山羊の歌 中原中也

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 いのちの声
 
 

       もろもろのわざ、太陽のもとにてはあをざめたるかな。
                   ――ソロモン
 
 
僕はもうバッハにもモツアルトにも倦果てた。
あの幸福な、お調子者のヂャズにもすつかり倦果てた。
僕は雨上りの曇つた空の下の鉄橋のやうに生きてゐる。
僕に押寄せてゐるものは、何時でもそれは寂漠だ。
 
僕はその寂漠の中にすつかり沈静してゐるわけでもない。
僕は何かを求めてゐる、絶えず何かを求めてゐる。
恐ろしく不動の形の中にだが、また恐ろしくれてゐる。
そのためにははや、食慾も性慾もあつてなきが如くでさへある。
 
しかし、それが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それが二つあるとは思へない、ただ一つであるとは思ふ。
しかしそれが何かは分らない、つひぞ分つたためしはない。
それに行き著く一か八かの方途さへ、悉皆すつかり分つたためしはない。
 
時に自分を揶揄からかふやうに、僕は自分にいてみるのだ。
それは女か? うまいものか? それは栄誉か?
すると心は叫ぶのだ、あれでもない、これでもない、あれでもないこれでもない!
それでは空の歌、朝、高空に、鳴響く空の歌とでもいふのであらうか?

 

   

 ※(ローマ数字2、1-13-22)
 

いづれとさへそれはいふことの出来ぬもの!
手短かに、時に説明したくなるとはいふものの、
説明なぞ出来ぬものでこそあれ、我が生は生くるに値ひするものと信ずる
それよ現実! 汚れなき幸福! あらはるものはあらはるまゝによいといふこと!
 
人は皆、知ると知らぬにかかはらず、そのことを希望してをり、
勝敗に心さとき程は知るによしないものであれ、
それは誰も知る、放心の快感に似て、誰もが望み
誰もがこの世にある限り、完全には望み得ないもの!
 
併し幸福といふものが、このやうに無私のさかひのものであり、
かの慧敏けいびんなる商人の、称して阿呆あはうといふでもあらう底のものとすれば、
めしをくはねば生きてゆかれぬ現身うつしみの世は、
不公平なものであるよといはねばならぬ。
 
だが、それが此の世といふものなんで、
其処そこに我等は生きてをり、それは任意の不公平ではなく、
それによつて我等自身も構成されたる原理であれば、
然らば、この世に極端はないとて、一先づ休心するもよからう。

 

   

 ※(ローマ数字3、1-13-23)
 

されば要は、熱情の問題である。
汝、心の底より立腹せば
怒れよ!
 
さあれ、怒ることこそ
が最後なる目標の前にであれ、
このことゆめゆめおろそかにするなかれ。
 
そは、熱情はひととき持続し、やがてむなるに、
その社会的効果は存続し、
が次なる行為への転調のさまたげとなるなれば。

 

   


 
 

ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於て文句はないのだ。

 
 
 

 
       
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:「中原中也詩集」岩波文庫、岩波書店
   1981(昭和56)年6月16日第1刷発行
   1997(平成9)年12月5日第37刷発行
底本の親本:「中原中也全集 第1巻 詩 ※()」角川書店
   1967(昭和42)年10月20日印刷発行
初出:「山羊の歌」文圃堂
   1934(昭和9)年12月10日
入力:浜野安紀子
1998年11月29日公開
2010年11月2日修正
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