ゴリオ爺さん バルザック

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 シルヴィは爺さんを腕の下から支えて歩かせた。そして彼を服を着せたまま、まるで荷物を投げるようにベッドの上に投げ出した。
「可哀想に、この若い方」クチュール夫人は彼の目の上にまでかぶさっていたウージェーヌの髪をかき上げてやりながら言った。「彼ってまるで若い女の子のようだわ。彼にはまだ行き過ぎって言うのが、どんなものだか分かってないのね」
「ああ! あたしにはずいぶん沢山話したいことがあるわ。あたしがこの下宿屋を始めて、もう三十一年になるけど」とヴォーケ夫人は言った。「お世話した若い人が何人も、いわゆる卒業をしていったわ。だけどあたしはウージェーヌさんほど優しくて、しかも秀でたところのある人は見たことがないの。彼は寝てる時もハンサムなの? 彼の頭つかんで、貴女の肩の上にのせてみてよ、クチュールの奥様。あら! 彼ったら、ヴィクトリーヌ嬢の肩の上に頭のっけたわ。子供達にとっての神のような存在があるんだわ。まだ少し、彼は頭を椅子の握りの方にも半分のせてるわね。この二人は似合いのカップルになりそうね」
「ねえ奥さん、少し黙っててくれる」クチュール夫人が叫んだ。「貴女喋りすぎよ……」
「へえ!」ヴォーケ夫人が言った。「聞こえてないわよ。さあシルヴィ、あたしの着替え手伝いに来て。あたしこれから大きなコルセットをつけるのよ」
「あら大変! 奥様の大きなコルセットを夕食後直ぐにですって? 奥様」シルヴィが言った。「あっ駄目、貴女を締め上げるんだったら誰か他の人をお探しになったら? 奥様を殺す役目なんて私は真っ平ですよ。うっかりそんなことをすると、奥様、命を落としかねませんよ」
「何でもいいからさ、とにかくヴォートランさんの体面を保ちたいのよ」
「それじゃ奥様、あの人がお好きで後添えにお考えに?」
「さあ行くよ、シルヴィ、ごちゃごちゃ言わないで」寡婦はそう言うと立ち去った。
「あの歳でねえ」料理女はヴィクトリーヌに女主人の方を指し示しながら言った。
 クチュール夫人とその教え子、――その肩に頭をのせたウージェーヌは眠り続けていたのだが――この二人だけが食堂に残っていた。クリストフのいびきが静まり返った館内に響き渡り、子供のように優雅に眠っているウージェーヌの眠りの穏やかさを引き立てて見せた。慈悲深いこの行為は、ヴィクトリーヌに女性的な感情をいっぱいに溢れ出させ、また彼女に罪悪感なしに若い男の心臓を胸をどきどきさせながら、自身の心臓の上に肌身で感じ取らせたものだが、自分にそれを許すことの出来る幸せで、彼女の顔つきは何かしら母性本能の働きによって誇り高くなったように見えた。彼女の心の中に湧き上がった千もの思いを突き破って、ある混沌とした官能の動きが浮かび上がり、若くて純粋な熱気の交換を促した。
「可哀想に、愛しい少女!」クチュール夫人は手を胸に押し当てながら言った。
 老婦人はこの率直で受難の少女を賛嘆していた。少女の姿には幸福の光が降り注ぐのが見えるような気がした。ヴィクトリーヌはあの素朴な中世絵画を思い起こさせるところがあった。それらの絵では芸術家達によって余分な装飾はほとんど排除されていたが、彼等は黄色い色調で姿を描くための静かで誇り高い絵筆の魔術は持ち続けていた。しかもそこでは天空もまた黄金色に映し出されているかのように見えた。
「彼は二杯以上は飲めないわ、母さん」ヴィクトリーヌは自分の指をウージェーヌの髪に通しながら言った。
「だけど、彼が放蕩者だったら、あなた、彼だって他の人と同じようにワインには強いはずだわ。彼の酔いは褒めてあげるべきよ」
 道路に馬車の音が響いた。
「母さん」若い娘が言った。「あれはヴォートランさんね。さあウージェーヌさんを支えて。私、あの人にこうしているところを見られたくないの。彼の言い方は心を傷つけるし、彼の視線はまるで女から服を脱がすかと思われて、とても気分が悪いのよ」
