ゴリオ爺さん バルザック

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「彼女は一文無しです」ウージェーヌはあきれ果てて言った。
「あー! まさにそれだよ。それならもう一言、言っておこう。そしたら総てはっきりするだろう。彼女の父のタイユフェール[50]は老やくざってやつでね、革命の期間に友人の一人を殺したと言われてるんだ。彼は私の仲間の一人でもあったんだ。、独立心の旺盛な男だ。彼は銀行家で、フレデリック・タイユフェール商会の社長だ。彼には息子が一人いて、そいつに自分の財産を残してやろうと思ってるんだ、ただしヴィクトリーヌを犠牲にしてだ。私はああいう不公平は嫌いだな。私はドン・キホーテのように、強い者から弱い者を守ってやるのが好きなんだ。もしも神の御心で、彼から息子を引き離せたら、タイユフェールは娘を引き取ることになるだろう。彼は自分でも知らないぼんくらでも何でもいいから、ともかく相続人を欲しがっている。それに彼はもう子供を作れないことを私は知っている。ヴィクトリーヌは優しくて行儀のいい娘だ。彼女はやがては父親をめろめろにしてしまって、彼は感情に鞭打たれて、ドイツの独楽のようにくるくると彼女の思い通りに回転し始めるだろう! 一方、あんたの愛については忘れるどころじゃない、彼女はあんたのことで頭がいっぱいなんだ、あんたは彼女と結婚するんだ。私の方は神様の役目を務めるさ、幸運の神でありたいものだ。私には一人友達がいて、私はかつてその人の罪を代わりに被ってやったことがあるんだ。彼はロワール軍の大佐だった。そして最近、王党衛兵隊に雇用された。彼は私の意見を聞き、極右王党派になったんだ。これはある考えに固執するという愚かさから脱した生き方なんだ。私からあんたに、もう一つ忠告することがあるとすれば、そうだな、あんたの言葉に固執しないのと同様に、あんたの意見にも固執するなってことだな。人があんたのそれを欲しがるんだったら、そんなの売っちまえ。決して意見を変えないことを自慢するようなやつは、いつだって真っ直ぐに行かねばならないと思い込んでいるやつで、無謬を信じてる馬鹿野郎だ。原理なんてものはないんだ、出来事があるだけだ。法はなくて環境があるだけだ。優れた人間は出来事と環境を結婚させて、それらを操作しやすくするんだ。もし原理と法が固定されているとすると、我々がシャツを着替えるのと同じように民衆がそれを変えることが出来んということだ。人間というのは卑しくも国といわれるものよりもお行儀良くしなければならないってことはないんだ。フランスに全然貢献してこなかったような男が、常に革命に関わっていたという理由で崇め奉られるべき偶像となっている。彼などは軍事博物館の兵器類と一緒に、ラ・ファイエット[51]のラベルでも貼って陳列しときゃいいんだ。一方でウィーン会議でフランスの分割を回避させたタレイラン王子[52]に向かって皆が石を投げつける。ところが王子はくだらない人情なんかは軽蔑しきっているので、大衆からの悪罵をまた相手の顔に投げ返す気もない。我々は彼を王にすべきなのだが、我々は彼に泥をぶつけている。あー! 私はこのようなことをよく知っている、身にしみてな! 私は人間の善行には裏があることを知っている! もう沢山だ。私はいつか、原理を実際に用いる上で私と意見を同じくする人間三人に出会えたら、その時こそゆるぎなき見解を確立出来るんだ。だが、私はまだ長い間待つことになるだろう! 我々は裁判所で三人の裁判官が、ある法案について私と考えが一致するというような場面にはなかなか出会わないものだ。ともかく、さっきの男の話に戻ろう。そいつは、私が言えば、イエス・キリストをもう一度十字架に架けることだってやりかねない人間だ。パパ・ヴォートランの一言だけで、彼は、可哀想な妹にはたったの百スーも送ってやらないような、あのろくでなし野郎に喧嘩を吹っかけようとしているんだ、そして……」ここでヴォートランは立ち上がり、防御の姿勢をとり、次いでフェンシング教師のように突きのポーズをして見せた。
「そして陰では!」彼が付け加えた。
「何と恐ろしいことを!」ウージェーヌが言った。「貴方は冗談を言ってるんですか、ヴォートランさん?」
「まあまあまあ、落ち着いて」この男は答えて、「子供っぽいことを言うなよ。だけども、それであんたの気持ちを軽くすることが出来るなら、怒れよ、むかっ腹立てろよ! あんたの好きに言ってもいいんだぜ、私のことを汚らわしい極悪人でろくでなしで強盗ですとな。ただし、私は詐欺師でもスパイでもない、これだけは忘れないでくれ! それなら私は構わんよ、あんたの分厚い鎧を脱ぐんだ! 私にはよく分かる、あんたの年頃なら、それは本当に当たり前のことなんだ! 私だって、そんなだったぜ! ただな、よく考えてみろよ。あんたもやがては酷い事をするんだ。あんたは何処かの綺麗な女に取り入って金を貰うんだろ。図星だろ!」ヴォートランが言った。「あんたの愛が必ず儲かると確信が持てなくたって、どうしても成功するにはどうするか? 徳ってのは、学生さんよ、公平に配られているようなものじゃない。それを持ってるか、全然持ってないかだ。人は自分の罪を悔いよと教えられる。おまけに改悛の厳しい行いによって罪を償って徳性に至るという結構な道まで用意されている! まあ、あんたをこの社会階層の頂点にまで押し上げてくれそうな人妻を誘惑してみるかね。すると、快楽や利己的利益を追求したありとあらゆる恥知らずな行為が、時にはあからさまに時には物陰でこっそりと行われるのは勿論だが、これは一つの家族の子供達の中に不和の種を投げ込むことにもなる。あんたはこの行為の中に敬虔さ、希望、あるいは慈悲の心を見出すことが出来るかね? どうして可哀想な子供から一夜にして財産の半ばを奪ったような色男にはたった二ヶ月の禁固刑なのに、貧乏人の輩が千フラン紙幣一枚を盗むと加重情状で徒刑場送りにされてしまうんだね?[53] これがあんた達の法律なんだ。法規なんてみんな不条理なんだ。[54]手袋をして古びた言葉を弄する人間が殺人を犯す。そこでは血は流れないが、確かに人が死ぬんだ。一方、強盗はかなてこでもって戸をこじ開ける。二つの対照的な夜の犯罪! 私があんたに提案していることと、あんたがいつか行うこととの間には血が流れるかどうかの差があるだけで、実は同じことなんだ。あんたはあの社交界に何とかしっかりした繋がりを持ちたいと考えている! それじゃあ、人のことは気にするな、そして法の網をかいくぐることの出来るように、網の目を見つけるんだ。大金持ちでこれといった成金の秘訣も見当たらないような人物には秘密があって、それは過去の犯罪が忘れられているのだ。何故なら、その犯罪は実に念入りに行われたからだ」
「待って下さい、ヴォートランさん、貴方が私に自分自身のことまで疑わせようとするなら、私はこれ以上この話を聞きたくありません。たった今、私の感情が高ぶって、もう理性を失いそうです」
「のんびりしなよ、君。私はあんたのことを、もう少し強いのかと思っていたぜ」ヴォートランが言った。「私はあんたにまだ何も話しちゃいないぜ。だがな、致命的な一言は言っちまった」彼はじっと学生を見つめた。「あんたは私の秘密を知ってしまったんだ」
「貴方を拒むほどの若者なら、忘れなければならないことがあるのを知っています」
