ゴリオ爺さん バルザック

.

三年目が終わろうとする頃、ゴリオ爺さんは四階に上がって、月々の下宿代が四十五フランの部屋に移ることによって、更に出費を切り詰めた。彼は煙草をやめ、鬘師を解雇し、髪粉を塗らなくなった。ゴリオ爺さんが、初めて髪粉を塗らないで現れた時、女家主は彼の髪の色に気がついて、思わず驚きの声を漏らした。それは黴のような薄汚れた緑がかっていた。彼の顔つきは人知れぬ心配事のために、知らぬ間に日々悲しげになっていって、食卓を囲む人達の中で、誰よりも悲嘆に暮れた様子になってしまっていた。もはや何の疑いもなかった。ゴリオ爺さんは年老いた放蕩者で、彼の目は、例の病気なのに熟練した医者の治療を受けず、勝手な薬を使ったために悪くなったのに違いなかった。彼の髪の不快な色も、放蕩とやはり使い続けていた例の薬の影響が出たものだった。爺さんの肉体的、精神的状態が、このいい加減な噂をありそうなことと認めさせた。彼の下着類一式が擦り切れた時、彼はそれまでの素晴らしい麻の下着の代わりにする積りだったのか、安物の木綿の布を買い求めていた。彼のダイヤモンド、金製の煙草入れ、鎖、宝石が一つずつ消えていった。彼はまた紺青の礼服をはじめ豪華な衣類をすべて手放し、その結果、夏も冬もごわごわした栗色のフロックコート、山羊皮のチョッキ、それと羊毛を編んだ灰色のズボンを着通すことになってしまった。彼は見る間に痩せ衰えていった。ふくらはぎの肉が落ちた。彼の体型は、恵まれた資産階級の満足感で、ふっくらとしていたが、痩せて皺くちゃに萎んでしまった。彼の額に皺がより、顎の輪郭がはっきり出てきた。彼がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に定住して四年目に入ると、彼はすっかり人が変わってしまった。この善良な六十二歳の製麺業者はかつては四十歳にもなっていないように見え、太って脂ぎった金持ちで、野獣のように元気で、その陽気な物腰は通りすがりの人まで楽しい気分にさせ、その微笑には何ともいえぬ若々しさを感じさせたものだが、それが今では七十歳くらいのぼんやりした、頼りなげな、青白い男になってしまった。彼の青い目はとても活き活きしていたものだが、それも生気のない情もない色に変わってしまったので、すっかり色褪せて、もう涙を流すこともなさそうに見えた。目の縁の赤いのが、まるで血の涙を流したように見えた。ある者は彼をむごたらしく感じ、またある者は彼のことを憐れんだ。医学部の若い学生は、彼の下唇がたるんできたのに気づいて、彼の顔の頂点とそこを結ぶ角度を測ったうえで、彼はクレチン病に侵されているという診断を下した。その際その学生は診察のためゴリオに長時間の苦痛を強いたが、治療を施す意図は最初からなかった。ある夕方、夕食が終わってから、ヴォーケ夫人はいかにも嘲笑的な口調で彼に言ったものだ。「さてさて彼女達、この頃はさっぱり貴方の顔を見においでじゃないわね、どうしたの、娘さん達?」彼が父親であることに疑惑をかけられたゴリオ爺さんは、女家主にまるで鉄棒を突っ込まれたような具合にびくっとした。
「娘達は何度も来てますよ」彼は動揺した声で答えた。
「あー! あー! 貴方っていまだに彼女達としょっちゅう会ってるんだ!」学生達が叫んだ。「ヴラヴォー、ゴリオ爺さん!」
 しかし老人は自分の応答が彼等に言わせた冗談を聞いてはいなかった。彼はまた何か物思いに沈んでいる風で、これをうわべだけ観察した学生達は老人の呆けたような反応を捉えて、それを彼の知性の欠如のせいにした。もし彼等が彼のことを良く知っていたら、彼にこのような肉体的、精神的状態をもたらせた問題に恐らく大いに興味を抱いたに違いない。しかし、彼等がそういう方向に動くほど難しいことはないのだ。ゴリオが本当に製麺業者だったのか、あるいは彼の財産の数字はどれほど大きかったのかを知ることはそれほど難しくはなかっただろうが、もっぱら彼の財産に対して好奇心を掻き立てられた年寄り連中はこの界隈から出てゆこうとしなかったし、まるで岩にしがみついた牡蠣のように、この下宿の中に住みついていた。その他の人々となると、ひとたびネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通から出ると、花の都パリの熱気が、彼等がいつも馬鹿にしている哀れな老人のことなど忘れさせた。この偏狭な頭の持ち主達にとって、またこの無頓着な若者達にとっても、ゴリオ爺さんのお粗末な情けない有様や痴呆染みた物腰は、どう見ても、何らかの財産や能力といったものとは両立し得ないことのように思われた。彼が自分の娘だと言い張る女性達については、誰も彼も、ヴォーケ夫人の意見に賛成していた。彼女は、年配の婦人達が夜会の間中おしゃべりに夢中になっていると、いつもそこへ到達するのが習慣となっている厳しい理論を背景にして言ったものだ。
「たとえゴリオ爺さんが、あのうちへ会いに来た女性達が揃いも揃って豪華に見えたけど、それほどに金持ちの娘を持っているにしても、どうしてうちの下宿になんかいるんだろ、しかも四階にだよ、月に四十五フランの下宿代払ってさ、だったら貧乏ったらしい服装でいるわけないじゃないの」
 この帰納法を否定出来る者は全然いなかった。更に一八一九年の十一月が終わる頃、それはこのドラマに一大転機が訪れた時期でもあったのだが、この下宿の誰もが哀れな老人に対して、ある種の固定観念を持って、じっと眺めていたのだった。彼には娘なんていなかったし、妻だっていなかったはずだ。悪い遊びに耽り過ぎた結果が、彼をナメクジというか、人間の形をした軟体動物にしてしまった。さしずめ、軟体動物科の帽子属に分類したらよいでしょうなと、食事客の常連であった博物館職員が言った。同じ帽子属でも、ポワレはゴリオに比べると、まるで鷲の様で紳士だった。ポワレは話せるし、理詰めだし、人にはちゃんと答えていた。しかし本当のところはポワレだって、彼が話し、理屈を言い、あるいは答えたりしていても、実質的には何も言ってはいなかったのだ。何故なら、彼には他人が言った言葉を繰り返して言う癖があったのだ。とはいえ、彼は会話を盛り上げる役目を果たし、活気があるし、感性に富んでいるようにも見えた。それに引き換え、ゴリオ爺さんときたら、――これも例の博物館職員が言ったのだが――体温計で彼を測ったところで、ナメクジはいつだって零度という有様だったというのだ。
 ウージェーヌ・ド・ラスチニャックは、優れた若者なら当然心得ているべき精神状態の中にあった、というより、困難に直面した時に、彼の一流の人物としての資質が、その片鱗を見せる状況が迫りつつあったというべきだろう。彼のパリ滞在一年目は、法学部で初年度の学位を取るのに大して勉強することもなかったので、パリ的な物の中で特に視覚的な楽しみを存分に味わうことが出来た。しかしながら、もし彼があらゆる劇場の出し物を知り、パリの迷宮の出口を探り、その効用も知り、言葉を学びそして首都ならではの遊びにも慣れ親しむには、学生にしても十分な時間があるとは言えなかった。それにもっと、良いところや悪いところにも足を踏み入れたかったし、面白そうな授業を受けたり、美術館の財産の明細目録も作りたかった。学生というのはまた下らない事がやけに荘厳なことに思えて情熱を燃やすものなのだ。彼には尊敬する人物がいて、それはコレージュ・ド・フランスの教授だったりする。彼はその教授の授業を聴講するレベルに上がりたくて授業料を払うのだ。彼は上等のネクタイを締めて、オペラコミック座の二階回廊席の婦人達の目を意識して立ち現れる。彼は成功裏にこの儀礼を通過することによって、若木の柔らかい白木質を脱ぎ捨て、人生の地平線を遠くに拡げる。そして最後には社会を構成する人間の階層の重なりを理解するのだ。もしも彼が美しい太陽のもとでシャンゼリゼに並ぶ馬車に感嘆することから出発したとしても、社会機構を学んだ彼はたちまちそれらの馬車を羨むことになっていただろう。
