.
十三
新年の頭を拵らえようという気になって、宗助は久し振に髪結床の敷居を跨いだ。暮のせいか客がだいぶ立て込んでいるので、鋏の音が二三カ所で、同時にちょきちょき鳴った。この寒さを無理に乗り越して、一日も早く春に入ろうと焦慮るような表通の活動を、宗助は今見て来たばかりなので、その鋏の音が、いかにも忙しない響となって彼の鼓膜を打った。
しばらく煖炉の傍で煙草を吹かして待っている間に、宗助は自分と関係のない大きな世間の活動に否応なしに捲き込まれて、やむを得ず年を越さなければならない人のごとくに感じた。正月を眼の前へ控えた彼は、実際これという新らしい希望もないのに、いたずらに周囲から誘われて、何だかざわざわした心持を抱いていたのである。
御米の発作はようやく落ちついた。今では平日のごとく外へ出ても、家の事がそれほど気にかからないぐらいになった。余所に比べると閑静な春の支度も、御米から云えば、年に一度の忙がしさには違なかったので、あるいはいつも通りの準備さえ抜いて、常よりも簡単に年を越す覚悟をした宗助は、蘇生ったようにはっきりした妻の姿を見て、恐ろしい悲劇が一歩遠退いた時のごとくに、胸を撫でおろした。しかしその悲劇がまたいついかなる形で、自分の家族を捕えに来るか分らないと云う、ぼんやりした掛念が、折々彼の頭のなかに霧となってかかった。
年の暮に、事を好むとしか思われない世間の人が、故意と短い日を前へ押し出したがって齷齪する様子を見ると、宗助はなおの事この茫漠たる恐怖の念に襲われた。成ろうことなら、自分だけは陰気な暗い師走の中に一人残っていたい思さえ起った。ようやく自分の番が来て、彼は冷たい鏡のうちに、自分の影を見出した時、ふとこの影は本来何者だろうと眺めた。首から下は真白な布に包まれて、自分の着ている着物の色も縞も全く見えなかった。その時彼はまた床屋の亭主が飼っている小鳥の籠が、鏡の奥に映っている事に気がついた。鳥が止り木の上をちらりちらりと動いた。
頭へ香のする油を塗られて、景気のいい声を後から掛けられて、表へ出たときは、それでも清々した心持であった。御米の勧め通り髪を刈った方が、結局気を新たにする効果があったのを、冷たい空気の中で、宗助は自覚した。
水道税の事でちょっと聞き合せる必要が生じたので、宗助は帰り路に坂井へ寄った。下女が出て来て、こちらへと云うから、いつもの座敷へ案内するかと思うと、そこを通り越して、茶の間へ導びいていった。すると茶の間の襖が二尺ばかり開いていて、中から三四人の笑い声が聞えた。坂井の家庭は相変らず陽気であった。
主人は光沢の好い長火鉢の向側に坐っていた。細君は火鉢を離れて、少し縁側の障子の方へ寄って、やはりこちらを向いていた。主人の後に細長い黒い枠に嵌めた柱時計がかかっていた。時計の右が壁で、左が袋戸棚になっていた。その張交に石摺だの、俳画だの、扇の骨を抜いたものなどが見えた。
主人と細君のほかに、筒袖の揃いの模様の被布を着た女の子が二人肩を擦りつけ合って坐っていた。片方は十二三で、片方は十ぐらいに見えた。大きな眼を揃えて、襖の陰から入って来た宗助の方を向いたが、二人の眼元にも口元にも、今笑ったばかりの影が、まだゆたかに残っていた。宗助は一応室の内を見回して、この親子のほかに、まだ一人妙な男が、一番入口に近い所に畏まっているのを見出した。
