している。
 
それでもまだ己の額や胸の辺には、薄い、明るい
 
霧が漂って、優しく、冷たく、気をらしてくれる。
それが今たゆたいながら、軽々と、次第次第に
高くのぼって一しょになる。目の迷か、あの姿は
うに失った、若かった昔の、無上の物じゃないか。
心の奥の一番早く出来た宝の数々が涌き上がる。
 
軽快にはずんだアウロラの恋を己に見せる。
あの最初の快速には感じても、理解することの
ほとんど出来ぬ一目ひとめがこれだ。そのくせ捉え得て見れば、
どの宝よりもかがやくのだ。あれ、あの形の美は霊の
美のように増して来て、解けずに、※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうきの中に升って、
 
己の心の内の最善の物を持って行ってしまう。

七里靴一つぱたりと地を踏みて出づ。間もなくまた一つ出づ。メフィストフェレス脱ぎて降り立つ。靴は急ぎ過ぎ去る。

    メフィストフェレス
これなら可なり歩いたと云うものだろう。
ところで、あなた、なんだと思っているのです。
こんな不気味な所の真ん中で、恐ろしい岩穴の
※(「月+咢」、第3水準1-90-51)あごけている処で雲からりるなんて。
 
わたしはこんな所も好く知っています。しかし
この土地ではありません。地獄の底で見たのです。 
 
    ファウスト
なんに附けても馬鹿げたお伽話を知っていて、
こんな時にまでそれをさらけ出すのかい。 
 
    メフィストフェレス(真面目に。)
昔神様がわたし共を、真ん中一面に永遠な火が
 
熱く燃え立っている、底の底のどん底へ虚空から
堕しておよこしなすった時の事ですね。
なぜお堕しなすったと云うことも知っていますがね。
わたし共は明るいことは明る過ぎる場所で、
随分籠み合った、窮屈な体附からだつきをしていたのです。
 
悪魔連一同ひどく咳をし出しまして、
上からはごほんごほん、下からはぶうぶう云わせます。
地獄は硫黄の臭と酸とで一ぱいになる。
その瓦斯ガスってない。それが非常な物になって、
幾ら厚くても、国々の平たい地盤が
 
程なくどうどうと鳴って、はじけたのです。
そこで尻尾しっぽつまんでさかさに吊るしたように
これまでどん底であった所が、こん度は絶頂になります。
なんでも上を下へと云う結構な教訓は、
この時悪魔連が発明したらしいのです。
 
わたし共は押し籠められていた、熱い穴から逃れ出て、
自由な空気の結構さ加減の絶頂に来ましたからね。
これは無論秘密で、大事に隠して置いて、
人間には後になってから知らせて遣るのですが。 
 
    ファウスト
己のためには、山は高尚に沈黙しているもので、
 
どうして、なぜ出来たとは、己は問わない。
自然が始て自分で自分の基礎を立てた時、
地球を綺麗に円めたのだ。山は山、谷は谷になった所を
面白がって、岩と岩、頂と頂を並べたのだ。
そして旨く斜面を附けて岡を拵え、なだらかな勾配で、
 
次第に低く、谷まで下るようにしたのだ。
その所々で、草木が緑に芽ぐんで、生長する。
自然がなぐさみをするのに、何も物狂おしい
渦巻なんぞをさせなくても好いのだから。 
 
    メフィストフェレス
あなたはそんな風に言いますがね。
 
なるほどそれがあなたには太陽のように明かでしょう。
しかしその場にいたものは、そうでないことを知っています。
まだ地の底があの下の方で、煮え上がって、火を噴いて
流れていた時、わたしはそこにいました。
まだあのモロホの槌が、岩と岩とをたたき合せて、
 
山のかけらを遠方へ飛ばせていた時です。今でも外から来た、
何千斤かの重さの物が、国々に動かずにいる。
あれを飛ばせた力を誰が説明しますか。哲学者には分からない。
そこに岩が在る。そのまま在らせる外、為方しかたがない。
随分今まで行き著く程考えたのです。
 
ただ淳樸な下民にはそれが分かっていて、
たとえ人がなんと云っても、自分の考を改めない。
その疾うから煉れている考はと云うと、あれは奇蹟だ。
悪魔の手柄になるのですね。
行者共は信仰の杖を衝いて、魔の岩とか、
 
