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九
代助は又父から呼ばれた。代助にはその用事が大抵分っていた。代助は不断からなるべく父を避けて会わない様にしていた。この頃になっては猶更奥へ寄り付かなかった。逢うと、叮寧な言葉を使って応対しているにも拘わらず、腹の中では、父を侮辱している様な気がしてならなかったからである。
代助は人類の一人として、互を腹の中で侮辱する事なしには、互に接触を敢てし得ぬ、現代の社会を、二十世紀の堕落と呼んでいた。そうして、これを、近来急に膨張した生活慾の高圧力が道義慾の崩壊を促がしたものと解釈していた。又これをこれ等新旧両慾の衝突と見傚していた。最後に、この生活慾の目醒しい発展を、欧洲から押し寄せた海嘯と心得ていた。
この二つの因数は、何処かで平衡を得なければならない。けれども、貧弱な日本が、欧洲の最強国と、財力に於て肩を較べる日の来るまでは、この平衡は日本に於て得られないものと代助は信じていた。そうして、かかる日は、到底日本の上を照らさないものと諦めていた。だからこの窮地に陥った日本紳士の多数は、日毎に法律に触れない程度に於て、もしくはただ頭の中に於て、罪悪を犯さなければならない。そうして、相手が今如何なる罪悪を犯しつつあるかを、互に黙知しつつ、談笑しなければならない。代助は人類の一人として、かかる侮辱を加うるにも、又加えらるるにも堪えなかった。
代助の父の場合は、一般に比べると、稍特殊的傾向を帯びるだけに複雑であった。彼は維新前の武士に固有な道義本位の教育を受けた。この教育は情意行為の標準を、自己以外の遠い所に据えて、事実の発展によって証明せらるべき手近な真を、眼中に置かない無理なものであった。にも拘わらず、父は習慣に囚えられて、未だにこの教育に執着している。そうして、一方には、劇烈な生活慾に冒され易い実業に従事した。父は実際に於て年々この生活慾の為に腐蝕されつつ今日に至った。だから昔の自分と、今の自分の間には、大きな相違のあるべき筈である。それを父は自認していなかった。昔の自分が、昔通りの心得で、今の事業をこれまでに成し遂げたとばかり公言する。けれども封建時代にのみ通用すべき教育の範囲を狭める事なしに、現代の生活慾を時々刻々に充たして行ける訳がないと代助は考えた。もし双方をそのままに存在させようとすれば、これを敢てする個人は、矛盾の為に大苦痛を受けなければならない。もし内心にこの苦痛を受けながら、ただ苦痛の自覚だけ明らかで、何の為の苦痛だか分別が付かないならば、それは頭脳の鈍い劣等な人種である。代助は父に対する毎に、父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは分別の足らない愚物か、何方かでなくてはならない様な気がした。そうして、そう云う気がするのが厭でならなかった。
と云って、父は代助の手際で、どうする事も出来ない男であった。代助には明らかに、それが分っていた。だから代助は未だ曾て父を矛盾の極端まで追い詰めた事がなかった。
代助は凡ての道徳の出立点は社会的事実より外にないと信じていた。始めから頭の中に硬張った道徳を据え付けて、その道徳から逆に社会的事実を発展させようとする程、本末を誤った話はないと信じていた。従って日本の学校でやる、講釈の倫理教育は、無意義のものだと考えた。彼等は学校で昔し風の道徳を教授している。それでなければ一般欧洲人に適切な道徳を呑み込ましている。この劇烈なる生活慾に襲われた不幸な国民から見れば、迂遠の空談に過ぎない。この迂遠な教育を受けたものは、他日社会を眼前に見る時、昔の講釈を思い出して笑ってしまう。でなければ馬鹿にされた様な気がする。代助に至っては、学校のみならず、現に自分の父から、尤も厳格で、尤も通用しない徳義上の教育を受けた。それがため、一時非常な矛盾の苦痛を、頭の中に起した。代助はそれを恨めしく思っている位であった。
