ゲーテ ファウスト 森鴎外訳

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外山の端

 

鼓と軍楽と下より聞ゆ。帝の帷幄いあく開張せらる。
帝。上将軍。護衛者等。

    上将軍
この丁度好い狭隘へ
 
全軍を密集して背進させたのは、
今から見ても、熟慮した計画でした。
決戦が勝利に帰するのを、わたくしはまだ確信しています。 
 
    帝
どうなるかは、今に分かるだろう。
その背進が敗走に似ているのが、己には不愉快だ。
  
 
    上将軍
あれ、あの我軍の右翼を御覧なさい。
戦略はああ云う地形を望むのです。
丘陵が余り嶮しくもなく、余り行進し易くもない。
我には有利で、敵には危険だ。
我兵があの波状をなしている平地に半ば隠れていれば、
 
敵の騎兵もうかとは来ません。 
 
    帝
いや。今となればその処置を称讃するより外はない。
我軍の精神も手腕もここでためされるのだ。 
 
    上将軍
あの中央の牧の平地で、
我部隊が勇悍ゆうかんに闘っているのを御覧なさい。
 
空中に、朝霧の中に、日に照されて
槍の穂尖がきらめいています。
あの大方陣が真っ黒に波を打っていますね。
数千の士卒が大功を立てようとあせっています。
あれで多数の気力が分かります。
 
敵の力を分割することが、あれになら出来ましょう。 
 
    帝
うん。こんな美しい戦況を、己は始て見る。
我兵には倍数だけの威力があるなあ。 
 
    上将軍
我左翼については別に申すことはございません。
嶮しい岩山を勇士が守っています。
 
今武器が一面に光っている、あの石道が
狭い谷の重要な通路を掩護えんごしています。
ここで期せずして敵の兵力が一敗地にまみれるのが、
もうわたくしには見えるようです。 
 
    帝
あそこに弐心の親戚共が遣って来おる。
 
己をおじだ、従兄弟いとこだ、兄弟だと云って、
次第次第に我儘になって、玉座に尊敬をなくさせ、
命令の杖に威信をなくさせ、
それから同士討をして国内を荒し、
とうとう一しょになって己に刃向かって来たのだ。
 
部下の群は腹が極まらずに観望していて、
風向かぜむきの好い方に附こうとしているのだ。 
 
    上将軍
間牒に出した、信用の置かれる一兵卒が、
今岩を降りて来ます。旨く遣って来たか知らぬ。 
 
    第一の間牒
こっちの為事しごとは旨く参りました。
 
大胆に、狡猾に立ち働いて、
随分あちこちともぐって来ました。
所がたんと思わしいお土産もありません。
忠実なお身方のように、
殿様に心からの尊敬をいたしているものは多いが、
 
そのくせ袖手傍看しゅうしゅぼうかん分疏いいわけしかしません。
内乱のきぎしがあるの、民心が危険だのと。 
 
    帝
自己の安全を謀るのが、利己主義の教だ。
恩義も情誼も、義務心も名誉心もない。
罪悪がちて来ると、隣家の火災で
 
身を焼くと云うことが分からぬのか。 
 
    上将軍
二人目のが帰って来る。そろそろと降りて来る。
あの疲れ切った兵卒は、手足が震えているらしい。 
 
    第二の間牒
最初は面白半分の暴行が、
怪しげにはかどるのを見ていました。
 
そのうちに思い掛けず、急劇に
新しい帝王が擁立せられました。
それから群集が指図どおりの路を取って、
野原を進んで参るようになりました。
押し立てられた偽朝の旗に、
 
皆附いて来るのです。羊のような根性の奴等が。 
 
    帝
僭号を称える奴の出来たのは、己の利益だ。
己が帝王だと云うことが、これで切に感ぜられる。
単に一軍人として己はよろいを著たが、
今それが高遠な目的があって著たことになった。
 
今まで己ははでな限の祝に出て、
何一つ闕けた事のない時も、危険のないのが惜しかった。
お前方の流義で、己に為合しあいを勧めた。
あの時己は胸を躍らせて、中世の為合の気分になっていた。
もしお前方がっくに戦争に反対しなかったら、
 