宗助は坐って五分と立たないうちに、先刻の笑声は、この変な男と坂井の家族との間に取り換わされた問答から出る事を知った。男は砂埃でざらつきそうな赤い毛と、日に焼けて生涯褪めっこない強い色を有っていた。瀬戸物の釦の着いた白木綿の襯衣を着て、手織の硬い布子の襟から財布の紐みたような長い丸打をかけた様子は、滅多に東京などへ出る機会のない遠い山の国のものとしか受け取れなかった。その上男はこの寒いのに膝小僧を少し出して、紺の落ちた小倉の帯の尻に差した手拭を抜いては鼻の下を擦った。
「これは甲斐の国から反物を背負ってわざわざ東京まで出て来る男なんです」と坂井の主人が紹介すると、男は宗助の方を向いて、
「どうか旦那、一つ買っておくれ」と挨拶をした。
なるほど銘仙だの御召だの、白紬だのがそこら一面に取り散らしてあった。宗助はこの男の形装や言葉遣のおかしい割に、立派な品物を背中へ乗せて歩行くのをむしろ不思議に思った。主人の細君の説明によると、この織屋の住んでいる村は焼石ばかりで、米も粟も収れないから、やむを得ず桑を植えて蚕を飼うんだそうであるが、よほど貧しい所と見えて、柱時計を持っている家が一軒だけで、高等小学へ通う小供が三人しかないという話であった。
「字の書けるものは、この人ぎりなんだそうですよ」と云って細君は笑った。すると織屋も、
「本当のこんだよ、奥さん。読み書き算筆のできるものは、おれよりほかにねえんだからね。全く非道い所にゃ違ない」と真面目に細君の云う事を首肯った。
織屋はいろいろの反物を主人や細君の前へ突きつけては、「買っておくれ」という言葉をしきりに繰り返した。そりゃ高いよいくらいくらに御負けなどと云われると、「値じゃねえね」とか、「拝むからそれで買っておくれ」とか、「まあ目方を見ておくれ」とかすべて異様な田舎びた答をした。そのたびに皆が笑った。主人夫婦はまた閑だと見えて、面白半分にいつまでも織屋を相手にした。
「織屋、御前そうして荷を背負って、外へ出て、時分どきになったら、やっぱり御膳を食べるんだろうね」と細君が聞いた。
「飯を食わねえでいられるもんじゃないよ。腹の減る事ちゅうたら」
「どんな所で食べるの」
「どんな所で食べるちゅうて、やっぱり茶屋で食うだね」
主人は笑いながら茶屋とは何だと聞いた。織屋は、飯を食わす所が茶屋だと答えた。それから東京へ出立には飯が非常に旨いので、腹を据えて食い出すと、大抵の宿屋は叶わない、三度三度食っちゃ気の毒だと云うような事を話して、また皆を笑わした。
織屋はしまいに撚糸の紬と、白絽を一匹細君に売りつけた。宗助はこの押しつまった暮に、夏の絽を買う人を見て余裕のあるものはまた格別だと感じた。すると、主人が宗助に向って、
「どうですあなたも、ついでに何か一つ。奥さんの不断着でも」と勧めた。細君もこう云う機会に買って置くと、幾割か値安に買える便宜を説いた。そうして、
「なに、御払はいつでもいいんです」と受合ってくれた。宗助はとうとう御米のために銘仙を一反買う事にした。主人はそれをさんざん値切って三円に負けさした。
織屋は負けた後でまた、
「全く値じゃねえね。泣きたくなるね」と云ったので、大勢がまた一度に笑った。
織屋はどこへ行ってもこういう鄙びた言葉を使って通しているらしかった。毎日馴染みの家をぐるぐる回って歩いているうちには、背中の荷がだんだん軽くなって、しまいに紺の風呂敷と真田紐だけが残る。その時分にはちょうど旧の正月が来るので、ひとまず国元へ帰って、古い春を山の中で越して、それからまた新らしい反物を背負えるだけ背負って出て来るのだと云った。そうして養蚕の忙しい四月の末か五月の初までに、それを悉皆金に換えて、また富士の北影の焼石ばかりころがっている小村へ帰って行くのだそうである。
「宅へ来出してから、もう四五年になりますが、いつ見ても同じ事で、少しも変らないんですよ」と細君が注意した。
