それから 夏目漱石

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 六
 
 その日誠吾は中々金を貸してろうと云わなかった。代助も三千代が気の毒だとか、可哀想かわいそうだとか云う泣言は、なるべく避ける様にした。自分が三千代に対してこそ、そう云う心持もあるが、なんにも知らない兄を、其所そこまで連れて行くのには一通りでは駄目だと思うし、と云って、無暗むやみにセンチメンタルな文句を口にすれば、兄には馬鹿にされる、ばかりではない、かねて自分を愚弄ぐろうする様な気がするので、やっぱり平生の代助の通り、のらくらした所を、彼方あっちへ行ったり此方こっちへ来たりして、飲んでいた。飲みながらも、親爺おやじ所謂いわゆる熱誠が足りないとは、此所ここの事だなと考えた。けれども、代助は泣いて人を動かそうとする程、低級趣味のものではないと自信している。およそ何が気障きざだって、思わせ振りの、涙や、煩悶はんもんや、真面目まじめや、熱誠ほど気障なものはないと自覚している。兄にはその辺の消息がよくわかっている。だからこの手で遣り損ないでもしようものなら、生涯自分の価値を落す事になる。と気が付いていた。
 代助は飲むに従って、段々金を遠ざかって来た。ただ互が差し向いであるが為めに、うまく飲めたと云う自覚を、互に持ち得る様な話をした。が茶漬を食う段になって、思い出した様に、金は借りなくっても好いから、平岡を何処か使って遣ってくれないかと頼んだ。
「いや、そう云う人間は御免こうむる。のみならずこの不景気じゃ仕様がない」と云って誠吾はさくさく飯をき込んでいた。
 明日あくるひ眼が覚めた時、代助は床の中でまず第一番にこう考えた。
「兄を動かすのは、同じ仲間の実業家でなくっちゃ駄目だ。単に兄弟のよしみだけではどうする事も出来ない」
 こう考えた様なものの、別に兄を不人情と思う気は起らなかった。むしろその方が当然であると悟った。この兄が自分の放蕩費ほうとうひを苦情も云わずに弁償してくれた事があるんだから可笑おかしい。そんなら自分が今ここで平岡の為に判を押して、連借でもしたら、どうするだろう。やっぱりあの時の様に奇麗に片付けてくれるだろうか。兄は其所まで考えていて、断わったんだろうか。或は自分がそんな無理な事はしないものと初から安心して貸さないのかしらん。
 代助自身の今の傾向から云うと、到底人の為に判なぞを押しそうにもない。自分もそう思っている。けれども、兄が其所を見抜いて金を貸さないとすると、一寸ちょっと意外な連帯をして、兄がどんな態度に変るか、試験してみたくもある。――其所まで来て、代助は自分ながら、あんまり性質たちくないなと心のうちで苦笑した。
 けれども、ただ一つたしかな事がある。平岡は早晩借用証書を携えて、自分の判を取りにくるに違ない。
 こう考えながら、代助は床を出た。門野は茶の間で、胡坐をかいて新聞を読んでいたが、髪をらして湯殿から帰って来る代助を見るやいなや、急に坐三昧いざんまいを直して、新聞を畳んで坐蒲団ざぶとんそばへ押し遣りながら、
「どうも『煤烟ばいえん』は大変な事になりましたな」と大きな声で云った。
「君読んでるんですか」
「ええ、毎朝読んでます」
「面白いですか」
「面白い様ですな。どうも」
「どんな所が」
「どんな所がって、そう改たまって聞かれちゃ困りますが。何じゃありませんか、一体に、こう、現代的の不安が出ている様じゃありませんか」
「そうして、肉のにおいがしやしないか」
「しますな。大いに」
 代助は黙ってしまった。
 紅茶茶碗ぢゃわんを持ったまま、書斎へ引き取って、椅子いすへ腰を懸けて、茫然ぼんやり庭を眺めていると、こぶだらけの柘榴ざくろの枯枝と、灰色の幹の根方に、暗緑と暗紅を混ぜ合わした様な若い芽が、一面に吹き出している。代助の眼にはそれがぱっと映じただけで、すぐ刺激を失ってしまった。