己は今頃大手柄を顕しているだろう。
またいつかのもよおしよる、鏡に向うように火の境を覗いて見て、
その火と云うものが恐ろしく肉薄して来たとき、
己の胸には独立特行の決心が附いた。
あれは幻影だが、しかし偉大な幻影だった。
 
己は夢現の境に、勝利と名誉とを夢みた。
当時等閑にして過した事を、己は今取り返したい。

(偽帝の挑戦に応ぜんとして使を発す。ファウスト甲を著、半ば鎖せる※(「鶩」の「鳥」に代えて「金」、第3水準1-93-30)かぶとを戴き、三人の有力者上に記せる衣裳を著、武具を取り装ひて登場。)

    ファウスト
多分おしかりはあるまいと存じて、参著しました。
危険はなくても、御用心はおありなさるが宜しいでしょう。
御承知のとおり、山の中の人民は平生物を案じて、
 
岩に現れた自然の文章を読んでいます。
もう疾っくに平地を遁れた霊どもは、常よりも
岩石に同情を寄せています。霊どもは
金気きんきをたっぷり帯びて立つ、尊いの中で、
迷路のような谷間に潜んで、ひそかに働いています。
 
その唯一の欲望は、絶えず分析したり、湊合したり、
試験したりして、新しい物を発見したがるに過ぎませぬ。
霊の力の静かな指で、
透き徹る形を築き上げて、
その結晶の永遠な沈黙の中に、
 
うえの世界の出来事を窺うのです。 
 
    帝
それは己も聞いている。お前のことば※(「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74)はあるまい。
だが、それがこの場でなんの用に立つのか。 
 
    ファウスト
サブスのすえの魔術師で、ノルチアに住んで
いるものが、あなたに誠実に帰服しています。
 
昔あの男は恐ろしい否運に迫られていました。
もう焚附たきつけがぱちぱち云って、※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの舌が閃きました。
体の周囲まわりに積み上げた、乾いた薪には
※(「(皎のつくり-亠)/多」、第4水準2-80-13)ちゃんや硫黄の棒が交ぜてあったのです。
神も人も悪魔ももう助けようのなかった時、
 
御威勢が燃ゆる鎖を絶ちました。
ロオマでの事でした。それをひどく恩にて、
あの男はあなたの前途に目を著けています。
あの時から自分の事は考えずに、ただあなたの
ために、天文を観、深秘を探っています。
 
あれが御救助に参るようにと、火急の用事を
わたくし共に托しました。山の力は偉大です。
あそこで自然が、自由に非常な力をのばすのを、
おろかな僧侶共は魔法と申すのです。 
 
    帝
祝の日に機嫌好く遊びに機嫌好く来る客を
 
出迎えて挨拶するときでも、あの押し合い
ぎ合いして、一人毎にそのを狭める客を、
こっちでは歓迎する。それとは違って、
運命のはかりがどちらに傾くかと云う、
心許ないその日の朝、力強く身方を助けようと、
 
わざわざ出て来る、忠実な人なら、
己は此上もなく歓迎しなくてはならぬ。
とは云うものの、大切なこの刹那には、
抜かれるのを待つかたなから、勇ましい手も引いて貰わんではならぬ。
敵身方と立ち別れて、数千の人が争っている、
 
この刹那は尊敬して貰わんではならぬ。
独立するのが男だ。宝冠玉座を望むものは、
自身にそれだけの値打がなくてはならぬ。
己に刃向かって起って、帝だの、この国のぬしだの、
大元帥だの、百官の司だのと、
 
僭称している非類は、
この手一つで死の国へ衝き落さんではならぬ。 
 
    ファウスト
それはそうでもございましょうが、大事を成そうと思召すには、
こうべすることは宜しゅうございますまい。
あの冑と云うものは鶏冠とさか立毛たてげで飾ってあるではございませんか。
 
あれは人の勇気を励ます頭を保護する武具です。
頭がなくては、手足は何になりましょう。
頭が寐入れば、体は皆萎える。
頭が傷けば、体は皆傷く。
頭が※(「やまいだれ+差」、第4水準2-81-66)えれば、体は皆※(「やまいだれ+差」、第4水準2-81-66)えるのです。
 
