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十四
宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味く暮した事はなかった。言逆に顔を赤らめ合った試はなおなかった。二人は呉服屋の反物を買って着た。米屋から米を取って食った。けれどもその他には一般の社会に待つところのきわめて少ない人間であった。彼らは、日常の必要品を供給する以上の意味において、社会の存在をほとんど認めていなかった。彼らに取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼らにはまた充分であった。彼らは山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた。
自然の勢として、彼らの生活は単調に流れない訳に行かなかった。彼らは複雑な社会の煩を避け得たと共に、その社会の活動から出るさまざまの経験に直接触れる機会を、自分と塞いでしまって、都会に住みながら、都会に住む文明人の特権を棄てたような結果に到着した。彼らも自分達の日常に変化のない事は折々自覚した。御互が御互に飽きるの、物足りなくなるのという心は微塵も起らなかったけれども、御互の頭に受け入れる生活の内容には、刺戟に乏しい或物が潜んでいるような鈍い訴があった。それにもかかわらず、彼らが毎日同じ判を同じ胸に押して、長の月日を倦まず渡って来たのは、彼らが始から一般の社会に興味を失っていたためではなかった。社会の方で彼らを二人ぎりに切りつめて、その二人に冷かな背を向けた結果にほかならなかった。外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。彼らの生活は広さを失なうと同時に、深さを増して来た。彼らは六年の間世間に散漫な交渉を求めなかった代りに、同じ六年の歳月を挙げて、互の胸を掘り出した。彼らの命は、いつの間にか互の底にまで喰い入った。二人は世間から見れば依然として二人であった。けれども互から云えば、道義上切り離す事のできない一つの有機体になった。二人の精神を組み立てる神経系は、最後の繊維に至るまで、互に抱き合ってでき上っていた。彼らは大きな水盤の表に滴たった二点の油のようなものであった。水を弾いて二つがいっしょに集まったと云うよりも、水に弾かれた勢で、丸く寄り添った結果、離れる事ができなくなったと評する方が適当であった。
彼らはこの抱合の中に、尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満と、それに伴なう倦怠とを兼ね具えていた。そうしてその倦怠の慵い気分に支配されながら、自己を幸福と評価する事だけは忘れなかった。倦怠は彼らの意識に眠のような幕を掛けて、二人の愛をうっとり霞ます事はあった。けれども簓で神経を洗われる不安はけっして起し得なかった。要するに彼らは世間に疎いだけそれだけ仲の好い夫婦であったのである。
彼らは人並以上に睦ましい月日を渝らずに今日から明日へと繋いで行きながら、常はそこに気がつかずに顔を見合わせているようなものの、時々自分達の睦まじがる心を、自分で確と認める事があった。その場合には必ず今まで睦まじく過ごした長の歳月を溯のぼって、自分達がいかな犠牲を払って、結婚をあえてしたかと云う当時を憶い出さない訳には行かなかった。彼らは自然が彼らの前にもたらした恐るべき復讐の下に戦きながら跪ずいた。同時にこの復讐を受けるために得た互の幸福に対して、愛の神に一弁の香を焚く事を忘れなかった。彼らは鞭たれつつ死に赴くものであった。ただその鞭の先に、すべてを癒やす甘い蜜の着いている事を覚ったのである。