 代助の頭には今具体的な何物をも留めていなかった。あたかも戸外の天気の様に、それが静かにじっと働らいていた。が、その底には微塵みじんごとき本体の分らぬものが無数に押し合っていた。乾酪チーズの中で、いくら虫が動いても、乾酪が元の位置にある間は、気が付かないと同じ事で、代助もこの微震にはほとんど自覚を有していなかった。ただ、それが生理的に反射して来る度に、椅子の上で、少しずつ身体からだの位置を変えなければならなかった。
 代助は近頃流行語の様に人が使う、現代的とか不安とか云う言葉を、あまり口にした事がない。それは、自分が現代的であるのは、云わずと知れていると考えたのと、もう一つは、現代的であるがために、必ずしも、不安になる必要がないと、自分だけで信じていたからである。
 代助は露西亜ロシア文学に出て来る不安を、天候の具合と、政治の圧迫で解釈していた。仏蘭西フランス文学に出てくる不安を、有夫姦ゆうふかんの多いためと見ていた。ダヌンチオによって代表される以太利イタリー文学の不安を、無制限の堕落から出る自己欠損の感と判断していた。だから日本の文学者が、好んで不安と云う側からのみ社会を描き出すのを、舶来の唐物とうぶつの様に見傚みなした。
 理智的に物を疑う方の不安は、学校時代に、有ったにはあったが、ある所まで進行して、ぴたりと留って、それから逆戻りをしてしまった。丁度天へ向って石をげた様なものである。代助は今では、なまじい石などを抛げなければかったと思っている。禅坊さんの所謂大疑現前たいぎげんぜんなどと云う境界は、代助のまだ踏み込んだ事のない未知国であった。代助は、そう真率性急に万事を疑うには、あまりに利口に生れ過ぎた男であった。
 代助は門野の賞めた「煤烟」を読んでいる。今日は紅茶茶碗の傍に新聞を置いたなり、開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅沢ぜいたくの結果ああ云う悪戯いたずらをしても無理とは思えないが、「煤烟」の主人公に至っては、そんな余地のない程に貧しい人である。それを彼所あすこまで押して行くには、全く情愛の力でなくっちゃ出来るはずのものでない。ところが、要吉という人物にも、朋子ともこという女にも、誠の愛で、むなく社会の外に押し流されて行く様子が見えない。彼等を動かす内面の力は何であろうと考えると、代助は不審である。ああいう境遇に居て、ああ云う事を断行し得る主人公は、恐らく不安じゃあるまい。これを断行するに躊躇ちゅうちょする自分の方にこそ寧ろ不安の分子があって然るべき筈だ。代助は独りで考えるたびに、自分は特殊人オリジナルだと思う。けれども要吉の特殊人オリジナルたるに至っては、自分よりはるかに上手うわてであると承認した。それでこの間までは好奇心に駆られて「煤烟」を読んでいたが、昨今になって、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思われ出したので、眼を通さない事がよくある。
 代助は椅子の上で、時々身を動かした。そうして、自分では飽くまで落ち付いていると思っていた。やがて、紅茶をんでしまって、いつもの通り読書に取りかかった。約二時間ばかりは故障なく進行したが、あるページの中頃まで来て急にめて頬杖ほおづえを突いた。そうして、傍にあった新聞を取って、「煤烟」を読んだ。呼吸の合わない事は同じ事である。それから外の雑報を読んだ。大隈おおくま伯が高等商業の紛擾ふんじょうに関して、大いに騒動しつつある生徒側の味方をしている。それが中々強い言葉で出ている。代助はこう云う記事を読むと、これは大隈伯が早稲田わせだへ生徒を呼び寄せる為の方便だと解釈する。代助は新聞を放り出した。