「いいえ」クチュール夫人が答えた。「あなたは間違ってますよ! ヴォートランさんは実直な人だわ、いくらか、死んだクチュールのタイプかもしれない、ぶっきらぼうだけど人が善くて、気難しいけど、いいことを言ってくれる」
 ちょうどこの時、ヴォートランが至極上機嫌で入ってきた。そしてランプの光が柔らかに照らす二人の子供によって構成された絵の様な光景を目にした。
「よーし」彼は腕を組みながら言った。「そうら“ポールとヴィルジニー”[84]を書いたあの善良なベルナダン・ド・サンピエールの美しい頁によって鼓舞されたのか、ともかく、ここにそういった場面が展開している。若さとは実に美しいもんですな、クチュール夫人」彼はウージェーヌをじっと見つめながら言った。「ねえ君、眠るんだ。果報は寝て待てだ。奥さん」彼は寡婦の方に向いて言った。「私がこの若者に惹かれ、私が感動するのは、彼の魂の美しさが彼の姿の美しさとよく調和しているからなんですよ。見て下さい、天使ケルビム[85]が、こちらの天使の肩の上に休んでいるんじゃないですか? 彼は愛されるに相応しい、天使ケルビムです! もしも私が女だったら、私は死んでもいい、いや、そんな馬鹿は嫌だ! 彼のために生きたい。こんな風に彼のことを褒め称えていると、奥さん」彼は声を低くして寡婦の耳許にかがみこみながら言った。「私は神様が彼等をお互いに惹かれあうようにお作りになったんだと、どうしても考えてしまうんですよ。神は上手く隠された方法を知っておられる。神は腎臓や心臓まで検査される」彼は声を高くして叫んだ。「あなた達が一緒になっているのを見ていると、ねえ君達、同じ純粋さと総ての人間的感情によって結ばれているのを見ると、君達が仮にも将来離れ離れになることなどあり得ないと、私は思うんだ。神は正しい。だが」彼は若い娘の方に向かって言った。「私には、どうも貴女の手に繁栄の筋を見たような気がするんだ。私に貴女の手を見させてもらえませんか、ヴィクトリーヌ嬢? 私は手相占いが出来るんだ。私は何度か意外な出来事を言い当てたことがある。さあ、心配は要らない。おー! 何というものを見てしまったんだろう。誠実な男として誓ってもいい、貴女は間もなく、パリで一番の富裕な相続人となる。貴女は貴女が愛する人を幸福で満たすことになるだろう。貴女のお父さんは貴女を自分の傍らへ呼び寄せるだろう。貴女は爵位を持った、若くて美しい、そして貴方に夢中の男と結婚する」
 この時、めかしこんだ寡婦が降りてくる重々しい足音がして、ヴォートランの予言を遮った。
「おや、ヴォーケ・ママだ。星のように綺麗で、人参のように紐で締め回しておられる。それじゃあ息苦しくありませんか?」彼はコルセットの上部へ手を回しながら彼女に言った。「胸の脂肪が大分圧迫されてますな、ママさん。その圧迫で涙されるようなら、そこには感情の爆発がありましょう。しかし、私は骨董屋のように注意深く残骸を拾い集めてあげますよ」
「彼はフランス的な慇懃な言葉を心得ているよ、今さっきのがまさにそれ!」寡婦はクチュール夫人の耳許にかがみこんで言った。
「おやすみ、子供達」ヴォートランはウージェーヌとヴィクトリーヌの方を振り向いて言った。「私は君達のために神の加護を祈る」彼は手を彼等の頭の上に置きながら言った。「本当ですよ、お嬢さん、真正直な男の望むことはそれなりに意味があって、幸運をもたらしてくれるに違いないんだ、神様はお聞き届けになっている」
「おやすみなさい、親愛なる皆様」ヴォーケ夫人が下宿人達に言った。「貴方、信じる」彼女は低い声で付け加えた。「ヴォートランさんがこのあたしのことで何か意向をお持ちだってこと?」
「ふうん! へー!」
「あー! ねえお母さん」ヴィクトリーヌが溜息まじりに自分の手を見ながら言った。「私達が二人だけでいた時、あの真正直なヴォートランさんが本当のことを言ったんです!」
「彼が予言でもしたの? ある事が起こればそれは当たる仕掛けなのよ」老婦人が答えた。「あなたのあの人でなしの兄弟が馬から落ちればいいだけなのよ」
「あー! 母さん」
