ゲーテ ファウスト 森鴎外訳

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第五幕

 
 
開豁かいかつなる土地

  
 
    旅人
うん。あれだ。あの勢の好い、
茂った古木の菩提樹だ。
こんな長旅をして来て、
 
またあれを見ることか。
波風に、あの沙原すなはら
打ち上げられた時、
己をやどしてくれたのはあの小屋こやだ。
これが昔の場所なのだ。
 
実に祝福して遣りたい主人あるじであった。
人を助けることのすきな、正直な夫婦だった。
しかしあの時もう大ぶ老人であったから、
もう再会することは出来まい。
ああ。ほんに敬虔な人達であったなあ。
 
戸を叩こうか。呼んで見ようか。おい。
今もなお客を好んで、積善の余慶を受けているなら、
己の挨拶を聞いてくれい。 
 
    おうなバウチス

(甚だ老いたり。)

お客様。お静かになすって下さいまし。
い様を休ませて下さいまし。
 
年寄は長く寐なくてはちょいとめている間に、
しっかり働くことが出来ませぬ。 
 
    旅人
おばさん。昔御亭主と一しょに、
若いものの命を助けて下さったのは
あなたですか。その時のお礼を
 
聞いておもらい申したいのですが。
半分死んでいた、わたしの口を、
まめに養って下さったバウチスさんはあなたですか。

(翁登場。)

わたしの荷物を、骨を折って、波間から
引き上げて下さったフィレモンさんはあなたですか。
 
あの恐ろしい、不慮の事の跡始末は、
あなた方に、あなた方の所の
手早く焚き附けた火の光に、
白金しろがねのように鳴った鐘の音に任せてあったのだ。
そこでわたしに今一度そとへ出て、
 
あのはてのない海を見渡させて下さい。
わたしに据わって祈祷をさせて下さい。
わたしは胸が一ぱいになっているから。

(旅人沙原に歩み出づ。)

    おきなフィレモン(媼に。)
晴やかに花の咲いている、あの庭へ
急いで食卓の用意をおし。
 
お客は走り廻って、驚いていてもい。
目で見ながら、不思議に思っているのだから。

(旅人の傍に来て立つ。)

荒波がしぶきを飛ばして、
お前さんをひどい目に逢わせた海が、
花園のようになっているのが見えますでしょう。
 
天国のような画図えずになって見えるでしょう。
わたしも年を取って、もう昔のように手ぐすね引いて
人を助けようとしてはいられませんが、
わたしの力の衰えるに連れて、
波も遠く沖の方へ引きました。
 
賢い殿様の、大胆な御家隷けらい衆が、
溝を掘って、土手をいて、
海の権力を狭めて、
代ってぬしになろうとせられます。
並んで緑に栄える牧場や、草苅場や、
 
畑や、村や、森の出来たのを御覧なさい。
だが早くあちらで何か上がって下さい。
もう今に日が入ってしまいます。
あのずっと遠くに帆が見えていますね。
よる泊まる港を捜しているのでしょう。
 
鳥だってねぐらは知っていますから、
今あそこに出来ている港をさして行くのでしょう。
あの遠くに青いへりの見える、
あそこがやっと海なのです。
右も左も、広いあいだ
 
皆賑やかな人里になっています。

(庭にて三人卓を囲みて坐す。)

    媼
なぜあなたは黙っていて、おなかが透いていましょうに、
一口も物を上がりませんか。 
 
    翁
あの不思議な話が聞きたいと仰ゃるのだ。
話のすきなお前が言ってお聞せ申すがい。
  
 
    媼
そうですね。奇蹟だとでも申しましょうか。
今になってもわたくしは気が鎮まりません。
どうもあの出来事は
正当しょうとうな事ではございませんからね。 
 
    翁
でもこの海岸をあのかたにおさずけになったおかみが、
 
なんで罪の深い事をなされよう。
その御沙汰はお使つかいが鳴物を鳴らして触れて
この家の前をも通ったじゃないか。
工事に手を著けられた場所は、
この沙原から遠くない所でございました。
 
天幕や小屋が最初に出来ましたが、
もなく草木くさきの緑の中に、立派な御殿が立ちました。 
 
    媼
昼間ひるまは御家隷達が鋤鍬を使って、
無駄に騒いでばかりおいでになるようでしたが、
よる沢山火が燃えていた跡に、
 
翌日は立派に土手がいてございました。
にえにせられて血を流した人達があったとかで、
よる苦しがって泣く声がいたしまして、
海の方へ火が流れて参ったと思いますと、
朝はそこが溝になっておりました。
 
不人情な檀那で、この小屋や地面を
欲しがってお出になります。
隣で息張いばっていらっしゃるので、
こちらではただ恐れ入っていなくてはなりません。 
 
    翁
でもこの地面のかわりに、新しく拓いた土地の
 
立派な場所をくれようと仰ゃったのだ。 
 
    媼
あんな海であった土地をたのみにおしでない。
やはりこの高い所を持ちこたえている事ですよ。 
 
    翁
さあ、みんなでおどうへ這入って
夕日の名残を惜みましょう。
 
そして鐘を撞いて、据わって、おいのりを上げて、
昔からの神様におすがり申しましょう。
 
 

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