魔の橋とかを見に行くではありませんか。 
 
    ファウスト
ふん。悪魔がどう自然を観察しているかと聞いて見て、
それを顧慮するのも、無価値ではないよ。 
 
    メフィストフェレス
自然はありのままでいるが好い。わたしは構わない。
※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)は衝かない。わたしは見ていたのだ。
 
わたし共は大きい事をし出来でかす連中です。
騒動と暴力とむちゃとで遣るのです。そこの岩山が証拠です。
さてこれからいよいよ分かるようなお話をするとして、
この地球の表面はお気に入りましたかな。
兎に角あなたはこの世界の国々と、その立派さ加減とを、
 
随分際限もない広さに、御覧になったのですが。
しかしどうも満足と云うことのない先生だから、
これなら欲しいと云う物もなかったでしょうね。 
 
    ファウスト
所が、有るよ。大きい物が己の心を惹いた。
なんだか、当てて見給え。 
 
    メフィストフェレス 
 
  それは造做ぞうさはありません。
 
わたしはある都をり出しますね。真ん中には
市民の食物くいものの不気味さがあります。
曲がりくねった、狭い町、とんがった搏風はふ
けちな市場、大根、菜っ葉、葱がある。
脂の乗った肉をつつきに、
 
青蠅の寄る屠肉場がある。
いつでも、あなた、行って御覧なさるが好い。
きっと賑やかで、臭いのです。
それから僭上に、上品らしい見えをする
大通おおどおりや広い辻がある。
 
それからしまいには、関門で為切しきってないと、
場末がどこまでも際限なく延びる。
そこでわたしは、馬車の車輪がごろごろと
あっちへ走って往き、こっちへ走って
散らばった、うようよする蟻の群が
 
永遠に馳せ違うのを楽んでいるとしましょう。
そこでわたしは馬や車に乗って出ると、
いつもそいつ等の中心になって、
千百の人間に敬われるとしましょう。 
 
    ファウスト
そんな事では己は満足しない。
 
人口が繁殖して、自分の流義で、
気楽に口腹を養って、場合によっては
教育を受け、学問をするのを見て喜んで
いるうちに、ただ叛逆人が出来上がるのだ。 
 
    メフィストフェレス
それからわたしは、自分で見ても壮大だと思うように、
 
面白い土地へ、なぐさみのために城を造らせましょう。
森や岡や原や牧や畑を、
立派に庭園に築き直させましょう。
緑いろに聳えた垣の前に、天鵝絨のような牧や、
はつの如き道や、巧にった生木いきぎの屋根や、
 
岩組で築いた滝や、種々の噴水がある。
真ん中はすなおに升るが、
脇からは形が変って小さく噴き出る。
それから一番の美人を畜えるために、
気の置けない、のん気な小家こいえを立てさせましょう。
 
限のない月日を、なんとも言えない
面白い、差向いの寂しみに暮そうと思うのですね。
わたしは美人と云ったが、
それは一人ではない。わたしの女と云うのは、
いつでも複数に考えて言うのですからね。
  
 
    ファウスト
悪く現代的だ。サルダナパアルの驕奢だ。 
 
    メフィストフェレス
そう仰ゃると、大抵お望の見当が附きますね。
そいつは飛び離れて大胆です。
もう大抵月宮の近所まであなたは升ったのですが、
やはり天上界へ気が引かれているのでしょう。
  
 
    ファウスト
大違おおちがいだ。この地球上に
まだ偉大な事業をする余地がある。
驚歎すべき物が成就しなくてはならぬ。
己はまだ大胆な努力をするだけの元気を感じている。 
 
    メフィストフェレス
では名聞を博せようと云うのですね。
 
あなたは女英雄の色になっていただけありますね。 
 
    ファウスト
主権を取るのだ。占有するのだ。
事業が一切だ。名聞はいらぬ。 
 
    メフィストフェレス
いらなくても、詩人が出て来て、
あなたの栄華を後世に伝えて、馬鹿話で
 
馬鹿の真似をさせるように、人をおびくでしょう。 
 
    ファウスト
ところがそれが兎に角君のとくにはならぬのだ。
人間の欲望が君に分かるものか。
君の皮肉な、悪辣な、いやな性質で、
人間が何を要求するかが分かるものか。
  
