山羊の歌 中原中也

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 憔悴
 
 
 
 
 
私はも早、善い意志をもつては目覚めなかつた
起きればうれはしい 平常いつものおもひ
私は、悪い意志をもつてゆめみた……
(私は其処そこに安住したのでもないが、
其処を抜け出すこともかなはなかつた)
そして、夜が来ると私は思ふのだつた、
此の世は、海のやうなものであると。
私はすこししけてゐる宵の海をおもつた
其処を、やつれた顔の船頭は
おぼつかない手で漕ぎながら
獲物があるかあるまいことか
水のおもてを、にらめながらに過ぎてゆく

 

   

 ※(ローマ数字2、1-13-22)
 

昔 私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
 
今私は恋愛詩を詠み
甲斐あることに思ふのだ
 
だがまだ今でもともすると
恋愛詩よりもましな詩境にはいりたい
 
その心が間違つてゐるかゐないか知らないが
とにかくさういふ心が残つてをり
 
それは時々私をいらだて
とんだ希望を起させる
 
昔私は思つてゐたものだつた
恋愛詩なぞ愚劣なものだと
 
けれどもいまでは恋愛を
ゆめみるほかに能がない

 

   

 ※(ローマ数字3、1-13-23)
 

それが私の堕落かどうか
どうして私に知れようものか
 
腕にたるむだ私の怠惰
今日も日が照る 空は青いよ
 
ひよつとしたなら昔から
おれの手に負へたのはこの怠惰だけだつたかもしれぬ
 
真面目な希望も その怠惰の中から
憧憬しようけいしたのにすぎなかつたかもしれぬ
 
あゝ それにしてもそれにしても
ゆめみるだけの 男にならうとはおもはなかつた!

 

   


 
 

しかし此の世の善だの悪だの
容易に人間に分りはせぬ
 
人間に分らない無数の理由が
あれをもこれをも支配してゐるのだ
 
山蔭の清水しみづのやうに忍耐ぶかく
つぐむでゐればたのしいだけだ
 
汽車からみえる 山も 草も
空も 川も みんなみんな
 
やがては全体の調和に溶けて
空に昇つて 虹となるのだらうとおもふ……

 

   

 ※(ローマ数字5、1-13-25)
 

さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすればわらはれないですむだらうか、とかと
 
要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、
 
僕はあなたがたの心ももつともと感じ
一生懸命がうに従つてもみたのだが
 
今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに
 
さうしてこの怠惰のまどの中から
扇のかたちに食指をひろげ
 
青空をふ ひま
蛙さながら水にうかんで
 
よるよるとて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。

 

   

 ※(ローマ数字6、1-13-26)
 

しかし またかうした僕の状態がつづき、
僕とても何か人のするやうなことをしなければならないと思ひ、
自分の生存をしんきくさく感じ、
ともすると百貨店のお買上品届け人にさへ驚嘆する。
 
そして理窟はいつでもはつきりしてゐるのに
気持の底ではゴミゴミゴミゴミ懐疑の小屑をくづが一杯です。
それがばかげてゐるにしても、その二つつが
僕の中にあり、僕から抜けぬことはたしかなのです。
 
と、聞えてくる音楽には心惹かれ、
ちよつとは生き生きしもするのですが、
その時その二つつは僕の中に死んで、
 
あゝ 空の歌、海の歌、
ぼくは美の、核心を知つてゐるとおもふのですが
それにしても辛いことです、怠惰を※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)のがれるすべがない!