 ウージェーヌは大学入学資格を手紙で知らされ、大学入学資格の権利を手に入れた後、休暇旅行に出たが、その時以来、無意識のうちに、こうした事に対する訓練を積んでいた。彼の子供っぽい幻想、田舎の思想は消え去った。彼の修正された英知、彼の高められた野望は、たとえ家族の中にあっても、彼をして真正面から見据えしめるのは、まさしく家の主たる父親の地位だけだった。彼の父、彼の母、二人の弟、二人の妹、それに年金だけが財産という叔母が一人と、これだけの人々がラスチニャック家の小さな土地に住んでいた。この地所からは、およそ三千フランの年収が見込まれていたが、それこそ不確定要素に頼らざるを得ないような数字で、葡萄に関わる全ての産業の生産活動はそれに支配されていた。にもかわらず、彼は毎年自分のために一二〇〇フランの金をそこから引っ張り出すしかなかったのだった。この絶え間のない困窮は、普段彼の目には入ってこなかったが、彼が小さい頃は自分の二人の妹達のことをひたすら綺麗だと思って見ていたものだが、今や彼女達とパリの女性達との間に横たわる違いに嫌でも気づかされてしまうのだった。パリの女は、彼が夢想していた美を体現化して見せてくれた。同時に、彼の肩にかかる大家族の何とも不安定な未来があり、そこでは細心の注意を払っても極めて貧弱な生産しか得られないことは彼も知っていた。果物の搾りかすで作った彼の家族用の飲み物、最後にここに書きとめられないような多くの事情が彼の出世欲を増大させ、他に抜きん出たいという渇望を彼に植え付けた。彼は大人物に近づくに連れて、自分の手柄になること以外は何もしないことを望むようになっていった。しかし彼の精神は極めて南仏的だった。実行の段になると、彼の決心もまた、大海原でどちらにむけて力をこめるのか、あるいは、どの角度に向けてヨットの帆を膨らませるべきかを知らないあの若者達を捉える躊躇によって横面を張られるのだった。たとえ最初はがむしゃらに仕事に飛び込んでゆくにしても、やがては縁故を作ってゆく必要に駆られて、彼は婦人達が社交界にどれくらいの影響力を持っているのかに注意を払うようになった。そして急に社交界に飛び込んでみようと思い巡らせ始めた。そこで庇護者となる婦人をものにする積りだった。婦人たちが、愛に燃え機知に富んだ若い男で精神や愛が優雅な仕種や若々しい美貌によって際立っているような者に不自由しているようであれば、その女達は喜んで彼のものになるのではないのか? このような考えが野原の真ん中で彼を襲った。かつては妹達と陽気に散歩した所だったが、妹達は彼がずいぶん昔とは違ってきたことに気づいていた。彼の叔母のマルシャック婦人はかつて宮廷に仕えていたことがあり、そこで権勢を持っている貴族を何人か知っていた。突然、若い野心家は叔母が実にしばしば彼に話していたことを思い出した。それは社会を支配する多くの動機の一要素として、少なくとも彼をそそのかして高等法律大学を志望させるまでに重要な働きかけをしたことになる。彼は彼女に親戚筋でこれから関係を強められそうなところはどこかと尋ねた。系統樹を揺さぶってみた後、老婦人が下した評価によると、金持ちの親戚筋で利己主義者達の中にあって、最も甥っ子のために力を貸してくれそうなのはボーセアン子爵夫人で、彼を寄せつけないといったことが一番少なそうだということだった。彼女はこの若い夫人宛に古風な手紙を書き、それをウージェーヌに託した。彼が子爵夫人に対して成功を収められるようなら、また別の親戚にも紹介してあげようと叔母はその時に言った。パリに着いて何日か経ってから、ラスチニャックはボーセアン子爵夫人の家へ叔母の手紙を届けに行った。子爵夫人は翌日の舞踏会に招待してくれることで、それに応じてくれた。
 一八一九年十一月の終頃、この高級下宿の一般的な状況は大体このようになっていた。数日経って、ウージェーヌは、ボーセアン夫人の舞踏会に行った後だったが、夜の二時頃帰って来た。失った時間を取り戻そうと健気な学生はダンスをしながら、朝まで勉強をしようと心に誓っていた。こんなに静かな街角を真夜中に通り抜けて行くのは彼にとって初めてのことだった。というのは、上流社会の絢爛豪華を目の当たりにして、彼は言い知れぬエネルギーの魅力に圧倒されてしまっていた。彼はヴォーケ夫人のところでその日は夕食をとらなかった。で、下宿人達は、彼は翌日の夜明けまでは帰って来ないだろうと考えていた。というのは、これまでにも何度か、彼がプラドーでの学生達のお祭り騒ぎやオデオン[13]での舞踏会から、絹の靴下を泥んこにしたうえ舞踏靴が捻じ曲がったような格好で帰って来たことがあったからだ。入り口の錠をかける前に、クリストフは道路を見るためにドアを開けた。ラスチニャックはこの瞬間ぱっと現れて、彼を伴って自分の部屋まで音を立てずに上がることが出来た。クリストフはこんな便宜をよく図ってくれた。ウージェーヌは服を脱ぎ、スリッパを履き、汚らしいフロックコートを羽織り、暖炉の石炭に火をつけ、すばやく勉強の準備にかかった。クリストフもまた彼の大きな短靴でばたばた歩いて、若者が騒々しく準備する音を掻き消してやった。ウージェーヌは法律の中に飛び込む前にしばらくじっと考え込んでいた。彼はその日、ボーセアン子爵夫人がパリのモード界における女王の一人であること、そして彼女の君臨する屋敷はフォーブール・サン・ジェルマン街[14]にあっても最高に心地良い場所であることを初めて知ったのだ。彼女はそもそも、その名前あるいはその財力からして、貴族社会にあって最高権威者であった。マルシャック叔母のおかげで貧乏学生は、この特別の計らいがどんなに大きなものであるかを知らぬままに、この邸に首尾よく受け入れてもらった。このまばゆいばかりのサロンに入ることを認めてもらったということは貴族階級の免許状を貰ったことを意味していた。彼はこの世の中で一番排他的な世界に登場することによって、どこにでも出入りする権利を獲得したのだった。このまぶしいくらいの集会で子爵夫人とはほとんど言葉を交わすことは出来なかったが、ウージェーヌは、このパーティにひしめくパリの女神の群れの中から、この若者を誰よりも深く愛してくれるであろう婦人を一人見つけ出したような気がして、満ち足りた気分だった。アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人は、長身で見栄えが良く、パリで最も美しい胴体の持ち主だといわれていた。ちょっと想像してみたまえ、大きな黒い瞳、素晴らしい腕、見事な細い脚、動きの中の情熱。この婦人を評して、ド・ロンクロール侯爵は、純血種の馬のようだといったものだ。この神経の繊細さは、彼女の良さを少しも傷つけるものではなかった。彼女は豊満で丸みを帯びていて、それでいて太り過ぎだとけちをつけられることもなかったのだ。純血種の馬、良血の女性、こうした言い回しは、伊達者達が愛用し始めていて、彼等は、天使とか、アイルランドの詩人オシアン好みの昔の愛に満ちた神話伝説的な表現を使わなくなっていた。しかしラスチニャックにとって、アナスタジー・ド・レストー夫人は、彼が待ち望んでいた女性だった。彼は二回のダンスの彼女のパートナーリストに自分の名前を書き込むことが出来た。最初のコントルダンス[15]の時、彼女に話しかけることが出来た。