それゆえいざと云う時には、腕はすぐおのが強さを利用して
盾を挙げて頭をふせぎ、
刃はすぐ自分の職務を心得て、
受け流してはまた切り込みます。
丈夫な足も幸運な仲間をばはずれまいと、
 
打たれた敵のうなじを踏みます。 
 
    帝
己の怒もそのとおりだ。驕った敵の素首すこうべを、
足のだいにして遣りたい。 
 
    使者等(帰り来る。)
わたくし共は余り優待もせられず、
余りお役にも立ちませんでした。
 
手強い、立派な、こちらの口上を、
さきでは古い洒落だと申して笑いました。
「お前の所の帝王はもう行方不明になったのだ。
そこの谷間に谺響こだまがしている。
あれが記念かたみは何かと云えば、お伽話に云うとおり
 
昔々あったとさだ」なぞと、無礼を申しまして。 
 
    ファウスト
それでは動かぬ忠義の心で、お側にいる
我々の望どおりになったのだ。
あれ、あそこに敵が寄せます。身方はきおって待っています。
攻撃をお命じなさい。好い時期です。
  
 
    帝
ここでは己は指揮をすまい。

(上将軍に。)

責任は、侯爵、やはりお前の手に委ねて置こう。 
 
    上将軍
そんなら、右翼、さあ、進め。
丁度今坂道に掛かっている、敵の左翼は、
もう一足と云う所で、ためされた忠誠の
 
壮んな力に譲らんではなるまい。 
 
    ファウスト
それではどうぞ、この元気な物共を、
すぐあなたの戦列に加えて、
隊の士卒と深く入り交らせ、
一つになって、大きい伎倆を揮わせて見て下さい。
 

(ファウスト右の方を指す。)

    喧嘩坊(進み出づ。)
己に顔を向けた奴は、上※(「月+咢」、第3水準1-90-51)と下※(「月+咢」、第3水準1-90-51)とが砕かれた上でなくては、
顔を向け換えることは出来ぬ。
己に背中を向けた奴は、頸とあたまと髪の毛とが
たちまちぐにゃりと項に垂れる。
そこでわたしが荒れるとおりに、
 
お前様の兵卒が棒やかたなを振り廻したら、
敵は自分の血の中に
一人々々倒れましょう。(退場。) 
 
    上将軍
中央部隊は徐かに続いて、
十分の威力を以て、巧に敵に当ってくれ。
 
あの少し右の方では、敵がもう奮起して、
我軍の計画を動揺させているのだから。 
 
    ファウスト

(中央の有力者を指さす。)

そこでこの男にも御命令を受けさせてお貰申したい。
素早くて、はたを鼓舞して猛進する男です。 
 
    はやとり(進み出づ。)
官軍の勇気には、
 
分捕熱も加わらなくてはいけません。
にせ皇帝の贅沢な幕の中を、
皆に目当にさせるがい。
もう長くは椅子の上で、きゃつも息張ってはいられまい。
どれ、その隊の先頭に立ちましょう。
  
 
    陣中の女商人はやえ

(はやとりに寄り添ふ。)

わたしこのかたのお上さんにはなっていないが、
やっぱりこの方が一番すきな人なのよ。
わたし達の取入とりいれをする好い秋が来たのね。
女は握るときは凄いもので、
取るに遠慮はしませんわ。
 
勝軍にはいつも先へ出てよ。どんな事でも出来るから。

(二人退場。)

    上将軍
兼ねて予期していたとおり、敵の右翼は我左翼に
猛烈に衝突して来た。あの狭隘の岩道を
是非取ろうとして奮進する敵兵に、
身方は一人々々抗抵するに違ない。
  
 
    ファウスト(左の方をさしまねく。)
そこでどうぞこの男もお見知置みしりおきを願います。
強い物に強い物の加わるのは、損のない道理ですから。 
 
    かたもち(進み出づ。)
左翼に御心配はありません。
どこでもわたしがいさえすれば、持った物は亡くさない。
昔の話にあるとおり、稲妻の火が落ちて来ても、
 
わたしの持った物は放しません。(退場。) 
 
    メフィストフェレス

(上の方より降り来る。)

さあ、御覧なさい。あの背後うしろの方で、
どのごつごつした岩穴からも、
武装した兵隊が押し合って出て来て、
元から狭い山道を一層狭くしています。
 
甲冑に、太刀と盾とで、
身方の背後に石垣をいて、相図をすれば打って出る
用意をして待っています。

(小声にて解事者等に。)