「実際珍らしい男です」と主人も評語を添えた。三日も外へ出ないと、町幅がいつの間にか取り広げられていたり、一日新聞を読まないと、電車の開通を知らずに過したりする今の世に、年に二度も東京へ出ながら、こう山男の特色をどこまでも維持して行くのは、実際珍らしいに違なかった。宗助はつくづくこの織屋の容貌やら態度やら服装やら言葉使やらを観察して、一種気の毒な思をなした。
彼は坂井を辞して、家へ帰る途中にも、折々インヴァネスの羽根の下に抱えて来た銘仙の包を持ち易えながら、それを三円という安い価で売った男の、粗末な布子の縞と、赤くてばさばさした髪の毛と、その油気のない硬い髪の毛が、どういう訳か、頭の真中で立派に左右に分けられている様を、絶えず眼の前に浮べた。
宅では御米が、宗助に着せる春の羽織をようやく縫い上げて、圧の代りに坐蒲団の下へ入れて、自分でその上へ坐っているところであった。
「あなた今夜敷いて寝て下さい」と云って、御米は宗助を顧みた。夫から、坂井へ来ていた甲斐の男の話を聞いた時は、御米もさすがに大きな声を出して笑った。そうして宗助の持って帰った銘仙の縞柄と地合を飽かず眺めては、安い安いと云った。銘仙は全く品の良いものであった。
「どうして、そう安く売って割に合うんでしょう」としまいに聞き出した。
「なに中へ立つ呉服屋が儲け過ぎてるのさ」と宗助はその道に明るいような事を、この一反の銘仙から推断して答えた。
夫婦の話はそれから、坂井の生活に余裕のある事と、その余裕のために、横町の道具屋などに意外な儲け方をされる代りに、時とするとこう云う織屋などから、差し向き不用のものを廉価に買っておく便宜を有している事などに移って、しまいにその家庭のいかにも陽気で、賑やかな模様に落ちて行った。宗助はその時突然語調を更えて、
「なに金があるばかりじゃない。一つは子供が多いからさ。子供さえあれば、大抵貧乏な家でも陽気になるものだ」と御米を覚した。
その云い方が、自分達の淋しい生涯を、多少自ら窘めるような苦い調子を、御米の耳に伝えたので、御米は覚えず膝の上の反物から手を放して夫の顔を見た。宗助は坂井から取って来た品が、御米の嗜好に合ったので、久しぶりに細君を喜ばせてやった自覚があるばかりだったから、別段そこには気がつかなかった。御米もちょっと宗助の顔を見たなりその時は何にも云わなかった。けれども夜に入って寝る時間が来るまで御米はそれをわざと延ばしておいたのである。
二人はいつもの通り十時過床に入ったが、夫の眼がまだ覚めている頃を見計らって、御米は宗助の方を向いて話しかけた。
「あなた先刻小供がないと淋しくっていけないとおっしゃってね」
宗助はこれに類似の事を普般的に云った覚はたしかにあった。けれどもそれは強がちに、自分達の身の上について、特に御米の注意を惹くために口にした、故意の観察でないのだから、こう改たまって聞き糺されると、困るよりほかはなかった。
「何も宅の事を云ったのじゃないよ」
この返事を受けた御米は、しばらく黙っていた。やがて、
「でも宅の事を始終淋しい淋しいと思っていらっしゃるから、必竟あんな事をおっしゃるんでしょう」と前とほぼ似たような問を繰り返した。宗助は固よりそうだと答えなければならない或物を頭の中に有っていた。けれども御米を憚って、それほど明白地な自白をあえてし得なかった。この病気上りの細君の心を休めるためには、かえってそれを冗談にして笑ってしまう方が善かろうと考えたので、
「淋しいと云えば、そりゃ淋しくないでもないがね」と調子を易えてなるべく陽気に出たが、そこで詰まったぎり、新らしい文句も、面白い言葉も容易に思いつけなかった。やむを得ず、