 
    メフィストフェレス
どうでも好いから、あなたのお望どおりにさせましょう。
そこであなたの気まぐれの範囲をお打明うちあけなさい。 
 
    ファウスト
己の目は海の沖に捕えられていた。
水が涌き立って、堆く盛り上がった。
それが凪いで、たいらな岸の一帯を襲わせに、
 
波をばらいた。
それが癪に障った。あらゆる権利を尊重する
自由の精神を、専横の心が、
喜怒哀楽に鞭うたれた血の勢で、
感情のなやみに陥らせるようなものだ。
 
己は偶然かと思って、また瞳を定めて見た。
波はまって返して行く。
息張って為遂しとげた目的から退いて行く。
また時が来ては、同じ戯を繰り返すのだ。 
 
    メフィストフェレス(見物に。)
あれではなんの新しい事も聞き取られませんね。
 
そんな事は千百年前からわたしも知っている。 
 
    ファウスト

(興奮して語り続く。)

波は自分が不生産的で、その不生産的な力を
八方へ逞うしようとして這って来る。
ふくれて、太って、転がって、荒地あれち
厭な境に溢れる。寄せては返す波が
 
力をたのんで専横を窮めていて、
さて引いて行った跡に、何一つ己を恐怖させる程の事を
為遂げてはいない。溜まらんじゃないか。
検束のない四大の、目的のない威力だ。
そこで己の精神は自力の限量以上の事を敢てしたい。
 
あれと闘って勝ちたいのだ。
 
それは出来る事だ。あの汎濫する性質はあっても、
どんな丘陵でもあると、けてすべって通る。
いかに傍若無人に振舞っても、
瑣細の高まりも中流の砥柱しちゅうになって、
 
瑣細の窪みも低きに就かせる。
そこで己は心中で急に段々の計画を立てる。
あの専横な海を岸から遠ざけて、
干潟の境界を狭めて、
海を遥かに沖へ逐い返したら、
 
さぞ愉快な事だろう。
己はその計画を一歩一歩心にめぐらして見た。
これが望だ。己はこれをはかどらせるつもりだ。

(見物の背後、右の方遠き所より、鼓の音と軍楽と聞ゆ。)

    メフィストフェレス
造做もない事です。あの遠くの鼓が聞えますか。 
 
    ファウスト
またいくさか。智者の聞くことを好まぬ響だ。
  
 
    メフィストフェレス
戦争でも平和でも好い。おのれを利するように
それを利用しようと努めるのが賢いのです。
あらゆる好機会を待つのです、窺うのです。
機会はあります。さあ、先生、お掴まえなさい。 
 
    ファウスト
そんな謎なら、己は御免を蒙る。
 
どうしろと云うのだ。手短かに言い給え。 
 
    メフィストフェレス
わたしは歩く途中で聞きましたが、
お気の毒な殿様が大頭痛の様子です。
御承知のあの人です。御一しょに機嫌を取って、
虚偽の富を手に入れさせた時は、
 
あの人は世界中を買い占めることが出来ましたっけ。
一体あの人は余り早く即位をなさったので、
快楽の受用と国家の政治とが、
随分一しょに出来て、
そうするのがひどく都合が好く、また結構でもあると、
 
飛んだ間違った判断をせられたのです。 
 
    ファウスト
大変な間違だ。命令をする人は、
命令その物に快楽を覚えんではならん。
高遠な意志が胸に一ぱいあって、
何を思っているか、それを誰一人窺うことが出来ぬ。
 
そして一番忠実な臣下の耳に囁いて、
それが行われると、天下瞠目する。
そんな風で、永く最高の地位、最大の権威を保つのだ。
受用は人をいやしゅうする。 
 
    メフィストフェレス
あの人はそんな風ではありませんね。
 
受用をしたのです。どんなにかしたでしょう。
そのうちに国は無政府の状態になって、上下交々こもごも争い、
兄弟かきせめぎ、相殺し、
城と城との間、市と市との間、工業組合と
貴族との間、僧官と僧侶と信徒との間、
 
それぞれに争が出来、
目を見合わするものは皆敵である。
寺で人が殺される。関門の外に出れば、
旅客も商人も性命財産があぶない。
そこで人民一同が可なり大胆になった。
 
自家防禦で生存するのです。遣って見ればそれでもけますよ。 
 
    ファウスト
それはく。歩く。びっこを引く。倒れてまた起きる。
それから翻筋斗とんぼがえりをして、ころがって一しょに死ぬる。 
 
    メフィストフェレス
その状態でいて、誰も苦情を言ってはならないのですね。
てんでに頭を出そうとする。また随分出しもする。
 
極小さい人物がしっかりした奴と云われる。
そこで余りひどいと、一番好い人までが言い出す。
とうとうえらい奴等が根を固めて置いて謀叛して、
こんな宣言をしました。「治めてくれるのが君主だ。
当代は治めようともせず、治める力もない。
 