「奥さん、今度貴女にお会いするには、どこへ行けばよいのですか?」彼は夫人に強くアピール出来るに違いないと思って、出し抜けに情熱的に言ってみた。
「そうね、森でも、ブフォンでも[16]、私の家でも、どこでも」彼女が答えた。
 そこで、この冒険好きの南フランス人は、いそいそとこの魅力的な伯爵夫人と仲良くなるために、若者として限度いっぱいまで、この女性を独占して踊った。しかし、それはコントルダンス一曲とワルツが一曲だった。その間、彼は、自分がボーセアン夫人の従弟で、この夫人に招待されたこと、そして、この夫人をすごい女性だと思っていること、そして彼女のところに出入りを許されていることを語った。アナスタジーが自分に向かって最後に微笑んだのを見たラスチニャックは、どうしても彼女を訪問しなければいけないと考えた。彼は幸運だったのだが、会った人の中に彼の無知を気に留める人間は一人もいなかった。本来なら肩で風を切る時代の寵児達に混じって、それは致命的な欠点だったのだ。モランクール氏、ロンケロル氏、マクシム・ド・トライユ氏、ド・マルセイ氏、ダジュダ・ピント氏、ヴァンドネス氏等がそこにはいて、それぞれ自己満足の栄光に浸り、そしてまた最高に優美な女性達、すなわち、レディ・ブランドン、ランジェ公爵夫人、ケルガルエ伯爵夫人、セリジー夫人、カリリアーノ伯爵夫人、フェロー伯爵夫人、ランティ夫人、デグルモン侯爵夫人、フィルミアーニ夫人、リストメール侯爵夫人、更には、デスパール侯爵夫人、モーフリニョーズ伯爵夫人、そしてグランリュウ家の女性達のお相手をしていた。ここでまた幸運にも、純朴な学生は偶然モンリヴォー侯爵に出会い、ランジェ公爵夫人[17]の恋人で、子供のように単純なこの将官は、レストー伯爵夫人がエルデ通に住んでいることを彼に教えてくれた。「若くて、上流社会に飢え、女を渇望していて、その自分に向かって、二つの家が門戸を開くのを目にするとは! フォーブール・サンジェルマンのボーセアン子爵夫人の家に足を踏み入れた今、どうしてあの新興勢力が集まる地区ショセ・ダンタン[18]のレストー伯爵夫人の家で、彼女の前に膝をつかずにおこうか! 一連のパリのサロンで、皆の視線の中に飛び込んでやろうじゃないか、で、僕は、自分はとても綺麗な少年だと思っているので、助けてくれたり守ってくれたりする気持ちを抱く女性をきっと見つけ出すぞ! 僕は自分がすごく野心家であることを感じているので、ぴんと張ったロープにだって見事に挑戦して見せてやろう、しかも、僕は決して落ちないという自信にあふれた軽業師として、その上を歩いて渡らねばならない、そして魅惑の女性の胸に、僕の最高の綱渡りを刻み込んでやろうじゃないか!」下宿の部屋に戻り、土くれをかき集めて辛うじて起こした火の傍で、このような取りとめもない考えや気高く着飾った女性の追想に浸り、市民法と貧困の間にありながら、ウージェーヌのように熟考のうちに将来を推し測った者が、あるいは成功への夢で頭の中をいっぱいにした者が他に誰かいただろうか?
 しかし、彼の取りとめもない考えは将来の幸せを激しく欲求していたので、彼はもうレストー夫人が自分の近くにいるような気になっていた。その時だった、まるで大工の聖ヨセフ[19]が出す掛け声にも似た大きな溜息が聞こえた。それは夜の静けさを破り、死にかけている人間のような苦しげな喘ぎを若者の胸に響かせるのだった。彼はそっと戸を開けて廊下に立ったが、その時、ゴリオ爺さんの部屋の戸の下側から一筋の光が漏れ出ているのに気がついた。ウージェーヌは隣室の人が体調でも悪いのかと案じて、目を鍵穴に近づけ部屋の中を覗き込んだ。そして、老人が何かの仕事に没頭している様子が見えたが、なにやらひどく犯罪っぽい印象で、社会に対して尽くす様子には見えず、むしろ夜陰に乗じて自称製麺業者は何か良からぬことを企んでいる様に思われた。ゴリオ爺さんは疑いもなく机の台に張り付いて、金メッキの銀皿とスープ鉢の様な物をひっくり返して置き、豪華な彫刻が施されたこれらの品物の周りをロープで巻いて、地金になるまでに、ものすごい力でねじ切ろうとしているようだった。
「ちくしょう! 何て爺だ!」ラスチニャックは舌打ちしながら、なおも老人の筋肉質の二の腕を見つめていた。老人は例のロープを使って音も立てずに、金メッキされた銀器を小麦粉の生地の様に捏ね回していた。「だが、待てよ、これが泥棒あるいは隠匿行為であるとしよう、が、彼は自分の商売をうんとしっかりするために、馬鹿や弱虫の振りをして、乞食でもして生きてゆこうというんだろうか?」ウージェーヌはそう考えながら立ち上がった。
 学生はもう一度、目を鍵穴にくっつけた。ゴリオ爺さんはロープを解いて銀の塊を掴むと、あらかじめテーブルの上に拡げていた毛布の上にそれを置き、今度はそれを延べ棒のように丸めるため毛布を巻き始めた。そして彼は非常に手際よく作業して仕事を済ませた。
「彼はまた何とヘラクレス並の怪力といわれたポローニャの王アウギュスト[20]のような力持ちじゃないか?」丸めた延べ棒がほとんど作り上げられるのを見て、ラスチニャックは思わずそうつぶやいた。
 ゴリオ爺さんは寂しげに自分の作品を見つめていたが、彼の目から涙が溢れ出た。彼はその明かりのもとで金メッキされた銀器をねじり回していたろうそくを吹き消した。そしてウージェーヌには、溜息をつきながら寝床に入る音が聞こえた。
「やつはきちがいだ」学生はそう思った。
「可哀想な子だ!」ゴリオ爺さんが高い声で言った。
 この言葉を聞いたラスチニャックは、この件に関しては慎重にして沈黙を守ろう、そして無考えに隣人を罰することのないようにしようと思った。彼が部屋に戻った時だった。彼は突然何か訳の分からない物音を聞いた。それは生地の荒い編み上げ靴を履いた何人かの男が階段を登って来る音のようだった。ウージェーヌは耳をそばだてて聞こうとした結果、二人の男の息づかいを交互に聞き分けることが出来た。男達が入った部屋の中からの声も聞こえず、また人の足音もしなかったが、彼はいきなり微かな明かりが三階に灯るのを見た。ヴォートラン氏の部屋だった。
「おや、この高級下宿には、結構、秘密があるんだな!」彼はそう思った。
 彼が階段を数段下りて聞き耳を立てた時、金をジャラジャラさせる音が彼の耳を打った。音もなく戸が開いて二人の男の息づかいがまた聞こえた。そして二人の男が階段を降りてゆくにつれて、次第に物音は小さくなっていった。
「誰かそこにいるの?」ヴォーケ夫人が部屋の窓から叫んだ。
「私ですよ、今帰りました、ヴォーケ・ママ」ヴォートランが太い声で言った。
「変だな! クリストフが錠をかけていたのに」ウージェーヌは自分の部屋に戻りながら、そう思った。このパリで真夜中に起こったことを良く知るためには明日起きてから考えるしかない。
 彼はこの小さな出来事のお陰で、恋への熱烈な思いからさめて、勉強に取り掛かった。しかしゴリオ爺さんに関して、彼のところへ来たのは一体誰だったのかという疑問、更には輝かしい将来を告げる使者のように、彼の前に次から次へと現れるレストー夫人の姿に気が散ってしようがなく、彼はとりあえず寝床に横になった、そして、そのままぐっすりと眠ってしまった。若者が十夜も勉強すると誓ったところで、彼等はそのうちの七夜は眠ってしまうものだ。起きていて勉強するようになるのは二十歳を超えてからだ。
 翌朝パリは深いもやに支配され、それが大きく広がって、すっぽりと辺りを包んでしまったので、誰よりも規則正しい人間ですら時間の感覚を狂わされてしまったにちがいない。仕事の打ち合わせも多くが行き違いとなった。正午の鐘が鳴った時、誰もがまだ八時だと思っていた。既に九時半になっても、ヴォーケ夫人はまだベッドから出てこなかった。クリストフとでぶのシルヴィも遅めに静かにコーヒーを飲んでいた。自分達も下宿人達のために用意された上等のミルクを入れていたので、シルヴィはヴォーケ夫人が不法に一割も高めに費用のかかったコーヒーに気がつかないように、長めの時間をかけてコーヒーを沸かしていた。
