それから 夏目漱石

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 十六
 
 翌日あくるひ眼が覚めても代助の耳の底には父の最後の言葉が鳴っていた。彼は前後の事情から、平生以上の重みをその内容に附着しなければならなかった。少なくとも、自分だけでは、父から受ける物質的の供給がもう絶えたものと覚悟する必要があった。代助の尤も恐るる時期は近づいた。父の機嫌を取り戻すには、今度の結婚を断るにしても、あらゆる結婚に反対してはならなかった。あらゆる結婚に反対しても、父を首肯うなずかせるに足る程の理由を、明白に述べなければならなかった。代助に取っては二つのうち何れも不可能であった。人生に対する自家の哲学フィロソフィーの根本に触れる問題に就いて、父をあざむくのは猶更不可能であった。代助は昨日の会見を回顧して、凡てが進むべき方向に進んだとしか考え得なかった。けれども恐ろしかった。自己が自己に自然な因果を発展させながら、その因果の重みを脊中せなかしょって、高い絶壁の端まで押し出された様な心持であった。
 彼は第一の手段として、何か職業を求めなければならないと思った。けれども彼の頭の中には職業と云う文字があるだけで、職業その物は体をそなえて現われて来なかった。彼は今日まで如何いかなる職業にも興味をっていなかった結果として、如何なる職業を想い浮べてみても、ただその上を上滑りに滑って行くだけで、中に踏み込んで内部から考える事は到底出来なかった。彼には世間が平たい複雑な色分いろわけの如くに見えた。そうして彼自身は何等の色を帯びていないとしか考えられなかった。
 凡ての職業を見渡した後、彼の眼は漂泊者の上に来て、そこで留まった。彼は明らかに自分の影を、犬と人の境を迷う乞食こつじきの群の中に見出みいだした。生活の堕落は精神の自由を殺す点において彼の尤も苦痛とする所であった。彼は自分の肉体に、あらゆる醜穢しゅうえを塗り付けた後、自分の心の状態が如何に落魄らくはくするだろうと考えて、ぞっと身振みぶるいをした。
 この落魄のうちに、彼は三千代を引張り廻さなければならなかった。三千代は精神的に云って、既に平岡の所有ではなかった。代助は死に至るまで彼女かのおんなに対して責任を負う積りであった。けれども相当の地位を有っている人の不実と、零落の極に達した人の親切とは、結果に於て大した差違はないと今更ながら思われた。死ぬまで三千代に対して責任を負うと云うのは、負う目的があるというまでで、負った事実には決してなれなかった。代助は惘然もうぜんとして黒内障そこひかかった人の如くに自失した。
 彼は又三千代を訪ねた。三千代は前日の如く静に落ち着いていた。微笑ほほえみ光輝かがやきとに満ちていた。春風はゆたかに彼女かのおんなまゆを吹いた。代助は三千代が己を挙げて自分に信頼している事を知った。その証拠を又のあたりに見た時、彼は愛憐あいれんの情と気の毒の念に堪えなかった。そうして自己を悪漢の如くに呵責かしゃくした。思う事は全く云いそびれてしまった。帰るとき、
「又都合してうちへ来ませんか」と云った。三千代はええと首肯うなずいて微笑した。代助は身を切られる程つらかった。
 代助はこの間から三千代を訪問するごとに、不愉快ながら平岡の居ない時をえらまなければならなかった。始めはそれをさ程にも思わなかったが、近頃では不愉快と云うよりも寧ろ、にくい度が日毎に強くなって来た。その上留守の訪問が重なれば、下女に不審を起させる恐れがあった。気の所為せいか、茶を運ぶ時にも、妙に疑ぐり深い眼付をして、見られる様でならなかった。然し三千代は全く知らぬ顔をしていた。少なくとも上部うわべだけは平気であった。
 平岡との関係に就ては、無論詳しく尋ねる機会もなかった。たまに一言二言それとなく問を掛けてみても、三千代は寧ろ応じなかった。ただ代助の顔を見れば、見ているその間だけのうれしさにおぼれ尽すのが自然の傾向であるかの如くに思われた。前後を取り囲む黒い雲が、今にもせまって来はしまいかと云う心配は、陰ではいざ知らず、代助の前には影さえ見せなかった。三千代は元来神経質の女であった。昨今の態度は、どうしてもこの女の手際てぎわではないと思うと、三千代の周囲の事情が、まだそれ程険悪に近づかない証拠になるよりも、自分の責任が一層重くなったのだと解釈せざるを得なかった。
「すこし又話したい事があるから来て下さい」と前よりはやや真面目まじめに云って代助は三千代と別れた。
 中二日置いて三千代が来るまで、代助の頭は何等の新しい路を開拓し得なかった。彼の頭の中には職業の二字が大きな楷書かいしょで焼き付けられていた。それを押し退けると、物質的供給の杜絶とぜつがしきりにおどり狂った。それが影を隠すと、三千代の未来がすさまじく荒れた。彼の頭には不安の旋風つむじが吹き込んだ。三つのものがともえの如く瞬時の休みなく回転した。その結果として、彼の周囲がことごとく回転しだした。彼は船に乗った人と一般であった。回転する頭と、回転する世界の中に、依然として落ち付いていた。