「ええ! 恐らく敵の不幸を願うことは罪なことだわね」老婦人は続けた。「さてさて、私なら、それに対しては贖罪をしますね。本当に私は心から彼の落馬を悼んで、お花を送りたいと思ってるわ。まあひどい兄弟だったけれどね! 彼は彼の母のために何か尽くしてやることなんてなかった。そのくせ彼は策略をめぐらせて、貴女には母の遺産が全然回されないように自分に都合よく遺産を管理しているのよ。私の従姉はとても立派な財産を持っています。貴女にとって不運なことに、彼は決して契約書の中で彼の財産を提供しようなんてことは考えたこともなかったの」
「私に幸運をもたらすためには誰かが命を落とさなければならないんだったら、それはかえって辛いことだわ」ヴィクトリーヌが言った。「そして幸福になるためには私の兄弟が死ななければならないんだったら、私はむしろこのままここにいる方がましです」
「まあ! あの善良なヴォートランさんが言われるんだから、ね、あなた彼をよく知ってるわよね、信仰心があつくて」クチュール夫人が言った。「私は嬉しいことに最近知ったんだけど、彼は他の人達のように神を信じないっていうんじゃないの。ほかの連中ときたら、神様の話をするにも、まるで悪魔のことを話すのと変わらないくらい、これっぽっちの尊敬の念も込めてないんですからね。それで、どんな声が我々を導いたら神様は気に入って下さるのでしょう、それを誰が知ることが出来るでしょうか?」
 シルヴィに助けてもらって、二人の女はウージェーヌを彼の部屋に運び上げ、ベッドに寝かせた。料理女が彼を楽にするために服を緩めてやった。部屋を出てゆく前に、保護者夫人がこちらに背中を向けていた時、ヴィクトリーヌは犯罪的盗みが彼女にもたらすに違いない幸運の総てを捧げるような気持ちでウージェーヌの額にキスをした。彼女は戻ってきて自分の部屋を眺めた。この数日の幸せを総て集めて、いわば唯一の考えにたどり着いた。それを彼女が長い間じっと見つめてきた絵にした。そしてパリで一番幸せな少女となって眠りについた。ヴォートランはウージェーヌとゴリオ爺さんに麻酔薬の混じったワインを飲ませたが、その供応をしているうちに件の男を亡き者にしてしまおうと心に決めた。ビアンションは半ばほろ酔い加減だったので、ミショノー嬢に“不死身”について訊くのを忘れてしまった。もし彼がこの名前を言っていたら、彼は間違いなくヴォートラン、あるいは彼の本名で言えば徒刑囚の間で最も知られた名前の一つであるジャック・コランの注意力を喚起したに違いない。更に言えば、ミショノー嬢がコランの商取引の公正さに信頼を寄せながらも、彼に危機を予告し夜中に逃走させることがより良い選択であるかどうかを考えた時、彼が彼女を“ペールラシェーズのヴィーナス”と渾名したことが、ミショノー嬢に徒刑囚を売り渡すことを決意させた。彼女はポワレに付き添われて、例の警視庁の男に会うために宴席を抜けてきた。そこはサンタンヌという小路だった。彼女の頭の中では取引する相手はまだゴンデュローという名の高官だった。実際は警視庁課長の彼は彼女を慇懃に迎えた。それから、総てを明確にするための会話が一通り済んだ後、ミショノー嬢は徒刑囚の刻印を判別するために必要な水薬を要求した。サンタンヌ小路の偉大な男は満足そうな身振りをして、彼の事務所机の引き出しの中で小瓶を探した。今まさに警察が一人の男を捕らえようとしているのだが、彼を捕らえる事は単に徒刑囚を捕らえるよりも遥かに重要な意味を含んでいることをミショノー嬢は見抜いた。一生懸命に脳みそを絞ったお陰で、彼女は警察が徒刑囚の裏切り者によってなされた何らかの情報によって、かなり重要な価値のあるものについに手をかける時が迫っていることに期待を寄せているのではないかとの疑いを持った。彼女が彼女の憶測をこの古狸に説明し終わった時、彼は微笑を浮かべ、ハイミスの疑いの方向を変えようとし始めた。
「貴女は間違っています」彼は答えた。「コランは泥棒仲間でかつて存在した中の最も危険なソルボンヌなのです。ただそれだけのことです。仲間の連中はそれをよくわきまえてます。彼は彼等の旗であり支えであり、ついには彼等のボナパルトなのです。彼等はひたすら彼を愛しています。この不思議な人物は、事件の現場に決して自分のトロンシュを残しておきません」