「まあいいや。心配するな」と云った。御米はまた何とも答えなかった。宗助は話題を変えようと思って、
「昨夕も火事があったね」と世間話をし出した。すると御米は急に、
「私は実にあなたに御気の毒で」と切なそうに言訳を半分して、またそれなり黙ってしまった。洋灯はいつものように床の間の上に据えてあった。御米は灯に背いていたから、宗助には顔の表情が判然分らなかったけれども、その声は多少涙でうるんでいるように思われた。今まで仰向いて天井を見ていた彼は、すぐ妻の方へ向き直った。そうして薄暗い影になった御米の顔をじっと眺めた。御米も暗い中からじっと宗助を見ていた。そうして、
「疾からあなたに打ち明けて謝罪まろう謝罪まろうと思っていたんですが、つい言い悪かったもんだから、それなりにしておいたのです」と途切れ途切れに云った。宗助には何の意味かまるで解らなかった。多少はヒステリーのせいかとも思ったが、全然そうとも決しかねて、しばらく茫然していた。すると御米が思い詰めた調子で、
「私にはとても子供のできる見込はないのよ」と云い切って泣き出した。
宗助はこの可憐な自白をどう慰さめていいか分別に余って当惑していたうちにも、御米に対してはなはだ気の毒だという思が非常に高まった。
「子供なんざ、無くてもいいじゃないか。上の坂井さんみたようにたくさん生れて御覧、傍から見ていても気の毒だよ。まるで幼稚園のようで」
「だって一人もできないときまっちまったら、あなただって好かないでしょう」
「まだできないときまりゃしないじゃないか。これから生れるかも知れないやね」
御米はなおと泣き出した。宗助も途方に暮れて、発作の治まるのを穏やかに待っていた。そうして、緩くり御米の説明を聞いた。
夫婦は和合同棲という点において、人並以上に成功したと同時に、子供にかけては、一般の隣人よりも不幸であった。それも始から宿る種がなかったのなら、まだしもだが、育つべきものを中途で取り落したのだから、さらに不幸の感が深かった。
始めて身重になったのは、二人が京都を去って、広島に瘠世帯を張っている時であった。懐妊と事がきまったとき、御米はこの新らしい経験に対して、恐ろしい未来と、嬉しい未来を一度に夢に見るような心持を抱いて日を過ごした。宗助はそれを眼に見えない愛の精に、一種の確証となるべき形を与えた事実と、ひとり解釈して少なからず喜んだ。そうして自分の命を吹き込んだ肉の塊が、目の前に踊る時節を指を折って楽しみに待った。ところが胎児は、夫婦の予期に反して、五カ月まで育って突然下りてしまった。その時分の夫婦の活計は苦しい苛い月ばかり続いていた。宗助は流産した御米の蒼い顔を眺めて、これも必竟は世帯の苦労から起るんだと判じた。そうして愛情の結果が、貧のために打ち崩されて、永く手の裡に捕える事のできなくなったのを残念がった。御米はひたすら泣いた。
福岡へ移ってから間もなく、御米はまた酸いものを嗜む人となった。一度流産すると癖になると聞いたので、御米は万に注意して、つつましやかに振舞っていた。そのせいか経過は至極順当に行ったが、どうした訳か、これという原因もないのに、月足らずで生れてしまった。産婆は首を傾けて、一度医者に見せるように勧めた。医者に診て貰うと、発育が充分でないから、室内の温度を一定の高さにして、昼夜とも変らないくらい、人工的に暖めなければいけないと云った。宗助の手際では、室内に煖炉を据えつける設備をするだけでも容易ではなかった。夫婦はわが時間と算段の許す限りを尽して、専念に赤児の命を護った。けれどもすべては徒労に帰した。一週間の後、二人の血を分けた情の塊はついに冷たくなった。御米は幼児の亡骸を抱いて、