 青山の宅からは何の消息もなかった。代助はもとよりそれを予期していなかった。彼はつとめて門野を相手にして他愛ない雑談にふけった。門野はこの暑さに自分の身体からだを持ち扱っている位、用のない男であったから、すこぶる得意に代助の思う通り口を動かした。それでも話し草臥くたびれると、
「先生、将棋はどうです」などと持ち掛けた。夕方には庭に水を打った。二人共跣足はだしになって、手桶ておけを一杯ずつ持って、無分別に其所等そこいららして歩いた。門野が隣の梧桐ごとう天辺てっぺんまで水にして御目にかけると云って、手桶の底を振り上げる拍子に、滑って尻持しりもちを突いた。白粉草おしろいそうが垣根の傍で花を着けた。手水鉢ちょうずばちかげに生えた秋海棠しゅうかいどうの葉が著るしく大きくなった。梅雨つゆは漸く晴れて、昼は雲の峰の世界となった。強い日は大きな空を透き通す程焼いて、空一杯の熱を地上に射り付ける天気となった。
 代助は夜にって頭の上の星ばかり眺めていた。朝は書斎に這入はいった。二三日は朝からせみの声が聞える様になった。風呂場へ行って、度々たびたび頭を冷した。すると門野がもう好い時分だと思って、
「どうも非常な暑さですな」と云って、這入って来た。代助はこう云ううわの空の生活を二日程送った。三日目の日盛ひざかりに、彼は書斎の中から、ぎらぎらする空の色を見詰めて、上から吐き下す※(「陷のつくり+炎」、第3水準1-87-64)ほのおの息をいだ時に、非常に恐ろしくなった。それは彼の精神がこの猛烈なる気候から永久の変化を受けつつあると考えた為であった。
 三千代はこのあつさを冒して前日の約をんだ。代助は女の声を聞き付けた時、自分で玄関まで飛び出した。三千代は傘をつぼめて、風呂敷包を抱えて、格子こうしの外に立っていた。不断着のままうちを出たと見えて、質素な白地の浴衣ゆかたたもとから手帛ハンケチを出し掛けた所であった。代助はその姿を一目見た時、運命が三千代の未来を切り抜いて、意地悪く自分の眼の前に持って来た様に感じた。われ知らず、笑いながら、
馳落かけおちでもしそうな風じゃありませんか」と云った。三千代は穏かに、
「でも買物をしたついででないと上りにくいから」と真面目な答をして、代助の後にいて奥まで這入って来た。代助はすぐ団扇うちわを出した。照り付けられた所為せいで三千代の頬が心持よく輝やいた。何時いつもの疲れた色は何処どこにも見えなかった。眼の中にも若いつやが宿っていた。代助は生々したこの美くしさに、自己の感覚を溺らして、しばらくは何事も忘れてしまった。が、やがて、この美くしさを冥々めいめいうちに打ち崩しつつあるものは自分であると考え出したら悲しくなった。彼は今日もこの美くしさの一部分を曇らす為に三千代を呼んだに違なかった。
 代助は幾度か己れを語る事を躊躇ちゅうちょした。自分の前に、これ程幸福に見える若い女を、眉一筋にしろ心配の為に動かさせるのは、代助から云うと非常な不徳義であった。もし三千代に対する義務の心が、彼の胸のうちに鋭どく働らいていなかったなら、彼はそれから以後の事情を打ち明ける事の代りに、先達せんだっての告白を再び同じへやのうちに繰り返して、単純なる愛の快感のもとに、一切を放擲ほうてきしてしまったかも知れなかった。
 代助は漸くにして思い切った。
「その後貴方あなたと平岡との関係は別に変りはありませんか」
 三千代はこの問を受けた時でも、依然として幸福であった。
「あったって、構わないわ」
「貴方はそれ程僕を信用しているんですか」
「信用していなくっちゃ、こうしていられないじゃありませんか」
 代助は目映まぼしそうに、熱い鏡の様な遠い空を眺めた。
「僕にはそれ程信用される資格がなさそうだ」と苦笑しながら答えたが、頭の中は焙炉ほいろの如く火照ほてっていた。然し三千代は気にも掛からなかったと見えて、何故なぜとも聞き返さなかった。ただ簡単に、
「まあ」とわざとらしく驚ろいて見せた。代助は真面目になった。
「僕は白状するが、実を云うと、平岡君よりたよりにならない男なんですよ。買いかぶっていられると困るから、みんな話してしまうが」と前置をして、それから自分と父との今日までの関係を詳しく述べた上、
「僕の身分はこれから先どうなるか分らない。少なくとも当分は一人前じゃない。半人前にもなれない。だから」と云いよどんだ。
「だから、どうなさるんです」
「だから、僕の思う通り、貴方に対して責任が尽せないだろうと心配しているんです」
「責任って、どんな責任なの。もっと判然はっきりおっしゃらなくっちゃわからないわ」
 代助は平生へいぜいから物質的状況に重きを置くの結果、ただ貧苦が愛人の満足にあたいしないと云う事だけを知っていた。だから富が三千代に対する責任の一つと考えたのみで、それより外に明らかな観念はまるで持っていなかった。