どこから連れて来たなんぞと、野暮を言うのじゃありませんよ。
無論わたしはぐずぐずせずに、
 
あたり近所の甲冑蔵をさらけ出した。
あれでも徒歩立かちだちもあり騎馬もあり、
まだこの世の物らしい風をして蔵の中に立っていた。
昔は騎士だ、帝王だと云っていたのだが、
今は蝸牛ででむしの殻ばかりだ。
 
その中へ色々な怪物が潜り込んで、支度をして、
中昔をそのままに、蘇らせて見せるのだ。
中実なかみは悪魔の小僧でも、
この場はやんやと云わせるのだ。

(声高く。)

御覧なさい。打ち合わぬうちから勇気を出して、
 
きあって、金物かなものをからから云わせています。
旗竿に結んだ旗のちぎれも、爽かな風に
吹きなびけて貰いたがって、あんなにじれています。
昔の勇士が今様の戦争に出たがって、
待ち構えているのだから、どうぞ察して遣って下さい。
 

(上の方より恐ろしき金笛の音聞ゆ。敵軍たじろく。)

    ファウスト
地平線は暗くなった。
ただここかしこに意味ありげな
赤い火の光が見えるばかりだ。
もう刃が血に染まって光っている。
岩も、森も、吹く風も、
 
大空さえも我軍を助けるのだ。 
 
    メフィストフェレス
右翼はしっかりこたえている。
中にも目立って見えるのは、あの素早い大男の
喧嘩坊のハンス奴が、
あいつの流義で働いているのだ。
  
 
    帝
最初は腕をただ一本振り上げたと思ったが、
もう十二本も振り廻している。
只事ではないな。 
 
    ファウスト
あのシチリアの海岸に立つと云う
霧の話をおききになったことはありませんか。
 
あそこでは昼の空に清くゆらいで、
丁度そらの中程の高さに、
特別な蒸気に映って、
不思議な影が見えまする。
市街が見えたり隠れたりする。
 
庭園が浮いたり沈んだりする。そう云う画図えずが次々に、
※(「さんずい+景+頁」、第3水準1-87-32)こうき穿うがって出て来ます。これも同じわけです。 
 
    帝
しかしいかにも心許ない。どの長い槍の尖も、
皆稲妻のように光って見える。
殊に身方の部隊の槍は、穂尖から穂尖へと、
 
小さい※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)が忙しげに飛んでいる。
余り怪物臭いじゃないか。 
 
    ファウスト
ゆるし下さい。あれは過ぎ去った
霊なる物の名残です。
航海者の皆祈誓を掛ける
 
ジオスコロイの同胞はらからの火です。
あれが今霊験の限をここで見せるのです。 
 
    帝
しかし自然が己達に対して、
不思議の限を見せるのは、
誰の為業しわざか、それが聞きたい。
  
 
    メフィストフェレス
別な人ではありません。
殿様の御運を胸に蓄えている、あの尊い先生です。
余りきびしい迫害を、敵が御身に加えるので、
先生は心からおこっています。
よしや自分の身は棄てても、あなたを助けて
 
御高恩に報いたいと云っているのです。 
 
    帝
そう云えば、いつか人民が讙呼かんこして、己を連れて廻ってくれた時、
己も己の威勢をためして見たいと思ったので、
い機会と見て、思案もせず、
あの親爺の白鬚に涼しい風を送ったまでだ。
 