「あんたは上手いこと言ってくれる、嬉しいぜ。他のやつなら、そうだろ、そこまできちんとはしていないぜ。私があんたのためにしてやろうとしたことを覚えておいてくれ。十五日間待とうじゃないか。これに乗るか降りるかだ」
「この男は何て強靭な頭脳を持っているんだろう!」ラスチニャックはヴォートランが杖を腕に抱えて静かに立ち上がるのを見ながら、そう思った。「彼はボーセアン夫人が体裁よく話した内容を露骨に僕に話したんだ。彼は鉄の爪で僕の心を引き裂いた。何故僕はニュシンゲン夫人のところへ行きたいと思うんだろう? 彼は僕が思いつくや否や、僕の動機を見破っていた。一言で言えば、あの悪党は人や書物が教えてくれるよりももっと沢山のことを道徳について話してくれた。もし家族の思いやりが無理な要求に従ってくれてなかったら、僕はついに妹達に盗みまで働いてしまってたんだろうか?」彼はテーブルの上に包みを投げ出しながら考えていた。彼は坐って、頭をくらくらさせるような考えの中に沈み込んだまま、暫くじっとしていた。「善美に忠実でいよう、崇高な殉教者になるんだ! なあに! 誰だって美徳を信じているんだ。だが徳の高い人って誰だ? 民衆は自由に憧れている。だが、この地球上で自由な民衆って何処にいるんだ? 僕の青春はまだ雲ひとつない空のように青い。偉大で金持ちになりたいと望むなら、嘘をつき、身を屈し這いつくばり、また立ち上がり、おべっかを使い、本心を隠そうと決意したんじゃないのか? 嘘つきや根性曲がりや這いつくばっていた連中の下僕になることに同意したんじゃないのか? 連中の共謀者になるためには、まず連中に尽くさねばならない。やれやれ、駄目だな。僕は気高く清廉な仕事をしたい。僕は昼も夜も働き続けたい。自分の労働以上の富を得てはならない。富を得るとかいうのは最後の方で考えることになるだろう。僕はそんなことよりも、毎日々々寝ている時ですら、邪悪なことなど考えずに過ごすことになるだろう。自分の人生をじっと見つめて、それが一本の百合の花のように純白であるのを見出すことほど素晴らしいことがまたとあろうか? この僕とその人生、僕達はまるで一人の若者とその婚約者のようなものだ。ヴォートランは結婚後十年経ったらどうなるかを僕に考えさせた。くそっ! 頭がぼうっとしてきた。もう何も考えたくない。心に従って行くしかないな」
 ウージェーヌはでぶのシルヴィが仕立て屋の来訪を告げる声で、夢想から我に返った。彼は手に金の入った袋を二つ持って仕立て屋の前に現れたが、この成り行きを密かに喜んでいた。彼は夜の服を試着した時に朝の化粧をやり直していたので、すっかり見違えるほどに容貌が変わっていたのだ。「僕はトライユ氏にも匹敵するんじゃないか」彼はそう思った。「ようやく貴族らしい感じになってきたぞ!」
「ごめん下さい」ゴリオ爺さんがウージェーヌの部屋へ入ってきて言った。「貴方は、私がニュシンゲン夫人の訪問するお屋敷を知っているかどうか、お尋ねになりましたね?」
「はい、そうです!」
「それなら、彼女は次の木曜日にカリリアーノ元帥の邸の舞踏会に行きます。もし貴方もそこへ行かれるなら、私の二人の娘が楽しくやってることや、どんな服装をしていたかとか、要するに何でもいい、私に話して下さいませんか」
「どうして貴方はそんなことまでご存知なんですか、ゴリオ父さん?」ウージェーヌは彼を暖炉のところに坐らせながら言った。
「彼女の小間使いが私に教えてくれたんです。私は娘達の様子はテレーズとコンスタンスに聞いて何でも知ってるんです」彼は嬉しげに答えた。老人はまだとても若い恋人が女主人に気づかれないように彼女との連絡を確保しておく策略を立てて、その幸福に浸っているように見えた。「貴方は娘達に会える、貴方ならきっと!」彼は悲しげな妬みを素朴に表しながら言った。
「そんなの分かりませんよ」ウージェーヌが答えた。「僕はボーセアン夫人のところへ行って、彼女が僕を元帥に紹介してくれるかどうか訊いてみます」
 ウージェーヌはある種の心の内なる喜びを感じながら、今後はその場に相応しい服装をして、ボーセアン夫人の邸へ現れる自分の様子を思い浮かべた。道徳家達は彼の中に心の闇を見たと言うかもしれない。しかし心の闇とは恐ろしく深い思慮の結晶ではなく、個人的利害に絡んだ当てにならない思惑や無意識的動作が意に反して表面化する現象に過ぎない。なお、ここに出てくる予期せぬ出来事、仰々しい長広舌が提出するテーマ、急激な変転はウージェーヌの心理分析を離れて、もっぱら我々の楽しみのために伏線として敷かれていることをご理解願いたい。
 よく着こなし、手袋をはめ、長靴を履いた自分の姿を見たラスチニャックはつい先ほどの高潔な決心を忘れてしまった。若者というものは自らが不正に浸されている時は敢えて良心の鏡に自分を写して見ることをしない。一方で成熟した人はそんな時も自らを眺めるものである。人生の二つの段階のはざまであるそこに、総ての違いが横たわっている。いつの日からか、二人の隣人、ウージェーヌとゴリオ爺さんは良き友人となった。彼等の秘密の友情は、ヴォートランと学生とのそれとは対極的な感情から生み出された心理的な理由に由来していた。大胆な哲学、それは我々の感情が物質界に及ぼす影響を確認することを目指したのだが、当初の目的から言えば副次的産物の方により多くの証拠を見つけ出すことになりそうだ。それは我々と動物の間に存する感情についての類似点というテーマだ。犬が初めての人に対して、自分を可愛がってくれるかくれないかを判断するために、一瞬にして人の性格を見抜く早さに勝る人相学者が果たしているものだろうか? 心が通じ合う、これは誰もがよく使う言い回しだが、どういうことなのだろうか。思うに、原初的言語と派生的言語を弁で仕切るのが好きな連中が、前者でもって哲学的定型表現を組み立てたが、それに反する事実が切り捨てられた派生的言葉の中になお多く存在し続けているということではなかろうか。人は愛されると感じる。感情は総ての事物に刻み込まれ、そして空間の中を移動する。一通の手紙は一個の魂であり、それは繊細な精神が愛の最も豊かな財宝の一つに数えるところの、あの声の忠実な反復なのだ。ゴリオ爺さんの場合、彼の感情は無思慮に高められ、その嗅覚は犬が天性授けられたものの域に達していたので、学生の心の中に芽生えた彼への同情、感嘆の混じった好意、若者らしい共感を嗅ぎ取ったわけである。こうした付き合いが生まれはしたが、まだ二人が打ち明け話をし合うには至らなかった。もしウージェーヌがニュシンゲン夫人との面会を希望したとしても、彼がこの老人を通じて彼女に紹介してもらうというようなことは望めなかった。しかし彼はそうした希望を漏らすことが結構効果的なのではないかと期待していた。ゴリオ爺さんは二人の娘のことについては、言ってみれば公表の認められていること、二人の娘が訪れる日程といったこと以外には彼に話したことがなかった。「ねえ、貴方」翌朝、ゴリオ爺さんが彼に話しかけた。「想像出来ますかね、貴方、レストー夫人が私の名前を呼ぶ時、どんな風に呼ぶのかって? 私の娘は二人とも、私のことをとても愛してくれてるんだよ。私は幸せな父親だ。ただ、私の二人の婿だが、私とは上手くいってないんだ。私は可愛い娘達を私が彼女達の夫と仲違いすることで悩ませたくないんだ。それより私は彼女達とこっそり会うことの方が好きなんだ。この隠し事が私にはたまらなく楽しいんだ。