宗助は相当に資産のある東京ものの子弟として、彼らに共通な派出な嗜好を、学生時代には遠慮なく充たした男である。彼はその時服装にも、動作にも、思想にも、ことごとく当世らしい才人の面影を漲らして、昂い首を世間に擡げつつ、行こうと思う辺りを濶歩した。彼の襟の白かったごとく、彼の洋袴の裾が奇麗に折り返されていたごとく、その下から見える彼の靴足袋が模様入のカシミヤであったごとく、彼の頭は華奢な世間向きであった。
彼は生れつき理解の好い男であった。したがって大した勉強をする気にはなれなかった。学問は社会へ出るための方便と心得ていたから、社会を一歩退ぞかなくっては達する事のできない、学者という地位には、余り多くの興味を有っていなかった。彼はただ教場へ出て、普通の学生のする通り、多くのノートブックを黒くした。けれども宅へ帰って来て、それを読み直したり、手を入れたりした事は滅多になかった。休んで抜けた所さえ大抵はそのままにして放って置いた。彼は下宿の机の上に、このノートブックを奇麗に積み上げて、いつ見ても整然と秩序のついた書斎を空にしては、外を出歩るいた。友達は多く彼の寛濶を羨んだ。宗助も得意であった。彼の未来は虹のように美くしく彼の眸を照らした。
その頃の宗助は今と違って多くの友達を持っていた。実を云うと、軽快な彼の眼に映ずるすべての人は、ほとんど誰彼の区別なく友達であった。彼は敵という言葉の意味を正当に解し得ない楽天家として、若い世をのびのびと渡った。
「なに不景気な顔さえしなければ、どこへ行ったって驩迎されるもんだよ」と学友の安井によく話した事があった。実際彼の顔は、他を不愉快にするほど深刻な表情を示し得た試がなかった。
「君は身体が丈夫だから結構だ」とよくどこかに故障の起る安井が羨ましがった。この安井というのは国は越前だが、長く横浜にいたので、言葉や様子は毫も東京ものと異なる点がなかった。着物道楽で、髪の毛を長くして真中から分ける癖があった。高等学校は違っていたけれども、講義のときよく隣合せに並んで、時々聞き損なった所などを後から質問するので、口を利き出したのが元になって、つい懇意になった。それが学年の始りだったので、京都へ来て日のまだ浅い宗助にはだいぶんの便宜であった。彼は安井の案内で新らしい土地の印象を酒のごとく吸い込んだ。二人は毎晩のように三条とか四条とかいう賑やかな町を歩いた。時によると京極も通り抜けた。橋の真中に立って鴨川の水を眺めた。東山の上に出る静かな月を見た。そうして京都の月は東京の月よりも丸くて大きいように感じた。町や人に厭きたときは、土曜と日曜を利用して遠い郊外に出た。宗助は至る所の大竹藪に緑の籠る深い姿を喜んだ。松の幹の染めたように赤いのが、日を照り返して幾本となく並ぶ風情を楽しんだ。ある時は大悲閣へ登って、即非の額の下に仰向きながら、谷底の流を下る櫓の音を聞いた。その音が雁の鳴声によく似ているのを二人とも面白がった。ある時は、平八茶屋まで出掛けて行って、そこに一日寝ていた。そうして不味い河魚の串に刺したのを、かみさんに焼かして酒を呑んだ。そのかみさんは、手拭を被って、紺の立付みたようなものを穿いていた。
宗助はこんな新らしい刺戟の下に、しばらくは慾求の満足を得た。けれどもひととおり古い都の臭を嗅いで歩くうちに、すべてがやがて、平板に見えだして来た。その時彼は美くしい山の色と清い水の色が、最初ほど鮮明な影を自分の頭に宿さないのを物足らず思い始めた。彼は暖かな若い血を抱いて、その熱りを冷す深い緑に逢えなくなった。そうかといって、この情熱を焚き尽すほどの烈しい活動には無論出会わなかった。彼の血は高い脈を打って、いたずらにむず痒く彼の身体の中を流れた。彼は腕組をして、坐ながら四方の山を眺めた。そうして、
「もうこんな古臭い所には厭きた」と云った。
安井は笑いながら、比較のため、自分の知っている或友達の故郷の物語をして宗助に聞かした。それは浄瑠璃の間の土山雨が降るとある有名な宿の事であった。朝起きてから夜寝るまで、眼に入るものは山よりほかにない所で、まるで擂鉢の底に住んでいると同じ有様だと告げた上、安井はその友達の小さい時分の経験として、五月雨の降りつづく折などは、小供心に、今にも自分の住んでいる宿が、四方の山から流れて来る雨の中に浸かってしまいそうで、心配でならなかったと云う話をした。宗助はそんな擂鉢の底で一生を過す人の運命ほど情ないものはあるまいと考えた。