「徳義上の責任じゃない、物質上の責任です」
「そんなものは欲しくないわ」
「欲しくないと云ったって、是非必要になるんです。これから先僕が貴方とどんな新らしい関係に移ってくにしても、物質上の供給が半分は解決者ですよ」
「解決者でも何でも、今更そんな事を気にしたって仕方がないわ」
「口ではそうも云えるが、いざと云う場合になると困るのは眼に見えています」
 三千代は少し色を変えた。
「今貴方の御父様の御話を伺ってみると、こうなるのは始めから解ってるじゃありませんか。貴方だって、その位な事はうから気が付いていらっしゃるはずだと思いますわ」
 代助は返事が出来なかった。頭を抑えて、
「少し脳がどうかしているんだ」と独り言の様に云った。三千代は少し涙ぐんだ。
「もし、それが気になるなら、わたくしの方はどうでもう御座んすから、御父様と仲直りをなすって、今まで通り御交際おつきあいになったら好いじゃありませんか」
 代助は急に三千代の手頸てくびを握ってそれを振る様に力を入れて云った。――
「そんな事をる気なら始めから心配をしやしない。ただ気の毒だから貴方にあやまるんです」
「詫まるなんて」と三千代は声をふるわしながらさえぎった。「私が源因もとでそうなったのに、貴方に詫まらしちゃ済まないじゃありませんか」
 三千代は声を立てて泣いた。代助は慰撫なだめる様に、
「じゃ我慢しますか」と聞いた。
「我慢はしません。当り前ですもの」
「これから先まだ変化がありますよ」
「ある事は承知しています。どんな変化があったって構やしません。私はこの間から、――この間から私は、もしもの事があれば、死ぬ積りで覚悟を極めているんですもの」
 代助は慄然りつぜんとしておののいた。
「貴方はこれから先どうしたら好いと云う希望はありませんか」と聞いた。
「希望なんか無いわ。何でも貴方の云う通りになるわ」
「漂泊――」
「漂泊でも好いわ。死ねと仰しゃれば死ぬわ」
 代助は又ぞっとした。
「このままでは」
「このままでも構わないわ」
「平岡君は全く気が付いていない様ですか」
「気が付いているかも知れません。けれども私もう度胸を据えているから大丈夫なのよ。だって何時いつ殺されたって好いんですもの」
「そう死ぬの殺されるのと安っぽく云うものじゃない」
「だって、放って置いたって、永く生きられる身体からだじゃないじゃありませんか」
 代助は硬くなって、すくむが如く三千代を見詰めた。三千代は歇私的里ヒステリの発作に襲われた様に思い切って泣いた。
 一仕切つと、発作は次第に収まった。後はいつもの通り静かな、しとやかな、奥行のある、美くしい女になった。まゆのあたりがことに晴々しく見えた。その時代助は、
「僕が自分で平岡君に逢って解決を付けても宜う御座んすか」と聞いた。
「そんな事が出来て」と三千代は驚ろいた様であった。代助は、
「出来る積りです」としっかり答えた。
「じゃ、どうでも」と三千代が云った。
「そうしましょう。二人が平岡君をあざむいて事をするのはくない様だ。無論事実をく納得出来る様に話すだけです。そうして、僕の悪い所はちゃんと詫まる覚悟です。その結果は僕の思う様に行かないかも知れない。けれどもどう間違ったって、そんな無暗むやみな事は起らない様にする積りです。こう中途半端にしていては、御互も苦痛だし、平岡君に対しても悪い。ただ僕が思い切ってそうすると、あなたが、さぞ平岡君に面目なかろうと思ってね。其所そこが御気の毒なんだが、然し面目ないと云えば、僕だって面目ないんだから。自分の所為しょいに対しては、如何いかに面目なくっても、徳義上の責任を負うのが当然だとすれば、外に何等の利益がないとしても、御互の間にあった事だけは平岡君に話さなければならないでしょう。その上今の場合ではこれからの所置を付ける大事の自白なんだから、猶更なおさら必要になると思います」
「能く解りましたわ。どうせ間違えば死ぬ積りなんですから」
「死ぬなんて。――よし死ぬにしたって、これから先どの位間があるか――又そんな危険がある位なら、なんで平岡君に僕から話すもんですか」
 三千代は又泣き出した。
「じゃ能く詫ります」
 代助は日の傾くのを待って三千代を帰した。然しこの前の時の様に送っては行かなかった。一時間程書斎の中で蝉の声を聞いて暮した。三千代に逢って自分の未来を打ち明けてから、気分がさっぱりした。平岡へ手紙を書いて、会見の都合を聞き合せ様として、筆を持ってみたが、急に責任の重いのが苦になって、拝啓以後を書き続ける勇気が出なかった。卒然、襯衣シャツ一枚になって素足で庭へ飛び出した。三千代が帰る時は正体なく午睡ひるねをしていた門野が、
「まだ早いじゃありませんか。日が当っていますぜ」と云いながら、坊主頭を両手で抑えて縁端えんばなにあらわれた。代助は返事もせずに、庭の隅へもぐり込んで竹の落葉を前の方へ掃き出した。門野もやむを得ず着物を脱いで下りて来た。
