それから 夏目漱石

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 十
 
 ありの座敷へ上がる時候になった。代助は大きな鉢へ水を張って、その中に真白な鈴蘭すずらんを茎ごと漬けた。むらがる細かい花が、濃い模様のふちを隠した。鉢を動かすと、花がこぼれる。代助はそれを大きな字引の上に載せた。そうして、その傍にまくらを置いて仰向けに倒れた。黒い頭が丁度鉢の陰になって、花から出るにおいが、好い具合に鼻にかよった。代助はそのにおいぎながら仮寐うたたねをした。
 代助は時々尋常な外界から法外に痛烈な刺激を受ける。それがはげしくなると、晴天から来る日光の反射にさえ堪え難くなることがあった。そう云う時には、なるべく世間との交渉を稀薄きはくにして、朝でもひるでも構わず寐る工夫をした。その手段には、極めて淡い、甘味の軽い、花のをよく用いた。まぶたを閉じて、ひとみに落ちる光線を謝絶して、静かに鼻の穴だけで呼吸しているうちに、枕元の花が、次第に夢の方へ、さわぐ意識を吹いて行く。これが成功すると、代助の神経が生れ代った様に落ち付いて、世間との連絡が、前よりは比較的楽に取れる。
 代助は父に呼ばれてから二三日の間、庭の隅に咲いた薔薇ばらの花の赤いのを見るたびに、それが点々として眼を刺してならなかった。その時は、いつでも、手水鉢てみずばちの傍にある、擬宝珠ぎぼしゅの葉に眼を移した。その葉には、放肆ほうしな白いしまが、三筋か四筋、長く乱れていた。代助が見るたびに、擬宝珠の葉は延びて行く様に思われた。そうして、それと共に白い縞も、自由に拘束なく、延びる様な気がした。柘榴ざくろの花は、薔薇よりも派手にかつ重苦しく見えた。緑の間にちらりちらりと光って見える位、強い色を出していた。従ってこれも代助の今の気分には相応うつらなかった。
 彼の今の気分は、彼に時々起るごとく、総体の上に一種の暗調を帯びていた。だから余りに明る過ぎるものに接すると、その矛盾に堪えがたかった。擬宝珠の葉も長く見詰めていると、すぐいやになる位であった。
 その上彼は、現代の日本に特有なる一種の不安に襲われ出した。その不安は人と人との間に信仰がない源因から起る野蛮程度の現象であった。彼はこの心的現象のために甚しき動揺を感じた。彼は神に信仰を置く事を喜ばぬ人であった。又頭脳の人として、神に信仰を置く事の出来ぬ性質たちであった。けれども、相互に信仰を有するものは、神に依頼するの必要がないと信じていた。相互が疑い合うときの苦しみを解脱げだつする為めに、神は始めて存在の権利を有するものと解釈していた。だから、神のある国では、人が嘘をくものと極めた。然し今の日本は、神にも人にも信仰のない国柄であるという事を発見した。そうして、彼はこれをいつに日本の経済事情に帰着せしめた。
 四五日前しごんちぜん、彼は掏摸すりと結託して悪事を働らいた刑事巡査の話を新聞で読んだ。それが一人や二人ではなかった。他の新聞の記す所によれば、もし厳重に、それからそれへと、手を延ばしたら、東京は一時殆んど無警察の有様に陥るかも知れないそうである。代助はその記事を読んだとき、ただ苦笑しただけであった。そうして、生活の大難に対抗せねばならぬ薄給の刑事が、悪い事をするのは、実際もっともだと思った。
 代助が父にって、結婚の相談を受けた時も、少しこれと同様の気がした。が、これはただ父に信仰がない所から起る、代助に取って不幸な暗示に過ぎなかった。そうして代助は自分の心のうちに、かかるいまわしい暗示を受けたのを、不徳義とは感じ得なかった。それが事実となって眼前にあらわれても、やはり父を尤もだとうけがう積りだったからである。
 代助は平岡に対しても同様の感じを抱いていた。然し平岡に取っては、それが当然の事であると許していた。ただ平岡を好く気になれないだけであった。代助は兄を愛していた。けれどもその兄に対してもやはり信仰はち得なかった。嫂は実意のある女であった。然し嫂は、直接生活の難関に当らないだけ、それだけ兄よりも近付きやすいのだと考えていた。