「そう云う所に、人間がよく生きていられるな」と不思議そうな顔をして安井に云った。安井も笑っていた。そうして土山から出た人物の中では、千両函を摩り替えて磔になったのが一番大きいのだと云う一口話をやはり友達から聞いた通り繰り返した。狭い京都に飽きた宗助は、単調な生活を破る色彩として、そう云う出来事も百年に一度ぐらいは必要だろうとまで思った。
その時分の宗助の眼は、常に新らしい世界にばかり注がれていた。だから自然がひととおり四季の色を見せてしまったあとでは、再び去年の記憶を呼び戻すために、花や紅葉を迎える必要がなくなった。強く烈しい命に生きたと云う証券を飽くまで握りたかった彼には、活きた現在と、これから生れようとする未来が、当面の問題であったけれども、消えかかる過去は、夢同様に価の乏しい幻影に過ぎなかった。彼は多くの剥げかかった社と、寂果てた寺を見尽して、色の褪めた歴史の上に、黒い頭を振り向ける勇気を失いかけた。寝耄けた昔に徊するほど、彼の気分は枯れていなかったのである。
学年の終りに宗助と安井とは再会を約して手を分った。安井はひとまず郷里の福井へ帰って、それから横浜へ行くつもりだから、もしその時には手紙を出して通知をしよう、そうしてなるべくならいっしょの汽車で京都へ下ろう、もし時間が許すなら、興津あたりで泊って、清見寺や三保の松原や、久能山でも見ながら緩くり遊んで行こうと云った。宗助は大いによかろうと答えて、腹のなかではすでに安井の端書を手にする時の心持さえ予想した。
宗助が東京へ帰ったときは、父は固よりまだ丈夫であった。小六は子供であった。彼は一年ぶりに殷んな都の炎熱と煤煙を呼吸するのをかえって嬉しく感じた。燬くような日の下に、渦を捲いて狂い出しそうな瓦の色が、幾里となく続く景色を、高い所から眺めて、これでこそ東京だと思う事さえあった。今の宗助なら目を眩しかねない事々物々が、ことごとく壮快の二字を彼の額に焼き付けべく、その時は反射して来たのである。
彼の未来は封じられた蕾のように、開かない先は他に知れないばかりでなく、自分にも確とは分らなかった。宗助はただ洋々の二字が彼の前途に棚引いている気がしただけであった。彼はこの暑い休暇中にも卒業後の自分に対する謀を忽がせにはしなかった。彼は大学を出てから、官途につこうか、または実業に従おうか、それすら、まだ判然と心にきめていなかったにかかわらず、どちらの方面でも構わず、今のうちから、進めるだけ進んでおく方が利益だと心づいた。彼は直接父の紹介を得た。父を通して間接にその知人の紹介を得た。そうして自分の将来を影響し得るような人を物色して、二三の訪問を試みた。彼らのあるものは、避暑という名義の下に、すでに東京を離れていた。あるものは不在であった。またあるものは多忙のため時を期して、勤務先で会おうと云った。宗助は日のまだ高くならない七時頃に、昇降器で煉瓦造の三階へ案内されて、そこの応接間に、もう七八人も自分と同じように、同じ人を待っている光景を見て驚ろいた事もあった。彼はこうして新らしい所へ行って、新らしい物に接するのが、用向の成否に関わらず、今まで眼に付かずに過ぎた活きた世界の断片を頭へ詰め込むような気がして何となく愉快であった。
父の云いつけで、毎年の通り虫干の手伝をさせられるのも、こんな時には、かえって興味の多い仕事の一部分に数えられた。彼は冷たい風の吹き通す土蔵の戸前の湿っぽい石の上に腰を掛けて、古くから家にあった江戸名所図会と、江戸砂子という本を物珍しそうに眺めた。畳まで熱くなった座敷の真中へ胡坐を掻いて、下女の買って来た樟脳を、小さな紙片に取り分けては、医者でくれる散薬のような形に畳んだ。宗助は小供の時から、この樟脳の高い香と、汗の出る土用と、炮烙灸と、蒼空を緩く舞う鳶とを連想していた。
