山羊の歌 中原中也

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羊の歌
  安原喜弘に

 
 
 
 

   

 ※(ローマ数字1、1-13-21) 祈り
 

死の時には私が仰向あふむかんことを!
この小さなあごが、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかつたことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

 

   

 ※(ローマ数字2、1-13-22)
 

思惑よ、汝 古く暗き気体よ、
わがうちより去れよかし!
われはや単純と静けきつぶやきと、
とまれ、清楚のほかをねがはず。
 
交際よ、汝陰鬱なる汚濁をぢよくの許容よ、
あらためてわれを目覚ますことなかれ!
われはや孤寂に耐へんとす、
わが腕は既に無用のものに似たり。
 
汝、疑ひとともに見開くまなこ
見開きたるまゝに暫しは動かぬ眼よ、
あゝ、己の外をあまりに信ずる心よ、
 
それよ思惑、汝 古く暗き空気よ、
わが裡より去れよかし去れよかし!
われはや、貧しきわが夢のほかに興ぜず

 

   

 ※(ローマ数字3、1-13-23)
 

    我が生は恐ろしい嵐のやうであつた、
    其処此処そこここに時々陽の光も落ちたとはいへ。
                       ボードレール
 
九歳の子供がありました
女の子供でありました
世界の空気が、彼女のいうであるやうに
またそれは、つかかられるもののやうに
彼女は頸をかしげるのでした
私と話してゐる時に。
 
私は炬燵こたつにあたつてゐました
彼女は畳に坐つてゐました
冬の日の、珍しくよい天気の午前
私のへやには、陽がいつぱいでした
彼女が頸かしげると
彼女の耳朶みみのは 陽に透きました。
 
私を信頼しきつて、安心しきつて
かの女の心は蜜柑みかんの色に
そのやさしさは氾濫はんらんするなく、かといつて
鹿のやうに縮かむこともありませんでした
私はすべての用件を忘れ
この時ばかりはゆるやかに時間を熟読翫味ぐわんみしました。

 

   

さるにても、もろにわびしいわが心
夜な夜なは、下宿のへやに独りゐて
思ひなき、思ひを思ふ 単調の
つまし心の連弾よ……
 
汽車の笛聞こえもくれば
旅おもひ、幼き日をばおもふなり
いなよいなよ、幼き日をも旅をも思はず
旅とみえ、幼き日とみゆものをのみ……
 
思ひなき、おもひを思ふわが胸は
閉ざされて、かびゆる手匣てばこにこそはさも似たれ
しらけたるくち、乾きし頬
酷薄の、これな寂莫しじまにほとぶなり……
 
これやこの、慣れしばかりに耐へもする
さびしさこそはせつなけれ、みづからは
それともしらず、ことやうに、たまさかに
ながる涙は、人恋ふる涙のそれにもはやあらず……