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。
 代助はその晩わざと雨戸を引かずにた。無用心と云う恐れが彼の頭には全く無かった。彼は洋燈ランプを消して、蚊帳かやの中に独り寐転びながら、暗い所から暗い空を透かして見た。頭の中には昼の事が鮮かに輝いた。もう二三日のうちには最後の解決が出来ると思って幾度か胸を躍らせた。が、そのうち大いなる空と、大いなる夢のうちに、われ知らず吸収された。
 翌日の朝彼は思い切って平岡に手紙を出した。ただ、内々で少し話したい事があるが、君の都合を知らせてもらいたい。此方こっちは何時でも差支ない。と書いただけだが、彼はわざとそれを封書にした。状袋ののり湿めして、赤い切手をとんと張った時には、いよいよクライシスに証券を与えた様な気がした。彼は門野に云い付けて、この運命の使を郵便函ゆうびんばこに投げ込ました。手渡しにする時、少し手先が顫えたが、渡したあとではかえって茫然ぼうぜんとして自失した。三年前三千代と平岡の間に立って斡旋あっせんの労を取った事を追想するとまるで夢の様であった。
 翌日は平岡の返事を心待に待ち暮らした。その明る日も当にして終日うちにいた。三日四日と経った。が、平岡からは何の便たよりもなかった。そのうち例月の通り、青山へ金を貰いに行くべき日が来た。代助の懐中は甚だ手薄になった。代助はこの前父に逢った時以後、もう宅からは補助を受けられないものと覚悟を極めていた。今更平気な顔をして、のそのそ出掛て行く了見はまるでなかった。何二カ月や三カ月は、書物か衣類を売り払ってもどうかなると腹の中で高をくくって落ち付いていた。事の落着次第ゆっくり職業を探すと云う分別もあった。彼は平生から人のよく口癖にする、人間は容易な事で餓死するものじゃない、どうにかなってくものだと云う半諺はんことわざの真理を、経験しない前から信じ出した。
 五日目にあつさを冒して、電車へ乗って、平岡の社まで出掛けて行ってみて、平岡は二三日出社しないと云う事が分った。代助は表へ出て薄汚ない編輯局へんしゅうきょくの窓を見上げながら、足を運ぶ前に、一応電話で聞き合すべき筈だったと思った。先達ての手紙は、果して平岡の手に渡ったかどうか、それさえ疑わしくなった。代助はわざと新聞社あてでそれを出したからである。帰りに神田へ廻って、買いつけの古本屋に、売払いたい不用の書物があるから、見に来てくれろと頼んだ。
 その晩は水を打つ勇気もせて、ぼんやり、白い網襯衣を着た門野の姿を眺めていた。
「先生今日は御疲ですか」と門野がバケツを鳴らしながら云った。代助の胸は不安にされて、明らかな返事も出なかった。夕食ゆうめしのとき、飯の味はほとんどなかった。み込む様に咽喉のどを通して、はしを投げた。門野を呼んで、
「君、平岡の所へ行ってね、先達ての手紙は御覧になりましたか。御覧になったら、御返事を願いますって、返事を聞いて来てくれたまえ」と頼んだ。猶要領を得ぬ恐がありそうなので、先達てこれこれの手紙を新聞社の方へ出して置いたのだと云う事まで説明して聞かした。
 門野を出した後で、代助は縁側に出て、椅子いすに腰を掛けた。門野の帰った時は、洋燈ランプを吹き消して、暗い中にじっとしていた。門野は暗がりで、
「行って参りました」と挨拶あいさつをした。「平岡さんは御居ででした。手紙は御覧になったそうです。明日の朝行くからという事です」
「そうかい、御苦労さま」と代助は答えた。
「実はもっと早く出るんだったが、うちに病人が出来たんで遅くなったから、よろしく云ってくれろと云われました」
「病人?」と代助は思わず問い返した。門野は暗い中で、
「ええ、何でも奥さんが御悪い様です」と答えた。門野の着ている白地の浴衣ゆかただけがぼんやり代助の眼にった。夜の明りは二人の顔を照らすには余り不充分であった。代助は掛けている籐椅子といす肱掛ひじかけを両手で握った。
「余程悪いのか」と強く聞いた。
「どうですか、能く分りませんが。何でもそう軽そうでもない様でした。しかし平岡さんが明日御出おいでになられる位なんだから、大した事じゃないでしょう」
 代助は少し安心した。
「何だい。病気は」
「つい聞き落しましたがな」
 二人の問答はそれで絶えた。門野は暗い廊下を引き返して、自分の部屋へ這入はいった。静かに聞いていると、しばらくして、洋燈ランプかさをホヤにつける音がした。門野は灯火あかりけたと見えた。
 代助は夜の中になお凝としていた。凝としていながら、胸がわくわくした。握っている肱掛に、手からあぶらが出た。代助は又手を鳴らして門野を呼び出した。門野のぼんやりした白地が又廊下のはずれに現われた。
「まだ暗闇ですな。洋燈ランプを点けますか」と聞いた。代助は洋燈を断って、もう一度、三千代の病気を尋ねた。看護婦の有無やら、平岡の様子やら、新聞社を休んだのは、細君の病気の為だか、どうだか、と云う点に至るまで、考えられるだけ問い尽した。けれども門野の答は必竟ひっきょう前と同じ事を繰り返すのみであった。でなければ、好加減いいかげんな当ずっぽうに過ぎなかった。それでも、代助には一人で黙っているよりもこらやすかった。