 代助は平生から、この位に世の中を打遣うちやっていた。だから、非常な神経質であるにもかかわらず、不安の念に襲われる事は少なかった。そうして、自分でもそれを自覚していた。それが、どう云う具合か急にうごき出した。代助はこれを生理上の変化から起るのだろうと察した。そこである人が北海道から採って来たと云ってくれた鈴蘭の束を解いて、それをことごとく水の中に浸して、その下にたのである。
 一時間の後、代助は大きな黒い眼を開いた。その眼は、しばらくの間一つ所に留まって全く動かなかった。手も足も寐ていた時の姿勢を少しも崩さずに、まるで死人のそれの様であった。その時一匹の黒い蟻が、ネルの襟を伝わって、代助の咽喉のどに落ちた。代助はすぐ右の手を動かして咽喉を抑えた。そうして、額にしわを寄せて、指のまたに挟んだ小さな動物を、鼻の上まで持って来て眺めた。その時蟻はもう死んでいた。代助は人指ひとさし指の先に着いた黒いものを、親指のつめで向うへはじいた。そうして起き上がった。
 ひざ周囲まわりに、まだ三四匹っていたのを、薄い象牙ぞうげ紙小刀ペーパーナイフで打ち殺した。それから手をたたいて人を呼んだ。
御目醒おめざめですか」と云って、門野が出て来た。
「御茶でも入れて来ましょうか」と聞いた。代助は、はだかった胸をき合せながら、
「君、僕の寐ていたうちに、誰か来やしなかったかね」と、静かな調子で尋ねた。
「ええ、御出おいででした。平岡の奥さんが。よく御存じですな」と門野は平気に答えた。
何故なぜ起さなかったんだ」
あんまり御休おやすみでしたからな」
「だって御客なら仕方がないじゃないか」
 代助の語勢は少し強くなった。
「ですがな。平岡の奥さんの方で、起さない方がいって、おっしゃったもんですからな」
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
「また出て行ったのかい」
「ええ、まあそうです」
 代助は笑いながら、両手で寐起の顔をでた。そうして風呂場へ顔を洗いに行った。頭をらして、縁側まで帰って来て、庭を眺めていると、前よりは気分が大分晴々せいせいした。曇った空をつばめが二羽飛んでいる様が大いに愉快に見えた。
 代助はこの前平岡の訪問を受けてから、心待に後から三千代の来るのを待っていた。けれども、平岡の言葉は遂に事実として現れて来なかった。特別の事情があって、三千代がわざと来ないのか、又は平岡が始めから御世辞を使ったのか、疑問であるが、それがため、代助は心の何処どこかに空虚を感じていた。しかし彼はこの空虚な感じを、一つの経験として日常生活中に見出みいだしたまでで、その原因をどうするの、こうするのと云う気はあまりなかった。この経験自身の奥をのぞき込むと、それ以上に暗い影がちらついている様に思ったからである。
 それで彼は進んで平岡を訪問するのを避けていた。散歩のとき彼の足は多く江戸川の方角に向いた。桜の散る時分には、夕暮の風に吹かれて、四つの橋を此方こちらから向うへ渡り、向うから又此方へ渡り返して、長いどてを縫う様に歩いた。がその桜はとくに散てしまって、今は緑蔭りょくいんの時節になった。代助は時々橋の真中に立って、欄干に頬杖ほおづえを突いて、茂る葉の中を、真直に通っている、水の光を眺め尽して見る。それからその光の細くなった先の方に、高くそびえる目白台の森を見上てみる。けれども橋を向うへ渡って、小石川の坂を上る事はやめにして帰る様になった。ある時彼は大曲おおまがりの所で、電車をおりる平岡の影を半町程手前から認めた。彼はたしかにそうに違ないと思った。そうして、すぐ揚場あげばの方へ引き返した。