 午過になってから、代助は自分が落ち付いていないと云う事を、ようやく自覚し出した。腹のなかに小さなしわが無数に出来て、その皺が絶えず、相互の位地と、形状かたちとを変えて、一面にうごいている様な気持がする。代助は時々こう云う情調の支配を受ける事がある。そうして、この種の経験を、今日まで、単なる生理上の現象としてのみ取り扱っておった。代助は昨日兄と一所にうなぎを食ったのを少し後悔した。散歩がてらに、平岡の所へ行ってみようかと思い出したが、散歩が目的か、平岡が目的か、自分には判然たる区別がなかった。ばあさんに着物を出さして、着換えようとしている所へ、おいの誠太郎が来た。帽子を手に持ったまま、恰好かっこうの好い円い頭を、代助の前へ出して、腰を掛けた。
「もう学校は引けたのかい。早過ぎるじゃないか」
「ちっとも早かない」と云って、笑いながら、代助の顔を見ている。代助は手をたたいて婆さんを呼んで、
「誠太郎、チョコレートを飲むかい」と聞いた。
「飲む」
 代助はチョコレートを二杯命じて置いて誠太郎に調戯からかいだした。
「誠太郎、御前はベースボールばかり遣るもんだから、この頃手が大変大きくなったよ。頭より手の方が大きいよ」
 誠太郎はにこにこして、右の手で、円い頭をぐるぐるでた。実際大きな手を持っている。
「叔父さんは、昨日御父さんからおごってもらったんですってね」
「ああ、御馳走ごちそうになったよ。御蔭おかげで今日は腹具合が悪くって不可いけない」
「又神経だ」
「神経じゃない本当だよ。全たく兄さんの所為せいだ」
「だって御父さんはそう云ってましたよ」
「何て」
「明日学校の帰りに代助の所へ廻って何か御馳走して貰えって」
「へええ、昨日の御礼にかい」
「ええ、今日は己が奢ったから、明日は向うの番だって」
「それで、わざわざ遣って来たのかい」
「ええ」
あにきの子だけあって、中々抜けないな。だから今チョコレートを飲まして遣るから好いじゃないか」
「チョコレートなんぞ」
「飲まないかい」
「飲む事は飲むけれども」
 誠太郎の注文を能く聞いてみると、相撲が始まったら、回向院えこういんへ連れて行って、正面の最上等の所で見物させろというのであった。代助は快よく引き受けた。すると誠太郎はうれしそうな顔をして、突然、
「叔父さんはのらくらしているけれども実際偉いんですってね」と云った。代助もこれには一寸あきれた。仕方なしに、
「偉いのは知れ切ってるじゃないか」と答えた。
「だって、僕は昨夕ゆうべ始めて御父さんから聞いたんですもの」と云う弁解があった。
 誠太郎の云う所によると、昨夕兄が宅へ帰ってから、父とあによめと三人して、代助の合評をしたらしい。子供のいう事だから、能く分らないが、比較的頭がいので、能く断片的にその時の言葉を覚えている。父は代助を、どうも見込がなさそうだと評したのだそうだ。兄はこれに対して、ああ遣っていても、あれで中々解った所がある。当分放って置くがい。放って置いても大丈夫だ、間違はない。いずれその内に何か遣るだろうと弁護したのだそうだ。すると嫂がそれに賛成して、一週間ばかり前占者うらないしゃに見てもらったら、この人はきっと人のかみに立つに違ないと判断したから大丈夫だと主張したのだそうだ。
 代助はうん、それから、と云って、始終面白そうに聞いていたが、占者の所へ来たら、本当に可笑おかしくなった。やがて着物を着換えて、誠太郎を送りながら表へ出て、自分は平岡の家を訪ねた。
 平岡の家は、この十数年来の物価騰貴とうきれて、中流社会が次第々々に切り詰められて行く有様を、住宅の上に善く代表した、もっとも粗悪な見苦しき構えであった。とくに代助にはそう見えた。
 門と玄関の間が一間位しかない。勝手口もその通りである。そうして裏にも、横にも同じ様な窮屈な家が建てられていた。東京市の貧弱なる膨脹に付け込んで、最低度の資本家が、なけなしの元手を二割及至ないし三割の高利に廻そうと目論もくろんで、あたじけなくこしらえ上げた、生存競争の記念かたみであった。