 寐る前に門野が夜中投函やちゅうとうかんから手紙を一本出して来た。代助は暗い中でそれを受取ったまま、別に見ようともしなかった。門野は、
「御宅からの様です、灯火あかりを持って来ましょうか」と促がすごとくに注意した。
 代助は始めて洋燈を書斎に入れさして、その下で、状袋の封を切った。手紙は梅子から自分に宛てた可なり長いものであった。――
「この間から奥さんの事で貴方もさぞ御迷惑なすったろう。此方こっちでも御父様始め兄さんや、わたくしは随分心配をしました。けれどもその甲斐かいもなく先達て御出の時、とうとう御父さんに断然御断りなすった御様子、甚だ残念ながら、今では仕方がないとあきらめています。けれどもその節御父様は、もう御前の事は構わないから、その積りでいろと御怒りなされたよし、後で承りました。その後あなたが御出にならないのも、全くそのためじゃなかろうかと思っています。例月のものを上げる日にはどうかとも思いましたが、やはり御出にならないので、心配しています。御父さんは打遣うちやって置けとおっしゃいます。兄さんは例の通り呑気のんきで、困ったらその内来るだろう。その時親爺おやじによくあやまらせるがい。もし来ない様だったら、おれの方から行ってよく異見してやると云っています。けれども、結婚の事は三人とももう断念しているんですから、その点では御迷惑になる様な事はありますまい。もっとも御父さんはだ怒って御出の様子です。私の考では当分昔の通りになる事は、むずかしいと思います。それを考えると、貴方がいらっしゃらない方がかえって貴方の為にいかも知れません。ただ心配になるのは月々上げる御金の事です。貴方の事だから、そう急に自分で御金を取る気遣はなかろうと思うと、差し当り御困りになるのが眼の前に見える様で、御気の毒でたまりません。で、私の取計らいで例月分を送って上げるから、御受取の上はこれで来月まで持ちこたえていらっしゃい。その内には御父さんの御機嫌も直るでしょう。又兄さんからも、そう云って頂く積りです。私も好い折があれば、御詫おわびをして上げます。それまでは今まで通り遠慮していらっしゃる方がう御座います。……」
 まだ後が大分あったが、女の事だから、大抵は重複に過ぎなかった。代助は中に這入っていた小切手を引き抜いて、手紙だけをもう一遍よく読み直した上、丁寧に元の如くに巻き収めて、無言の感謝を改めてあによめに致した。梅子よりと書いた字はむしせつであった。手紙の体の言文一致なのは、かねて代助の勧めた通りを用いたのであった。
 代助は洋燈ランプの前にある封筒を、猶つくづくと眺めた。古い寿命が又一カ月延びた。おそかれ早かれ、自己を新たにする必要のある代助には、嫂の志は難有ありがたいにもせよ、却って毒になるばかりであった。ただ平岡と事を決する前は、麺麭パンの為に働らく事をうけがわぬ心を持っていたから、嫂の贈物が、この際糧食としてことに彼にはたっとかった。
 その晩も蚊帳かやへ這入る前にふっと、洋燈ランプを消した。雨戸は門野が立てに来たから、故障も云わずに、そのままにして置いた。硝子戸ガラスどだから、戸越しにも空は見えた。ただ昨夕ゆうべより暗かった。曇ったのかと思って、わざわざ縁側まで出て、透かす様にして軒を仰ぐと、光るものが筋を引いて斜めに空を流れた。代助は又蚊帳をまくって這入った。寐付かれないので団扇うちわをはたはた云わせた。
 家の事はさのみ気に掛からなかった。職業もなるがままになれと度胸を据えた。ただ三千代の病気と、その源因とその結果が、ひどく代助の頭を悩ました。それから平岡との会見の様子も、様々に想像してみた。それも一方ひとかたならず彼の脳髄を刺激した。平岡は明日の朝九時頃あんまり暑くならないうちに来るという伝言であった。代助はもとより、平岡に向ってどう切り出そうなどと形式的の文句を考える男ではなかった。話す事は始めから極っていて、話す順序はその時の模様次第だから、決して心配にはならなかったが、ただなるべく穏かに自分の思う事が向うに徹する様にしたかった。それで過度の興奮をんで、一夜の安静をせつこいねがった。なるべく熟睡したいと心掛けてまぶたを合せたが、生憎あやにく眼がえて昨夕ゆうべよりは却って寐苦しかった。その内夏の夜がぽうと白み渡って来た。代助は堪りかねてね起きた。跣足はだしで庭先へ飛び下りて冷たい露を存分に踏んだ。それから又縁側の籐椅子といすって、日の出を待っているうちに、うとうとした。
 門野が寐惚ねぼまなここすりながら、雨戸を開けに出た時、代助ははっとして、この仮睡うたたねから覚めた。世界の半面はもう赤い日に洗われていた。