代助はこの前梅子に礼を云いに行った時、梅子から一寸奥へ行って、挨拶をしていらっしゃいと注意された。代助は笑いながら御父さんはいるんですかと空とぼけた。いらっしゃるわと云う確答を得た時でも、今日はちと急ぐから廃そうと帰って来た。
今日はわざわざその為に来たのだから、否でも応でも父に逢わなければならない。相変らず、内玄関の方から廻って座敷へ来ると、珍らしく兄の誠吾が胡坐をかいて、酒を呑んでいた。梅子も傍に坐っていた。兄は代助を見て、
「どうだ、一盃遣らないか」と、前にあった葡萄酒の壜を持って振って見せた。中にはまだ余程這入っていた。梅子は手を敲いて洋盞を取り寄せた。
「当てて御覧なさい。どの位古いんだか」と一杯注いだ。
「代助に分るものか」と云って、誠吾は弟の唇のあたりを眺めていた。代助は一口飲んで盃を下へ下した。肴の代りに薄いウエーファーが菓子皿にあった。
「旨いですね」と云った。
「だから時代を当てて御覧なさいよ」
「時代があるんですか。偉いものを買い込んだもんだね。帰りに一本貰って行こう」
「御生憎様、もうこれぎりなの。到来物よ」と云って梅子は縁側へ出て、膝の上に落ちたウエーファーの粉を払いた。
「兄さん、今日はどうしたんです。大変気楽そうですね」と代助が聞いた。
「今日は休養だ。この間中はどうも忙し過ぎて降参したから」と誠吾は火の消えた葉巻を口に啣えた。代助は自分の傍にあった燐寸を擦って遣った。
「代さん貴方こそ気楽じゃありませんか」と云いながら梅子が縁側から帰って来た。
「姉さん歌舞伎座へ行きましたか。まだなら、行って御覧なさい。面白いから」
「貴方もう行ったの、驚ろいた。貴方も余っ程怠けものね」
「怠けものは可くない。勉強の方向が違うんだから」
「押の強い事ばかり云って。人の気も知らないで」と梅子は誠吾の方を見た。誠吾は赤い瞼をして、ぽかんと葉巻の烟を吹いていた。
「ねえ、貴方」と梅子が催促した。誠吾はうるさそうに葉巻を指の股へ移して、
「今のうち沢山勉強して貰って置いて、今に此方が貧乏したら、救って貰う方が好いじゃないか」と云った。梅子は、
「代さん、あなた役者になれて」と聞いた、代助は何にも云わずに、洋盞を姉の前に出した。梅子も黙って葡萄酒の壜を取り上げた。
「兄さん、この間中は何だか大変忙しかったんだってね」と代助は前へ戻って聞いた。
「いや、もう大弱りだ」と云いながら、誠吾は寐転んでしまった。
「何か日糖事件に関係でもあったんですか」と代助が聞いた。
「日糖事件に関係はないが、忙しかった」
兄の答は何時でもこの程度以上に明瞭になった事がない。実は明瞭に話したくないんだろうけれども、代助の耳には、それが本来の無頓着で、話すのが臆怯なためと聞える。だから代助はいつでも楽にその返事の中に這入ていた。
「日糖もつまらない事になったが、ああなる前にどうか方法はないんでしょうかね」
「そうさなあ。実際世の中の事は、何がどうなるんだか分らないからな。――梅、今日は直木に云い付けて、ヘクターを少し運動させなくっちゃ不可いよ。ああ大食をして寐てばかりいちゃ毒だ」と誠吾は眠そうな瞼を指でしきりに擦った。代助は、
「愈奥へ行って御父さんに叱られて来るかな」と云いながら又洋盞を嫂の前へ出した。梅子は笑って酒を注いだ。
「嫁の事か」と誠吾が聞いた。
「まあ、そうだろうと思うんです」
「貰って置くがいい。そう老人に心配さしたって仕様があるものか」と云ったが、今度はもっと判然した語勢で、
「気を付けないと不可よ。少し低気圧が来ているから」と注意した。代助は立ち掛けながら、
「まさかこの間中の奔走からきた低気圧じゃありますまいね」と念を押した。兄は寐転んだまま、
「何とも云えないよ。こう見えて、我々も日糖の重役と同じ様に、何時拘引されるか分らない身体なんだから」と云った。