 今日の東京市、ことに場末の東京市には、至る所にこの種の家が散点している、のみならず、梅雨つゆに入ったのみの如く、日毎ひごとに、格外の増加律をもって殖えつつある。代助はかつて、これを敗亡の発展と名づけた。そうして、これを目下の日本を代表する最好の象徴シンボルとした。
 彼等のあるものは、石油缶の底を継ぎ合わせた四角なうろこおおわれている。彼等の一つを借りて、夜中に柱の割れる音で眼をまさないものは一人もない。彼等の戸には必ず節穴がある。彼等のふすまは必ず狂いが出ると極っている。資本を頭の中へ注ぎ込んで、月々その頭から利息を取って生活しようと云う人間は、みんなこういう所を借りて立てこもっている。平岡もその一人いちにんであった。
 代助は垣根の前を通るとき、ずその屋根に眼が付いた。そうして、どす黒いかわらの色が妙に彼の心を刺激した。代助にはこの光のない土の板が、いくらでも水を吸い込む様に思われた。玄関前に、この間引越のときにほどいた菰包こもづつみ藁屑わらくずがまだこぼれていた。座敷へ通ると、平岡は机の前へ坐って、長い手紙を書き掛けている所であった。三千代は次の部屋で箪笥たんすの環をかたかた鳴らしていた。そばに大きな行李こりが開けてあって、中から奇麗な長襦袢ながじゅばんそでが半分出かかっていた。
 平岡が、失敬だがちょっと待ってくれと云った間に、代助は行李と長襦袢と、時々行李の中へ落ちるほそい手とを見ていた。襖は明けたままて切る様子もなかった。が三千代の顔は陰になって見えなかった。
 やがて、平岡は筆を机の上へげ付ける様にして、座を直した。何だか込み入った事を懸命に書いていたと見えて、耳を赤くしていた。眼も赤くしていた。
「どうだい。この間は色々難有ありがとう。その後一寸ちょっと礼に行こうと思って、まだ行かない」
 平岡の言葉は言訳と云わんよりむしろ挑戦の調子を帯びている様に聞こえた。襯衣シャツ股引ももひきも着けずにすぐ胡坐あぐらをかいた。襟を正しく合せないので、胸毛が少し出ている。
「まだ落ち付かないだろう」と代助が聞いた。
「落ち付くどころか、この分じゃ生涯落ち付きそうもない」と、いそがしそうに烟草たばこを吹かし出した。
 代助は平岡が何故なぜこんな態度で自分に応接するか能く心得ていた。決して自分にあたるのじゃない、つまり世間に中るんである、いな己れに中っているんだと思って、かえって気の毒になった。けれども代助の様な神経には、この調子が甚だ不愉快に響いた。ただ腹が立たないだけである。
うちの都合は、どうだい。間取の具合はさそうじゃないか」
「うん、まあ、悪くっても仕方がない。気に入った家へ這入はいろうと思えば、株でもるより外に仕様がなかろう。この頃東京に出来る立派な家はみんな株屋が拵えるんだって云うじゃないか」
「そうかも知れない。その代り、ああ云う立派な家が一軒立つと、その蔭に、どの位沢山な家がつぶれているか知れやしない」
「だからなお住み好いだろう」
 平岡はこう云って大いに笑った。其所そこへ三千代が出て来た。先達せんだってはと、軽く代助に挨拶あいさつをして、手に持った赤いフランネルのくるくると巻いたのを、坐ると共に、前へ置いて、代助に見せた。
「何ですか、それは」
「赤んの着物なの。拵えたまま、つい、まだ、ほどかずにあったのを、今行李の底を見たら有ったから、出して来たんです」と云いながら、附紐つけひもを解いて筒袖を左右に開いた。
「こら」
「まだ、そんなものを仕舞っといたのか。早く壊して雑巾にでもしてしまえ」
 三千代は小供の着物をひざの上に乗せたまま、返事もせずしばらく俯向うつむいて眺めていたが、
貴方あなたのと同じに拵えたのよ」と云って夫の方を見た。
「これか」
 平岡はかすりあわせの下へ、ネルを重ねて、素肌に着ていた。
「これはもう不可いかん。暑くて駄目だ」