これはいつでも好きな時に娘に会える他の親父達には分かりゃすまい。私はね、他の親父達のやってることが出来ないんだ、分りますか? そこで、天気の良い日、私はシャンゼリゼに出かける、小間使いに私の娘達は出掛けたかどうか尋ねてからだがな……私は道で彼女達を待つんだ、馬車がやってくると私の心臓はどきどきする。私は化粧した彼女達を感嘆して眺める。彼女達は通り過ぎながら小さく微笑んで見せてくれる。すると綺麗な日の光が射して、私はその自然の中に包み込まれるような気がするんだよ。それから、私はそこに留まっている。彼女達がまた戻ってくるはずなんだ。そして私はまた彼女達に会うんだ! 空気が彼女達をいっそう綺麗にする。彼女達は薔薇色だ。私には周りの話し声が聞こえる。ほらあそこに綺麗な人がいる! その声で私の心はまた嬉しさで弾むんだ。あれは私の直系じゃないか? 私は彼女達の馬車を引っ張る馬を愛している、そして私は彼女達の膝の上にいる小犬になりたいと思うんだ。そしたら私は彼女達の喜びを見られるんだ。人それぞれに愛し方というものがある。しかし私のは人に害を及ぼすものではない。なのに何故みんなが私に口出しするんだ? 私は私のやり方で幸せなんだ。私が毎晩、娘達が舞踏会に行くために家を出る時を捉えて会いに行くのは法律違反かね? 私が遅く行ったために『奥様はお出掛けになりました』等と言われた時の私の悲しみはどんなに深かっただろうか。ある晩など、私はナジーに会いたくて夜明けの三時まで待ったものだった。それまで丸二日間というもの、彼女に会ってなかったんだ。私は死ぬほど退屈だった! お願いだから、私には娘達がどんなにいい具合にやってるかだけを話して下さいませんか。彼女達は私にはいっぱいいろんな種類のお土産を持ってこようとするんだ。私はそれをさせんようにしてるんだ。それで言ってやるんだ。『それよりもお前達の財産を守れ!』貴方なら私がどうすべきだと思いますか? 私には何も要らない。本当に、貴方、私は一体何だろう? 聞き分けのない亡霊のようなものかね、魂だけはあちらこちらと娘達の居場所をうろついている。いつか貴方がニュシンゲン夫人に会ったら、二人のうち、どちらが好きか私に言ってくださいね」この善良な男は一瞬の沈黙を置いた後、ウージェーヌを見つめて言った。学生はそろそろ出掛けようとしていた。彼はボーセアン夫人のところへ行くまでの時間にチュイルリーを散歩して過ごそうとしていた。
 この散歩は学生にとって運命的なものとなった。何人かの女性が彼を目に留めた。彼はとてもハンサムで、とても若く、しかもとても趣味の良い上品さを身に付けていた! ほとんど感嘆に近い眼差しが自分に注がれているのに気づくと、彼はもはや妹達のことも落ちぶれた叔母のことも善が掻き立てる嫌悪感のことも考えられなくなっていた。彼の頭の中を、誰か一人の天使をものにするのは簡単じゃないかという悪魔的な考えが走り過ぎるのを彼は見た。あのサタンは多彩な翼を持ち、ルビーを撒き散らし、宮殿の前で黄金に輝く毒舌を吐き、女性達の顔を赤らめさせ、馬鹿を装いながら王位を分裂させてしまう。彼等も元々はごく素朴なものだったのだが……彼はこのパチパチ音を立てる虚栄心に、神の声を聞いた。その美辞麗句は、我々には力の象徴のように思われるものなのだ。ヴォートランの言葉は、それが如何に反世間的なものであったとはいえ、彼の心の中に、処女の思い出の中に刻み込まれた化粧品売りの婆さんのいかにも恥知らずな横顔とその言葉のように、いつまでも残っていた。その婆さんは少女に言ったものだ。「金と愛情はどっさりあるんだよ!」
 何をするでもなく、ぶらぶら散歩した後、ウージェーヌは五時頃にボーセアン夫人の許を訪れたが、そこで彼は恐ろしい衝撃を受けた。若者はそれに対抗するすべを持っていない、それほどの衝撃だった。これまで彼が会った子爵夫人は、貴族の教育によって培われた礼儀正しい優しさや、心地よい優雅さに溢れていた。それらが、彼女の真心から出たものと、全面的に言えないにしてもである。
 彼が入ってゆくと、ボーセアン夫人は無愛想な様子で、彼に向かってぶっきらぼうに言った。「ラスチニャックさん、貴方にお会いすることが出来ないの、とにかく今はね! ちょっと取り込み中なので……」
 他人が見ても、あるいはラスチニャック本人にとっても状況が急変していた。この言葉遣い、仕草、眼差し、声の抑揚が、性格を物語っていたし、またそれは特権階級の習慣そのものだった。彼はビロードの手袋の下に隠されていた鉄の手を認識した。礼儀作法の下に隠された人格や利己主義も、ニスの下にある木質も……要するに彼は〈朕は国家なり〉という王様の羽飾りから発し、最後の貴族の兜の天辺にまで受け継がれた言葉を聞いたのだった。ウージェーヌは彼女の言葉を聞くと、実にあっけなくこの婦人の威厳の前に身を屈したのだった。とても口惜しいことに彼は既に誠意をもって契約書にサインしてしまっていたが、それは夫人にとっては結構な内容で、保護者と被保護者の結びつきは保護者の恣意に任されていた。その中の第一項は、数々の大きな精神活動の中から、完全な平等を抜き取り神に捧げていた。そもそも平等という観念は良く理解されておらず、真実の愛がそうであるように、実在しないに等しいものであった。二人の間の平等は消されてしまっていたというわけである。彼女の慈善的精神が二人をようやく繋ぎとめてくれたのだった。ラスチニャックはカリリアーノ伯爵夫人の舞踏会に行くことを望んでいた。疾風のように総てを嘗め尽くす積りだった。
「奥様」彼は熱のこもった声で言った。「大事なことでなければ、貴女にうるさがられるのに、やっては来ません。もし私にご親切をかけて下さるなら、どうか後でご面会させていただきたく思います。私はお待ちしております」
「あーそうね! 私と夕食をしにいらっしゃい」彼女は先ほどの言葉にきつい印象が入っていたことを少し恐縮しながら言った。この婦人は立派であると同様に本当に善良な人だったのだ。
 この突然の態度変更に喜んだものの、ウージェーヌはそこから立ち去りつつ思った。「這いつくばるんだ、ひたすら耐えるんだ。他の連中ならどうするだろ、もしも最高に素敵な女性が友達との約束を反故にする、そんな瞬間があったとしたら、そして君はそこに古靴のように棄てられるとしたら? 自己中心主義なのか、結局? 確かに彼女の家はお店じゃない、だから僕がそこで彼女に必要なものを頼むのはまちがっていた。ヴォートランが言うとおり、僕は自分で大砲の弾を手に入れなければならない」学生の苦い反省は子爵夫人のところで夕食をしながら約束することが出来た新しい喜びのおかげで、まもなく霧消してしまった。それと同時に、ある運命によって、この時の彼の人生に起こった極めて些細な幾つかの出来事は彼の背中を押して、ある階段の方へ向かわせたのだった。その階段こそ、メゾン・ヴォーケに住む恐るべきスフィンクスの見立てに従えば、まるで戦場のようなところで、彼は殺される前に殺し、騙される前に騙す、そういう人間になってゆくところだと言うのだ。そこでは、彼は良心の壁の前に自分の心を置き、仮面を付け、人間的な情などはものともせず、古代ギリシャのスパルタのように、人知れず財を手に入れ王位に就こうとするようになるだろうと、例のスフィンクス男が言ったのだった。彼が再び子爵夫人の邸に戻ってみると、彼女はこれまでいつも彼に見せてきたようなしとやかな優しさをいっぱいに見せて彼に対してくれた。