 ミショノー嬢は理解出来なかった。ゴンデュローは彼女に、彼が使った隠語のうちから二語について説明を加えた。ソルボンヌとトロンシュは泥棒独自の効果的な言語表現の中の代表的な二語である。泥棒達、その先達は人間の頭脳を二つの側面から考慮する必要があると感じた。ソルボンヌは活動している人間の頭脳であり指針であり思考でもある。一方、トロンシュは軽蔑語で、頭が切り落とされると、それは如何に無意味なものになってしまうかを説明する意図を含んでいる。
「コランは我々をもてあそんでいます」彼は更に続けて言った。「もしも我々が彼等に遭遇して、彼等がイギリス式に焼きを入れた鋼鉄棒のごとき不撓不屈の連中であるとすれば、彼等を捕らえる際、彼等がちょっとでも反抗を試みるようなら、それは我々にとっては、彼等を殺すための方便になるんです。我々は明日の朝コランを殺すためのある方策を立てています。我々はこれによって、訴訟、警備費用、食費を節約出来る。そしてそのことが社会を浄化するのです。更に言えば、訴訟手続き、証人の召喚、彼等のための手当て、処刑、これ等の事は、我々の社会からあのやくざ者を法的に取り除くための手続きですが、それらをひっくるめると、あなたが手にするであろうところの千エキュを遥かに超える費用がかかるんです。これは時間の節約にもなるんです。“不死身”の太鼓腹に銃剣の見事な突きをくれてやれば、我々は百件くらいの犯罪を防げるし、今にも軽犯罪を犯しそうな小悪党五十人くらいは思いとどまらせることも出来るでしょう。ほらね、警察もよく働いてるでしょう。本物の博愛主義者に言わせると、今話したようなやり方が犯罪を未然に防ぐ唯一の方法なんだそうですよ」
「しかし、それはお国のために、そのように働いてるんでしょう」ポワレが言った。
「さあどうですか」警官が答えた。「貴方は今晩、思慮分別のあることをおっしゃってる。そうです、勿論我々は国のために働いています。それにしては世間は我々に対して結構不公平なんではありませんかな。我々は社会に対して、ずいぶんと知られない大きな仕事をして、お返ししてきたんです。結局、偏見に左右されないのは、非常に優れた人と、ありきたりの思想に染まっていなくて運不運は代わる代わる自分の後からついてくるものと悟っているクリスチャンだけなのでしょうね。パリはパリなのです、お分かりですか? この言葉が私の人生を語ってくれます。さて今日のところは、マドムワゼル、これでお別れしましょう。私は明日、私の部下と一緒に植物園に行っています。クリストフをビュフォン通のゴンデュローの家に差し向けてください。私がいたあの家です。ご主人、私は貴方の御用を伺います。例え貴方がこれまで一度も物を盗まれたことがなくても、貴方が何かを取り戻そうという時は、私に言ってください。私は貴方のお役に立ちます」
「うーん、そうだな!」ポワレはミショノー嬢に言った。「こういう警察の言葉を何か分かりにくくしてしまう馬鹿は多いだろ。でも、この方はとても親切だから、彼が貴女に求めてるのは、まるでボンジュールって言うくらいの簡単なことだよ」
 
 翌日はメゾン・ヴォーケの歴史の中で途方もない重大な一日として記憶されることになった。その日まで、この穏やかな日々の中で一番目立った出来事といえば、ランベルムスニルという偽伯爵夫人の流星のような出現だった。しかし総てのことはこの偉大な日に起こった大事件の前に色褪せてしまい、その大事件は以後、ヴォーケ夫人の会話における永遠のテーマとなった。まず第一にゴリオとウージェーヌ・ド・ラスチニャックは十一時まで寝ていた。ヴォーケ夫人はゲテ座[86]から真夜中に帰ってきて、翌朝は十時半までベッドの中にいた。クリストフはヴォートランに勧められてワインを飲み干したが、お陰でこの館の今朝の用意はすっかり遅れてしまった。ポワレとミショノー嬢は朝食が遅れたことについて別に不平も言わなかった。ヴィクトリーヌとクチュール夫人について言えば、二人ともたっぷりと朝寝坊をしていた。ヴォートランは八時前に出かけて、ちょうど朝食が始まった時に帰ってきた。