 代助は始めて、昔の平岡を当面まのあたりに見た。
「袷の下にネルを重ねちゃもう暑い。襦袢にすると可い」
「うん、面倒だから着ているが」
「洗濯をするから御脱ぎなさいと云っても、中々脱がないのよ」
「いや、もう脱ぐ、己も少々いやになった」
 話は死んだ小供の事をとうとう離れてしまった。そうして、来た時よりは幾分か空気に暖味あたたかみが出来た。平岡は久し振りに一杯飲もうと云い出した。三千代も支度をするから、ゆっくりして行ってくれと頼む様に留めて、次の間へ立った。代助はその後姿を見て、どうかして金を拵えてやりたいと思った。
「君何所どこか奉公口の見当は付いたか」と聞いた。
「うん、まあ、ある様な無い様なもんだ。無ければ当分遊ぶだけの事だ。緩くり探しているうちにはどうかなるだろう」
 云う事は落ち付いているが、代助が聞くと却ってあせって探している様にしか取れない。代助は、昨日きのう兄と自分の間に起った問答の結果を、平岡に知らせようと思っていたのだが、この一言いちごんを聞いて、しばらく見合せる事にした。何だか、構えている向うの体面を、わざと此方こっちから毀損きそんする様な気がしたからである。その上金の事に付いては平岡からはまだ一言いちげんの相談も受けた事もない。だから表向おもてむき挨拶をする必要もないのである。ただ、こうして黙っていれば、平岡からは、内心で、冷淡な奴だと悪く思われるに極っている。けれども今の代助はそう云う非難に対して、ほとんど無感覚である。又実際自分はそう熱烈な人間じゃないと考えている。三四年ぜんの自分になって、今の自分を批判してみれば、自分は、堕落しているかも知れない。けれども今の自分から三四年前の自分を回顧してみると、たしかに、自己の道念を誇張して、得意に使い回していた。鍍金めっききんに通用させようとする切ない工面より、真鍮しんちゅうを真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑ぶべつを我慢する方が楽である。と今は考えている。
 代助が真鍮を以て甘んずる様になったのは、不意に大きな狂瀾きょうらんき込まれて、驚ろきの余り、心機一転の結果を来たしたという様な、小説じみた歴史をっているためではない。全く彼れ自身に特有な思索と観察の力によって、次第々々に鍍金を自分でがして来たに過ぎない。代助はこの鍍金の大半をもって、親爺おやじ捺摺なすり付けたものと信じている。その時分は親爺が金に見えた。多くの先輩が金に見えた。相当の教育を受けたものは、みな金に見えた。だから自分の鍍金がつらかった。早く金になりたいと焦ってみた。ところが、ほかのものの地金じがねへ、自分の眼光がじかにつかる様になって以後は、それが急に馬鹿な尽力の様に思われ出した。
 代助は同時にこう考えた。自分が三四年の間に、これまで変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化しているだろう。昔しの自分なら、なるべく平岡によく思われたい心から、こんな場合には兄と喧嘩けんかをしても、父と口論をしても、平岡の為に計ったろう、又その計った通りを平岡の所へ来て事々しく吹聴ふいちょうしたろうが、それを予期するのは、やっぱり昔の平岡で、今の彼はさ程に友達を重くは見ていまい。
 それで肝心の話は一二言いちにげんめて、あとは色々な雑談に時を過ごすうちに酒が出た。三千代が徳利のしりを持って御酌をした。