無論坊主共はなぐさみをし損ねて、
あれからは己の事を好く思わなくなった。
それに何年も立ってから、
あの時喜んでした事のむくいに、今ここで逢うのかなあ。 
 
    ファウスト
心から出た善行のむくいは次第に大きくなります。
 
どうぞ一寸上の方を御覧下さいまし。
今先生が何か相図をせられそうです。
お気をおつけなさいまし。今それが現れます。 
 
    帝
や。空高く舞う鷲の跡を、すさまじい勢で
グリップス鳥が追い掛けおる。
  
 
    ファウスト
気を附けて御覧なさい。善兆です。
昔話にばかり聞く
グリップス鳥の分際で、
まことの鷲と戦うとは。 
 
    帝
今は大きい輪をかいて、二羽が覗い寄っている。
 
それと見る
もう双方から飛び附いて、
頭や胸を掻き裂こうとする。 
 
    ファウスト
御覧なさい。あの笑止なグリップス奴は、
引っ掻かれ、引っ裂かれ、身をそこなうばっかりで、
 
とうとう獅子の尾を垂れて、
あの絶頂の森の中へ飛び込んでなくなりました。 
 
    帝
なるほど、お前の判断するとおりかも知れぬ。
不思議ではあるが、さもあろうか。 
 
    メフィストフェレス(右に向きて。)
数度の突撃が功を奏して、
 
敵は余儀なく退却します。
まだ覚束ない抗抵を試みながら、
右へ右へと崩れ掛かり、
その乱戦の結果として、
主力の左翼に混乱を来します。
 
我部隊の、堅固な前列は
右に方嚮ほうこうを転ずるや否や、
電光の如くに敵軍の虚に附け入ります。
あれ、双方の大軍が、
暴風あらしに打たれる波のように、
 
火花を散らして奮闘します。
これより花々しい軍は想像にも及びません。
この会戦には勝ちましたね。 
 
    帝

(左側にてファウストに。)

あれを見い。あそこが己には心許ない。
あそこの我拠点がどうもあぶない。
 
礫の飛ぶのも見えぬ。
低い岩には、もう敵がのぼっている。
上の岩はもう身方が棄てた。
あ、今だ。敵の一団が
次第に肉薄して来た。
 
もうあの狭隘を取ったかも知れぬ。
祝福のない努力の結果はこれか。
お前方の奇術も徒労であったぞ。

(間。)

    メフィストフェレス
はあ。あそこへわたしの二羽のからすが来ました。
なんの便たよりを持って来たやら。
 
悪い知らせでなければいが。 
 
    帝
笑止な鳥奴。何をする気か。
あの岩の上の激戦の中から、
黒い帆を揚げてこっちへ来おる。 
 
    メフィストフェレス

(鴉等に。)

さあ、己の耳の側へ来てまれ。
 
お前の保護してくれるものが、滅びると云うことはない。
お前の献策は道理に※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなっているからな。 
 
    ファウスト(帝に。)
鳩と云う鳥が、餌を貰い子を育てる巣へ、
遠い国から帰ることは、
あなたも聞いておいででしょう。
 
ここに大事な差別があります。
平和に鳩の便があれば、
軍には鴉の使があります。 
 
    メフィストフェレス
これは重大な悲報に接しました。
あの岩角で我勇士が
 
難儀しているのを御覧なさい。
手近な高地はもう敵が占めました。
あの狭隘が敵手に落ちると、
身方の立場は困難です。 
 
    帝
やはり己は騙されたのか。
 
お前方は己を網に入れた。
その糸が身にからむのを、己は気味悪く思っているのだ。 
 
    メフィストフェレス
御落胆なさいますな。まだ敗北はいたしません。
耐忍と機智とは結局まで入用です。
末になって来ると、事情は切迫するものです。
 
わたくしはたしかな斥候を持っています。
命令権をわたくしにおさずけ下さい。 
 
    上将軍

(この隙に歩み寄る。)

この人達と御結托なされたのを、
わたくしはうから心配していました。
幻術では堅固な幸福は得られません。
 
もうこの戦況を一転する策はない。
為始しはじめた人が片を附けるがい。
わたくしは指揮の杖をお返し申しましょう。 
 
    帝
いやまた好運の向いて来ることもあろうから、
それまで杖はあずかって置け。
 
己はあの忌々しい情報や、
この男の鴉附合からすづきあいいやでならぬ。

(メフィストフェレスに。)

どうもお前に杖は遣られぬ。
お前は適任の男ではなさそうだ。
だが命令はしても好い。救われるものなら救ってくれ。
 
まあ、どうにかなるようになる事だろう。

(上将軍と共に帷幄の中へ退場。)

    メフィストフェレス
そんならあの鈍い棒に身を護って貰うがい。
己達にはあんな物は余り役に立ちそうでない。
なんだか厭に十字架に似ているて。 
 
    ファウスト
そこでどうする。 
 
    メフィストフェレス 
 
       もうする様にしてあります。
 
さあ、黒い従弟いとこ共、急用だ。お前達は山の大湖おおみずうみに往って、
ウンジネに己から宜しくと云って、
水の影を借りて来てくれ。
なかなか学びにくい女の奇術で、
あいつ等は物のたいと影とを分けて使う。
 