そんなわけで、十一時十五分頃にシルヴィとクリストフが朝食の用意が出来たことを告げるために皆の戸を叩いた時、誰も文句を言う者はいなかった。シルヴィと下僕が席を空けていた時、ミショノー嬢が真っ先に降りてきて、ヴォートランのものである銀製の柄付きコップにリキュールを注ぎ入れた。実はそのコップにはヴォートランのコーヒーに入れるクリームが入っていて、他の食器と一緒に湯煎鍋で暖めて置いてあったのだ。ハイミスは彼女の企みを成し遂げるために、この下宿館の台所の習慣を計算に入れていた。七人の下宿人はなかなか集まっては来なかった。ウージェーヌが伸びをしながら皆の最後になって降りてきた時、走り使いの男が彼にニュシンゲン夫人からの手紙を渡した。その手紙には次のような文が書かれていた。
 〈友よ、私は誤った虚栄心も怒りも、貴方に対して持っていません。私は夜中の二時まで貴方をお待ちしておりました。愛する人をお待ちする! こんな刑罰は誰だってもう沢山だと思うことでしょう。私は貴方が初めて本当に愛したのは私だということを存じております。それなのに一体何が起こったんですか? 不安が私を虜にしました。私は私の胸のうちを洗いざらい晒してしまうのが怖かったの、そうでなければ、貴方に起こった幸運だか不運だかを確かめるために貴方の許へ駆けつけてしまっていたでしょう。でも、あんな時間に出掛けるなんて、徒歩であれ馬車であれ、それは気の確かな女に出来ることでしょうか? 私は女であることを不幸だと感じています。私にはっきりとおっしゃって説明して下さい。何故貴方が来られなかったのかを、貴方が父にあの様にお話された後で。私は自分に嫌気してます。でも私は貴方のことは許します。貴方は病気なんですか? 何故離れたままでいるんですか? 優しい言葉を言って下さい。もう直ぐ会えるんでしょ? 貴方が忙しいのなら、一言だけ下されば十分です。言って下さい。直ぐ行くとか、気分が悪いとか。でも、もし貴方の体調が悪いんだったら、父がその事を言いに来るはずなんだけど! 彼は一体どうなっているのかしら?〉
「そうだ、彼はどうなってるんだ?」ウージェーヌはそう叫んで、手紙は読みさしのまま皺くちゃにして、食堂へ飛んでいった。「何時なんだ?」
「十一時半だよ」ヴォートランがコーヒーに砂糖を入れながら言った。
 脱獄囚はウージェーヌに冷たく射すくめるような視線を投げかけた。ある種の卓抜して幻惑的な人間のみが放つことの出来る天賦の才であり、そうした人間は精神病院で凶暴な狂人すらおとなしくさせるといわれている。ウージェーヌの手足が全部震えた。駅馬車の音が道路から聞こえて、タイユフェール家のお仕着せを着た従僕が直ぐにクチュール夫人を認めると、ひどく狼狽した様子で館内に飛び込んできた。
「お嬢様」彼が叫んだ。「貴女の父上が貴女をお呼びです。大変な不幸があったんです。フレデリック様が決闘で倒されたのです。彼は額を剣で刺され、医者は彼を救う事は絶望的だと言っています。彼と最後の別れをするため、何とか時間を割いて下さい。他には彼の知り合いはいないのです」
「若いのに気の毒な!」ヴォートランが叫んだ。「何だって三万フランも年金がある男が、喧嘩なんてやるんだろうなあ? これは間違いなく若気の至りというやつだ」
「貴方!」ウージェーヌが彼に向かって叫んだ。
「おや! 何だね、お偉い坊や?」ヴォートランは彼のコーヒーを静かに飲み終えようとしながら言った。ミショノー嬢が細心の注意を払いながら目で追っている薬の効き目は、やがて誰もがあっと言うような途轍もない出来事を引き起こそうとしていた。「パリでは今朝、決闘があったんじゃないのかね?」
「私が貴女について行きます、ヴィクトリーヌ」クチュール夫人が言った。
 そして二人の女はショールも帽子もなしで急に立ち上がった。立ち去る前に、ヴィクトリーヌは目に涙を浮かべてウージェーヌを見たが、その目はこう語っていた。『私は私達の幸せが涙と引き換えになろうとは考えていませんでした!』
「へえー! こうなると貴方って予言者じゃない、ヴォートランさん?」ヴォーケ夫人が言った。