とかくするうちに節は立秋に入った。二百十日の前には、風が吹いて、雨が降った。空には薄墨の煮染んだような雲がしきりに動いた。寒暖計が二三日下がり切りに下がった。宗助はまた行李を麻縄で絡げて、京都へ向う支度をしなければならなくなった。
彼はこの間にも安井と約束のある事は忘れなかった。家へ帰った当座は、まだ二カ月も先の事だからと緩くり構えていたが、だんだん時日が逼るに従って、安井の消息が気になってきた。安井はその後一枚の端書さえ寄こさなかったのである。宗助は安井の郷里の福井へ向けて手紙を出して見た。けれども返事はついに来なかった。宗助は横浜の方へ問い合わせて見ようと思ったが、つい番地も町名も聞いて置かなかったので、どうする事もできなかった。
立つ前の晩に、父は宗助を呼んで、宗助の請求通り、普通の旅費以外に、途中で二三日滞在した上、京都へ着いてからの当分の小遣を渡して、
「なるたけ節倹しなくちゃいけない」と諭した。
宗助はそれを、普通の子が普通の親の訓戒を聞く時のごとくに聞いた。父はまた、
「来年また帰って来るまでは会わないから、随分気をつけて」と云った。その帰って来る時節には、宗助はもう帰れなくなっていたのである。そうして帰って来た時は、父の亡骸がもう冷たくなっていたのである。宗助は今に至るまでその時の父の面影を思い浮べてはすまないような気がした。
いよいよ立つと云う間際に、宗助は安井から一通の封書を受取った。開いて見ると、約束通りいっしょに帰るつもりでいたが、少し事情があって先へ立たなければならない事になったからと云う断を述べた末に、いずれ京都で緩くり会おうと書いてあった。宗助はそれを洋服の内懐に押し込んで汽車に乗った。約束の興津へ来たとき彼は一人でプラットフォームへ降りて、細長い一筋町を清見寺の方へ歩いた。夏もすでに過ぎた九月の初なので、おおかたの避暑客は早く引き上げた後だから、宿屋は比較的閑静であった。宗助は海の見える一室の中に腹這になって、安井へ送る絵端書へ二三行の文句を書いた。そのなかに、君が来ないから僕一人でここへ来たという言葉を入れた。
翌日も約束通り一人で三保と竜華寺を見物して、京都へ行ってから安井に話す材料をできるだけ拵えた。しかし天気のせいか、当にした連のないためか、海を見ても、山へ登っても、それほど面白くなかった。宿にじっとしているのは、なお退屈であった。宗助は匆々にまた宿の浴衣を脱ぎ棄てて、絞りの三尺と共に欄干に掛けて、興津を去った。
京都へ着いた一日目は、夜汽車の疲れやら、荷物の整理やらで、往来の日影を知らずに暮らした。二日目になってようやく学校へ出て見ると、教師はまだ出揃っていなかった。学生も平日よりは数が不足であった。不審な事には、自分より三四っ日前に帰っているべきはずの安井の顔さえどこにも見えなかった。宗助はそれが気にかかるので、帰りにわざわざ安井の下宿へ回って見た。安井のいる所は樹と水の多い加茂の社の傍であった。彼は夏休み前から、少し閑静な町外れへ移って勉強するつもりだとか云って、わざわざこの不便な村同様な田舎へ引込んだのである。彼の見つけ出した家からが寂た土塀を二方に回らして、すでに古風に片づいていた。宗助は安井から、そこの主人はもと加茂神社の神官の一人であったと云う話を聞いた。非常に能弁な京都言葉を操る四十ばかりの細君がいて、安井の世話をしていた。
「世話って、ただ不味い菜を拵らえて、三度ずつ室へ運んでくれるだけだよ」と安井は移り立てからこの細君の悪口を利いていた。宗助は安井をここに二三度訪ねた縁故で、彼のいわゆる不味い菜を拵らえる主を知っていた。細君の方でも宗助の顔を覚えていた。細君は宗助を見るや否や、例の柔かい舌で慇懃な挨拶を述べた後、こっちから聞こうと思って来た安井の消息を、かえって向うから尋ねた。細君の云うところによると、彼は郷里へ帰ってから当日に至るまで、一片の音信さえ下宿へは出さなかったのである。宗助は案外な思で自分の下宿へ帰って来た。