所で誰が見てもその影をたいだと思うから妙だ。

(間。)

    ファウスト
あの鴉共が水の少女おとめ
しんからお世辞を言ったと見えるな。
あれ、もうあそこへ流れて来出した。
方々の水気みずけのない兀岩の上に、
 
たっぷり泉の早瀬が涌く。
敵の勝利ももう駄目だ。 
 
    メフィストフェレス
随分意外なお待受ですから、
どんな大胆な登手のぼりても途方に暮れるでしょうて。 
 
    ファウスト
もう一本の小川こがわが何本にもなって、勢強く流れ落ちる。
 
谷間に隠れては、倍の水嵩みずかさになって出て来る。
一本の滝になって、弓なりに落ちる。
それがまた忽ちたいらな、幅広な岩の上に広がって、
しぶきを飛ばして、あらゆる方角へ流れて、
段々になって谷底へ落ちて来る。
 
大胆に男らしく抗抵した所で、なんになろう。
大波が押し流そうとして寄せるのだから。
こうひどく溢れて来ては己までがぞっとする。 
 
    メフィストフェレス
わたしなんぞにはその水の贋物にせものは丸で見えません。
騙されるのは人間の目だけだ。
 
わたしはこの不思議な出来事が面白くてなりません。
やあ。群になって逃げ出しますね。
馬鹿共は水に溺れるかと思うのだ。
おかにいるのに、為方しかたで、水を吹き出す真似をして、
滑稽な、泳ぐような身振をして駈けている。
 
もう全軍の騒擾そうじょうになった。

(鴉等再び来る。)

お前達の事を大先生の所で褒めて遣る。
だがここで自分が先生になって遣って見る気なら、
これから火を焚いている鍛冶屋へ往け。
あの一寸坊共が、草臥くたびれると云うことなしに、
 
金や石を赤く焼いてたたいている所なのだ。
そして随分念の入った口上を言って、
黒人くろうとの消さずに焚いているような、
ぴかぴか光る、ぱちぱち鳴る火を所望して来るのだ。
遠い空の稲妻や、
 
一番高い所から瞬く隙に落ちる星は、
夏は毎晩見られもしよう。
だが木立の茂みの中で稲妻がしたり、
湿った土にっ附かって星がしゅっと云うのは、
そうめったには見られまい。
 
そこでお前達、何も大して面倒を見なくてもいが、
最初は丁寧に頼んで見て、それから出せと指図するのだ。

(鴉等退場。せりふの通の事共実現す。)

    メフィストフェレス
敵は目の前が真っ暗だ。
一足踏むのも心許ない。
どこの隅にも鬼火が燃える。
 
出し抜けに目映まばゆい光物がする。
そこいらは皆至極好い。
この上何かこわい音でもさせようかな。 
 
    ファウスト
あの蔵の穴から出されて来た空洞うつろな武具が、
そとの風に当って気丈夫になったと見えて、
 
あそこの高い所で、さっきからがたがたかちゃかちゃ、
不思議な怪しい音をさせているなあ。 
 
    メフィストフェレス
そうです。もうめてもまりませむ。
結構な昔の世に戻ったように、
騎士らしく打って廻る音が、もうここへ聞えますね。
 
籠手こてやら脛当すねあてやらが、
ゲルフェンになり、ギベルリイネンになって、
永遠なたたかいを繰り返す。
先祖から受けた習慣で、頑強に遣っていて、
媾話なんぞは誓ってしない。
 
もう物音が大ぶ広がって来た。
悪魔の手伝う催しは皆そうだが、
しまいに功を奏するのは党派の憎悪ぞうおで、
とどめを刺すまでそいつをめないのだ。
なかなか気持悪く、人に驚慌を起させるように、
 
どうかするとまた大袈裟に、悪魔らしく威して、
物音を谷々へ響き渡らせますね。

(奏楽団の初め戦争の騒擾を学びたるが、終に晴やかなる軍楽の音に変ず。)

 
 

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