「シルヴィ」クリストフが自分の一杯目のコーヒーを入れながら言った。「ヴォートラン氏だけど、彼自身は本当に良い人なんだけど、昨夜は他に二人の男が一緒だったんだ。もし女将がそのことで心配するようなことがあっても、何も言わないで」
「彼から何か貰ってるの?」
「毎月百スー貰ってる。僕にこう言っておく為にね。黙ってろと」
「しみったれていないのは彼ともう一人クチュール夫人くらいで、あとの人達は、お正月でも右手で人にあげた物を、直ぐに左手で取り返そうとするような連中よ」
「それにしたって、連中が何かくれるのか?」クリストフが言った。「みすぼらしい部屋に、百スーの金。この二年は、ゴリオ爺さんときたら、自分の短靴を縫ってるんだぜ。そしてまたけちん坊のポワレだけど、靴墨代を始末してて、古靴にそれを塗るくらいなら、いっそ飲んじまうだって。そしてあの貧乏学生だけど、彼は僕に四十スーくれるんだ。四十スーじゃあ、ブラシも買えない。でもって、今度は僕に彼の古着を売ろうとするんだ。ここはひでえぼろ家だね!」
「でもね!」シルヴィはコーヒーを一杯入れた小さなコップを啜りながら言った。「私達がいるとこは、この辺りじゃ案外良い場所よ。ここにいればいろいろ見られるもの。だけど、例えばごついお父ちゃんのヴォートラン、ねっクリストフ、あんた何か聞いたことあるの?」
「うん、何日か前に道である人にぱったり出会ったことがある。その人が僕に言った。『貴方の所に、がっしりした体格の頬髭が濃くて髪を染めている人なんて、いませんか?』てね、僕はこう言ってやった。『いや旦那さん、うちにいる人は髪は染めてませんよ。とても陽気な人で、髪を染めるような時間はなさそうですよ』てね。僕はこのことをヴォートランさんにも言ったんだ。彼が答えて言うには、『君の答え方は実に上等だ。いいやつだね!いつもその調子で答えといてくれ。自分の弱点を人の目に晒されるくらい嫌なものはないからなあ。それで結婚話が壊れかねないし』」
「おやおや! 私も、市場で、そんな人が上手いこと言って、彼がシャツを脱ぐところを見たかどうかって、私に言わせようとしたのよ。馬鹿々々しいったら! あらっ」
 彼女は話を中断して言った。「ほら十時十五分前だ。ヴァル・ド・グラス陸軍病院の鐘が鳴ってる。まだ誰も起きてこないわ」
「あれ! 彼等はもう出かけてるよ。クチュール夫人と娘さんはサン・テチエンヌ教会[21]での八時からの集会で食事しに行った。ゴリオ爺さんは、何か荷物を持って出かけた。学生さんは十時の授業に行ったけど、帰ってきてない。僕はこの人たちが階段を降りて出て行くのを見たよ。ゴリオ爺さんが持ってるものを見て、僕はびっくりしたよ。それは何だか鉄のように固いものに見えたんだ。一体何してるんだろうね、いい爺さんなのに? 他の連中は彼を散々慰みものにしてるけど、あの人はやっぱりちゃんとした人で、彼等よりずっと値打ちのある人だよ。彼もたいしたものはくれないけど、彼が何度か僕を使いに行かせた所のあの女性達は気前良くチップをくれたし、とても綺麗な服装をしていたよ」
「それって彼が娘だと言ってる、あの娘達でしょ? 一ダースもいるんじゃないの?」
「僕が行ったのは二人っきりだよ、それも間違いなくここへ来た本人だったよ」
「ほら奥さんが起きてきたわ。一騒ぎ始まるわ。仕事を始めなきゃ。あんたはミルクに注意しなさいよ、クリストフ、猫に取られないようにね」
 シルヴィは女将のところへ上がって行った。
「どうなってるの、シルヴィ、ほら十時十五分前だよ。あんたはあたしがぐっすり寝ているのを放っておいてさ! こんなことはもうご免だよ」
「霧のせいですよ、すごい濃霧ですよ」
「だけどもう昼御飯だろ?」
「あー! 奥さんの下宿人達は結構元気ですよ。彼等は皆、ご主人様のところから、とんずらですよ」
「そういうものはちゃんと言ってよ、シルヴィ、女将さんて言うもんでしょ」ヴォーケ夫人が答えた。
「あー! 奥様、貴女のおっしゃるように言いますわ。奥様が何なら十時に朝食しようとお思いなら、大丈夫できますわ。ミショネット嬢とポワロ[22]が、まだ出掛けてないんですよ。館内にいるのは彼等だけなんですよ。そして、彼等がまたよく寝てるんです」
「だけど、シルヴィ、あんたは二人を一緒くたにしちまってるよ、まるで……」
「まるで何ですか?」シルヴィは思わず騒々しく下品な笑いを漏らしながら答えた。「あの二人は一緒になってるんですよ」
「それは変だよ、シルヴィ、どうしてだろう、ヴォートランさんも昨夜はクリストフが差し錠を掛けた後で帰ってきたんだよね?」
「いいえ反対ですよ、奥様。彼はヴォートランさんの声が聞こえたので、戸を開けるために降りていったんです。そして奥様が言ってるのは、この時のことだと……」
「私にカミュソールを持ってきておくれ、それから急いで朝食の具合を見てきておくれ。マトンの残りとジャガイモを使って、それに焼き梨を添えといてね。これだって一つが二リヤール[23]するんだよ」
 しばらくしてヴォーケ夫人が降りてきたが、ちょうどその時、彼女の飼い猫が現れて、ミルクの入ったボールに被せてあった皿をたたいてひっくり返し、あっという間にぴちゃぴちゃとミルクを飲んでしまった。
「この猫ったら!」彼女が叫んだ。猫はぱっと離れたが、直ぐに戻って彼女の脚に体をこすり付けた。「はいはい、この臆病な老いぼれめ!」彼女は猫に声を掛けた。「シルヴィ!シルヴィ!」
「おやおや! どうしたんですか奥様?」
「あんたも見てよ。これ、猫が飲んじまったのよ」
「これはまたクリストフの馬鹿のせいだわ。私が蓋をしておくように言ってたんですけどね。彼どこへ行ったんでしょうね? 奥様、心配要りませんよ。これはゴリオ爺さんのコーヒーに入れるやつです。私はこのミルクを彼のコーヒーに入れます。彼は気がつきませんよ。彼は何にも注意払ったりしないし、食べる物にも同じで全然気がつかないわ」
「彼も一体どこへ行ったの、あのチャンコロが?」ヴォーケ夫人は皿を置きながら言った。
「さあ、どうしたんでしょうね? 彼は変な物を売って、五百フランも儲けているんですよ」
「あたしはすっかり眠ってたよ」
「そのせいか、奥様は今朝、薔薇のように清々しいじゃないですか……」
 この時、呼び鈴が鳴って、ヴォートランがその太い声で歌いながら広間に入ってきた。

私は久しく世界をさまよった
みんなが私を知っている……

「おー! おー! お早うございます、ヴォーケ・ママ」彼は女将を見つけるや、そっと腕の中に抱き寄せながら言った。
「さあ、もうやめて」
「これはご無礼を!」彼が答えて、「はいよ、分かりました、ご機嫌直して下さいな? ほら、私は貴女と一緒に食器を並べようじゃありませんか。あー! 私って気がきくよね?」

ブリュネットでもブロンドでも
口説いちゃえ
愛せよ、恋せよ……

「私はついさっき変なもの見ちまってね」

……出たとこ勝負[24]

「何のことだい?」未亡人が言った。
「ゴリオ爺さんが八時半にドーフィン通の金銀細工商の店にいたんですよ。そこは古い食器とか金モールなどを買い取ってくれるんだけれど、彼はその店に、金メッキした銀食器を良い値で売っていましたよ。あの男は手袋もしないのに、その食器を綺麗に捻じ曲げていたんですよ」
「えっ! 本当かい!」