「そうさ私は何にでもなれるよ」ジャック・コランが言った。
「とにかく奇妙なことばかりね!」ヴォーケ夫人はこの事件についてであろうか、瑣末なことをとりとめもなく喋りだした。「死は予告もなくあたし達を襲うのね、そして、若者達がしばしば老人達より先にこの世を去ってしまう。でも、あたし達は幸せです、このあたし達、女というのは、決闘なんて関係ないし……だけど、あたし達はそれとは別に女としての病とでもいうものを抱えています。それは男が罹らない病です。あたし達は子供を生みます。そして母親という苦労が長いんです! ヴィクトリーヌは何て幸運なんでしょう! 彼女の父は彼女を養子にせざるを得なくなったんだわ」
「ほらみろ!」ヴォートランがウージェーヌを見ながら言った。「昨日彼女は一文無しだった。今朝彼女は何百万というお金持ちだ」
「それじゃ言って下さいよ、ウージェーヌさん」ヴォーケ夫人が叫んだ。「貴方は良い結婚相手を見つけられたのね」
 この釈明要求に、ゴリオ爺さんは学生を見て、その手にくしゃくしゃになった手紙が握られているのに気がついた。
「貴方はまだ放っていたんですか! これは一体どういうことですか? 貴方も他の連中と変わらないんですか?」爺さんが彼に問い質した。
「奥さん、私はヴィクトリーヌ嬢とは決して結婚しません」ウージェーヌがヴォーケ夫人に向かって、恐れと嫌悪の感情を示しながら言ったので、彼の援護者も驚いてしまった。
 ゴリオ爺さんは学生の手をつかむとそれを握り締めた。彼はそれにキスしようとさえした。
「おーおー!」ヴォートランが言った。「イタリアには良いことわざがある。時の経つに連れて!」
「貴方のご返事を待ってますよ」ニュシンゲン夫人の代理人がラスチニャックに言った。
「私は行くとお伝え下さい」
 代理人は立ち去った。ウージェーヌは激しい苛立ちの中にいたので、用心深く振舞うことが出来なかった。「どうしたらいいんだ?」彼は独り言の積りが、大きな声で喋っていた。「何の証拠もない!」
 ヴォートランは微笑をもらし始めた。この時、例の水薬が胃に吸収され効き始めていた。
しかし、この脱獄囚は非常に頑丈だったので立ち上がって、ラスチニャックを見た。そして虚ろな声で言った。「若者よ、果報は寝て待て」
 次の瞬間、彼はその場に倒れ息絶えていた。
「これは一体、神の裁きなのか」ウージェーヌが言った。
「うわっ! 一体彼はどうしたんだ、この気の毒なヴォートランさん?」
「卒中だわ」ミショノー嬢が叫んだ。
「シルヴィ、お行き、あんた、医者を探しに行っといで」寡婦が言った。「あー! ラスチニャックさん、急いでね、ビアンションさんのところへひとっ走りして下さいな。シルヴィはあたしのかかりつけ医のグランレルさんをつかまえられないかもしれないからね」
 ラスチニャックはこのぞっとするような洞窟から離れる口実が出来たので、喜んで走って逃れ出た。
「クリストフ、さあ、薬屋に走って、何か卒中に効くものをもらっといで」
 クリストフが出て行った。
「さて、ゴリオ爺さん、彼を階上の彼の部屋に運び上げるのを手伝ってくれません?」
 ヴォートランは抱えられ何とか階段を通って彼のベッドに寝かされた。
「私がいても貴女の役に立たない。私は娘に会いに行く」ゴリオ氏が言った。
「老いぼれのエゴイスト!」ヴォーケ夫人が叫んだ。「行っちまいな、あたしはあんたが犬ころみたいに死んじまうように祈るよ」
「あの、エーテルがあるかどうか見てもらえませんか」ヴォーケ夫人にミショノー嬢が言った。彼女はポワレに手伝ってもらって、ヴォートランの服を脱がしたところだった。
 ヴォーケ夫人は自分の部屋に降りていったので、ミショノー嬢はそのまま階上の修羅場を支配し続けることになった。
「さあ、それじゃ彼のシャツを脱がして、早くうつ伏せにして! ちょっとは上手くやってよ、私に嫌な裸なんか見させないで、ポワレ、貴方ってまだ赤ん坊みたいに何も出来ない人ね」
ヴォートランはうつ伏せにされた。ミショノー嬢は病人の肩に強い平手打ちを加えた。そうすると、赤く染まったところに二つの決定的な文字が白く浮き出てきた。