「馬鹿な事を仰しゃるなよ」と梅子が窘めた。
「やっぱり僕ののらくらが持ち来たした低気圧なんだろう」と代助は笑いながら立った。
廊下伝いに中庭を越して、奥へ来て見ると、父は唐机の前へ坐って、唐本を見ていた。父は詩が好きで、閑があると折々支那人の詩集を読んでいる。然し時によると、それが尤も機嫌のわるい索引になる事があった。そう云うときは、いかに神経のふっくら出来上った兄でも、なるべく近寄らない事にしていた。是非顔を合せなければならない場合には、誠太郎か、縫子か、何方か引張て父の前へ出る手段を取っていた。代助も縁側まで来て、そこに気が付いたが、それ程の必要もあるまいと思って、座敷を一つ通り越して、父の居間に這入った。
父はまず眼鏡を外した。それを読み掛けた書物の上に置くと、代助の方に向き直った。そうして、ただ一言、
「来たか」と云った。その語調は平常よりも却って穏な位であった。代助は膝の上に手を置きながら、兄が真面目な顔をして、自分を担いだんじゃなかろうかと考えた。代助はそこで又苦い茶を飲ませられて、しばらく雑談に時を移した。今年は芍薬の出が早いとか、茶摘歌を聞いていると眠くなる時候だとか、何所とかに、大きな藤があって、その花の長さが四尺足らずあるとか、話は好加減な方角へ大分長く延びて行った。代助は又その方が勝手なので、いつまでも延ばす様にと、後から後を付けて行った。父も仕舞には持て余して、とうとう、時に今日御前を呼んだのはと云い出した。
代助はそれから後は、一言も口を利かなくなった。只謹んで親爺の云うことを聴いていた。父も代助からこう云う態度に出られると、長い間自分一人で、講義でもする様に、述べて行かなくてはならなかった。然しその半分以上は、過去を繰返すだけであった。が代助はそれを、始めて聞くと同程度の注意を払って聞いていた。
父の長談義のうちに、代助は二三の新しい点も認めた。その一つは、御前は一体これからさきどうする料簡なんだと云う真面目な質問であった。代助は今まで父からの注文ばかり受けていた。だから、その注文を曖昧に外す事に慣れていた。けれども、こう云う大質問になると、そう口から出任せに答えられない。無暗な事を云えば、すぐ父を怒らしてしまうからである。と云って正直を自白すると、二三年間父の頭を教育した上でなくっては、通じない理窟になる。代助はこの大質問に応じて、自分の未来を明瞭に道破るだけの考も何も有っていなかった。彼はそれが自分に取って尤もな所だと思っていた。けれども父に、その通りを話して、なるほどと納得させるまでには、大変な時間がかかる。或は生涯通じっこないかも知れない。父の気に入る様にするのは、何でも、国家の為とか、天下の為とか、景気の好い事を、しかも結婚と両立しない様な事を、述べて置けば済むのであるが、代助は如何に、自己を侮辱する気になっても、こればかりは馬鹿気ていて、口へ出す勇気がなかった。そこで已を得ないから、実は色々計画もあるが、いずれ秩序立てて来て、御相談をする積りであると答えた。答えた後で、実に滑稽だと思ったが仕方がなかった。
代助は次に、独立の出来るだけの財産が欲しくはないかと聞かれた。代助は無論欲しいと答えた。すると、父が、では佐川の娘を貰ったら好かろうと云う条件を付けた。その財産は佐川の娘が持って来るのか、又は父がくれるのか甚だ曖昧であった。代助は少しその点に向って進んでみたが、遂に要領を得なかった。けれども、それを突き留める必要がないと考えて已めた。
次に、一層洋行する気はないかと云われた。代助は好いでしょうと云って賛成した。けれども、これにも、やっぱり結婚が先決問題として出て来た。
「そんなに佐川の娘を貰う必要があるんですか」と代助が仕舞に聞いた。すると父の顔が赤くなった。