「どうしましょう」と啜り泣いた。宗助は再度の打撃を男らしく受けた。冷たい肉が灰になって、その灰がまた黒い土に和するまで、一口も愚痴らしい言葉は出さなかった。そのうちいつとなく、二人の間に挟まっていた影のようなものが、しだいに遠退いて、ほどなく消えてしまった。
すると三度目の記憶が来た。宗助が東京に移って始ての年に、御米はまた懐妊したのである。出京の当座は、だいぶん身体が衰ろえていたので、御米はもちろん、宗助もひどくそこを気遣ったが、今度こそはという腹は両方にあったので、張のある月を無事にだんだんと重ねて行った。ところがちょうど五月目になって、御米はまた意外の失敗をやった。その頃はまだ水道も引いてなかったから、朝晩下女が井戸端へ出て水を汲んだり、洗濯をしなければならなかった。御米はある日裏にいる下女に云いつける用ができたので、井戸流の傍に置いた盥の傍まで行って話をしたついでに、流を向へ渡ろうとして、青い苔の生えている濡れた板の上へ尻持を突いた。御米はまたやり損なったとは思ったが、自分の粗忽を面目ながって、宗助にはわざと何事も語らずにその場を通した。けれどもこの震動が、いつまで経っても胎児の発育にこれという影響も及ぼさず、したがって自分の身体にも少しの異状を引き起さなかった事がたしかに分った時、御米はようやく安心して、過去の失を改めて宗助の前に告げた。宗助は固より妻を咎める意もなかった。ただ、
「よく気をつけないと危ないよ」と穏やかに注意を加えて過ぎた。
とかくするうちに月が満ちた。いよいよ生れるという間際まで日が詰ったとき、宗助は役所へ出ながらも、御米の事がしきりに気にかかった。帰りにはいつも、今日はことによると留守のうちになどと案じ続けては、自分の家の格子の前に立った。そうして半ば予期している赤児の泣声が聞えないと、かえって何かの変でも起ったらしく感じて、急いで宅へ飛び込んで、自分と自分の粗忽を恥ずる事があった。
幸に御米の産気づいたのは、宗助の外に用のない夜中だったので、傍にいて世話のできると云う点から見ればはなはだ都合が好かった。産婆も緩くり間に合うし、脱脂綿その他の準備もことごとく不足なく取り揃えてあった。産も案外軽かった。けれども肝心の小児は、ただ子宮を逃れて広い所へ出たというまでで、浮世の空気を一口も呼吸しなかった。産婆は細い硝子の管のようなものを取って、小さい口の内へ強い呼息をしきりに吹き込んだが、効目はまるでなかった。生れたものは肉だけであった。夫婦はこの肉に刻みつけられた、眼と鼻と口とを髣髴した。しかしその咽喉から出る声はついに聞く事ができなかった。
産婆は出産のあったつい一週間前に来て、丁寧に胎児の心臓まで聴診して、至極御健全だと保証して行ったのである。よし産婆の云う事に間違があって、腹の児の発育が今までのうちにどこかで止っていたにしたところで、それが直取り出されない以上、母体は今日まで平気に持ち応える訳がなかった。そこをだんだん調べて見て、宗助は自分がいまだかつて聞いた事のない事実を発見した時に、思わず恐れ驚ろいた。胎児は出る間際まで健康であったのである。けれども臍帯纏絡と云って、俗に云う胞を頸へ捲きつけていた。こう云う異常の場合には、固より産婆の腕で切り抜けるよりほかにしようのないもので、経験のある婆さんなら、取り上げる時に、旨く頸に掛かった胞を外して引き出すはずであった。宗助の頼んだ産婆もかなり年を取っているだけに、このくらいのことは心得ていた。しかし胎児の頸を絡んでいた臍帯は、時たまあるごとく一重ではなかった。二重に細い咽喉を巻いている胞を、あの細い所を通す時に外し損なったので、小児はぐっと気管を絞められて窒息してしまったのである。