それから一週間ほどは、学校へ出るたんびに、今日は安井の顔が見えるか、明日は安井の声がするかと、毎日漠然とした予期を抱いては教室の戸を開けた。そうして毎日また漠然とした不足を感じては帰って来た。もっとも最後の三四日における宗助は早く安井に会いたいと思うよりも、少し事情があるから、失敬して先へ立つとわざわざ通知しながら、いつまで待っても影も見せない彼の安否を、関係者としてむしろ気にかけていたのである。彼は学友の誰彼に万遍なく安井の動静を聞いて見た。しかし誰も知るものはなかった。ただ一人が、昨夕四条の人込の中で、安井によく似た浴衣がけの男を見たと答えた事があった。しかし宗助にはそれが安井だろうとは信じられなかった。ところがその話を聞いた翌日、すなわち宗助が京都へ着いてから約一週間の後、話の通りの服装をした安井が、突然宗助の所へ尋ねて来た。
宗助は着流しのまま麦藁帽を手に持った友達の姿を久し振に眺めた時、夏休み前の彼の顔の上に、新らしい何物かがさらに付け加えられたような気がした。安井は黒い髪に油を塗って、目立つほど奇麗に頭を分けていた。そうして今床屋へ行って来たところだと言訳らしい事を云った。
その晩彼は宗助と一時間余りも雑談に耽った。彼の重々しい口の利き方、自分を憚かって、思い切れないような話の調子、「しかるに」と云う口癖、すべて平生の彼と異なる点はなかった。ただ彼はなぜ宗助より先へ横浜を立ったかを語らなかった。また途中どこで暇取ったため、宗助より後れて京都へ着いたかを判然告げなかった。しかし彼は三四日前ようやく京都へ着いた事だけを明かにした。そうして、夏休み前にいた下宿へはまだ帰らずにいると云った。
「それでどこに」と宗助が聞いたとき、彼は自分の今泊っている宿屋の名前を、宗助に教えた。それは三条辺の三流位の家であった。宗助はその名前を知っていた。
「どうして、そんな所へ這入ったのだ。当分そこにいるつもりなのかい」と宗助は重ねて聞いた。安井はただ少し都合があってとばかり答えたが、
「下宿生活はもうやめて、小さい家でも借りようかと思っている」と思いがけない計画を打ち明けて、宗助を驚ろかした。
それから一週間ばかりの中に、安井はとうとう宗助に話した通り、学校近くの閑静な所に一戸を構えた。それは京都に共通な暗い陰気な作りの上に、柱や格子を黒赤く塗って、わざと古臭く見せた狭い貸家であった。門口に誰の所有ともつかない柳が一本あって、長い枝がほとんど軒に触りそうに風に吹かれる様を宗助は見た。庭も東京と違って、少しは整っていた。石の自由になる所だけに、比較的大きなのが座敷の真正面に据えてあった。その下には涼しそうな苔がいくらでも生えた。裏には敷居の腐った物置が空のままがらんと立っている後に、隣の竹藪が便所の出入りに望まれた。
宗助のここを訪問したのは、十月に少し間のある学期の始めであった。残暑がまだ強いので宗助は学校の往復に、蝙蝠傘を用いていた事を今に記憶していた。彼は格子の前で傘を畳んで、内を覗き込んだ時、粗い縞の浴衣を着た女の影をちらりと認めた。格子の内は三和土で、それが真直に裏まで突き抜けているのだから、這入ってすぐ右手の玄関めいた上り口を上らない以上は、暗いながら一筋に奥の方まで見える訳であった。宗助は浴衣の後影が、裏口へ出る所で消えてなくなるまでそこに立っていた。それから格子を開けた。玄関へは安井自身が現れた。
座敷へ通ってしばらく話していたが、さっきの女は全く顔を出さなかった。声も立てず、音もさせなかった。広い家でないから、つい隣の部屋ぐらいにいたのだろうけれども、いないのとまるで違わなかった。この影のように静かな女が御米であった。
安井は郷里の事、東京の事、学校の講義の事、何くれとなく話した。けれども、御米の事については一言も口にしなかった。宗助も聞く勇気に乏しかった。その日はそれなり別れた。