二人は揃って食堂に入っていった。子爵がそこで夫人を待っていた。そして王政復古以来、誰もが認めているように、食卓の豪華さは最高の水準にまで達していた。ド・ボーセアン氏は何事にも感激しなくなった人の多くがそうであるように、美食以外にはほとんど楽しみがなくなっていた。彼は食道楽に関してはルイ十八世やデスカール公爵[55]の弟子だった。彼の食卓は何と二重の豪華さ――食器の豪華さと中味の豪華さ――を共に提供していたのだった。ウージェーヌはかつてこれほどの光景にお目にかかったことはなかったし、彼にとって父祖伝来の社会的権勢を誇ったこの邸で夕食を食べるのは初めてのことだった。ここの流儀は、かつては帝国の舞踏会の締めくくりに出されていた夜食を最近廃止していた。かつての軍隊は国の内外において、いつ起こってもおかしくない戦闘に備えて、力を蓄えておかねばならない必要があったのだ。ウージェーヌはまだ舞踏会にしか出席したことがなかった。後になって彼を著しく目立たせた平静さは、その頃から彼が心掛け始めたのだが、そのお陰で彼は何にでも馬鹿みたいに仰天するようなことは避けられたのだった。しかし、この彫刻のほどこされた銀食器や豪華な食卓に見られる千にも及ぶ凝った意匠を眺め、音も立てずに行われるサービスに初めて接すると、感嘆を抑えることが出来なかった。燃えるような想像力を持った男にとって、こうしていつも優雅に過ごせる生活よりも、今朝考えたような窮乏生活の方を選ぶことはとても難しいことだった。彼の思考は一瞬、彼をあの高級下宿の方へ連れ戻した。彼はその時、底知れない恐怖のようなものを感じたので、一月にはこの下宿を去ろうと決心した。それは同時に、自分の肩にあの大きな手をかけていたヴォートランから逃れて、どこか適当な住居に移りたいためでもあった。もし我々がパリで無数の形で生じる堕落――表だって見えるものも人知れずにあるものを問わず――を考えてみたとしよう。良識家は次のように自問する、何と言う無分別によって国家はそこに学校を作ったのか、そこに若者達を集めたのか、何とまあそこでは可愛い女性が大事にされるのか、どうして両替商によって見せびらかされた金は彼等の木の椀からは魔術的に消えずに残っているのかと。だが、我々はウージェーヌを一つの例として取り上げてみよう。我々は彼がたまたまほんの少ししか罪を犯していない、それどころか彼は若者にありがちな一寸した違反くらいしかやっていないと認めるとしよう、それで一体何処があの辛抱強く自身と戦い、そしてほとんどいつも勝利していたあのタンタロス[56]と彼を比較出来ると言うのか! とはいえ、彼のパリとの闘いに上手な色付けがなされるなら、我が愛すべき学生は我等の現代文明を最高に劇的な主題として見せてくれるだろう。ボーセアン夫人はウージェーヌに何かしゃべらそうと勧める意味で彼の方を見たが、無駄で、彼は子爵の面前では何故か話し出す気分になれないのだった。
「私を今夜はイタリア座へ連れてってくれるの、あなた?」
「あなたの言うことには喜んで従うよ」子爵はからかい気味に優しく答えた。その微妙さに学生は気付かなかった。「だけど私はヴァリエテ座では、ある人と合流しなけりゃならんのだよ」
「あの女性だわ」彼女はそう思った。
「あなたは今夜はまたダジュダと一緒じゃないのかい?」子爵が尋ねた。
「いいえ」彼女は不機嫌に答えた。
「おや! もしあなたがどうしたって腕を組む相手が要るんだったら、ド・ラスチニャックさんの腕にすがりなさい」
 子爵夫人は微笑みながらウージェーヌを見た。
「それは貴方には結構危険よね」彼女が言った。
「フランスの男は危険を好む、何故ならそこに栄光があるからだと、シャトーブリアン氏が言っています」ラスチニャックはそう答えて頭を下げた。
 それから少し経った時には、彼はボーセアン夫人の横に座って、今流行の劇場に向かって飛ばして行く二輪馬車の中にいた。彼が正面の桟敷席に入ろうとした時、どういう若いツバメだろうと思われたのだろう、彼はこの上なく魅力的な化粧をしていた子爵夫人と共に、総てのオペラグラスが一斉に自分達に向けられているのを感じた。彼は歓喜の中を歩いている気持ちがした。
「貴方は私に話しかけて」ボーセアン夫人が彼に言った。「あっ! 見て、ニュシンゲン夫人がいるわ、私達から三つ目の桟敷よ。彼女の姉とド・トライユ氏は反対側の桟敷だわ」
 こう言いながら子爵夫人はロシュフィード嬢が来ることになっている桟敷席に目をやった。しかしダジュダ氏の姿は見えなかった。彼なら、その姿はとても目立つはずだった。
「彼女は魅力的だ」ニュシンゲン夫人を見た後、ウージェーヌが言った。
「彼女のまつげは色が薄いわね」
「そうですね、だけど何て可愛くて細い胴をしてるんでしょう!」
「彼女の手は丸々してるのよ」
「綺麗な目だ!」
「彼女って面長ね」
「だけど面長の輪郭も品があります」
「あんな席を持つなんて、彼女も幸せだわ。見て、どうしたのかしら、彼女ったらオペラグラスをかざして、また外したわ! ゴリオ家ってのが彼女の行動の総てに現れてしまうのね」子爵夫人がこう言ったので、ウージェーヌはすっかり驚いてしまった。
 確かにボーセアン夫人はその桟敷にオペラグラスを向けながら、ニュシンゲン夫人には注意を払わなくなったようだった。それにもかかわらず彼女はニュシンゲン夫人の動作は見逃してはいなかった。そこの集まりは素晴らしく美しかった。デルフィーヌ・ド・ニュシンゲンはこの若くて美しくて上品なボーセアン夫人の従弟の視線を独り占めにしていることで、ひどく浮き浮きしていた。彼は彼女以外は一切見なかった。
「貴方がそんなに彼女の方ばかり見続けてると、貴方は直ぐにスキャンダルを引き起こしますよ、ド・ラスチニャックさん。その調子で皆の前に身を晒すようでは何事にも成功しないわよ」
「姉さん」ウージェーヌが言った。「貴女は確かにこれまで僕の事を守って下さいました。貴女がこれまで僕に下さった親切をやり遂げてやろうと思って下さるにしても、僕は貴女にちょっとお力添えを頂くだけで結構です。それが僕には十分大きな力となります。僕は今、気持ちが固まりました」
「えっ、もう?」
「はい」
「で、あの女に?」
「僕の心からのお願いです。それ以外のことに聞こえますか?」彼は従姉に射抜くような眼差しを投げかけて言った。「カリリアーノ公爵夫人はベリー公爵夫人と繋がりがあるそうですね」彼は一呼吸おいて続けた。
「僕にご親切を施して下さって、彼女に紹介下さり、月曜日に彼女が開く舞踏会に僕が行けるようにしてやろうとお思いなら、彼女に会って頂きたいのです。そうすると僕はそこでニュシンゲン夫人に出会い、僕の最初の恋の鞘当を始めることになるんです」
「それなら喜んで」彼女が答えた。「貴方がもう彼女に好意を抱いているなら、貴方の恋愛ってすごく上手く行きそうだわ。ほら、ド・マルセイがガラティオーヌ王女の桟敷席にいるでしょ。ニュシンゲン夫人はとても辛い思いをしてるの、彼女は悔しい思いをしてるのよ。女に近づくのに、これ以上良いタイミングはないわ。特に銀行家の奥様にね。ショセダンタンのあの女達はともかく復讐が好きなのよ」
「貴女が彼女と似たような立場だったら、貴女ならどうなさるのですか?」
「私ならね、一人で苦しむわ」
 この時、ダジュダ侯爵がボーセアン夫人の桟敷席に入ってきた。