 彼は平岡の安否を気にかけていた。まだ坐食いぐいの不安な境遇にるに違ないとは思うけれども、或はどの方面かへ、生活の行路を切り開く手掛りが出来たかも知れないとも想像してみた。けれども、それを確める為に、平岡の後を追う気にはなれなかった。彼は平岡に面するときの、原因不明な一種の不快を予想する様になった。と云って、ただ三千代の為にのみ、平岡の位地を心配する程、平岡をにくんでもいなかった。平岡の為にも、やはり平岡の成功を祈る心はあったのである。
 こんな風に、代助は空虚なるわが心の一角を抱いて今日に至った。いま先方さきがた門野を呼んでくくり枕を取り寄せて、午寐ひるねむさぼった時は、あまりに溌溂はつらつたる宇宙の刺激に堪えなくなった頭を、出来るならば、あおい色の付いた、深い水の中に沈めたい位に思った。それ程彼は命を鋭く感じ過ぎた。従って熱い頭を枕へ着けた時は、平岡も三千代も、彼に取って殆んど存在していなかった。彼は幸にして涼しい心持に寐た。けれどもその穏やかなねむりのうちに、誰かすうと来て、又すうと出て行った様な心持がした。眼を醒まして起き上がってもその感じがまだ残っていて、頭からぬぐい去る事が出来なかった。それで門野を呼んで、寐ている間に誰か来はしないかと聞いたのである。
 代助は両手を額に当てて、高い空を面白そうに切って廻る燕の運動を縁側から眺めていたが、やがて、それがま苦しくなったので、室の中に這入はいった。けれども、三千代が又訪ねて来ると云う目前の予期が、既に気分の平調を冒しているので、思索も読書も殆んど手に着かなかった。代助は仕舞に本棚の中から、大きな画帖がちょうを出して来て、膝の上に広げて、繰り始めた。けれども、それも、只指の先で順々に開けて行くだけであった。一つ画を半分とは味わっていられなかった。やがてブランギンの所へ来た。代助は平生からこの装飾画家に多大の趣味を有っていた。彼の眼は常の如く輝を帯びて、一度ひとたびはその上に落ちた。それは何処かの港の図であった。背景に船とほばしらと帆を大きくいて、その余った所に、際立きわだって花やかな空の雲と、蒼黒あおぐろい水の色をあらわした前に、裸体の労働者が四五人いた。代助はこれ等の男性の、山の如くに怒らした筋肉の張り具合や、彼等の肩からへかけて、肉塊と肉塊が落ち合って、その間に渦の様な谷を作っている模様を見て、其所そこにしばらく肉の力の快感を認めたが、やがて、画帖を開けたまま、眼を放して耳を立てた。すると勝手の方でばあさんの声がした。それから牛乳配達が空罎あきびんを鳴らして急ぎ足に出て行った。うちのうちが静かなので、鋭どい代助の聴神経には善くこたえた。
 代助はぼんやり壁を見詰めていた。門野をもう一返呼んで、三千代が又くる時間を、云い置いて行ったかどうか尋ねようと思ったが、あまりだからはばかった。そればかりではない、人の細君が訪ねて来るのを、それ程待ち受ける趣意がないと考えた。又それ程待ち受ける位なら、此方こちらから何時いつでも行って話をすべきであると考えた。この矛盾の両面を双対に見た時、代助は急に自己の没論理にじざるを得なかった。彼の腰は半ば椅子いすを離れた。けれども彼はこの没論理の根底によこたわる色々の因数ファクターを自分で善く承知していた。そうして、今の自分に取っては、この没論理の状態が、唯一ゆいいつの事実であるから仕方ないと思った。かつ、この事実と衝突する論理は、自己に無関係な命題をつなぎ合わして出来上った、自己の本体を蔑視べっしする、形式に過ぎないと思った。そう思って又椅子へ腰を卸した。
 それから三千代の来るまで、代助はどんな風に時を過したか、ほとんど知らなかった。表に女の声がした時、彼は胸に一鼓動を感じた。彼は論理において尤も強い代りに、心臓の作用に於て尤も弱い男であった。彼が近来怒れなくなったのは、全く頭の御蔭おかげで、腹を立てる程自分を馬鹿にすることを、理智が許さなくなったからである。がその他の点に於ては、尋常以上に情緒の支配を受けるべく余儀なくされていた。取次に出た門野が足音を立てて、書斎の入口にあらわれた時、血色のいい代助の頬はかすかに光沢つやを失っていた。門野は、