「大変御早うがすな」と門野が驚ろいて云った。代助はすぐ風呂場へ行って水を浴びた。朝飯は食わずにただ紅茶を一杯飲んだ。新聞を見たが、殆んど何が書いてあるかわからなかった。読むに従って、読んだ事が群がって消えて行った。ただ時計の針ばかりが気になった。平岡が来るまでにはまだ二時間あまりあった。代助はその間をどうして暮らそうかと思った。じっとしてはいられなかった。けれども何をしても手に付かなかった。せめてこの二時間をぐっと寐込んで、眼を開けて見ると、自分の前に平岡が来ている様にしたかった。
 仕舞に何か用事を考え出そうとした。不図机の上に乗せてあった梅子の封筒が眼に付いた。代助はこれだと思って、強いて机の前に坐って、嫂へ謝状を書いた。なるべく叮嚀ていねいに書く積りであったが、状袋へ入れて宛名までしたためてしまって、時計を眺めると、たった十五分程しかっていなかった。代助は席に着いたまま、安からぬ眼を空に据えて、頭の中で何か捜す様に見えた。が、急にった。
「平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門前びしゃもんまえへ出た。
 家の前には車が一台下りていた。玄関には靴がそろえてあった。代助は門野の注意を待たないで、平岡の来ている事を悟った。汗をいて、着物を洗い立ての浴衣に改めて、座敷へ出た。
「いや、御使で」と平岡が云った。やはり洋服を着て、蒸される様に扇を使った。
「どうも暑い所を」と代助もおのずから表立た言葉遣をしなければならなかった。
 二人はしばらく時候の話をした。代助はすぐ三千代の様子を聞いてみたかった。然しそれがどう云うものか聞きにくかった。その内通例の挨拶も済んでしまった。話は呼び寄せた方から、切り出すのが順当であった。
「三千代さんは病気だってね」
「うん。それで社の方も二三日休ませられた様な訳で。つい君の所へ返事を出すのも忘れてしまった」
「そりゃどうでも構わないが、三千代さんはそれ程悪いのかい」
 平岡は断然たる答を一言葉でなし得なかった。そう急にどうのこうのという心配もない様だが、決して軽い方ではないという意味を手短かに述べた。
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。その晩は遅く帰った。三千代は心持が悪いといって先へ寐ていた。どんな具合かと聞いても、判然はっきりした返事をしなかった。翌日朝起きて見ると三千代の色沢いろつやが非常にくなかった。平岡は寧ろ驚ろいて医者を迎えた。医者は三千代の心臓を診察して眉をひそめた。卒倒は貧血の為だと云った。随分強い神経衰弱にかかっていると注意した。平岡はそれから社を休んだ。本人は大丈夫だから出てくれろと頼む様に云ったが、平岡は聞かなかった。看護をしてから二日目の晩に、三千代が涙を流して、是非あやまらなければならない事があるから、代助の所へ行ってその訳を聞いてくれろと夫に告げた。平岡は始めてそれを聞いた時には、本当にしなかった。脳の加減が悪いのだろうと思って、好し好しと気休めを云って慰めていた。三日目にも同じ願が繰り返された。その時平岡はようやく三千代の言葉に一種の意味を認めた。すると夕方になって、門野が代助から出した手紙の返事を聞きにわざわざ小石川までって来た。
「君の用事と三千代の云う事と何か関係があるのかい」と平岡は不思議そうに代助を見た。
 平岡の話は先刻さっきから深い感動を代助に与えていたが、突然この思わざる問に来た時、代助はぐっと詰った。平岡の問は実に意表に、無邪気に、代助の胸に応えた。彼は何時いつになく少し赤面して俯向うつむいた。然しふたたび顔を上げた時は、平生の通り静かな悪びれない態度を回復していた。
「三千代さんの君に詫まる事と、僕の君に話したい事とは、恐らく大いなる関係があるだろう。或はおんなじ事かも知れない。僕はどうしても、それを君に話さなければならない。話す義務があると思うから話すんだから、今日までの友誼ゆうぎに免じて、快よく僕に僕の義務を果さしてくれたまえ」
「何だい。改たまって」と平岡は始めて眉を正した。
「いや前置をすると言訳らしくなって不可いけないから、僕もなるべくなら率直に云ってしまいたいのだが、少し重大な事件だし、それに習慣に反したきらいもあるので、し中途で君に激されてしまうと、甚だ困るから、是非仕舞まで君に聞いて貰いたいと思って」
「まあ何だい。その話と云うのは」
 好奇心と共に平岡の顔がますます真面目まじめになった。
「その代り、みんな話した後で、僕はどんな事を君から云われても、やはり大人しく仕舞まで聞く積りだ」
 平岡は何にも云わなかった。ただ眼鏡の奥から大きな眼を代助の上に据えた。外はぎらぎらする日が照り付けて、縁側まで射返したが、二人はほとんど暑さを度外に置いた。
 代助は一段声を潜めた。そうして、平岡夫婦が東京へ来てから以来、自分と三千代との関係がどんな変化を受けて、今日に至ったかを、詳しく語り出した。平岡は堅く唇を結んで代助の一語一句に耳を傾けた。代助はすべてを語るに約一時間余を費やした。その間に平岡から四遍程極めて単簡たんかんな質問を受けた。