「私はここで貴女にお会いしたくて、仕事はいい加減で切り上げてきました」彼が言った。「でも、そんなのは犠牲と言うほどのことではないんです」
 子爵夫人の表情の輝きから、ウージェーヌは本物の愛の表情を読み取った。それをパリジェンヌの化粧で飾られた見せ掛けの愛と混同してはならないことも悟った。彼は従姉に感嘆していた。彼は黙って微笑みながら、ダジュダ氏に自分の席を譲った。「あのように人を愛せるなんて、何と気高く、何と高貴な女性なんだろう!」
彼は思った。「なのに、あの男は可愛い子ちゃんが欲しくて、彼女を裏切ろうとしている! どうして彼女を裏切ったり出来るんだ?」彼は心の中に子供らしい烈しい怒りを感じた。彼はむしろボーセアン夫人の足元にくるまっていたかった。彼は鷲が自分の領分の平原でまだ乳飲み子の白い子ヤギをくわえ取るように、悪魔的な力が自分を彼女の胸の中に運び込んで欲しいと願った。彼はこの巨大な美術館の中で、まだ自分の肖像画もなく、面倒をみてくれる女性の擁護者もいない実に屈辱的な存在なのだった。「女性擁護者がいるってことは、ほとんど王位にいるようなもんだ」彼は思った。「それは力の象徴なんだ!」それから彼はニュシンゲン夫人を見た。それはまるで侮辱された男が敵対者を見るような具合だった。子爵夫人は彼の方をもう一度見た時、彼がウィンクをして、精一杯の願いを伝えようとしているのを見た。最初の幕は切って落とされた。
「貴方はニュシンゲン夫人を良くご存知ですか? ラスチニャックさんを彼女にお引き合わせ出来たらと思いますのよ」彼女はダジュダ侯爵に切り出した。
「無論ですよ、この方とお知り合いになれるなら彼女も喜びますよ」侯爵が答えた。
 美貌のポルトガル人は立ち上がると学生の腕を取った。学生はあっという間にニュシンゲン夫人の前に連れて行かれた。
「男爵夫人」侯爵が言った。「私は光栄にもウージェーヌ・ド・ラスチニャック卿を貴女に紹介させて頂きます。ボーセアン子爵夫人のお従弟様でいらっしゃいます。貴女は彼にとても強い印象を与えられたのです。そこで私は彼を憧れの人にもっと近づけてあげて、彼を完璧に幸せにしてあげたいと思ったというわけです。」
 この言葉はある種の冷やかしめいた調子を含んでいて、やや露骨な考えを伝えていたが、それでいて、この女性には結構救いになるものがあって、決して不快感を与えるものではなかった。ニュシンゲン夫人は微笑んで、たった今出て行ったばかりの夫の席をウージェーヌに勧めた。
「私は貴方に私の傍でずっといて欲しいなんて思い切って言うことは出来ませんわ、貴方」彼女は彼に言った。「ボーセアン夫人の傍らにおられる人が、どうしてそこを離れられましょう」
「けれども」ウージェーヌは低い声で彼女に言った。「奥様、たとえ私が従姉の気に入るようにしたいと思っていても、私はどうもあなたの傍に留まってしまう様な気がするんです。侯爵が私達の席においでになるまで、私達は貴女のことや、貴女のお人柄の優れていることをずっと話していたんです」彼の声が高くなった。
 ダジュダ氏が立ち去った。
「本気で貴方は」男爵夫人が尋ねた。「私の傍にいるお積りなの? だって私達知ってるんですよ、レストー夫人がもう話してくれたんですけれど、彼女は貴方にとても会いたがってるんですってね」
「彼女は全くひどいですよ、彼女は私を追い出したんです」
「何ですって?」
「奥様、私はそうなった理由を貴女には誠意を持って話したいと思います。しかし貴女にこのような秘密をお打ち明けするについて、私は貴女が寛大なお気持ちで対して頂けるように心からお願いいたします。私は貴女のお父上の隣の部屋に住んでいるのです。私はレストー夫人が彼の娘さんであることを知らなかったのです。私は軽率にも、悪気はなかったのですが大胆な発言をしてしまい、私は貴女のお姉様である夫人とそのご主人を怒らせてしまったのです。貴女はご存じないかもしれませんが、ランジェ公爵夫人と私の従姉が、どんな風に子供として忘恩きわまる裏切りとこれを捉えているかは想像するに余りあります。私は彼女達にいきさつを話しました。彼女達はそれを聞いて気違いのように笑い転げていました。更に貴女と貴女の姉上を比較した時、ボーセアン夫人は私に貴女のことを遥かに良く言っていました。そして、貴女が私の隣人のゴリオさんに如何に立派に接しておられるかを話してくれたものです。その通り、どうして貴女が彼を愛さないでおられましょうか? 彼は貴女をもう熱愛しているので、私はもう既にそれを嫉妬してしまっているくらいです。今朝だって、私達は貴女のことを二時間も話しこんでいました。そして貴女のお父様は私にとても沢山のことを話されましたが、今夜、従姉と夕食を共にした時、私は彼女に言ってやりました、貴女は美しいに違いないけれど、それ以上に情のある人であると。明らかに私はこの熱烈な賞賛が効くことを期待していたんですが、ボーセアン夫人は私をここへ連れてきてくれました。彼女はいつもの優雅な声で、ここで貴女に会えるはずだと言ってくれました」
「一体どうして貴方は」銀行家夫人が言った。「私のことをそんなによくご存知ですの? もう少ししたら、私達すっかり旧友になってしまいますわね」
「とはいえ、貴女のそばにいて友情などと言えば、少しありきたり過ぎますよ」ラスチニャックが言った。「私は決して貴女の友達なんかになりたくありません」
 この初心者用の紋切り型の愚かな言葉は女達にはいつも魅力的に聞こえ、よほど冷静に聞き取られない限り、そんなに惨めな結果を招くものではない。若者の身振り、強調、そして眼差しは彼等に計算外の価値を与えるのである。ニュシンゲン夫人はラスチニャックに魅力を感じた。それでも、女というものの常として、この学生が言ったと同じような状況で、こんなに感情を露わにして出された誘いには応えられないものだから、彼女は話の方向を変えてみた。
「はい、姉は私達にとって神様のような、あの可哀想な父に向かって、間違った接し方をしています。夫のニュシンゲンも、私が父に会うのは朝だけにするようにとはっきりと言っております。私は父に会いたいので、夫の要求には従っています。でも私はこのことでは長い間、悲しい思いをしてきました。私は泣きました。結婚の後で夫から突然荒々しい言葉を投げつけられたことが、私の家庭の大きな悩みの原因の一つになったのです。パリの家庭の主婦は世間的には一番幸せなように見られていますが、本当は一番不幸せなんだと私は思っています。貴方にこんな風なお話をする私のことを頭が変なんだと、貴方はお考えになることでしょう。でも貴方は父のお知り合いです、ですから、貴方なら私のことを間違った風にお受け取りにはならないでしょう」