此方こっちにしますか」と甚だ簡単に代助の意向を確めた。座敷へ案内するか、書斎で逢うかと聞くのが面倒だから、こう詰めてしまったのである。代助はうんと云って、入口に返事を待っていた門野を追い払う様に、自分で立って行って、縁側へ首を出した。三千代は縁側と玄関の継目の所に、此方こちらを向いてためらっていた。
 三千代の顔はこの前逢った時よりはむし蒼白あおしろかった。代助に眼とあごで招かれて書斎の入口へ近寄った時、代助は三千代の息をはずましていることに気が付いた。
「どうかしましたか」と聞いた。
 三千代は何にも答えずにへやの中に這入て来た。セルの単衣ひとえの下に襦袢じゅばんを重ねて、手に大きな白い百合ゆりの花を三本ばかり提げていた。その百合をいきなり洋卓テーブルの上に投げる様に置いて、その横にある椅子へ腰を卸した。そうして、結ったばかりの銀杏返いちょうがえしを、構わず、椅子の脊に押し付けて、
「ああ苦しかった」と云いながら、代助の方を見て笑った。代助は手を叩いて水を取り寄せようとした。三千代は黙って洋卓の上を指した。其所には代助の食後のうがいをする硝子ガラス洋盃コップがあった。中に水が二口ばかり残っていた。
「奇麗なんでしょう」と三千代が聞いた。
此奴こいつ先刻さっき僕が飲んだんだから」と云って、洋盃を取り上げたが、躊躇ちゅうちょした。代助の坐っている所から、水を棄てようとすると、障子の外に硝子戸が一枚邪魔をしている。門野は毎朝縁側の硝子戸を一二枚ずつ開けないで、元の通りに放って置く癖があった。代助は席を立って、縁へ出て、水を庭へ空けながら、門野を呼んだ。今いた門野は何処へ行ったか、容易に返事をしなかった。代助は少しまごついて、又三千代の所へ帰って来て、
「今すぐ持って来て上げる」と云いながら、折角空けた洋盃をそのまま洋卓テーブルの上に置いたなり、勝手の方へ出て行った。茶の間を通ると、門野は無細工な手をしてすずの茶壺から玉露をつまみ出していた。代助の姿を見て、
「先生、今じきです」と言訳をした。
「茶は後でも好い。水が要るんだ」と云って、代助は自分で台所へ出た。
「はあ、そうですか。上がるんですか」と茶壺を放り出して門野も付いて来た。二人で洋盃コップを探したが一寸見付からなかった。婆さんはと聞くと、今御客さんの菓子を買いに行ったという答であった。
「菓子がなければ、早く買って置けば可いのに」と代助は水道の栓をねじって湯呑ゆのみに水をあふらせながら云った。
「つい、小母さんに、御客さんの来る事を云って置かなかったものですからな」と門野は気の毒そうに頭を掻いた。
「じゃ、君が菓子を買に行けばいのに」と代助は勝手を出ながら、門野に当った。門野はそれでも、まだ、返事をした。
「なに菓子の外にも、まだ色々買物があるって云うもんですからな。足は悪し天気は好くないし、せば好いんですのに」
 代助は振り向きもせず、書斎へ戻った。敷居をまたいで、中へ這入るやいなや三千代の顔を見ると、三千代は先刻代助の置いて行った洋盃を膝の上に両手で持っていた。その洋盃の中には、代助が庭へ空けたと同じ位に水が這入っていた。代助は湯呑を持ったまま、茫然ぼうぜんとして、三千代の前に立った。
「どうしたんです」と聞いた。三千代はいつもの通り落ち付いた調子で、
難有ありがとう。もう沢山。今あれを飲んだの。あんまり奇麗だったから」と答えて、鈴蘭の漬けてある鉢を顧みた。代助はこの大鉢の中に水を八分目程張って置いた。妻楊枝つまようじ位な細い茎の薄青い色が、水の中にそろっている間から、陶器やきものの模様がほのかに浮いて見えた。
何故なぜあんなものを飲んだんですか」と代助はあきれて聞いた。
「だって毒じゃないでしょう」と三千代は手に持った洋盃を代助の前へ出して、透かして見せた。
「毒でないったって、もし二日も三日もった水だったらどうするんです」
「いえ、先刻さっき来た時、あの傍まで顔を持って行っていでみたの。その時、たった今その鉢へ水を入れて、おけから移したばかりだって、あの方が云ったんですもの。大丈夫だわ。好いにおいね」