「本当ですよ。私はロワイヤル運輸で外国から来ている友達一人を道案内してやってから、ここへ戻ってきたんですが、実はゴリオ爺さんに会いたくて待っているんですよ。これには笑える話があってね。彼は例のいわくつきの地区、グレ通に通っていましてね、その通りにある有名な高利貸しの店に彼が入っていったんです。そいつはゴプセックという恐ろしいやつで、自分の父親の骨でもってドミノを作ってしまうというような男なんですよ。ユダヤ人、アラブ人、ギリシャ人、ボヘミアン、まあこいつ等を全部合わせたような男で、人から金を奪うために生まれてきたようなやつです。銀行に入れたやつの金は溜まる一方です」
「ゴリオ爺さんは一体何をしてたんだい?」
「何にも」ヴォートランが答えた。「て言うか彼がやったことは焼け石に水でね。これは馬鹿げた愚か極まることですよ。娘達を愛する余り、破産するなんて、それも……」
「あ、彼だわ!」シルヴィが言った。
「クリストフ、私と一緒に上へ来てくれ」ゴリオ爺さんが叫んだ。
 クリストフはゴリオ爺さんについて行って、また直ぐに降りてきた。
「あんたはどこへ行ってたんだい?」ヴォーケ夫人が使用人に向かって言った。
「ゴリオさんに用事をききに行ってました」
「それは何だい?」ヴォートランが言った。彼は言いながらクリストフの手から一通の手紙を奪い取ると、その表に書いてあるものを読んだ。「〈アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人へ〉、で、あんたは行ったのか?」手紙をクリストフに返しながら彼が訊いた。
「エルデ通。私はこれを伯爵夫人以外の人には渡さないように承っていました」
「その中には何が入ってるんだろう?」
 ヴォートランは手紙を日にかざして見ながら言った。「小切手でも入ってるのかな? 違うな」彼は封筒を少しだけ開いた。「約束手形が一枚」彼が叫んだ。「運命の分かれ道だ! 彼は女に親切だ、年甲斐もなく、へえー、老プレイボーイだな」彼はそう言いながら大きな手をクリストフの頭の上に置いたので、クリストフはさいころのようにくるりと一回転した。「君は気前良くチップがもらえるんだろ。」
 食器が一通り並べられ、シルヴィはミルクを温めた。ヴォーケ夫人はストーヴに火をつけた。ヴォートランはそれを手伝いながら、ずっと歌を口ずさんでいた。

私は久しく世界をさまよった
みんなが私の友達だ……

 すっかり準備が出来た時、クチュール夫人とタイユフェール嬢が戻ってきた。
「貴女こんな朝に一体どこへ行ってたの、奥様ったら?」ヴォーケ夫人がクチュール夫人に言った。
「私達はサン・テティエンヌ・デュモンにお祈りに行ってきました。今日はタイユフェールさんのところへ行かなきゃならないでしょ? 可哀想な子、まるで木の葉のように震えて」クチュール夫人は答えながら、入り口にあるストーブの前に坐って短靴をそちらの方に差し出したが、それは臭った。
「貴女も暖まりなさい、ヴィクトリーヌ」ヴォーケ夫人が言った。
「それがいいよ、お嬢さん、神様に貴女のお父さんの心を動かしてくれるようにお願いすることだ」ヴォートランはみなし子に椅子を勧めながら言った。「しかしそれで十分なのではない。貴女には誰かいい友達がいて、貴女のひどい親父さんに自分の行いを恥じるように言ってやらねばならんでしょう。貴女の無作法な親父さんは噂では三百万持ってるくせに、貴女には持参金を出そうとしない。いまどきのちゃんとした娘さんなら持参金は必要だ。」
「可哀想な子、さあ、あんた、貴女の鬼のような親父は好きなように不幸を呼び集めてるんだよ」
 この言葉にヴィクトリーヌの目は涙に濡れ、未亡人はその時、クチュール夫人が彼女に示した合図に気付き言いやんだ。
「私達が彼に会うことだけでも出来たらねえ、私が彼に話すことが出来たらねえ、彼に奥さんの最後の手紙を手渡すことが出来たらねえ。私は郵便を使うようなリスクを敢えてすることもなかったんですよ。彼は私の筆跡を知ってますから……」財務委員の未亡人が答えた。
「おー、罪もなく、不運にも迫害されし女達よ!」ヴォートランが割り込んで叫んだ。「あの劇のせりふは貴女のことを言ってるようだ! これから何日かかっても、私は貴女のこの件にかかずらってゆきますよ。きっと上手くゆく」
「あー! 貴方」ヴィクトリーヌは濡れてきらきらする眼差しをヴォートランに投げかけながら言った。もっとも彼の方は動じる風もなかった。「もし私の父に近づく手立てをご存知でしたら、どうぞ父に言ってやってください。彼が私の母に対して愛情と誇りの気持ちをお持ちならば、それは世俗的なあらゆる富よりもずっと尊いものですと。どうぞ貴方も彼の厳格さを優しく見てあげて下さるように、わたしは神に貴方のことをお祈りします。どうか神の思し召しのままに……」
「私は久しく世界をさまよった」ヴォートランは皮肉っぽい声で歌った。
 この時、ゴリオ、ミショノー嬢、ポワレが恐らくソースの香りに引き寄せられたのだろうか、降りてきた。シルヴィはマトンの残り肉を使って料理をしていた。七人の会食者がお早うの挨拶をしながらテーブルについたその時、十時の鐘が鳴り、道路からは学生の足音が聞こえてきた。
「あら、まあ! ウージェーヌさん」シルヴィが言った。「今日は上流階級の方々とのお食事じゃなかったんですか?」
 学生は下宿人達に挨拶をすると、ゴリオ爺さんの横に坐った。
「たった今、何だか訳の分からない事件に出会ってしまいましたよ」彼は自分でマトンをたっぷり皿に取り、パンの一塊も自分で切り取った。ヴォーケ夫人はいつものように、その大きさを目で測っていた。
「事件だって!」ポワレが言った。
「おいおい! あんたは何だってびっくりなんかするんだ、よくある前置きだろ?」ヴォートランがポワレに言った。「前置きがあるからには中味がしっかりしているはずだ」
 タイユフェール嬢はおずおずとした眼差しで若い学生を見た。
「貴方の事件を私達に話してくださいな」ヴォーケ夫人が尋ねた。
「昨日ですね、僕はボーセアン子爵夫人のところでの舞踏会に行っていました。彼女は僕の従姉で幾つもの絹で包まれたようなアパルトマンからなる豪華な邸宅を持っているのですが、やっと私達を招いて、そこで華麗なパーティを催してくれたってわけです。そこで僕はまるで王様のように楽しく……」
「テレ」ヴォートランが突然話をさえぎった。
「貴方は」ウージェーヌは勢い良く答えた。「一体何をおっしゃってるんですか?」
「私はテレと言ったんだよ、だってさ、ルワテレ(小国の王)の方がルワ(王様)よりもずっと楽しいに違いないからね」
「その通りだね。私もその小さな鳥(ルワテレは本来ミソサザイの意)でいる方が、王様のように気を遣うこともないのでずっと良いや、何故かって……」ポワレは尻馬に乗って言った。
「簡単に言えば」学生はポワレの言葉をさえぎって答えた。「僕は舞踏会に来ていた中で一番綺麗な女と踊ったんです。うっとりするような伯爵夫人で、僕がこれまで見たことがないような感じの良い女性でしたよ。彼女は頭に桃の花を飾り、脇にも最高に綺麗な花を付けていて、その花は自然に良い香りで満たしてくれるんです。だけど、ああ! 貴方に彼女を見せたかったですよ。あの活き々々として踊っていた彼女を絵に描くことなんて出来ませんよ。ところがですね! 今朝、僕はこの素敵な伯爵夫人に出っくわしたんです、九時頃、歩いてましたね、グレ通を。ああ、僕の胸はどきどきしました、そして想像した……」
「そんな所へ彼女は何しに来てたんだ」ヴォートランが突き刺すような眼差しで学生を見ながら言った。「彼女は間違いなくゴプセックの親父、つまり金貸しのところへ行ってたんだな。もし君がパリの女達の胸の内をよーく調べたら、そこで君が見つけるのは恋人よりも、まず金貸しだろうな。君の伯爵夫人はアナスタジー・ド・レストーという名前でエルデ通に住んでいる」