「貴女はこれまでに」ウージェーヌが彼女に言った。「貴女と一緒にいたいと、これほど熱くなって望むような人間には決して出会わなかったのでしょう。貴女が求めているものは一体なんですか? 幸せ」彼は彼女の魂にまで届く声音で付け加えて言った。「私はこう思うんです! 女性にとって幸福とは、愛されること、熱愛されること、彼女が自分の望み夢見ていること、悲しみや喜びを総て打ち明けられるような友人を一人持つことです。互いに心を包み隠すことなく自分を見せて、可愛い欠点や美しい性格などをひっくるめて、決して裏切られることを心配する必要もない、そういった友人です。私のことを考えてください。心は忠誠を誓い、いつも熱く燃えていて、若者でしか見出せないものや幻想で溢れていて、貴方の合図があれば即死んでもみせるが、世の中のことはまだ何も知らない、そのうえ知りたくもないという、何故なら彼にとっては貴女が世界なのです。分かって頂けるでしょうか。貴女は私の無邪気さをお笑いになるでしょう。私は田舎の奥から来たばかりで全くの新米です。無垢の心しか知りません。それで私は恋愛などしないでいる積りでした。私は従姉と会うようになりました。彼女は私のために特に心を砕いてくれました。彼女は情熱の中の幾千もの宝物を見抜くことを私に教えてくれました。私はあのシェリュバン[57]のように、総ての婦人達の恋人です。私がその婦人達の中から誰か一人の人にこの身を捧げる日が来るのを待つ間は、私は総ての婦人達の恋人なのです。ご存知のように、私が入って来た時、私は何だかある流れによって、貴女の方に運んでゆかれるような気がしました。私は貴女のことは前からずっと考えていたのです! しかし私が想像していた貴女は今目の前に実際にいらっしゃる貴女ほどには美しくはなかったのです。ボーセアン夫人はあまり貴女の方ばかりを見ないようにって言ってました。彼女は貴女の可愛い赤い唇、貴女の白い肌、貴女の甘美な瞳を見ることが、どんなに魅惑的なことであるかを知らなかったのです。私はまた、貴女に馬鹿なことを話してますね。だけど私の好きなように言わせておいてください」
 このような甘い言葉が喋られるのを聞くほど女達にとって心地よいものはない。こちこちの信心家でも、これには耳を傾ける。特にそれに答える必要もないのなら尚更のことである。こんな調子で始めた後、ラスチニャックはとりとめもなく喋ったが、彼の声には訳もなく粋な雰囲気が漂っているのだった。そしてニュシンゲン夫人は微笑でウージェーヌを勇気づけてくれた。もっとも、彼女はガラテオーヌ王女の桟敷を離れようとしないド・マルセイの方を時々見やっていた。ラスチニャックはニュシンゲン夫人の夫が、彼女を連れて帰るために現れるまで、夫人のそばに留まっていた。
「奥様」ウージェーヌが彼女に言った。「カリリアーノ公爵夫人の舞踏会の前に、貴女にお会い出来れば嬉うございます」
「ヅマ、アナダノゴド、キニイッデマス」ずんぐりしたアルザス人で、その丸っこい体型が油断のならない鋭敏さを語っている男爵が言った。「アナダヲ、カンケイシマズ、セヒキテグタザイ」
「僕の恋愛は上手くいっている。何故なら彼女は僕が彼女に何を言っても気を悪くしていない。僕のこと気に入りましたか? なんてことまで言ったのにさ。僕のお馬ちゃんにはみを付けちゃったから、これからは思いっきり乗り回しちゃうぞー」ウージェーヌはボーセアン夫人の桟敷へ挨拶に向かいながら、そんなことを考えていた。夫人は立ち上がって、ダジュダと一緒に退去するところだった。哀れな学生は先ほどのニュシンゲン男爵夫人が実は放心状態で、ド・マルセイからの手紙を待っていたことを知らなかった。それは人の心を引き裂く決定的な手紙だったのだ。成功と勘違いしていたウージェーヌは幸福そのもので、子爵夫人に従って列柱回廊に向かった。そこではめいめいが自分の馬車の到着を待っていた。
「貴女のお従弟さんはすっかり感じが変わっちゃいましたね」ウージェーヌが彼等のもとを離れた時、ポルトガル人が笑いながら言った。「彼は銀行家夫人に飛びつこうとしています。彼はまるで鰻のように柔軟です。それでね、私は彼が相当なところまで行くのではないかと思ってるんです。貴方はただ彼を連れて来て、ある女が彼の慰めを必要としているような局面で、彼を引き会わせればよかった」
「だけど」ボーセアン夫人が言った。「彼はその女が自分を棄てた男をまだ愛してるかどうかを知っておかねばならないわ」
 学生はイタリア座からヌーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ徒歩で帰りながら、更に楽しい計画を考えていた。彼はレストー夫人が彼を観察する時に払う彼への関心の高さを測ってみた。もし彼が子爵夫人の桟敷にいたら、もしニュシンゲン夫人の桟敷だったら、そうすると、伯爵夫人の家の戸はもはや閉じられてはいるまいと思えてくるのだった。そんな調子で既に四つの主要な知己が――というのは、彼は軍将官並みに楽観的見通しを立てていたので――パリジャンの上流階級の心臓部に彼の知り合いとして確保されたことになっていた。方法についての詳しい説明はないままで、この世の損得の絡んだ複雑な競争において、彼は前もって、自分が機械の中の高い地位にいるためには、そして自分が歯車の動きを止める力を自覚するためには、彼がその機構に執着せざるを得ないことを見抜いていた。「ニュシンゲン夫人が僕を好きになってくれたら、彼女に夫の操縦の仕方を教えてやろう。あの旦那は金融業なんだから、僕があっという間に一財産作るのを手助けしてくれるだろう」彼はそんなに考え深かったわけではないし、状況を解読するに十分な政治的思考もしていなかった。状況を評価し計算することもしなかった。彼の考えは前途に見える微かな雲の下で揺れ動いていた。そして、考えの中にはヴォートランのそれのような厳しさはなかったが、もし良心の呵責の前にそれを置いたとしたら、純粋な善は跡形もなくなっていたことだろう。現代社会は人々のこの手の一連の作業によって蔓延しているこの緩んだ道徳の実状を認めざるを得ない。そしてこの時代には他のどの時代よりも稀にしか真正直な人間、決して悪には屈せず正しい道を僅かに外れることすら罪だと断罪するあの美しい意志の人に出会うことはないのである。実直さの偉大なイメージとして、我々は二つの傑作を評価したい。モリエールのアルセストである。次いで近頃のものでは、ウォルター・スコットの作品からジェニー・ディーンとその父[58]を挙げたい。恐らく作品は正反対だ。一人の世慣れた男、野心家が外面を守りながらも自分の目的を達成するために、悪と紙一重のような行為もやりながら、自分の良心も丸め込んでしまう、そうした紆余曲折を描いた絵は、だからといって美しさに欠けることもなければ、劇的印象が弱いとも言い切れないのではないだろうか。彼女の家の敷居に辿りつくために、ラスチニャックはニュシンゲン夫人に夢中になった。彼女は彼の目に、まるで燕のようにすらりと細く見えた。彼女のうっとりさせるような甘美な眼差し、彼女の膚の繊細で絹のような光沢のある生地の下に、彼は熱い血潮を見るような思いがした。そして彼女の声の魅惑的な響き、彼女のブロンドの髪、彼はこれらの総てを思い返した。そして彼は階段を上りながら血が騒ぐのを感じた。そのせいだろう、彼の陶酔感は更に深まった。学生はゴリオ爺さんの部屋のドアを乱暴にノックした。
「お隣さんよ」彼は言った。「僕はデルフィーヌ夫人に会ってきましたよ」
「どこで?」
「イタリア座で」
「彼女は楽しそうでしたか? とにかく入りなさい」それから爺さんはシャツを着て起きてきて、ドアを開けると直ぐにまたベッドで横になった。「さあ私に彼女のことを話してください」彼が頼んだ。