 平岡は酔うに従って、段々口が多くなって来た。この男はいくら酔っても、中々平生を離れない事がある。かと思うと、大変に元気づいて、調子に一種の悦楽を帯びて来る。そうなると、普通の酒家以上に、く弁ずる上に、時としては比較的真面目まじめな問題を持ち出して、相手と議論を上下しょうかして楽し気に見える。代助はその昔し、麦酒ビールびんを互の間にならべて、よく平岡と戦った事を覚えている。代助に取って不思議とも思われるのは、平岡がこう云う状態に陥った時が、一番平岡と議論がしやすいと云う自覚であった。又酒をんで本音を吐こうか、と平岡の方からよく云ったものだ。今日こんにちの二人の境界はその時分とは、大分離れて来た。そうして、その離れて、近づくみち見出みいだにくい事実を、双方共に腹の中で心得ている。東京へ着いた翌日あくるひ、三年振りで邂逅かいこうした二人は、その時既に、二人ともに何時いつか互の傍を立退いていたことを発見した。
 ところが今日は妙である。酒に親しめば親しむ程、平岡が昔の調子を出して来た。うまい局所へ酒が回って、刻下の経済や、目前の生活や、又それに伴う苦痛やら、不平やら、心の底の騒がしさやらを全然痳痺まひしてしまった様に見える。平岡の談話は一躍して高い平面に飛び上がった。
「僕は失敗したさ。けれども失敗しても働らいている。又これからも働らく積りだ。君は僕の失敗したのを見て笑っている。――笑わないたって、要するに笑ってると同じ事に帰着するんだから構わない。いいか、君は笑っている。笑っているが、その君は何もないじゃないか。君は世の中を、ありのままで受け取る男だ。言葉を換えて云うと、意志を発展させる事の出来ない男だろう。意志がないと云うのはうそだ。人間だもの。その証拠には、始終物足りないに違ない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、その現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思い通りになったと云う確証を握らなくっちゃ、生きていられないね。そこに僕と云うものの存在の価値を認めるんだ。君はただ考えている。考えてるだけだから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立こんりゅうして生きている。この大不調和を忍んでいる所が、既に無形の大失敗じゃないか。何故と云って見給みたまえ。僕のはその不調和を外へ出したまでで、君のは内に押し込んで置くだけの話だから、外面に押し掛けただけ、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑われている。そうして僕は君を笑う事が出来ない。いや笑いたいんだが、世間から見ると、笑っちゃ不可いけないんだろう」
「何笑っても構わない。君が僕を笑う前に、僕は既に自分を笑っているんだから」
「そりゃ、嘘だ。ねえ三千代」
 三千代は先刻さっきから黙って坐っていたが、夫から不意に相談を受けた時、にこりと笑って、代助を見た。
「本当でしょう、三千代さん」と云いながら、代助はさかずきを出して、酒を受けた。
「そりゃ嘘だ。おれの細君が、いくら弁護したって、嘘だ。もっとも君は人を笑っても、自分を笑っても、両方共頭の中で遣る人だから、嘘か本当かその辺はしかと分らないが……」
「冗談云っちゃ不可ない」
「冗談じゃない。全く本気の沙汰であります。そりゃ昔の君はそうじゃ無かった。昔の君はそうじゃ無かったが、今の君は大分違ってるよ。ねえ三千代。長井は誰が見たって、大得意じゃないか」
「何だか先刻さっきから、そばで伺がってると、貴方の方が余っ程御得意の様よ」
 平岡は大きな声を出してハハハと笑った。三千代は燗徳利かんどくりを持って次の間へ立った。
 平岡は膳の上のさかなを二口三口、はしで突っついて、下を向いたまま、むしゃむしゃ云わしていたが、やがて、どろんとした眼を上げて、云った。――
「今日は久し振りにい心持に酔った。なあ君。――君はあんまり好い心持にならないね。どうも怪しからん。僕が昔の平岡常次郎になってるのに、君が昔の長井代助にならないのは怪しからん。是非なり給え。そうして、大いに遣ってくれ給え。僕もこれから遣る。から君も遣ってくれ給え」