 この名前を聞いた学生はじっとヴォートランを見つめた。ゴリオ爺さんは不意に頭を上げて二人の対話者にきらきらした一方で、不安に満ちた目を向けた。その様子は下宿人達を驚かせた。
「クリストフが行くのは遅過ぎるだろうから、彼女はもうそこに行っているんだろうな」ゴリオは悲しそうに叫んだ。
「私がにらんだ通りだ」ヴォートランは屈み込んでヴォーケ夫人に耳打ちした。
 ゴリオは自分が何を食べているのかにも気づかないで機械的に食事をした。彼がこの時ほど虚けたように我を忘れたようになったことはかつてなかった。
「一体誰が、ヴォートランさん、貴方に彼女の名前を言ったんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「ああ! ほら」ヴォートランが答えた。「ゴリオ爺さんだ。彼がそのことを良く知ってるよ! この私がまたそれを知らないわけないだろう?」
「ゴリオさん」学生が叫んだ。
「えっ! 彼女は昨日もやはり綺麗でしたか?」哀れな老人が言った。
「誰がですか?」
「レストー夫人ですよ」
「貴方見なさいよ、老いぼれのけちん坊が目をあんなに輝かせてさ」ヴォーケ夫人がヴォートランに言った。
「彼はまだ女との関係を続けるのかしら?」ミショノー嬢が声を落として学生に言った。
「あー! そうですね、彼女は恐ろしく綺麗なので」ウージェーヌが答えた。「ゴリオ爺さんときたら、貪るように見てたなあ。もしボーセアン夫人があの場にいなかったら、僕の女神の伯爵夫人が舞踏会の女王になっていただろうな。若い男達は皆彼女のことばかり見ていましたよ。僕は名簿の十二番目に名前が書かれていましたが、彼女はずっとコントルダンスを踊り続けていました。他の女性達の悔しがることといったらなかったですよ。昨日幸せだった女性を一人挙げるとしたら、それはまさしく彼女です。誰でも帆走する三本マストの軍艦、疾駆する馬、踊る女性よりも美しいものはないというのは至極当然です」
「昨日は子爵夫人の邸で栄華を極め」ヴォートランが言った。「今朝は落ちぶれて手形割引屋に駆け込む。パリの女とはこんなもんだ。もし彼女達の夫が彼女達の際限のない贅沢を維持出来なくなったら、彼女達は身を売るんだ。もし彼女達が身を売ることが出来なければ、彼女達は母親の腹を割いて、そこに何か金目の物はないかと探し回る。ついには十万回もの悪事を重ねる。そうさ、そうなんだ!」
 ゴリオ爺さんの顔つきは、学生がしゃべるのを聞いて、まるで晴天の太陽のように輝いていたのだが、ヴォートランのこの冷酷な観察を聞いて暗く沈んでいった。
「えーと! ところで」ヴォーケ夫人が言った。「貴方の事件とやらは何処へ行っちまったの? 貴方は彼女と話したの? 貴方は彼女に法律を専攻しないかと頼まなかったの?」
「彼女は僕に気がつきませんでした」ウージェーヌが答えた。「だけどグレ通で九時にパリで一番綺麗な女性、それも舞踏会から朝方二時に帰宅したはずの女性に出会うなんて、これって変だと思いませんか? この手の事件があるのはパリくらいなものでしょう」
「おい! 結構間の抜けたやつが多いんだな」ヴォートランが叫んだ。
 タイユフェール嬢はほとんどこの話を聞いていなくて、自分がやろうとしている企てのことで頭が一杯だった。クチュール夫人が彼女に着替えにゆくために立つように合図をした。二人の婦人が出てゆく時、ゴリオ爺さんも後に続いた。
「あら! まあ、見ました?」ヴォーケ夫人がヴォートランをはじめ下宿人達に向かって言った。「彼が例の女達のお陰で破滅するのは間違いないわ」
「決して僕には考えられない」学生が叫んだ。「あの美しいレストー伯爵夫人がゴリオ爺さんと関わりのある人だなんて」
「しかし」ヴォートランが彼を遮って言った。「我々は何も君に考えを強要したりはしていないぞ。君はまだ若いから、パリのことを十分に知ってはいないが、そのうち我々が情人と呼んでいるような連中がいることに気がつく……」(この一言にミショノー嬢は探るような目をヴォートランに向けた。耳慣れた響きに人はつい本性を現す反応を示してしまうものなのだ)「おや! おや!」ヴォートランは彼女に向かって射抜くような目を投げかけながら話を中断した。「我々の間にわずかながら情の共感が芽生えましたかな、我々にも?」(ハイミスはまるで彫像に祈りを捧げる尼僧のように目を伏せた)「それではと」彼はまた言い始めた。「この連中はある考えに夢中になっている、そして絶対にそれをやめようとしない。彼等は唯一つの泉から湧く唯一の水しか飲もうとしない、しかもその水はしばしば澱んで腐っている。しかし彼等は水を飲むために彼らの妻をそして彼等の子供を売ってしまうんだ。彼等は自分の魂さえも悪魔に売ってしまう。ある人にとって、この泉は賭け事、株、絵の蒐集、あるいは昆虫の採集、音楽であり、また別の人にとって、それは砂糖菓子を作ってくれる妻であったりする。前者については、君がありとあるこの世の女性を紹介してあげたとしても、彼等はその女性達にはまったく関心を示さないだろう。彼等は自分の情熱を満足させてくれる女性しか欲しくないんだ。ところが、この遂に巡り会ったその女は大抵、彼等を全く愛さない。君の前でも彼等をこき下ろし、彼等には、ほんの僅かな満足をうんと高く売りつけるんだ。さて! それで! 我等の熱中爺さんはもう一直線だ。彼の最後の一枚の毛布も質屋に入れて、これが最後の銀貨を彼女のところに持ってってやろうというところだ。ゴリオ爺さんというのは、こういう人物なんだ。伯爵夫人は彼を利用しているんだ。というのは、彼は口が固いし、それにほら、華やかな社交界には金がかかるしさ! 哀れなお人好しはただ彼女のことばかり考えているんだな。その情熱を除けば、ほらあの通り、彼は獣のような人間に過ぎない。さっきのことになると彼の顔はまるでダイヤモンドのように光り輝くんだ。この秘密が何かを暴くのは難しいことじゃない。彼は今朝、銀器を鋳造品にしたものを運んでいた。そして私は彼がグレ通のゴプセック親父の店に入ってゆくのを見た。どうだい、これで分かっただろ! 戻ってくると彼はレストー伯爵夫人のところへクリストフのボケを使いにやったんだが、やつは我々に手紙の宛先を見せてしまった。そしてその中には約束手形が入っていたんだ。もし伯爵夫人もあの老いぼれ金貸しのところへ行ってたとすると、緊急事態だったことは間違いない。ゴリオ爺さんは親切にも彼女に融通してやってたんだ。その事実を正確に読み取るのに二つの考えを継ぎはぎする必要なんてない。これは君が証明してくれたんだよ、わが青春の学生さん、つまり、君の伯爵夫人が笑ったり踊ったり、すねて見せたり桃の花のバランスをとってみたり、服をつまんでみたりしている間にも、彼女は言ってみれば、苦境に陥っていたわけで、支払いを拒絶された彼女の約手あるいは彼女の愛人の約手のことで頭が一杯だったというわけだ」
「貴方の話を聞いて、僕はどうしても真実を知りたいという気にならされました。明日、僕はレストー夫人の家へ行ってみます」ウージェーヌが叫んだ。
「そうだ」ポワレが言った。「レストー夫人の家へ行くべきだ」
「君は多分そこで、ゴリオのおっさんに会うと思うよ。先生は色事のこってりしたところを味わいたくて、そこへ行くんだ」
「だけど」ウージェーヌは嫌悪感をあらわにしながら言った。「貴方の言い分では、パリは泥沼でもあるんですよね」