 ウージェーヌはゴリオ爺さんの部屋に初めて入ったので、ひとしきり彼の娘の化粧を褒め称えた後で、爺さんが住んでいるむさくるしい部屋を見て唖然とせざるを得なかった。窓にはカーテンがなかった。壁に貼り付けられた壁紙は、何箇所かで湿気のため剥がれかけて反り返っていたので、その下の漆喰が煙草の煙で黄色くなっているのが剥き出しのままになっていた。爺さんは粗末なベッドに横たわり、薄っぺらな毛布とヴォーケ夫人の古着に綿を詰め込んだ足掛けだけを引っ掛けていた。窓はじめじめして埃が溜まっていた。窓と向かい合ってローズ材の古びた整理ダンスがあった。中には何かがいっぱい詰め込まれていて、銅製の取っ手は葡萄の若枝のようにカーヴし、木の葉と花の模様があしらわれていた。古い家具の木製棚の上には水差しが洗面器の中に放り込まれていた。そこには髭剃りに必要な物も全部入っていた。そして隅っこには短靴があった。ベッドの枕元には縁飾りも大理石も付いてないナイトテーブルがあった。暖炉の隅には火を焚いた跡もなく、くるみ材の四角いテーブルがあった。ゴリオ爺さんはそこで棒を使って、金メッキした銀の椀を捻じ曲げていたのだった。安物のライティング・ビュローが一つあって、その上に爺さんの帽子が置かれていた。少し傷のある肱掛椅子と他に椅子二脚、これら総てで惨めな調度品を構成していた。ベッドの囲い枠は上部を襤褸切れで結び合わされていたが、汚らしい赤と白の格子縞の布が垂れ下がっていた。ゴリオ爺さんがヴォーケ夫人の下宿でいる状態に比べれば、最低の稼ぎの走り使いの人間でも屋根裏部屋でもう少しましな調度品を揃えているに違いない。この部屋の光景は寒気を催させ心臓を締め付け、さながら牢獄の悲しみに沈んだ住居のように思えた。幸いナイトテーブルの上の蝋燭がウージェーヌの顔を照らした時、そこに表れた表情をゴリオは見ていなかった。爺さんは顎まで毛布を引っ張り上げたままで彼の方を向いた。
「さあ、それで! 貴方はどっちが好きなのかね、レストー夫人かね、それともニュシンゲン夫人かね?」
「僕はデルフィーヌ夫人の方が好きです」学生は答えた。「何故って、彼女の方が貴方をもっとよく愛してるからです」
 この言葉が熱く語られるのを聞くと、爺さんはベッドから手を伸ばしてウージェーヌの手を握った。
「ありがとう、ありがとう」老人は感動して言った。「彼女は私について貴方にどんなことを言ったのかね?」
 学生は男爵夫人の言葉を潤色しながら繰り返した。老人はまるで神の言葉を聞くような様子でそれを聞いた。
「可愛いあの娘! そう、そう、彼女は私を十分に愛してくれてる。だが、彼女が貴方にアナスタジーのことで言ったことをもとにして、彼女の方が好きだとは言わないで欲しい。姉妹二人は嫉妬しあっているんです、お分かりでしょ? これもまた彼女達の優しさの証明とも言えるんです。レストー夫人だって私を十分に愛してくれてるんです。私には分かってる。父親ってものは娘達にとっては、ちょうど神様が我々とともにあるような関係でしてな、父は彼女達の心の奥底にまで入っていって、考えていることを知ってしまうんです。彼女達は二人とも本当に優しいんですよ。あー! もし二人の婿がいいやつだったら、私は幸せ過ぎたでしょうな。この世に完全な幸せなんてあるわけがありません。でもね、私が彼女達の家に出入りしているんだったら、どんなに嬉しいことか。ところが、私は彼女達の声を聞いたり、何処にいるのか知ったり、彼女達が行ったり出掛けたりするのを見るだけなんです。だから私の家に彼女達を迎えるというような時は、私の心は嬉しくて躍り上がってますよ。ところで彼女達のおめかしは良かったですか?」
「はい、しかし、ゴリオさん、一体どうして、貴方の娘さん達のように二人ともしっかりと富を築かれているのに、貴方はまだこのような粗末な住居に留まっておられるんですか?」
「確かに」と彼はうわべは無頓着な様子で言った。「ましなところへ移ったところで、それが私にとって、どれほどのものをもたらすのでしょう? こういうことについて、私は余り貴方に詳しく説明出来るとは思えない。私はほんの少しの言葉でも申し分なくすらすらと話すことが出来んのです。一番肝心なのはそこなんです」彼は胸を叩いて見せて付け加えて言った。「私の人生は、この私は二人の娘のためにあるんです。もし彼女達が楽しげで、彼女達が幸福で、美しく着飾って、彼女達が絨毯の上を歩くのであれば、私がどんな服を着ようが、私がどんな所で寝ようが、どうだっていいことなんです。彼女達が暖かければ私は少しも寒くはないし、彼女達に悩みがなければ私も決して悩みません。私は彼女達が悲しまなければいいのです。貴方が父親になって、子供達が小鳥のようにさえずっているのを見て、貴方も思うことでしょう。こいつらは私から生まれてきたんだ! 貴方はこの小さな子等がそれぞれに貴方の血の一滴一滴を受け継いで美しい花を咲かせているのを感じる、そう、それなんだよ! 貴方は彼等の皮膚に張り付いたように自分を感じ、彼等の歩みに連れてあなた自身も動いていると感じる。彼等の声はあらゆる所で私に答えてくる。悲しい時には、彼女達の眼差しが私の血を固まらせてしまう。ある日、貴方は彼女達の幸せが自分自身のそれよりもずっと大切である事に気付く。私はこの気持ちを貴方に上手く説明出来ないのだが。それは心の内なる動きで、私の心を安らぎで満たしてくれるんだ。つまり私は三人分の人生を生きているんだ。貴方に私のつまらない話をもう少しさせてくれるかね? どうだね! 私がまだ彼女達の父親だった時、私は神を理解していた。神はあらゆる点で全能だ、何故なら創造物は総て神によって生み出されたものだからだ。貴方いいですか、私は私の娘達に対してはいわば神と同じような立場にあったわけですよ。ただし、私は神が世界を愛する以上に娘達を愛していた。何故かと言えば、世界は神のように美しくないし、その一方、私の娘達は私よりもずっと美しい。彼女達は私の魂をしっかりと繋ぎとめてるんだ。それで私には考えがあるんだが、貴方は今晩それが何だか分かると思うよ。神様! ある男が私の可愛いデルフィーヌをまた幸せに戻してくれるだろう。女が本当に愛された時にあるべき姿の彼女に。勿論私は彼女の長靴を磨いてやりたい、彼女のために使い走りもやりたいくらいに思ってますよ。私は彼女の小間使いから、あのド・マルセイ氏が、けちな浮気相手だったことを知らされてますよ。彼は私に首を絞めてしまおうかというくらいの嫉妬心を起こさせました。女の宝石とも言うべきものを、ナイチンゲールのような可愛い声を、そして完全な美しい肢体を愛さないなんて! また彼女は、あの太ったアルザス出の男と結婚してしまうなんて、彼女の目は一体何処を見てたんでしょうね? 娘達二人の婿は愛想のいい綺麗な若者じゃないと駄目だったんだが、結局、彼女達の好き勝手にやった結果がこれなんです」
 ゴリオ爺さんは崇高だった。ウージェーヌは、父性の情熱の火に照らし出されたこんな男の姿をかつて見たことはなかった。注目に値するのは感情が聖水の灌水の力を持っていたことである。一人の人間が如何に粗野であっても、その人間が強い真実の愛情を表明するや否や、その人間は超能力を発散させ顔つきが変わり、身振りが活発になり声音も変化する。しばしば最も愚鈍な人間が情熱の努力のお陰で、思想を語るにおいて最高の雄弁を獲得するに至るのだ。それは言語学的意味においては違うかもしれないが、彼は明晰な頭脳が語るような世界に分け入っているようにさえ思われるのである。今この瞬間、この爺さんの声や身振りの中には偉大な俳優にだけ与えられる表現力があったのだ。まさしく我々の崇高な感情、それは意志の詩ではないのだろうか?