「ざっとこう云う経過だ」と説明の結末を付けた時、平岡はただうなる様に深い溜息ためいきもって代助に答えた。代助は非常につらかった。
「君の立場から見れば、僕は君を裏切りした様に当る。しからん友達だと思うだろう。そう思われても一言もない。済まない事になった」
「すると君は自分のした事を悪いと思ってるんだね」
「無論」
「悪いと思いながら今日まで歩を進めて来たんだね」と平岡は重ねて聞いた。語気は前よりもやや切迫していた。
「そうだ。だから、この事に対して、君の僕等に与えようとする制裁はいさぎよく受ける覚悟だ。今のはただ事実をそのままに話しただけで、君の処分の材料にする考だ」
 平岡は答えなかった。しばらくしてから、代助の前へ顔を寄せて云った。
「僕の毀損きそんされた名誉が、回復出来る様な手段が、世の中にあり得ると、君は思っているのか」
 今度は代助の方が答えなかった。
「法律や社会の制裁は僕には何にもならない」と平岡は又云った。
「すると君は当時者だけのうちで、名誉を回復する手段があるかと聞くんだね」
「そうさ」
「三千代さんの心機を一転して、君を元よりも倍以上に愛させる様にして、その上僕を蛇蝎だかつの様ににくませさえすれば幾分かつぐないにはなる」
「それが君の手際てぎわで出来るかい」
「出来ない」と代助は云い切った。
「すると君は悪いと思ってる事を今日まで発展さして置いて、なおその悪いと思う方針によって、極端まで押して行こうとするのじゃないか」
「矛盾かも知れない。しかしそれは世間のおきてと定めてある夫婦関係と、自然の事実として成り上がった夫婦関係とが一致しなかったと云う矛盾なのだから仕方がない。僕は世間の掟として、三千代さんの夫たる君にあやまる。然し僕の行為その物に対しては矛盾も何も犯していない積りだ」
「じゃ」と平岡は稍声を高めた。「じゃ、僕等二人は世間の掟にかなう様な夫婦関係は結べないと云う意見だね」
 代助は同情のある気の毒そうな眼をして平岡を見た。平岡の険しい眉が少し解けた。
「平岡君。世間から云えば、これは男子の面目にかかわる大事件だ。だから君が自己の権利を維持するために、――故意に維持しようと思わないでも、暗にその心が働らいて、自然と激して来るのはやむを得ないが、――けれども、こんな関係の起らない学校時代の君になって、もう一遍僕の云う事をよく聞いてくれないか」
 平岡は何とも云わなかった。代助も一寸ちょっと控えていた。烟草たばこ一吹ひとふき吹いた後で、思い切って、
「君は三千代さんを愛していなかった」と静かに云った。
「そりゃ」
「そりゃ余計な事だけれども、僕は云わなければならない。今度の事件に就て凡ての解決者はそれだろうと思う」
「君には責任がないのか」
「僕は三千代さんを愛している」
ひとさいを愛する権利が君にあるか」
「仕方がない。三千代さんは公然君の所有だ。けれども物件じゃない人間だから、心まで所有する事は誰にも出来ない。本人以外にどんなものが出て来たって、愛情の増減や方向を命令する訳には行かない。夫の権利は其所そこまでは届きやしない。だから細君の愛をほかへ移さない様にするのが、却って夫の義務だろう」
「よし僕が君の期待する通り三千代を愛していなかった事が事実だとしても」と平岡は強いて己を抑える様に云った。こぶしを握っていた。代助は相手の言葉の尽きるのを待った。
「君は三年ぜんの事を覚えているだろう」と平岡は又句をえた。
「三年ぜんは君が三千代さんと結婚した時だ」
「そうだ。その時の記憶が君の頭の中に残っているか」
 代助の頭は急に三年前に飛び返った。当時の記憶が、闇をめぐ松明たいまつごとく輝いた。
「三千代を僕に周旋しようと云い出したものは君だ」
「貰いたいと云う意志を僕に打ち明けたものは君だ」
「それは僕だって忘れやしない。今に至るまで君の厚意を感謝している」
 平岡はこう云って、しばらく冥想めいそうしていた。
「二人で、夜上野を抜けて谷中やなかへ下りる時だった。雨上りで谷中の下は道が悪かった。博物館の前から話しつづけて、あの橋の所まで来た時、君は僕の為に泣いてくれた」
 代助は黙然としていた。
「僕はその時程朋友ほうゆう難有ありがたいと思った事はない。うれしくってその晩は少しも寐られなかった。月のある晩だったので、月の消えるまで起きていた」
「僕もあの時は愉快だった」と代助が夢の様に云った。それを平岡は打ち切る勢でさえぎった。――
「君は何だって、あの時僕の為に泣いてくれたのだ。なんだって、僕の為に三千代を周旋しようとちかったのだ。今日こんにちの様な事を引き起す位なら、何故なぜあの時、ふんと云ったなり放って置いてくれなかったのだ。僕は君からこれ程深刻な復讎かたきを取られる程、君に向って悪い事をした覚がないじゃないか」
 平岡は声をふるわした。代助のあおい額に汗のたまたまった。そうして訴える如くに云った。