次の日二人が顔を合したとき、宗助はやはり女の事を胸の中に記憶していたが、口へ出しては一言も語らなかった。安井も何気ない風をしていた。懇意な若い青年が心易立に話し合う遠慮のない題目は、これまで二人の間に何度となく交換されたにもかかわらず、安井はここへ来て、息詰ったごとくに見えた。宗助もそこを無理にこじ開けるほどの強い好奇心は有たなかった。したがって女は二人の意識の間に挟まりながら、つい話頭に上らないで、また一週間ばかり過ぎた。
その日曜に彼はまた安井を訪うた。それは二人の関係している或会について用事が起ったためで、女とは全く縁故のない動機から出た淡泊な訪問であった。けれども座敷へ上がって、同じ所へ坐らせられて、垣根に沿うた小さな梅の木を見ると、この前来た時の事が明らかに思い出された。その日も座敷の外は、しんとして静であった。宗助はその静かなうちに忍んでいる若い女の影を想像しない訳に行かなかった。同時にその若い女はこの前と同じように、けっして自分の前に出て来る気遣はあるまいと信じていた。
この予期の下に、宗助は突然御米に紹介されたのである。その時御米はこの間のように粗い浴衣を着てはいなかった。これからよそへ行くか、または今外から帰って来たと云う風な粧をして、次の間から出て来た。宗助にはそれが意外であった。しかし大した綺羅を着飾った訳でもないので、衣服の色も、帯の光も、それほど彼を驚かすまでには至らなかった。その上御米は若い女にありがちの嬌羞というものを、初対面の宗助に向って、あまり多く表わさなかった。ただ普通の人間を静にして言葉寡なに切りつめただけに見えた。人の前へ出ても、隣の室に忍んでいる時と、あまり区別のないほど落ちついた女だという事を見出した宗助は、それから推して、御米のひっそりしていたのは、穴勝恥かしがって、人の前へ出るのを避けるためばかりでもなかったんだと思った。
安井は御米を紹介する時、
「これは僕の妹だ」という言葉を用いた。宗助は四五分対坐して、少し談話を取り換わしているうちに、御米の口調のどこにも、国訛らしい音の交っていない事に気がついた。
「今まで御国の方に」と聞いたら、御米が返事をする前に安井が、
「いや横浜に長く」と答えた。
その日は二人して町へ買物に出ようと云うので、御米は不断着を脱ぎ更えて、暑いところをわざわざ新らしい白足袋まで穿いたものと知れた。宗助はせっかくの出がけを喰い留めて、邪魔でもしたように気の毒な思をした。
「なに宅を持ち立てだものだから、毎日毎日要るものを新らしく発見するんで、一週に一二返は是非都まで買い出しに行かなければならない」と云いながら安井は笑った。
「途までいっしょに出掛けよう」と宗助はすぐ立ち上がった。ついでに家の様子を見てくれと安井の云うに任せた。宗助は次の間にある亜鉛の落しのついた四角な火鉢や、黄な安っぽい色をした真鍮の薬鑵や、古びた流しの傍に置かれた新らし過ぎる手桶を眺めて、門へ出た。安井は門口へ錠をおろして、鍵を裏の家へ預けるとか云って、走けて行った。宗助と御米は待っている間、二言、三言、尋常な口を利いた。
宗助はこの三四分間に取り換わした互の言葉を、いまだに覚えていた。それはただの男がただの女に対して人間たる親みを表わすために、やりとりする簡略な言葉に過ぎなかった。形容すれば水のように浅く淡いものであった。彼は今日まで路傍道上において、何かの折に触れて、知らない人を相手に、これほどの挨拶をどのくらい繰り返して来たか分らなかった。
宗助は極めて短かいその時の談話を、一々思い浮べるたびに、その一々が、ほとんど無着色と云っていいほどに、平淡であった事を認めた。そうして、かく透明な声が、二人の未来を、どうしてああ真赤に、塗りつけたかを不思議に思った。今では赤い色が日を経て昔の鮮かさを失っていた。互を焚き焦がしたは、自然と変色して黒くなっていた。二人の生活はかようにして暗い中に沈んでいた。宗助は過去を振り向いて、事の成行を逆に眺め返しては、この淡泊な挨拶が、いかに自分らの歴史を濃く彩ったかを、胸の中であくまで味わいつつ、平凡な出来事を重大に変化させる運命の力を恐ろしがった。