「やった、貴女って実に素早く三千フランの特別手当をものにしちまったなあ」ポワレはヴォートランの体を起こしながら叫んだ。その間、ミショノー嬢は彼のシャツを着せていた。「わっ! 彼は重い」ポワレはヴォートランをまた寝かしながら言った。
「黙って。金庫って、あったかしら?」ハイミスは快活に言ったが、その目は壁を突き通すように見つめていた。一方で彼女は激しい渇望を抱きつつ室内のどんな家具も調べつくした。「誰かがこの事務机を開けるとしたら、何らかの口実がいるわね?」彼女が言った。
「それは恐らくまずいだろうな」ポワレが答えた。
「いいえ。盗まれた金よ、皆のものなのよ、もう誰かのものじゃないのよ。でも、もう時間がない」彼女が言った。「ヴォーケの声が聞こえるわ」
「ほら、エーテルよ」ヴォーケ夫人が言った。「まあ言うなれば、大事件の日といえば、それは今日ということになるわね。神様! あそこにいる人は病気になんてならない人です。彼は雛鳥のように無垢なんです」
「雛鳥のように?」ポワレが繰り返した。
「彼の胸はいつもどきどき弾んでいるんです」寡婦はそう言うと、彼の胸の上に自分の手を置いた。
「いつも?」ポワレが驚いて言った。
「彼はとても素敵です」
「貴女そう思う?」ポワレが尋ねた。
「勿論さ! 彼はどうやら眠ってるようだね。シルヴィが医者を探しにいってるよ。ちょっと、ミショノーさん、彼、エーテルをくんくん吸ってるよ! ふうん! 痙攣なのね。脈は大丈夫ね。彼はとても力が強いからね。ほら見て、貴女、お腹の上のうぶげよ。彼、百歳まで生きそうね、この人だけはね! にもかかわらず、彼の鬘はいい具合ね。ほら、ぴったりくっついてるわ。彼はヘアピースもしてるのね。これは彼が赤ら顔だからでしょ。よく言われるけど、赤ら顔の人って、すごくいい人かすごく悪い人か、らしいわ! 彼は勿論いい方よ、どお?」
「いいね、首吊りには」ポワレが言った。
「貴方って人は、可愛い女の人の綺麗なうなじのことを考えてるんでしょ」ミショノー嬢が活き活きとした声で叫んだ。「貴方は、じゃあ、行きなさい、ポワレさん。これは私達がやること、私達女がね。貴方が病気になったら、看てあげるからね、それに、貴方のためになることといえば、あなたはよく散歩することだわ」彼女は更に付け加えた。「ヴォーケ夫人と私は、私達はこの親愛なるヴォートランさんをしっかりとお守りするわ」
 ポワレは静かに不平も言わずに、まるで主人に蹴りを食らった犬のように立ち去った。ラスチニャックは歩いて新鮮な空気を吸いたくてまだ戸外にいた。彼は窒息しそうになっていた。この犯罪は時間を限定して行われていた。彼は出来ることならヴォートランの目覚めを妨げたい気持ちだった。彼はどうなってるだろう? 彼は何をするんだろう? ラスチニャックは共犯者であることに震えた。ヴォートランの冷静さは彼をいっそう不安にした。
「それにしても、ヴォートランが何も言わないまま死んでしまうとすれば?」ラスチニャックは思った。
 彼はリュクサンブールの小道を横切っていった。彼はまるで猟犬の群れに追い詰められているような、そして犬達の吼え声が聞こえるような気がした。
「おーい!」ビアンションが彼に声をかけた。「君はル・ピロットを読んだかい?」
 ル・ピロットは急進的な新聞でティソ氏が編集していたが、これは地方向けに朝刊の数時間後に、今日のニュースをのせた版を出すことにより、地方県において他の新聞よりも二十四時間先んじてニュースを提供していたわけである。
「例の話のことが分かったぞ」コシン病院のインターンが言った。「タイユフェールの息子は古い衛兵のフランシュシーニ伯爵との決闘でやられたんだ。伯爵は彼の額を五.四センチも突き刺したんだ。そして我等のヴィクトリーヌが、パリで一番金持ちの結婚相手になったというわけだ。だろう! 分かってたらなあ? 片方が死んじゃうとは、丁半博打にしたってひどすぎるぜ! それでヴィクトリーヌが君を好意的な目で見ていたっていうのは本当かい、君?」
「黙ってて、ビアンション、僕は彼女とは決して結婚しない。僕には、とても魅力的な女性がいて愛している。彼女にも愛されている。僕は……」
