ゲーテ ファウスト 森鴎外訳

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深夜

  
 
    望楼守

(城の望楼にありて歌ふ。)

物見に生れて、
物見をせいと言い附けられて、
塔にこの身を委ねていれば、
 
まあ、世の中の面白いこと。
遠くも見れば、
近くも見る。
月と星とを見る。
森と鹿とを見る。
 
万物を永遠なる
かざりとして見る。
そして総てが己に気に入るように、
己自身も己に気に入る。
さいわいある我目よ。
 
これまで見た程の物は、
何がなんと云っても、
兎に角皆美しかった。

。)

だが己は自分のなぐさみにばかり、
こんな高い所へ上げられているのじゃない。
 
闇黒の世界から、なんと云う気味の悪い
恐怖が己を襲って来ることだろう。
二重ふたえに暗い菩提樹の蔭から、
火の子が飛び出して来た。
風にあおり立てられて
 
火勢はいよいよ強くなる。
や。あの苔蒸して湿って立っていた、
なかの小屋が燃え上がる。
早く救って遣らんではなるまい。
いや。もう救うことは出来まい。
 
ああ。不断火の用心を善くしていた、
人の好い老夫婦が、
烟のえものにせられてしまう。
なんと云う恐ろしい災難だろう。
※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおが燃え立って、黒かった苔の
 
火の中に赤く立っている。
あの地獄の猛火の中から
老人達は逃げ延びただろうか。
梢の間から、葉の間から
火の舌が閃き出ている。
 
枯枝にちょろちょろ火が移って、
すぐに焼けては落ちてしまう。
我目よ。あれを見なくてはならぬか。
己はこんなに遠くが見えなくてはならぬか。
落ちた大枝の重りで、
 
小さい祠は潰れてしまう。
もう木の頂が、尖った※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)に、
蛇のようにまとい附かれた。
空洞うつろな幹が根まで焼けて、
真っ赤になって立っている。
 

(長き。歌。)

つね人の目を慰めた
幾百年の樹も滅びた。 
 
    ファウスト

(出窓にありて砂原を望む。)

上のほうから聞えるのは、なんと云うなげきの歌だろう。
今はあの一言ひとこと一声ひとこえがもう時機に後れている。
望楼守が泣いている。
 
心の奥で、早まったわざが己を悩ます。
あの半分炭になった幹には気の毒だが、
こうなれば菩提樹の木立を伐り開いて、
眼界を遮る物のないような
望楼をすぐ立てよう。
 
己のなさけに救われた恩を思って
楽しく余年を送る、
老人夫婦の住んでいる
新しい家も、もう目に見るようだ。 
 
    メフィストフェレスと三人の有力者と(下にて。)
大急ぎで遣って来ました。
 
御免なさい。穏和手段は駄目でした。
戸を叩いても叩いても、
とうとうけてはくれません。
懲りずに叩いて、ゆさぶるうちに、
朽ちた扉は倒れました。
 
大声おおごえでどなったり、ひどくおどしたりしたが、
どうしても聴きません。
兎角そんな時のならいで、
聴きもしない、聴こうともしない。
しかしわたし共はぐずぐずせずに、
 
あいつ等を早速逐い退けて遣りました。
老人共は大した苦みもしませんでした。
驚いて倒れたきり、死んだのです。
旅人が一人隠れていて、
切って掛かりましたから、片附けました。
 
荒為事あらしごとをしている、ちょいとの
炭火がそこら中へ散らばって、
藁に移りました。そこで三人が
旨く火葬になるわけです。 
 
    ファウスト
己のことばが耳に聞えなかったのか。
 
交換しようとは云ったが、強奪しようとは云わなかった。
無謀な暴挙を己はのろう。
責任はお前達が分けて負うがい。 
 
    合唱の群
古い詞が聞えるぞ。
威勢にはすなおになびけ。
 
大胆でさからいたけりゃ、
家も地面も身もけろ。

(退場。)

    ファウスト(出窓の上にて。)
星がもう光を隠して、
火も下火になって来た。
風がそよそよと吹いて来て、
 
烟を己のほうへ吹き靡ける。
早まって言い附けた事を、早まってした。
や。なんだ。影のような物が来る。
 
 

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