宗助は二人で門の前に佇んでいる時、彼らの影が折れ曲って、半分ばかり土塀に映ったのを記憶していた。御米の影が蝙蝠傘で遮ぎられて、頭の代りに不規則な傘の形が壁に落ちたのを記憶していた。少し傾むきかけた初秋の日が、じりじり二人を照り付けたのを記憶していた。御米は傘を差したまま、それほど涼しくもない柳の下に寄った。宗助は白い筋を縁に取った紫の傘の色と、まだ褪め切らない柳の葉の色を、一歩遠退いて眺め合わした事を記憶していた。
今考えるとすべてが明らかであった。したがって何らの奇もなかった。二人は土塀の影から再び現われた安井を待ち合わして、町の方へ歩いた。歩く時、男同志は肩を並べた。御米は草履を引いて後に落ちた。話も多くは男だけで受持った。それも長くはなかった。途中まで来て宗助は一人分れて、自分の家へ帰ったからである。
けれども彼の頭にはその日の印象が長く残っていた。家へ帰って、湯に入って、灯火の前に坐った後にも、折々色の着いた平たい画として、安井と御米の姿が眼先にちらついた。それのみか床に入ってからは、妹だと云って紹介された御米が、果して本当の妹であろうかと考え始めた。安井に問いつめない限り、この疑の解決は容易でなかったけれども、臆断はすぐついた。宗助はこの臆断を許すべき余地が、安井と御米の間に充分存在し得るだろうぐらいに考えて、寝ながらおかしく思った。しかもその臆断に、腹の中で徊する事の馬鹿馬鹿しいのに気がついて、消し忘れた洋灯をようやくふっと吹き消した。
こう云う記憶の、しだいに沈んで痕迹もなくなるまで、御互の顔を見ずに過すほど、宗助と安井とは疎遠ではなかった。二人は毎日学校で出合うばかりでなく、依然として夏休み前の通り往来を続けていた。けれども宗助が行くたびに、御米は必ず挨拶に出るとは限らなかった。三返に一返ぐらい、顔を見せないで、始ての時のように、ひっそり隣りの室に忍んでいる事もあった。宗助は別にそれを気にも留めなかった。それにもかかわらず、二人はようやく接近した。幾何ならずして冗談を云うほどの親みができた。
そのうちまた秋が来た。去年と同じ事情の下に、京都の秋を繰り返す興味に乏しかった宗助は、安井と御米に誘われて茸狩に行った時、朗らかな空気のうちにまた新らしい香を見出した。紅葉も三人で観た。嵯峨から山を抜けて高雄へ歩く途中で、御米は着物の裾を捲くって、長襦袢だけを足袋の上まで牽いて、細い傘を杖にした。山の上から一町も下に見える流れに日が射して、水の底が明らかに遠くから透かされた時、御米は
「京都は好い所ね」と云って二人を顧みた。それをいっしょに眺めた宗助にも、京都は全く好い所のように思われた。
こう揃って外へ出た事も珍らしくはなかった。家の中で顔を合わせる事はなおしばしばあった。或時宗助が例のごとく安井を尋ねたら、安井は留守で、御米ばかり淋しい秋の中に取り残されたように一人坐っていた。宗助は淋しいでしょうと云って、つい座敷に上り込んで、一つ火鉢の両側に手を翳しながら、思ったより長話をして帰った。或時宗助がぽかんとして、下宿の机に倚りかかったまま、珍らしく時間の使い方に困っていると、ふと御米がやって来た。そこまで買物に出たから、ついでに寄ったんだとか云って、宗助の薦める通り、茶を飲んだり菓子を食べたり、緩くり寛ろいだ話をして帰った。
こんな事が重なって行くうちに、木の葉がいつの間にか落ちてしまった。そうして高い山の頂が、ある朝真白に見えた。吹き曝しの河原が白くなって、橋を渡る人の影が細く動いた。その年の京都の冬は、音を立てずに肌を透す陰忍な質のものであった。安井はこの悪性の寒気にあてられて、苛いインフルエンザに罹った。熱が普通の風邪よりもよほど高かったので、始は御米も驚ろいたが、それは一時の事で、すぐ退いたには退いたから、これでもう全快と思うと、いつまで立っても判然しなかった。安井は黐のような熱に絡みつかれて、毎日その差し引きに苦しんだ。