「おまけにとんでもない泥沼だ」ヴォートランが答えた。「そこで馬車ごと泥まみれになるのは正直者で、足だけ泥が付くようなのは詐欺師なんだ。君が頓馬でそこらにあるガラクタを盗んだとする、君は裁判所で首枷をはめられて見世物にされてしまう。ところが百万フランを盗んだ場合はどうか? 君はサロンで勇敢な男として注目されるだろう。わが国民は三千万フランもの予算を憲兵隊と裁判所に費やして、このような道徳を維持しているってわけだ。素敵じゃないか!」
「どうして」ヴォーケ夫人が叫んだ。「ゴリオ爺さんは銀製の食器セットを溶かしちゃったんだい?」
「蓋の上に二羽の雉鳩がいるやつでしたか?」ウージェーヌも尋ねた。
「まさにそれだよ」
「彼はまだそれにうんと愛着を持っていました、だから彼が丼鉢と皿を一緒にこねくり回したときは泣いていました。僕はたまたまそれを見たんです」ウージェーヌが言った。
「彼は命と同じくらいあれに愛着を持ってたものね」未亡人が応じた。
「あの男を見てご覧、何とまあ夢中になってることか。あの女は彼の心をくすぐることを良く心得てるよ」
 学生は再び自分の部屋へ上がってしまった。ヴォートランも出かけた。しばらく後で、クチュール夫人とヴィクトリーヌはシルヴィが二人のために手配しに行っていた辻馬車に乗っていった。ポワレはミショノー嬢に腕を貸し、二人は揃って日ざしの良い二時間ばかり、植物園に散歩に出かけた。
「おやー! ほらあの人達夫婦気取りよ」でぶのシルヴィが言った。「あの人達連れ立って出るのは初めてだわ。あの人達って二人ともすっごくカサカサしてるでしょ、だから喧嘩になってごらんなさい、まるでライターのように直ぐに火がつきそうね」
「ミショノー嬢のショールに入っちゃって」ヴォーケ夫人が笑いながら言った。「彼ったら、まるで火口のように燃えそうね」
 夕方四時に帰ってきたゴリオはぼんやりした二つのランプの明かりに照らされたヴィクトリーヌの姿を見た。彼女の目は赤くなっていた。ヴォーケ夫人は彼女が午後にタイユフェール氏を訪問したものの、空しく終わった顛末を聞いてやっていた。自分の娘と老婦人の訪問を嫌がっていながら、タイユフェールは彼女達が遂にやってくるまで放置していて、ただただ釈明する羽目に陥ってしまったのだった。
「ねえ奥さん」クチュール夫人がヴォーケ夫人に言った。「想像出来ます? 彼ったらヴィクトリーヌを坐らせてやることさえしなかったんですよ。彼女はずっと立ったままだったんです。私に対しては、別に腹を立てる様子もなく、とても冷静に、彼の家にまで足を運んだことをいたわってくれました。お嬢さんはと、彼は娘とは言わないの、彼を悩ましてばかりいると自分の心を傷つけるだけですよ、だって! 一年に一回きりなのに、なんて男でしょう! そして、ヴィクトリーヌの母は財産持たずに結婚したんだから、彼女は強く要求するようなことは何もないって言うの。結局、話は全く無益だったので、この娘は可哀想に涙を流すしかなかったの。この娘はそれでも父の足もとに身を投げ出して、思い切って言ったんです。自分は母と同じように主張するわけではないと、そして彼女は彼の意向には何も言わずに従いますと。しかし彼女はまた哀れな死んだ母の遺言をどうか読んで欲しいと彼に頼んで、彼女はその手紙を取り出して彼に渡したの。その時の彼女の言葉は世にも美しいものだったわ。私はこんな言葉を彼女はどこで見つけて持ってきたのか知りませんが、神様が彼女に告げたのかもしれません。何故って、可哀想な娘は霊感に満ちていましたので、私はそれを聞いていると、ひどく泣けてくるのでした。この恐ろしい男がやったことは何だと思いますか? 彼は爪を切ってました。そして哀れなタイユフェール夫人が涙で濡らしたその手紙を手に取ると暖炉の上に放り上げて言いました。『もうたくさん!』彼は彼の手を取って接吻しようとした娘から手を引っ込めて、彼女を再び立たせようとしました。これは余りに酷い行為ではありませんか? 彼の大柄な馬鹿息子が入ってきましたが、妹に挨拶もしません」
「そいつもまた酷いやつなのかね?」ゴリオ爺さんが言った。
「そしてそれから」クチュール夫人は人の好い老人の叫び声を無視して言った。「父親と息子は私に挨拶して緊急の用事があるので失礼したいと言って、立ち去ってしまったの。私達の訪問はこんなだったのよ。少なくとも、彼は自分の娘に会ったんだわ。私には彼がどうして彼女を否定することが出来るのか分からない。彼女は彼と瓜二つなんだもの」
 寄食者達、それも居住者や非居住者が入れ替わり立ち代りやってくる。彼等はおはようの挨拶を交わしたりしながら、パリジャンのある階級の人々に特有のひょうきんさを醸し出す素となっている日常の些事などを心の中で思い浮かべたりしているのである。その基本的要素はある種の愚かしさであり、とりわけ身振りや発音による表現のおかしさが評価されるのである。この一種のスラングは絶え間なく変化してゆく。そこに含まれる冗談も、流行の主流にある期間は決して一ヶ月と持たない。政治的出来事、重罪裁判所における裁判、路上の歌、役者が演じる笑劇、これら全てが、この頭脳的遊戯を連綿と続けてゆくための材料となっていた。その遊戯とは、思想と言語を自在に操り、かつ、それらをラケットでもって軽やかに打ち合うことを意味しているのだ。最近発明されたジオラマは、パノラマより、もっと最高に素晴らしい光線による幻影を見せてくれるものだが、これは多くの画家のアトリエで、冗談で、何でもかでも『何々ラマ』と言ってしまう語呂合わせをはやらせた。メゾン・ヴォーケに若い画家の食客が一人いたおかげで、この何々ラマという流行語はここでも広まっていた。
「おやおや! ポワレさん」博物館員が言った。「サンテラマ(健康のための散歩)はいががでしたか?」と言っておきながら返事を待たず、「奥さん、ご心配なことですね」と彼はクチュール夫人とヴィクトリーヌに向かって言った。
「まだ夕食間に合いますか?」オラース・ビアンションが叫んだ。医学部の学生でラスチニャックの友人だった。「腹ペコで僕の胃はウスケ・アド・タロネス(かかとにまで縮んでしまった)」
「またまた妙にフルワトラマだぞ!」ヴォートランが言った。「またあんたか、ゴリオ爺さん! 何てやつだ! あんたの足が、ストーブの口を完全に塞いじまってるよ」
「ありゃあ! ヴォートランさん」ビアンションが言った。「どうして貴方はフルワトラマなんて言われるんですか? 一箇所間違ってます。フルワドラマ(寒いラマ)と言うべきです」
「いや、そうじゃない」博物館員が言った。「それは君のラテン語にならった規則には適ってる。フルワト・アド・タロネス(かかとまで寒い)だ」
「あー! あー!」
「ほら、ラスチニャック侯爵殿下がお見えだ。世渡り法博士」ビアンションはそう叫ぶと、ウージェーヌの首を抱えて窒息させかねないほど抱きしめた。「おーい、君はどちらにつくんだ、おーい!」
 ミショノー嬢がそっと入ってきて、無言で会食者達に挨拶をすると、三人の婦人達の傍らに席を取った。
「彼女を見ると、僕はいつも震えちゃいますよ。あの蝙蝠婆々にはねえ」ビアンションがミショノー嬢を示しながら、声を落としてヴォートランに言った。「実は僕、骨相学者ガル[25]の提唱する学説を学んでいるんですが、僕は彼女にはユダを示す突起が見られると思います」
「先生はユダのことを良くご存知ですか?」ヴォートランが言った。
「ユダを知らない人っていないでしょう!」ビアンションが答えた。「誓って言いますけど、あのなま白いオールドミスを見ると、僕は簗一本をまるまる食い尽くす蛆虫を連想してしまうんです」
「それだよ、まさにこう言いたいところだろ、君のような若い者は」四十男は頬髭を撫ぜながら言った。

「そしてバラ、彼女はまさにバラ
 つかの間の朝だけ咲いた」[26]

「おやおや! ほらあの名高いスーポラマ(残飯スープ)だ」ポワレは恭しくポタージュを持って入ってきたクリストフを見ながら言った。