「平岡、僕は君より前から三千代さんを愛していたのだよ」
 平岡は茫然ぼうぜんとして、代助の苦痛の色を眺めた。
「その時の僕は、今の僕でなかった。君から話を聞いた時、僕の未来を犠牲にしても、君の望みをかなえるのが、友達の本分だと思った。それが悪かった。今位頭が熟していれば、まだ考え様があったのだが、惜しい事に若かったものだから、余りに自然を軽蔑けいべつし過ぎた。僕はあの時の事を思っては、非常な後悔の念に襲われている。自分の為ばかりじゃない。実際君の為に後悔している。僕が君に対してしんに済まないと思うのは、今度の事件より寧ろあの時僕がなまじいに遣り遂げた義侠心ぎきょうしんだ。君、どうぞ勘弁してくれ。僕はこの通り自然に復讎かたきを取られて、君の前に手を突いてあやまっている」
 代助は涙をひざの上にこぼした。平岡の眼鏡が曇った。
「どうも運命だから仕方がない」
 平岡は呻吟うめく様な声を出した。二人は漸く顔を見合せた。
「善後策に就て君の考があるなら聞こう」
「僕は君の前に詫まっている人間だ。此方こっちから先へそんな事を云い出す権利はない。君の考えから聞くのが順だ」と代助が云った。
「僕には何にもない」と平岡は頭を抑えていた。
「では云う。三千代さんをくれないか」と思い切った調子に出た。
 平岡は頭から手を離して、ひじを棒の様に洋卓テーブルの上に倒した。同時に、
「うん遣ろう」と云った。そうして代助が返事をし得ないうちに、又繰り返した。
「遣る。遣るが、今は遣れない。僕は君の推察通りそれ程三千代を愛していなかったかも知れない。けれどもにくんじゃいなかった。三千代は今病気だ。しかも余り軽い方じゃない。寐ている病人を君に遣るのはいやだ。病気がなおるまで君に遣れないとすれば、それまでは僕が夫だから、夫として看護する責任がある」
「僕は君に詫った。三千代さんも君に詫まっている。君から云えば二人とも、不埒ふらちな奴には相違ないが、――幾何いくら詫まっても勘弁出来んかも知れないが、――何しろ病気をして寐ているんだから」
「それは分っている。本人の病気に付け込んで僕が意趣晴らしに、虐待ぎゃくたいするとでも思ってるんだろうが、僕だって、まさか」
 代助は平岡の言葉を信じた。そうして腹の中で平岡に感謝した。平岡は次にこう云った。
「僕は今日の事がある以上は、世間的の夫の立場からして、もう君と交際する訳には行かない。今日限り絶交するからそう思ってくれたまえ」
「仕方がない」と代助は首を垂れた。
「三千代の病気は今云う通り軽い方じゃない。この先どんな変化がないとも限らない。君も心配だろう。然し絶交した以上はやむを得ない。僕の在不在に係わらず、うち出入ではいりする事だけは遠慮して貰いたい」
「承知した」と代助はよろめく様に云った。その頬はますます蒼かった。平岡は立ち上がった。
「君、もう五分ばかり坐ってくれ」と代助が頼んだ。平岡は席に着いたまま無言でいた。
「三千代さんの病気は、急に危険なおそれでもありそうなのかい」
「さあ」
「それだけ教えてくれないか」
「まあ、そう心配しないでもいだろう」
 平岡は暗い調子で、地に息を吐く様に答えた。代助は堪えられない思いがした。
「もしだね。もし万一の事がありそうだったら、その前にたった一遍だけで可いから、わしてくれないか。外には決して何も頼まない。ただそれだけだ。それだけをどうか承知してくれたまえ」
 平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかった。代助は苦痛の遣り所がなくて、両手のたなごころを、あかれる程んだ。
「それはまあその時の場合にしよう」と平岡が重そうに答えた。
「じゃ、時々病人の様子を聞きに遣ってもいかね」
「それは困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時だけだと思ってるんだから」
 代助は電流に感じた如く椅子いすの上で飛び上がった。
「あっ。わかった。三千代さんの死骸しがいだけを僕に見せる積りなんだ。それはひどい。それは残酷だ」
 代助は洋卓テーブルふちを回って、平岡に近づいた。右の手で平岡の脊広せびろの肩を抑えて、前後にりながら、
「苛い、苛い」と云った。
 平岡は代助の眼のうちに狂える恐ろしい光を見出みいだした。肩を揺られながら、立ち上がった。
「そんな事があるものか」と云って代助の手を抑えた。二人は魔にかれた様な顔をして互を見た。
「落ち付かなくっちゃ不可いけない」と平岡が云った。
「落ち付いている」と代助が答えた。けれどもその言葉はあえぐ息の間を苦しそうにれて出た。
 しばらくして発作の反動が来た。代助は己れを支うる力を用い尽した人の様に、又椅子に腰を卸した。そうして両手で顔を抑えた。
 
 
 
 

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