医者は少し呼吸器を冒されているようだからと云って、切に転地を勧めた。安井は心ならず押入の中の柳行李に麻縄を掛けた。御米は手提鞄に錠をおろした。宗助は二人を七条まで見送って、汽車が出るまで室の中へ這入って、わざと陽気な話をした。プラットフォームへ下りた時、窓の内から、
「遊びに来たまえ」と安井が云った。
「どうぞ是非」と御米が言った。
汽車は血色の好い宗助の前をそろそろ過ぎて、たちまち神戸の方に向って煙を吐いた。
病人は転地先で年を越した。絵端書は着いた日から毎日のように寄こした。それにいつでも遊びに来いと繰り返して書いてない事はなかった。御米の文字も一二行ずつは必ず交っていた。宗助は安井と御米から届いた絵端書を別にして机の上に重ねて置いた。外から帰るとそれが直眼に着いた。時々はそれを一枚ずつ順に読み直したり、見直したりした。しまいにもうすっかり癒ったから帰る。しかしせっかくここまで来ながら、ここで君の顔を見ないのは遺憾だから、この手紙が着きしだい、ちょっとでいいから来いという端書が来た。無事と退屈を忌む宗助を動かすには、この十数言で充分であった。宗助は汽車を利用してその夜のうちに安井の宿に着いた。
明るい灯火の下に三人が待設けた顔を合わした時、宗助は何よりもまず病人の色沢の回復して来た事に気がついた。立つ前よりもかえって好いくらいに見えた。安井自身もそんな心持がすると云って、わざわざ襯衣の袖を捲り上げて、青筋の入った腕を独で撫でていた。御米も嬉しそうに眼を輝かした。宗助にはその活溌な目遣がことに珍らしく受取れた。今まで宗助の心に映じた御米は、色と音の撩乱する裏に立ってさえ、極めて落ちついていた。そうしてその落ちつきの大部分はやたらに動かさない眼の働らきから来たとしか思われなかった。
次の日三人は表へ出て遠く濃い色を流す海を眺めた。松の幹から脂の出る空気を吸った。冬の日は短い空を赤裸々に横切っておとなしく西へ落ちた。落ちる時、低い雲を黄に赤に竈の火の色に染めて行った。風は夜に入っても起らなかった。ただ時々松を鳴らして過ぎた。暖かい好い日が宗助の泊っている三日の間続いた。
宗助はもっと遊んで行きたいと云った。御米はもっと遊んで行きましょうと云った。安井は宗助が遊びに来たから好い天気になったんだろうと云った。三人はまた行李と鞄を携えて京都へ帰った。冬は何事もなく北風を寒い国へ吹きやった。山の上を明らかにした斑な雪がしだいに落ちて、後から青い色が一度に芽を吹いた。
宗助は当時を憶い出すたびに、自然の進行がそこではたりと留まって、自分も御米もたちまち化石してしまったら、かえって苦はなかったろうと思った。事は冬の下から春が頭を擡げる時分に始まって、散り尽した桜の花が若葉に色を易える頃に終った。すべてが生死の戦であった。青竹を炙って油を絞るほどの苦しみであった。大風は突然不用意の二人を吹き倒したのである。二人が起き上がった時はどこもかしこもすでに砂だらけであったのである。彼らは砂だらけになった自分達を認めた。けれどもいつ吹き倒されたかを知らなかった。
世間は容赦なく彼らに徳義上の罪を背負した。しかし彼ら自身は徳義上の良心に責められる前に、いったん茫然として、彼らの頭が確であるかを疑った。彼らは彼らの眼に、不徳義な男女として恥ずべく映る前に、すでに不合理な男女として、不可思議に映ったのである。そこに言訳らしい言訳が何にもなかった。だからそこに云うに忍びない苦痛があった。彼らは残酷な運命が気紛に罪もない二人の不意を打って、面白半分穽の中に突き落したのを無念に思った。
曝露の日がまともに彼らの眉間を射たとき、彼らはすでに徳義的に痙攣の苦痛を乗り切っていた。彼らは蒼白い額を素直に前に出して、そこにに似た烙印を受けた。そうして無形の鎖で繋がれたまま、手を携えてどこまでも、いっしょに歩調を共にしなければならない事を見出した。彼らは親を棄てた。親類を棄てた。友達を棄てた。大きく云えば一般の社会を棄てた。もしくはそれらから棄てられた。学校からは無論棄てられた。ただ表向だけはこちらから退学した事になって、形式の上に人間らしい迹を留めた。
これが宗助と御米の過去であった。