「ちょっとごめんなさい、皆さん」ヴォーケ夫人が言った。「スーポシュ(キャベツスープ)が来ましたよ」
 若者達は皆大笑いとなった。
「ポワレをやっつけろ!」
「ポワレレレレレットをやっちまえ!」
「ヴォーケ・ママに2点献上だ」ヴォートランが言った。
「今朝のすごい靄、こんなの見たことある人いますか?」博物館員が言った。
「あれはねえ」ビアンションが言った。「気違いじみていて見たこともないような靄、陰鬱で憂鬱で緑がかっていて息切れする、そうだゴリオ靄だったよ」
「ゴリオラマ」画家が言った。「だってさ、あれじゃあ何にも見えなかったものね」
「そうだ、ガオリオト卿、彼は視力に問題があったんだ」
 人々が出入りする戸口の前のテーブルの端にうつむいて坐っていたゴリオ爺さんが頭を上げた。その時、彼は時々見せる商売人の古い癖を出して、ナプキン越しに、持っていたひとかけらのパンの匂いを嗅いでいたのだった。
「あらまあ!」ヴォーケ夫人が彼に向かって意地悪く叫んだ。その声は、匙や皿の音、更には人々の話し声を抑え込んで響いた。
「貴方、そのパンが気に入らないの?」
「反対ですよ、奥さん」彼が答えた。「このパンはエタンプの小麦粉で作ってます、最高級品です」
「一体、そこで何を見てるんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「白い色をさ、お気に入りの」
「鼻を使ってね、だって貴方は匂いを嗅いじまうんだから」ヴォーケ夫人が言った。「貴方ったら、とてもけちくさくなったので、とうとう台所の空気の匂いを嗅ぐだけで、食事を済ませる方法を考え出したんだわ」
「それじゃあ、発明品の特許を取りなさいよ」博物館員が叫んだ。「貴方は一財産作れますよ」
「まあ様子見ましょうよ。彼がそうしてるのは、彼が製麺業者だったということを我々に説得するためなんだから」絵描きが言った。
「貴方の鼻はコルヌイ(蒸気用レトルト)でもあるわけですな?」博物館員が更に尋ねた。
「コル何だって?」ビアンションが尋ねた。
「コル・ヌイ(角笛馬鹿)」
「コル・ヌミューズ(角笛ぶす)」
「コル・ナリン(紅色玉髄)」
「コル・ニシュ(軒蛇腹)」
「コル・ニション(間抜け)」
「コル・ボー(カラス)」
「コル・ナク(象使い)」
「コル・ノラマ」
 この八つの返答が部屋のあちらこちらから矢継ぎ早に束になって返ってきて、いずれもが笑いを誘ったので、哀れなゴリオ爺さんが会食者達をぼんやりと見回した様子は、外国語を理解しようと懸命になっている人のように見えた。
「コル?」彼は自分の横にいたヴォートランに尋ねた。
「コル・オ・ピエ(魚の目)だよ、おっさん!」ヴォートランはそう言うとゴリオ爺さんの頭を帽子の上から軽く叩いて目深に被らせたので、帽子は爺さんの目の上にまで深々と下がってきた。
 哀れな老人は、この突然の攻撃に戸惑って、しばらく動くことも出来ずじっとしていた。クリストフはこの人の好い老人が、、もうスープを終えたものと思って、その皿を運び去った。それでゴリオが帽子を被り直し、匙を持った時、彼はそれでテーブルを叩いてしまった。会食者一同がどっと笑った。
「貴方達は」老人が言った。「悪ふざけが過ぎますよ。そして、もし私に向かって、まだこのような嫌がらせを続けるようなら……」
「おやおや! 何だって言うんだね、父ちゃん?」ヴォートランが言葉を遮って言った。
「そりゃ! 決まってるだろ! あんただって、こんなことをすれば、いつかは酷い目に……」
「地獄行きですかね?」絵描きが言った。「この狭っ苦しく陰気な部屋では大人が子供に意地悪をしてるんだからなあ!」
「さあ、どうですかお嬢さん」ヴォートランがヴィクトリーヌに言った。「貴女はまだ食事をしていない。この父っつあんは、いい加減強情過ぎると思わんかね?」
「みっともない人だわ」クチュール夫人が言った。
「彼にはよく言ってきかせにゃならんな」ヴォートランが言った。
「だけど」ラスチニャックが言った。彼はビアンションの直ぐ隣にいた。「お嬢さんは食事の問題について訴訟を起こせるんじゃないですか。だって彼女は食事してないんですからね。ねえ、ねえ、見てよ、ゴリオ爺さんがヴィクトリーヌ嬢をまだじろじろ見てますよ」
 老人は哀れな少女を見つめていて、食事をとるのを忘れていた。少女の顔立ちには本当の悲しみ、父親を愛しているのに、その父に認知されない子供の悲しみがはっきりと見てとれた。
「あのさ」ウージェーヌは声を落として言った。「僕達はゴリオ爺さんに関して、思い違いをしていたようだね。彼は馬鹿でもなければ無神経な男でもない。彼にガルの骨相学による判断を当てはめてみてくれないか? そして、君がそこで考えついたことを僕に教えてくれ。僕は昨晩、彼が金メッキの銀皿をまるで蝋で出来ているもののように捻じ曲げているのを見たんだ。そしてその時の彼の顔つきから、ただならぬ深い感情がほとばしり出るのを感じたんだ。彼という人間は知る価値もないものと無視してしまおうとしても、僕にとって余りにも不可思議に見えるんだ。そうだともビアンション、君はとてもおかしそうに笑っているけれど、僕は冗談言ってるんじゃないぜ。」
「あの男は医学的に興味があるよ」ビアンションが言った。「分かったよ、お望みなら、彼のことを詳しく分析してみよう」
「いや、彼の頭を触ってみて調べてくれ」
「あー! それじゃ、彼の痴呆は多分伝染性なんだ」
 翌日、ラスチニャックは思い切り綺麗な服を着て、午後三時頃レストー夫人宅へ出かけた。道中で彼は時として若者達の人生を感動でかくも美しく輝かせるあの気違い染みた期待に軽率にも身をゆだねてうっとりとしていた。彼のような若者は障碍も危険も共に察知出来ず、唯々成功した時のことばかり目に浮かべ、ひたすら想像力の働きによって自分の存在を美化するのだが、彼らの気違い染みた欲望の中以外では、はなから実現などあり得ない計画の破綻によって、期待は不運にも裏切られたり、悲しい結末に終わったりするのがよくあるケースなのだ。彼等がウージェーヌほど無知でなくて、逆に内気だったら、社交界というものはもはや耐え難いものになってしまうものなのだ。
 ウージェーヌは泥にまみれないように、万全の注意を払いながら歩を進めていたが、彼は歩きながら、レストー夫人に対して、彼が言うべきことをなおも考えていた。彼は機知を仕込み、想像の中の会話で発する素早い返答を編み出し、繊細な言葉や、老練な政治家タレイランが言いそうなせりふを準備した。そして彼の将来がそれにかかっているような宣言をやってのけ、それによって生じるささやかだが好ましい環境が生まれることを、彼は仮定していた。彼の長靴が泥にまみれた。それに気がついて、彼はやむなく長靴を磨き、パレロワイヤルでパンタロンにブラシをかけなければならなかった。
「もし僕が金持ちだったら」彼は運悪く掴んでしまった使い勝手の悪い三〇スー銀貨[27]を両替しながら思った。「僕だって馬車で行きたいよ、そしたら僕だって、ゆったりして色々考えられるのに」

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
Creative Commons License
上記のライセンスに従って、訳者に断りなく自由に利用・複製・再配布することができます。
※翻訳者のメールアドレスは zuq01413@gmail.com になります。最新情報やお問い合わせは、青空文庫ではなく、こちらにお願いします。
2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。