罪は産婆にもあった。けれどもなかば以上は御米の落度に違なかった。臍帯纏絡の変状は、御米が井戸端で滑って痛く尻餅を搗いた五カ月前すでに自ら醸したものと知れた。御米は産後の蓐中にその始末を聞いて、ただ軽く首肯いたぎり何にも云わなかった。そうして、疲労に少し落ち込んだ眼を霑ませて、長い睫毛をしきりに動かした。宗助は慰さめながら、手帛で頬に流れる涙を拭いてやった。
これが子供に関する夫婦の過去であった。この苦い経験を甞めた彼らは、それ以後幼児について余り多くを語るを好まなかった。けれども二人の生活の裏側は、この記憶のために淋しく染めつけられて、容易に剥げそうには見えなかった。時としては、彼我の笑声を通してさえ、御互の胸に、この裏側が薄暗く映る事もあった。こういう訳だから、過去の歴史を今夫に向って新たに繰り返そうとは、御米も思い寄らなかったのである。宗助も今更妻からそれを聞かせられる必要は少しも認めていなかったのである。
御米の夫に打ち明けると云ったのは、固より二人の共有していた事実についてではなかった。彼女は三度目の胎児を失った時、夫からその折の模様を聞いて、いかにも自分が残酷な母であるかのごとく感じた。自分が手を下した覚がないにせよ、考えようによっては、自分と生を与えたものの生を奪うために、暗闇と明海の途中に待ち受けて、これを絞殺したと同じ事であったからである。こう解釈した時、御米は恐ろしい罪を犯した悪人と己を見傚さない訳に行かなかった。そうして思わざる徳義上の苛責を人知れず受けた。しかもその苛責を分って、共に苦しんでくれるものは世界中に一人もなかった。御米は夫にさえこの苦しみを語らなかったのである。
彼女はその時普通の産婦のように、三週間を床の中で暮らした。それは身体から云うと極めて安静の三週間に違なかった。同時に心から云うと、恐るべき忍耐の三週間であった。宗助は亡児のために、小さい柩を拵らえて、人の眼に立たない葬儀を営なんだ。しかる後、また死んだもののために小さな位牌を作った。位牌には黒い漆で戒名が書いてあった。位牌の主は戒名を持っていた。けれども俗名は両親といえども知らなかった。宗助は最初それを茶の間の箪笥の上へ載せて、役所から帰ると絶えず線香を焚いた。その香が六畳に寝ている御米の鼻に時々通った。彼女の官能は当時それほどに鋭どくなっていたのである。しばらくしてから、宗助は何を考えたか、小さい位牌を箪笥の抽出の底へしまってしまった。そこには福岡で亡くなった小供の位牌と、東京で死んだ父の位牌が別々に綿で包んで丁寧に入れてあった。東京の家を畳むとき宗助は先祖の位牌を一つ残らず携えて、諸所を漂泊するの煩わしさに堪えなかったので、新らしい父の分だけを鞄の中に収めて、その他はことごとく寺へ預けておいたのである。
御米は宗助のするすべてを寝ながら見たり聞いたりしていた。そうして布団の上に仰向になったまま、この二つの小さい位牌を、眼に見えない因果の糸を長く引いて互に結びつけた。それからその糸をなお遠く延ばして、これは位牌にもならずに流れてしまった、始めから形のない、ぼんやりした影のような死児の上に投げかけた。御米は広島と福岡と東京に残る一つずつの記憶の底に、動かしがたい運命の厳かな支配を認めて、その厳かな支配の下に立つ、幾月日の自分を、不思議にも同じ不幸を繰り返すべく作られた母であると観じた時、時ならぬ呪詛の声を耳の傍に聞いた。彼女が三週間の安静を、蒲団の上に貪ぼらなければならないように、生理的に強いられている間、彼女の鼓膜はこの呪詛の声でほとんど絶えず鳴っていた。三週間の安臥は、御米に取って実に比類のない忍耐の三週間であった。