「ところで! 貴方は多分、知ったところで残念に思う気持ちはおありにならないでしょう」とウージェーヌが言った。「そのド・マルセイとの関係を断ったというあの話ですが。あの二枚目が彼女と別れて、ガラティオーヌ王女と一緒になるとか。私の方は今晩、まさにデルフィーヌ夫人と恋に落ちたんですからね」
「へえー!」
「はい、僕は彼女にはまんざらでもないようです。僕たちは愛について一時間も話しました。そして僕は明後日の土曜日に彼女に会いに行くことになってます」
「おー! どんなに貴方のことが好きになってしまうか分からんくらいだよ、ねえ、貴方が本当に彼女を好いてくれるんならね。貴方は良い人だ、貴方は彼女を少しも苦しめないだろう。第一、もし貴方が彼女を裏切るなら、私は貴方の首を切ってしまうぞ。女ってのは二股かけたりはしない、そうでしょ? おや! 私は馬鹿なこと言ってますね、ウージェーヌさん。貴方、ここは寒いでしょう。ふむ! 貴方、やはり聞いてるんでしょ、彼女は私のことで何か言ってましたか?」
「何も」ウージェーヌは自身の心の中で思った。「彼女は僕にこう言いましたよ」と彼は大きな声で答えた。「彼女は貴方に娘からの心のこもったキスを送りますって」
「おやすみなさい、お隣さん、よく眠りなさい、そして良い夢を見なさい。私の夢はさっきの言葉で十分だよ。貴方の望みが皆叶えられるよう神様のご加護を! 今夜の貴方は私にとってまるで素敵な天使だよ、貴方は娘の周りの空気まで一緒に私のところへ持って帰ってくれたんだからなぁ」
「可哀想な爺さんだ」ウージェーヌは寝床に就きながら思った。「冷たい心にも響くような何かがあるものなんだが、爺さんの娘ときたら、爺さんのことなんかトルコの王様ほどにも考えていないんだからなあ」
 この会話が交わされて以来、ゴリオ爺さんは隣の部屋で思いがけなく打ち明け話の出来た相手、友人と会うようになった。彼等の間では唯一の話題が決まっていて、その話題でのみ、この老人は相手の男と繋がりを持つことが出来たのであった。情熱は決して間違った計算をしない。ゴリオ爺さんは娘のデルフィーヌに少しだけ近づけたように思えた。ウージェーヌが男爵夫人の愛しい人になるとしたら、彼自身もまた前より良く受け入れられるように思われた。それとは別に爺さんは学生に彼の心配事を打ち明けていた。ニュシンゲン夫人、彼女については彼が日に千回も幸せを願っていたのだが、彼女はいまだに愛の甘い喜びを知らなかった。確かにウージェーヌは爺さんの表現を借りるなら、若者の中で彼がかつて見たこともないほど最高に優しい男だった。そして爺さんは若者に探りを入れて、彼女が既に彼のものになっているかどうかの嬉しいニュースを訊こうとさえした。爺さんはまた隣人に対して日増しに高まる友情を抱き始めた。そしてそれがなければ、この話の結末は明らかに全く違うものになっていたはずだ。
 翌朝、朝食の時、ウージェーヌの横に座ったゴリオ爺さんがウージェーヌを見た時示した彼に対する愛情、爺さんが学生にかけた言葉、そしていつもは石膏の面のような彼の顔つきの変化が下宿人達を驚かせた。ヴォートランは彼等二人だけの会見以来初めて学生に再会し、学生の心の中を何とか読み取ろうとしているようだった。この男の計画のことを思い出して、ウージェーヌは昨夜寝る前に自分の面前に広がる広大な原野の大きさを測り、当然タイユフェール嬢の持参金のことも考えた。そして今まるで高潔そのものの若者が豊かな遺産相続人を見るような様子でタイユフェール嬢の方を見ずにはおられなかった。偶然にも二人の目と目が合った。哀れな少女は最新の服装をしたウージェーヌの恰好の良さに当然気付いていた。二人が交わした一瞥はとてもはっきりしていたので、ラスチニャックは総ての若い女性を襲う漠然とした欲求の対象に自分がなってしまっていることを、そしてその欲求が初めて彼女を魅力的にしていることを疑わなかった。彼にはある叫び声が聞こえた。八〇万フランだぞ! が、突然、彼は前日の記憶の中に再び飛び込んでいた。そして彼のニュシンゲン夫人に対するうわべの情熱は彼の無意識に行う悪しき思考への解毒剤であると考えた。
「昨日、イタリア座にロッシーニのセビリアの理髪師を見に行ったんです。僕はあんなに綺麗な音楽を聴いたのは初めてです」彼が言った。「ああ! イタリア座に桟敷を持ってる人達なんて、羨ましいなあ」
 ゴリオ爺さんはこの言葉を犬が主人の動作を見ているように素早く受け止めた。
「貴方は優雅なご身分なのね」ヴォーケ夫人が言った。「貴方のような人達って、本当に好きなことだけやってられるのね」
「あんたはどうやって戻ってきたんだね?」ヴォートランが尋ねた。
「徒歩です」ウージェーヌが答えた。
「私なら」と誘惑者が応じた。「中途半端な遊びは嫌だね。私はそこへ自分の馬車で行って、自分の桟敷で見たいよ。そしてすんなり帰って来たいよ。総てか無かだ! これが私のモットーだ」
「で、誰が一緒だったの?」ヴォーケ夫人が言った。
「貴方は多分ニュシンゲン夫人に会いに行かれるんでしょう」ウージェーヌは低い声でゴリオ爺さんに言った。「彼女は貴方を迎え入れますよ、きっと両手を拡げて。彼女は私に貴方について細かいことまでいっぱい聞きたがっていたんですよ。私は彼女が私の従姉のボーセアン子爵夫人の邸に迎え入れられるためには、社交界であらゆる努力をされるであろうことを知りました。彼女にきっと言っておいてください、私は彼女をとても愛しています、ですから彼女に満足な結果をもたらすように、いつも彼女のことを思っているってことを」
 ラスチニャックは法科大学へ行くため直ぐに立ち去った。彼はこのおぞましい館には出来るだけ僅かな時間しかいたくなかった。誰でも若い頃は、余りに烈しく希望を抱いた時には、頭が熱に浮かされてしまうものだが、彼もそのせいで、その日はほとんど終日ぶらぶらと過ごしてしまった。リュクサンブール公園[59]で友人のビアンションに出会った時、ヴォートランが言ったことの合理性が、彼に社会生活のことをじっくり考えさせた。
「そんな深刻な顔して、どうしたんだ?」医学部学生は宮殿の前を散歩する積りで彼の腕をつかんで言った。
「僕は悪い考えばかり浮かぶので悩んでるんだ」
「どんな分野で? 悪い考えだったら、直に治るさ」
「どうやって?」
「いっそ、それを実行してみなよ」
「君はそれの大変さを知らないんで、笑ってられるんだ。君、ルソーを読んだかい?」
「読んだよ」
「思い出してくれ。こんな一節があったんだ。その中で彼は読者に質問しているんだ。ある偉いお役人の老人を殺せば遺産が手に入って、金持ちになれると分かっている。その老高官は中国にいるんだが、君はパリにいながらにして、その死を願うだけで殺せるとしたら、君はどうするだろうというのが、ルソーの質問の内容だ」
「そうだよ」
「おい! 分かってんのか?」
「ああ! 僕はその話の三十三番目の高官のところまで進んでるよ」
「冗談言うなよ。さあ、もしも計画が可能で、君はただ頷けばいいだけなんだったら……なら、君はやっちまうのかい?」
「彼は十分に年取ってるの? その高官だけど。しかし、ああ! 若かろうと年寄りだろうと、中風だろうと絶好調だろうと、うん、確かに……まあ、そうだな! やはり駄目だ」
「君は正直なやつだよ、ビアンション。だが、もし君が一人の女を愛して、君の魂の総てを彼女に注ぎ込み始めたとしよう。そして彼女には金がかかり始めるとしよう。いっぱいかかる彼女の化粧代、馬車代、最後に無数の気まぐれ、それをどう思う?」
「だが僕にしてみれば、そんな動機はないんだぜ、それでいて君は僕に同じ土俵で議論しようと言ってるんだよ」
「そうかい! ビアンション、僕は変だよ、治してくれよ。僕には妹が二人いて、二人とも天使の様に綺麗で率直で、僕は彼女達の幸福を願っている。どうやって、これから五年以内に彼女達の持参金としての二〇万フランを稼げばいいんだろう? 人生には時期があって、ね、そうだろ、その時には大きな勝負に賭けるしかないんだ。でね、こつこつと稼ぐ幸せなんていうのはないんだよ」
「だがな、君が出してきた問題は誰だって人生の門出でぶつかることなんだ。ところが君はゴルディアンの結び目[60]を剣でぶった切ろうとしているんだよ。そういう風にやるためには、さあ、君がアレクサンダーでなきゃあな、でないと徒刑場送りだよ。僕はね、田舎で何かちっちゃな事をやれたら幸せだ。僕はそこで親父の後を引き継ぐだけさ。人間の愛情なんてのは小さな世界の中でも広い環境と同じくらい十分に満足させられるものなんだ。ナポレオンも夕食を二回とることはなかったし、愛人だって、カプチン病院のインターンをやっている医学部の学生と同じようなもので、そんなに何人もいたというわけでもない。僕達の幸せは、ねえ、いつだって僕達の足の裏から僕達の後頭部の間にかかっているんだよ。あるいは、一年に百万フランであろうと二千フランであろうと、僕たち個人々々の受け止め方は同じであるかもしれないんだ。結論として僕は中国の老高官には天寿を全うして欲しいと思ってる」
「ありがとう、いいことを聞かせてもらったよ、ビアンション! 僕達はいつだって友達だ」
「それはいいとして」と医学部学生が答えた。「キュヴィエ[61]の授業が終わってから、植物園でミショノー嬢とポワレ氏がベンチに座って男と話しているのを見たんだけど、僕はその男を去年の騒動の時、下院議会の周辺で見た記憶があるんだ。そしてその男が律儀な年金暮らしの市民を装っている警察官だったような印象があるんだ。あのカップルの事は調べときなよ。理由は後で話してやるさ。じゃあな、僕は四時の点呼に返事しに行ってくるよ」

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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※翻訳者のメールアドレスは zuq01413@gmail.com になります。最新情報やお問い合わせは、青空文庫ではなく、こちらにお願いします。
2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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