 代助は黙って椅子へ腰を卸した。果して詩の為に鉢の水を呑んだのか、又は生理上の作用に促がされて飲んだのか、追窮する勇気も出なかった。よし前者とした所で、詩をてらって、小説の真似なぞをした受売の所作とは認められなかったからである。そこで、ただ、
「気分はもう好くなりましたか」と聞いた。
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――
「けれども、慣れっこになってるんだから、驚ろきゃしません」と云って、代助を見てさみしい笑い方をした。
「心臓の方は、まだすっかり善くないんですか」と代助は気の毒そうな顔で尋ねた。
「すっかり善くなるなんて、生涯駄目ですわ」
 意味の絶望な程、三千代の言葉は沈んでいなかった。ほそい指をそらして穿めている指環を見た。それから、手帛ハンケチを丸めて、又袂へ入れた。代助は眼をせた女の額の、髪に連なる所を眺めていた。
 すると、三千代は急に思い出した様に、この間の小切手の礼を述べ出した。その時何だか少し頬を赤くした様に思われた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分った。彼はそれを、貸借に関した羞耻しゅうちの血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐ他所よそそらした。
 先刻さっき三千代が提げて這入て来た百合の花が、依然として洋卓テーブルの上に載っている。甘たるい強いが二人の間に立ちつつあった。代助はこの重苦しい刺激を鼻の先に置くに堪えなかった。けれども無断で、取りける程、三千代に対して思い切った振舞が出来なかった。
「この花はどうしたんです。買て来たんですか」と聞いた。三千代は黙って首肯うなずいた。そうして、
「好いにおいでしょう」と云って、自分の鼻を、はなびらそばまで持って来て、ふんといで見せた。代助は思わず足を真直に踏ん張って、身を後の方へらした。
「そう傍で嗅いじゃ不可いけない」
「あら何故」
「何故って理由もないんだが、不可ない」
 代助は少しまゆをひそめた。三千代は顔をもとの位地に戻した。
「貴方、この花、御嫌おきらいなの?」
 代助は椅子の足をななめに立てて、身体からだを後へ伸したまま、答えをせずに、微笑して見せた。
「じゃ、買って来なくっても好かったのに。つまらないわ、回りみちをして。御負おまけに雨に降られそくなって、息を切らして」
 雨は本当に降って来た。雨滴あまだれといに集まって、流れる音がざあと聞えた。代助は椅子から立ち上がった。眼の前にある百合の束を取り上げて、根元をくくった濡藁ぬれわら※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり切った。
「僕にくれたのか。そんなら早くけよう」と云いながら、すぐ先刻さっきの大鉢の中に投げ込んだ。茎が長すぎるので、根が水を跳ねて、飛び出しそうになる。代助はしたたる茎を又鉢から抜いた。そうして洋卓テーブルの引出から西洋はさみを出して、ぷつりぷつりと半分程の長さにり詰めた。そうして、大きな花を、鈴蘭のむらがる上に浮かした。
「さあこれで好い」と代助は鋏を洋卓の上に置いた。三千代はこの不思議に無作法に活けられた百合を、しばらく見ていたが、突然、
「あなた、何時いつからこの花が御嫌になったの」と妙な質問をかけた。
 昔し三千代の兄がまだ生きていた時分、ある日何かのはずみに、長い百合を買って、代助が谷中やなかの家を訪ねた事があった。その時彼は三千代にあやしげな花瓶はないけの掃除をさして、自分で、大事そうに買って来た花を活けて、三千代にも、三千代の兄にも、床へ向直って眺めさした事があった。三千代はそれを覚えていたのである。
「貴方だって、鼻を着けて嗅いでいらしったじゃありませんか」と云った。代助はそんな事があった様にも思って、仕方なしに苦笑した。