新しい君を選んで、国に新しく魂を入れて貰おう。
そしたら個人を堅固に保護してくれて、
その新設せられた社会では、
平和と正義とが相とつぐだろう」と云うのです。 
 
    ファウスト
坊主でも言いそうな事だな。 
 
    メフィストフェレス 
 
   坊主が言ったのです。
 
そして便々たる腹に本領安堵をさせました。
外のものより余計に交ぜ返したのは彼奴等です。
一揆は広がる。神聖にせられる。
そこでわたし共が機嫌を取って上げた、あの殿様は、
今この場で多分最後の決戦をするのでしょう。
  
 
    ファウスト
気の毒だな。あんな分隔わけへだてのない、好い人だから。 
 
    メフィストフェレス
さあ、おいでなさい、見物しましょう。「生きている間は有望だ。」
こっちの手でこの狭隘から救い出しましょう。
今一度救えば、後の千度も救うことになります。
さいの目はまだどう出るか、分からない。
 
殿様の身に運があれば、その麾下きかに人もある。

(二人は山の中腹をえて前に出で、谷間の陣を望む。鼓、その他の軍楽下より聞ゆ。)

あの陣地を御覧なさい。旨く取ってあります。
わたし達が這入って行けば、全勝ですね。 
 
    ファウスト
君はここで何を遣って見せるつもりだ。
まやかし、目くらがし、空虚な見えだろう。
  
 
    メフィストフェレス
戦争に勝てる計略を遣るのです。
どうかあなたも前途の目的を考えて、
気を大きく持つことに、腹を極めて下さい。
殿様に玉座と版図とを保たせて上げた上で、
あなたは御前ごぜんに平伏して、海岸一帯の地を
 
所領におもらいなさることが出来るのです。 
 
    ファウスト
そうか。君も随分色々な事をして来たが、
そんなら今度は会戦に一つ勝って見せ給え。 
 
    メフィストフェレス
なに。勝つのはあなたです。
こん度はあなたが上将軍だ。
  
 
    ファウスト
「それが己に適当な高座だろうよ。」
まるで知らない為事しごとで、采配を振るのだから。 
 
    メフィストフェレス
幕僚をおこしらえなさい。そうすれば元帥は枕を高うしていられます。
戦争のらんぼうはうから知っていますが、
 
戦争のさんぼうは、こん度前以て、
山奥の原人で編成して置きました。
あいつ等を集めたものには、利運が向きますよ。 
 
    ファウスト
あそこに武器を執って来るのは、あれはなんだ。
君、山の中の人民共を煽動したのかい。
  
 
    メフィストフェレス
なに。ペエテル・クウィンチェの役者の組と同じ事で、
やくざな中の選抜えりぬきです。

(三人の有力者登場。)

    メフィストフェレス
やあ。やっこ共があそこに来ました。
御覧の通、年配も区々まちまちで、
被服装具もそれぞれ違います。
 
だが存外御用に立つでしょう。

(見物に。)

当節はどの子供でも、
鎧と武者領むしゃえりとが大好だいすきです。
符牒のような、のない奴等ですが、
それだけ却ってお気に入るでしょう。
  
 
    喧嘩坊

(年若く、軽装して、はでなる服を著る。)

どいつでも己と目を見合せりゃあ、
すぐ拳骨を※(「月+咢」、第3水準1-90-51)に叩き込むのだ。
逃げ出すような臆病者は
後髪をつかんで引き戻して遣る。 
 
    はやとり

(男らしく、武具好く整ひ、奢りたる服を著る。)

そんな実のない喧嘩なんぞは
 
笑談同様の暇潰しだ。
何にもひるまず取り込んで、
外は一切跡にする。 
 
    かたもち

(年寄りたり。厳かに武器を執りて、下に服を著ず。)

それも余り役には立たぬ。
大財産もすぐとろけて、
 
生活の川水に流れ落ちる。
取るのも悪くはないが、持っているのが一層好い。
万事この薄黒い野郎に任せて御覧なさい。
あなたの物を何一つ、人手には渡さない。

(一同群がりて山より下る。)

 
 

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