御米はこの苦しい半月余りを、枕の上でじっと見つめながら過ごした。しまいには我慢して横になっているのが、いかにも苛かったので、看護婦の帰った明る日に、こっそり起きてぶらぶらして見たが、それでも心に逼る不安は、容易に紛らせなかった。退儀な身体を無理に動かす割に、頭の中は少しも動いてくれないので、また落胆りして、ついには取り放しの夜具の下へ潜り込んで、人の世を遠ざけるように、眼を堅く閉ってしまう事もあった。
そのうち定期の三週間も過ぎて、御米の身体は自からすっきりなった。御米は奇麗に床を払って、新らしい気のする眉を再び鏡に照らした。それは更衣の時節であった。御米も久しぶりに綿の入った重いものを脱ぎ棄てて、肌に垢の触れない軽い気持を爽やかに感じた。春と夏の境をぱっと飾る陽気な日本の風物は、淋しい御米の頭にも幾分かの反響を与えた。けれども、それはただ沈んだものを掻き立てて、賑やかな光りのうちに浮かしたまでであった。御米の暗い過去の中にその時一種の好奇心が萌したのである。
天気の勝れて美くしいある日の午前、御米はいつもの通り宗助を送り出してから直に、表へ出た。もう女は日傘を差して外を行くべき時節であった。急いで日向を歩くと額の辺が少し汗ばんだ。御米は歩き歩き、着物を着換える時、箪笥を開けたら、思わず一番目の抽出の底にしまってあった、新らしい位牌に手が触れた事を思いつづけて、とうとうある易者の門を潜った。
彼女は多数の文明人に共通な迷信を子供の時から持っていた。けれども平生はその迷信がまた多数の文明人と同じように、遊戯的に外に現われるだけで済んでいた。それが実生活の厳かな部分を冒すようになったのは、全く珍らしいと云わなければならなかった。御米はその時真面目な態度と真面目な心を有って、易者の前に坐って、自分が将来子を生むべき、また子を育てるべき運命を天から与えられるだろうかを確めた。易者は大道に店を出して、往来の人の身の上を一二銭で占なう人と、少しも違った様子もなく、算木をいろいろに並べて見たり、筮竹を揉んだり数えたりした後で、仔細らしく腮の下の髯を握って何か考えたが、終りに御米の顔をつくづく眺めた末、
「あなたには子供はできません」と落ちつき払って宣告した。御米は無言のまま、しばらく易者の言葉を頭の中で噛んだり砕いたりした。それから顔を上げて、
「なぜでしょう」と聞き返した。その時御米は易者が返事をする前に、また考えるだろうと思った。ところが彼はまともに御米の眼の間を見詰めたまま、すぐ
「あなたは人に対してすまない事をした覚がある。その罪が祟っているから、子供はけっして育たない」と云い切った。御米はこの一言に心臓を射抜かれる思があった。くしゃりと首を折ったなり家へ帰って、その夜は夫の顔さえろくろく見上げなかった。
御米の宗助に打ち明けないで、今まで過したというのは、この易者の判断であった。宗助は床の間に乗せた細い洋灯の灯が、夜の中に沈んで行きそうな静かな晩に、始めて御米の口からその話を聞いたとき、さすがに好い気味はしなかった。
「神経の起った時、わざわざそんな馬鹿な所へ出かけるからさ。銭を出して下らない事を云われてつまらないじゃないか。その後もその占の宅へ行くのかい」
「恐ろしいから、もうけっして行かないわ」
「行かないがいい。馬鹿気ている」
宗助はわざと鷹揚な答をしてまた寝てしまった。