代助は父を怒らせる気は少しもなかったのである。彼の近頃の主義として、人と喧嘩をするのは、人間の堕落の一範疇になっていた。喧嘩の一部分として、人を怒らせるのは、怒らせる事自身よりは、怒った人の顔色が、如何に不愉快にわが眼に映ずるかと云う点に於て、大切なわが生命を傷ける打撃に外ならぬと心得ていた。彼は罪悪に就ても彼れ自身に特有な考を有っていた。けれども、それが為に、自然のままに振舞いさえすれば、罰を免かれ得るとは信じていなかった。人を斬ったものの受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じていた。迸しる血の色を見て、清い心の迷乱を引き起さないものはあるまいと感ずるからである。代助はそれ程神経の鋭どい男であった。だから顔の色を赤くした父を見た時、妙に不快になった。けれどもこの罪を二重に償うために、父の云う通りにしようと云う気は些とも起らなかった。彼は、一方に於て、自己の脳力に、非常な尊敬を払う男であったからである。
その時父は頗る熱した語気で、先ず自分の年を取っている事、子供の未来が心配になる事、子供に嫁を持たせるのは親の義務であると云う事、嫁の資格その他に就ては、本人よりも親の方が遥かに周到な注意を払っていると云う事、他の親切は、その当時にこそ余計な御世話に見えるが、後になると、もう一遍うるさく干渉して貰いたい時機が来るものであるという事を、非常に叮嚀に説いた。代助は慎重な態度で、聴いていた。けれども、父の言葉が切れた時も、依然として許諾の意を表さなかった。すると父はわざと抑えた調子で、
「じゃ、佐川は已めるさ。そうして誰でも御前の好きなのを貰ったら好いだろう。誰か貰いたいのがあるのか」と云った。これは嫂の質問と同様であるが、代助は梅子に対する様に、ただ苦笑ばかりしてはいられなかった。
「別にそんな貰いたいのもありません」と明らかな返事をした。すると父は急に肝の発した様な声で、
「じゃ、少しは此方の事を考えてくれたら好かろう。何もそう自分の事ばかり思っていないでも」と急調子に云った。代助は、突然父が代助を離れて、彼自身の利害に飛び移ったのに驚ろかされた。けれどもその驚ろきは、論理なき急劇の変化の上に注がれただけであった。
「貴方にそれ程御都合が好い事があるなら、もう一遍考えてみましょう」と答えた。
父は益機嫌をわるくした。代助は人と応対している時、どうしても論理を離れる事の出来ない場合がある。それが為め、よく人から、相手を遣り込めるのを目的とする様に受取られる。実際を云うと、彼程人を遣り込める事の嫌いな男はないのである。
「何も己の都合ばかりで、嫁を貰えと云ってやしない」と父は前の言葉を訂正した。「そんなに理窟を云うなら、参考の為、云って聞かせるが、御前はもう三十だろう、三十になって、普通のものが結婚をしなければ、世間では何と思うか大抵分るだろう。そりゃ今は昔と違うから、独身も本人の随意だけれども、独身の為に親や兄弟が迷惑したり、果は自分の名誉に関係する様な事が出来したりしたらどうする気だ」
代助はただ茫然として父の顔を見ていた。父はどの点に向って、自分を刺した積りだか、代助には殆んど分らなかったからである。しばらくして、
「そりゃ私のことだから少しは道楽もしますが……」と云いかけた。父はすぐそれを遮ぎった。
「そんな事じゃない」
二人はそれぎりしばらく口を利かずにいた。父はこの沈黙を以て代助に向って与えた打撃の結果と信じた。やがて、言葉を和らげて、
「まあ、よく考えて御覧」と云った。代助ははあと答えて、父の室を退ぞいた。座敷へ来て兄を探したが見えなかった。嫂はと尋ねたら、客間だと下女が教えたので、行って戸を明けて見ると、縫子のピヤノの先生が来ていた。代助は先生に一寸挨拶をして、梅子を戸口まで呼び出した。
「あなたは僕の事を何か御父さんに讒訴しやしないか」
梅子はハハハハと笑った。そうして、
「まあ御這入んなさいよ。丁度好い所だから」と云って、代助を楽器の傍まで引張って行った。