「君がそう言うのは、まるで不実であるのを避けるために一生懸命無駄な努力をしているように見えるんだ。それじゃ、僕にそのタイユフェールとかの財産をふいにしてもいいほどの女性を見せてくれよ」
「悪魔が全部、この僕に付きまとってると言うのかい?」ラスチニャックは叫んだ。
「それじゃ一体誰に付きまとってるんだ? 君はどうかしちゃったのか? ちょっと手を出してごらん」ビアンションが言った。「僕が君の脈をとってやる。君は熱があるぞ」
「じゃあ、ヴォーケの母ちゃんのところへ行こう」ウージェーヌが彼に言った。「あの悪党のヴォートランが倒れて死にそうになってるんだよ」
「あー!」ビアンションはラスチニャックから飛びすさって言った。「君は僕が確認に行きたいと思っていた疑念が根拠のあるものだということを明確にした」
 法学部学生の長い散歩は厳粛だった。彼はある意味で、自分の良心の点検をしていた。彼は動揺し自己を省みた、そして躊躇もした、しかし、彼の誠意はあらゆる試練に耐え抜いた鉄棒のごとく、この不快で恐ろしい内面的討論の末に導き出されたのだった。彼は前日ゴリオ爺さんが彼に告げた秘密を思い出した。彼は彼のために選ばれたダルトワ通のアパルトマンを思い出した、その直ぐ近くにデルフィーヌは住んでいるのだ。彼は彼女からの手紙を取り出し、読み直し、それにキスをした。「今となってはこの愛が僕の頼みの綱だ」彼はそう思った。「この哀れな老人は精神的にずいぶん痛めつけられている。彼は自分の悲しみについては何も言わない。しかし、それを見抜けない者などいるものか! ところで! 僕は彼から父親としての気遣いを受けることになるだろう。僕の方も彼に千もの喜びを返せるだろう。もし彼女が僕を愛してくれたら、彼女はしばしば僕のところへ来て一日中彼の近くで過ごすことになるだろう。あの尊大なレストー伯爵夫人が全くむかつく存在だが彼女なら、父親に守衛のような役をやらせるところだろうな。可愛いデルフィーヌ! 彼女は爺さんにとって一番のお気に入りになるだろうな、勿論彼女はそれだけ愛されるに相応しいんだから。あー! 今晩、僕は何て幸せなんだろう!」彼は時計を取り出し、改めてそれに見とれてしまった。「僕は何もかも上手くいってる! もし僕達がいつも互いに愛し続けることが出来るんだったら、僕たちはお互いに助け合ってゆける。僕はこの考えを受け入れることが出来る。まず第一に僕はそこに辿り着けるだろう。そして絶対に何もかも百倍にして返してやる。それらの関係の中では、犯罪もないし、最も厳しい道徳家の眉をすらひそめさせるようなことは何もない。このような結合をやりおおせる真正直な人間が世の中に何人いると言えるだろうか! 僕達は人を騙さない。僕達を堕落させるものといえば、それは嘘だ。嘘をつくってことは、それは退場することではないのか? 彼女は夫と離れ離れになって久しい。まず最初に僕は彼に言おう、僕自身の口で、あのアルザス人に、彼が再び幸福にしてやることが不可能となったあの女性を僕に譲るように頼むんだ」

 
 
 
 
(つづく)

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 底本:“Le Pere Goriot”
原作者:Honore de Balzac(1799-1850)
   上記の翻訳底本は、日本国内での著作権が失効しています。
翻訳者:中島英之 1942年生まれ 国際基督教大学中退
※この翻訳は「クリエイティブ・コモンズ 表示 4.0 国際 ライセンス」(https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja)の下で公開されています。
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2015年3月1日翻訳
2015年10月10日作成
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