 そのうち雨はますます深くなった。家を包んで遠い音が聴えた。門野が出て来て、少し寒い様ですな、硝子戸を閉めましょうかと聞いた。硝子戸を引く間、二人は顔を揃えて庭の方を見ていた。青い木の葉がことごとく濡れて、静かな湿り気が、硝子越に代助の頭に吹き込んで来た。世の中の浮いているものは残らず大地の上に落ち付いた様に見えた。代助は久し振りで吾に返った心持がした。
い雨ですね」と云った。
ちっともかないわ、わたし、草履を穿いて来たんですもの」
 三千代は寧ろ恨めしそうに樋から雨点あまだれを眺めた。
「帰りには車を云い付けて上げるからいでしょう。ゆっくりなさい」
 三千代はあまり緩り出来そうな様子も見えなかった。まともに、代助の方を見て、
貴方あなたも相変らず呑気のんきな事をおっしゃるのね」とたしなめた。けれどもその眼元には笑の影がうかんでいた。
 今まで三千代の陰に隠れてぼんやりしていた平岡の顔が、この時明らかに代助の心のひとみに映った。代助は急に薄暗がりから物に襲われた様な気がした。三千代はやはり、離れ難い黒い影を引きって歩いている女であった。
「平岡君はどうしました」とわざと何気なく聞いた。すると三千代の口元が心持締って見えた。
「相変らずですわ」
「まだ何にも見付めっからないんですか」
「その方はまあ安心なの。来月から新聞の方が大抵出来るらしいんです」
「そりゃ好かった。些とも知らなかった。そんなら当分それで好いじゃありませんか」
「ええ、まあ難有ありがたいわ」と三千代は低い声で真面目まじめに云った。代助は、その時三千代を大変可愛かあいく感じた。引続いて、
彼方あっちの方は差当り責められる様な事もないんですか」と聞いた。
「彼方の方って――」と少し逡巡ためらっていた三千代は、急に顔をあからめた。
「私、実は今日それで御詫おわびに上ったのよ」と云いながら、一度俯向うつむいた顔を又上げた。
 代助は少しでも気不味きまずい様子を見せて、この上にも、女の優しい血潮を動かすに堪えなかった。同時に、わざと向うの意を迎える様な言葉を掛けて、相手を殊更ことさらに気の毒がらせる結果を避けた。それで静かに三千代の云う所を聴いた。
 先達せんだっての二百円は、代助から受取るとすぐ借銭の方へ回す筈であったが、新らしく家を持ったため、色々入費が掛ったので、ついその方の用を、あのうちで幾分か弁じたのが始りであった。あとはと思っていると、今度は毎日の活計くらしに追われ出した。自分ながら好い心持はしなかったけれども、仕方なしに困るとは使い、困るとは使いして、とうとうあらましくしてしまった。もっともそうでもしなければ、夫婦は今日こんにちまでこうして暮らしては行けなかったのである。今から考えてみると、一層いっその事無ければ無いなりに、どうかこうか工面も付いたかも知れないが、なまじい、手元に有ったものだから、苦し紛れに、急場の間に合わしてしまったので、肝心の証書を入れた借銭の方は、いまだにそのままにしてある。これは寧ろ平岡の悪いのではない。全く自分のあやまちである。
「私、本当に済まない事をしたと思って、後悔しているのよ。けれども拝借するときは、決して貴方をだましてうそく積りじゃなかったんだから、堪忍かんにんして頂戴ちょうだい」と三千代は甚だ苦しそうに言訳をした。
「どうせ貴方に上げたんだから、どう使ったって、誰も何とも云う訳はないでしょう。役にさえ立てばそれで好いじゃありませんか」と代助は慰めた。そうして貴方という字をことさらに重くかつ緩く響かせた。三千代はただ、
「私、それで漸く安心したわ」と云っただけであった。
 雨がしきりなので、帰るときには約束通り車を雇った。寒いので、セルの上へ男の羽織を着せようとしたら、三千代は笑って着なかった。
 
 
 
 

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