 代助はこの言葉のうちに、今の自己を昔に返そうとする真率な又無邪気な一種の努力を認めた。そうして、それに動かされた。けれども一方では、一昨日おととい、食った麺麭パンを今返せと強請ねだられる様な気がした。
「君は酒を呑むと、言葉だけ酔払っても、頭は大抵確かな男だから、僕も云うがね」
「それだ。それでこそ長井君だ」
 代助は急に云うのが厭になった。
「君、頭はたしかかい」と聞いた。
「確だとも。君さえ確なら此方こっちは何時でも確だ」と云って、ちゃんと代助の顔を見た。実際自分の云う通りの男である。そこで代助が云った。――
「君はさっきから、働らかない働らかないと云って、大分僕を攻撃したが、僕は黙っていた。攻撃される通り僕は働らかない積りだから黙っていた」
「何故働かない」
「何故働かないって、そりゃ僕が悪いんじゃない。つまり世の中が悪いのだ。もっと、大袈裟おおげさに云うと、日本対西洋の関係が駄目だから働かないのだ。第一、日本程借金をこしらえて、貧乏震いをしている国はありゃしない。この借金が君、何時になったら返せると思うか。そりゃ外債位は返せるだろう。けれども、そればかりが借金じゃありゃしない。日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ちかない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をするかえると同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事は出来ない。ことごとく切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、そろって神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊こんぱいと、身体しんたいの衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。その間に立って僕一人が、何と云ったって、何を為たって、仕様がないさ。僕は元来怠けものだ。いや、君と一所に往来している時分から怠けものだ。あの時は強いて景気をつけていたから、君には有為多望の様に見えたんだろう。そりゃ今だって、日本の社会が精神的、徳義的、身体的に、大体の上において健全なら、僕は依然として有為多望なのさ。そうなれば遣る事はいくらでもあるからね。そうして僕の怠惰性に打ち勝つだけの刺激もまたいくらでも出来て来るだろうと思う。しかしこれじゃ駄目だ。今の様なら僕はむしろ自分だけになっている。そうして、君の所謂いわゆる有のままの世界を、有のままで受取って、そのうち僕に尤も適したものに接触を保って満足する。進んで外の人を、此方こっちの考え通りにするなんて、到底出来た話じゃありゃしないもの――」
 代助は一寸ちょっと息を継いだ。そうして、一寸窮屈そうに控えている三千代の方を見て、御世辞を遣った。
「三千代さん。どうです、私の考は。随分呑気のんきいでしょう。賛成しませんか」
「何だか厭世えんせいの様な呑気の様な妙なのね。わたしよく分らないわ。けれども、少し胡麻化ごまかしていらっしゃる様よ」
「へええ。何処どこん所を」
「何処ん所って、ねえ貴方」と三千代は夫を見た。平岡はももの上へひじを乗せて、肱の上へあごを載せて黙っていたが、何にも云わずに盃を代助の前に出した。代助も黙って受けた。三千代は又酌をした。
 代助は盃へ唇を付けながら、これから先はもう云う必要がないと感じた。元来が平岡を自分の様に考え直させる為の弁論でもなし、又平岡から意見されに来た訪問でもない。二人はいつまで立っても、二人として離れていなければならない運命をっているんだと、始めから心付ているから、議論はい加減に引き上げて、三千代の仲間入りの出来る様な、普通の社交上の題目に談話を持って来ようと試みた。
 けれども、平岡は酔うとしつこくなる男であった。胸毛の奥まで赤くなった胸を突き出して、こう云った。
「そいつは面白い。大いに面白い。僕みた様に局部に当って、現実と悪闘しているものは、そんな事を考える余地がない。日本が貧弱だって、弱虫だって、働らいてるうちは、忘れているからね。世の中が堕落したって、世の中の堕落に気が付かないで、そのうちに活動するんだからね。君の様な暇人ひまじんから見れば日本の貧乏や、僕等の堕落が気になるかも知れないが、それはこの社会に用のない傍観者にして始めて口にすべき事だ。つまり自分の顔を鏡で見る余裕があるから、そうなるんだ。忙がしい時は、自分の顔の事なんか、誰だって忘れているじゃないか」
 平岡は饒舌しゃべってるうち、自然とこの比喩ひゆつかって、大いなる味方を得た様な心持がしたので、其所そこで得意に一段落をつけた。代助は仕方なしに薄笑いをした。すると平岡はすぐ後を附加えた。
「君は金に不自由しないから不可いけない。生活に困らないから、働らく気にならないんだ。要するに坊ちゃんだから、品の好い様なことばっかり云っていて、――」
 代助は少々平岡が小憎らしくなったので、突然中途で相手をさえぎった。
「働らくのもいが、働らくなら、生活以上のはたらきでなくっちゃ名誉にならない。あらゆる神聖な労力は、みんな麺麭パンを離れている」
 平岡は不思議に不愉快な眼をして、代助の顔をうかがった。そうして、
何故なぜ」と聞いた。
「何故って、生活の為めの労力は、労力の為めの労力でないもの」
「そんな論理学の命題みた様なものは分らないな。もう少し実際的の人間に通じる様な言葉で云ってくれ」
「つまり食う為めの職業は、誠実にゃ出来にくいと云う意味さ」
「僕の考えとはまるで反対だね。食う為めだから、猛烈に働らく気になるんだろう」
「猛烈には働らけるかも知れないが誠実には働らき悪いよ。食う為の働らきと云うと、つまり食うのと、働らくのと何方どっちが目的だと思う」
「無論食う方さ」
「それ見給え。食う方が目的で働らく方が方便なら、食いやすい様に、働らき方を合せて行くのが当然だろう。そうすりゃ、何を働らいたって、又どう働らいたって、構わない、只麺麭が得られればいと云う事に帰着してしまうじゃないか。労力の内容も方向も乃至ないし順序も悉くから制肘せいちゅうされる以上は、その労力は堕落の労力だ」
「まだ理論的だね、どうも。それで一向差支さしつかえないじゃないか」
「ではごく上品な例で説明してやろう。古臭い話だが、ある本でこんな事を読んだ覚えがある。織田信長が、ある有名な料理人を抱えたところが、始めて、その料理人の拵えたものを食ってみるとすこぶ不味まずかったんで、大変小言を云ったそうだ。料理人の方では最上の料理を食わして、しかられたものだから、その次からは二流もしくは三流の料理を主人にあてがって、始終褒められたそうだ。この料理人を見給え。生活の為に働らく事は抜目のない男だろうが、自分の技芸たる料理その物のために働らく点から云えば、頗る不誠実じゃないか、堕落料理人じゃないか」
「だってそうしなければ解雇されるんだから仕方があるまい」
「だからさ。衣食に不自由のない人が、云わば、物数奇ものずきにやる働らきでなくっちゃ、真面目な仕事は出来るものじゃないんだよ」
「そうすると、君の様な身分のものでなくっちゃ、神聖の労力は出来ない訳だ。じゃますます遣る義務がある。なあ三千代」
「本当ですわ」
「何だか話が、元へ戻っちまった。これだから議論は不可ないよ」と云って、代助は頭をいた。議論はそれで、とうとう御仕舞になった。
 
 
 
 

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